All Chapters of 紅の番契 〜Ω皇子は封印竜に寵愛される〜: Chapter 11 - Chapter 20

25 Chapters

【第10話】神意に選ばれし者

それは、夢かどうかも定かではない。けれど、見た記憶は確かにある。大地が焼け、空が割れ、金色の眼が、彼を真下から見上げていた。名を呼ぶ声が、耳ではなく、身体の芯から響いてくる。それは警告のようでもあり、祈りのようでもあった。目覚めた瞬間、布団の中は蒸し風呂のように熱く、額や背中には汗がべったりと張りついていた。寝具はいつの間にか乱れ、掛け布の片端が床まで垂れている。ふと、喉の奥が乾いていることに気づいて身を起こしたとき、首筋がぴりり、と疼いた。「……くそっ」手探りで首に触れると、その下から、かすかな熱の波が指先に伝わってくる。それは皮膚の表層ではなく、もっと奥――肉の内側、いや、血の源から湧き上がってくるような、じくじくとした火照りだった。昨夜までは、痛みではなかった。ただの違和感だった。けれど今は違う。熱い。疼く。明らかに、何かが――動いている。琉苑はそのままの姿でふらりと立ち上がった。部屋にはまだ朝の光が射し込んでおらず、格子窓の向こうの空はほのかに白み始めている程度だった。足を引きずるように歩きながら、低い位置にある鏡台の前に膝をつく。顔は……やつれていた。ただ、それ以上に気にかかるのは、首筋に現れた痕――。その紋が、ほんのわずかにだが、光っていた。「……なんなんだ、これは……」琉苑は息を止め、鏡の中の自分に目を凝らす。まさか、と思って何度も瞬きをするが、錯覚ではなかった。肌の上、紋の一部が淡く――灯火にも似た光を、絶え間なく放っていた。それは、あまりに微細で、見逃してしまうような光だった。だが、彼の目はそこに釘付けになる。この光を――彼は、知っていた。かつて、夢の中で竜の瞳に照らされたとき、身体の奥に灯ったあの光。それが今、外へと滲み出し始めている。琉苑はそっと、紋に手を当てる。「なんだ……これは、何を意味する」指先がかすかに痺れていた。熱は、今や皮膚の下だけではない。脊椎を通じて全身に広がり、思考すらも熱に焼かれ始めている。そのとき――不意に、空気が、揺れた。音はない。風もない。けれど、確かに何かが部屋の中に入り込んだ。目を閉じたまま、琉苑は息を呑んだ。気配、だ。誰かの――いや、“何か”の。それは人ではなかった。背中から、右肩のあたりに向かって、冷たい視線のようなものが這ってくる
last updateLast Updated : 2025-11-11
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【第11話】契の名を持つ者

夜は静かに更けていった。人の声はとうに消え、月明かりさえ届かぬ離宮の中に、琉苑はひとり、座したまま目を閉じていた。布団にも入らず、灯も落とさず、ただ座り、時折、胸の内側からせり上がってくる息苦しさを堪えては、喉の奥に戻している。眠ることに、もう恐れはなかった。眠らなければ出会えない声があることに、琉苑は気付いていた。それは夜の底、真に意識がほぐれた瞬間、脳裏ではなく、魂に直接降りてくる。音でも言葉でもない、けれど確実に“誰か”のものと知れる、それは……名。――リウ。今夜もまた、同じ呼びかけが届く。けれど、それはこれまでのように一言で消え去りはしなかった。息を吸い込んだ次の瞬間、琉苑の意識はぐらりと倒れ込み、視界のすべてが闇に沈む。無音。無色。無重力。けれどその虚無の奥に、確かな気配があった。重く、鋭く、それでいてどこか懐かしさすら滲ませた存在感が、彼の足元から――否、内側から、静かに立ち上がってくる。(あいつ、だ……)そう思った直後、空間が音もなく開かれ、そこに“声”が現れた。『……リウ、我が番よ』それは、人の言葉でありながら、人の声ではなかった。耳では聞こえず、胸骨の奥で直接響くような、鼓膜を通さない響きがそこにはあった。「……シュア……」自分の口が、それを復唱していた。無意識に。その瞬間、首筋の痕がぴたりと熱を放ち、そして、痺れるような疼きが広がった。「ッ――……ああ……」まるで、骨の奥に火が点ったかのようだった。それは痛みではなく、共鳴。皮膚の表層を超えて、血と骨と精神のすべてが、その名に反応している。「……お前……俺を、どうしたいんだ……」この状況を見ても、攫うわけでもなく。ただ、琉苑はここに残されている。琉苑が言葉を繋ごうとした時、再び、声が降りてきた。『……汝が痕が疼くとき、我が在り処もまた開かれる』「……どういう意味だ」問いかけた言葉に、返答はすぐにはなかった。そのかわりに、空間全体がわずかに色を帯びる。闇の中に、金と緋が混ざりあったような光が、細く長く、彼の視界を斜めに裂いた。その中心に、輪郭を持たぬ何かが立っていた。まだ姿はない。ただ、存在だけが、空間を歪ませている。その影が口を開いた。けれど、そこに唇も喉も見えはしない。『我は神に契された者。竜を纏い、竜を従える身。封印さ
last updateLast Updated : 2025-11-12
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【第12話】夜伽の兆し

夜が満ちきった頃、再び、琉苑の意識はゆるやかに沈んでいった。風の音もしない、気配のひとつもない静寂。けれどその静けさは、ただの眠りの深さではなかった。それは、ひとつの合図だった。重たい光が、額の奥にそっと触れる。目を閉じたまま、しかし確かに“触れられた”と感じた次の瞬間、琉苑は、どこか別の場所にいた。──夢。そう思うには、あまりにも輪郭がはっきりしすぎている。けれど、現実だと思うには、あまりにも空気が甘く、重たく、静かすぎた。琉苑は柔らかな寝具の上に、横になっていた。周囲に扉も灯りもない。けれど明るい。光源はないのに、柔らかな光が空間を満たしている。何より──肌が、熱い。吐息が、思いのほか浅く短く、喉の奥から出ていった。首筋の痕が、まるで心臓の拍動にあわせて脈打っているようで、そこから微熱がじわりじわりと広がっている。その熱が、喉元から胸へ、腹部を広がり、内側に沈んでいく。「……っ、く、そ……」自分の声が、自分のものではないように、かすれて、重く、熱を含んで響く。そのときだった。肌に、何かが触れた。指先。冷たくもなく、けれど決して人の温もりとは違う。その感触は、琉苑の右の頬をそっと撫で、ゆるやかに顎をなぞり、首筋へ──そして、痕に触れた。びくり、と身体が跳ねた。それは拒否の反応ではない。驚きと、反応してしまったことへの羞恥だった。「……っ、やめ──」声にならない声が喉を割る前に、もう片方の手が、腹部に添えられていた。衣服の上からだ。けれど、その距離感は衣一枚など物ともしない。指の腹が滑るように動き、腹の中心を描いたあと、腰骨のあたりで止まる。それだけで、呼吸が詰まる。指の痕跡が、火傷のように肌に焼きついていくのがわかる。次いで、太ももに──。衣の裾を、風のようにかすめただけだった。それでも、そこが痺れるほどに熱を帯びた。(夢だ……惑わされるな、夢だ……)自分に言い聞かせる。そうしなければ、身体が勝手に応えてしまいそうだった。理屈では夢だとわかっている。けれど、嫌に生々しい。ふと、声が降りてくる。『……怯えているのか、リウ』その声音は、低く、濁りがなく、耳元ではなく、鼓膜の内側から届いた。その声だけが、空間のすべての音を支配していた。「……違う」そう言えたのは、自分でも意外だった。
last updateLast Updated : 2025-11-13
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【第13話】姉の目、王の手

朝が来る前に、琉花は現れた。その足取りには迷いがなく、まるで昨夜からここにいたかのような自然さで、彼女は離宮の前庭を渡ってきた。誰にも制されることはなかった。そもそも彼女を制する者など、この国には存在しない。数ある兄弟たちでさえも、いまだ彼女の懐には踏み込めていない。彼女が扉の前に立った瞬間、侍従は黙って退いた。声を掛ける必要などなかった。琉花はそれを当然のように受け止め、扉に指先を添えたまま、数秒だけ何かを測るように立ち止まった。そして、静かに開ける。部屋の中にいた琉苑は、その気配を誰よりも早く察知していた。けれど、驚きも動揺も表には出さなかった。目を伏せたまま、声も出さずに、ただその場で座している。すべてを受け入れる形を装って。「夜は眠れた?」琉花の第一声は、至って柔らかいものだった。けれど、その声音の奥にある鋼のような冷徹さを、琉苑ははっきりと感じ取っていた。「まあ、なんとか」返事は、意図的に淡くした。何も見せないこと。悟らせないこと。そう自分に言い聞かせながら、彼は久方ぶりに“嘘”を口にした。琉花は琉苑の正面に座った。その動きに、一切の淀みはない。感情の揺らぎも、間も、弱さの演出すらもない。完璧な王族としての所作。ただ、彼女の眼だけが、鋭利に輝いていた。「……最近、何か視た?」琉花はそう訊いた。問いの言葉自体は曖昧なのに、まるで確信に満ちた切っ先のようだった。琉苑は、一拍の間を置いてから、わずかに首を横に振った。「何も。夢は見たけど、特に……」それもまた、意図的な“嘘”だった。口にした瞬間、胸の奥の痕がわずかに熱を持った。嘘への反応か、あるいは別の何かか。だが琉苑はそれを無視した。この言葉を選ぶことが、自分に許された唯一の“意思表示”であると、今は強く信じていた。琉花はその言葉に、すぐには頷かなかった。ただ、そのまま琉苑を見つめた。長いまつげの奥にある眼差しは、もはや姉のものではなく、王の目だった。その視線を受け止めながら、琉苑はただ黙っていた。けれど、琉花は気づいていた。琉苑の瞳の奥が、以前とは違う何かに染まりつつあることを。感情ではない。覚悟でもない。それは、外と繋がる誰かの“痕跡”──そう、彼女にははっきりと“視えた”のだ。「……そう。なら、いいのだけれど」琉花の声色は変わらなかった。けれど、その直後か
last updateLast Updated : 2025-11-14
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【第14話】迎えの刻

結界は、音もなく破られた。破壊でも、侵入でもない。それはあまりに静かで、まるで最初からここに存在していたものが、ただ、眠りから目覚めただけのようだった。張り詰めていた空気が、かすかに震え、次いで、すうと音もなく霧散する。誰にも気づかれず、誰もそれを止められなかった。──ただ、琉苑だけが知っていた。最初の気配が肌を撫でたとき、彼の心臓は一度止まりかけ、次の鼓動で熱を迸らせた。そして理解する。来た、のだと。この空の外から、自分の呼び声に応えて。琉苑は寝台の上、膝を抱えたまま、ただ目を閉じていた。目を開けたその瞬間、何かが変わってしまう気がしたのだ。いや、変わると、もう分かっていた。ただ、ほんの少し抗いたかっただけだ。だから、閉じていた。けれど気配は、彼を待ってはくれなかった。部屋の空気が、ゆるやかに、けれど抗いようもなく満ちていく。──圧、だ。それ以外の表現が見つからない。呼吸が浅くなり、胸の中で熱が騒ぎ出す。心臓ではない。痕が、明確に反応していた。皮膚の下で燃え上がるような疼き。迎えの合図。(……いとも容易く来るんだな)そう思いながら、琉苑は目を開く。風もなく、音も立てずに、ただ空間がそこだけ切り替わる。襖の奥でも、壁でもなく、空間そのものが、ゆるやかに滲んで立っていた。月明かりが、差していた。だがその身体は、光に照らされてはいなかった。代わりに、あちら側からこの部屋を照らしていた。「……シュア……」自分の声が、知らぬ間に喉を突いていた。名を呼んだ、その瞬間。彼は動いた。琉苑のもとへ、一歩も歩まずに至った。距離というものが存在しない。目を開いたとき、既に目の前にシュアはいた。見上げた視界に、夜より深い緋の目があった。燃えているのでも、光っているのでもない。その色は、燃えることなく、ただ灼いてくる。琉苑は、喉が渇く音を聞いた。熱が内側から身を焼くようで、身体の感覚が忙しすぎた。「……呼べばこうも早く現れるくせに、よくも放置してくれたな……」かろうじて、それだけが言葉になった。シュアは応えない。ただ、見つめていた。そして、次の瞬間──その腕が、動いた。琉苑の身体が、すとん、と宙に浮いたような感覚の直後、彼は抱きしめられていた。琉苑を潰すような力ではないが、振り払えるほど弱くも
last updateLast Updated : 2025-11-15
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【第15話】連れ去り、連れ添い

意識が浮上したとき、琉苑はまず、自分の呼吸が異様に静かであることに気づいた。胸の上下は確かにあるのに、その動きが自分のものではないように感じられる。柔らかな天蓋が広がり、仄白い光が降りてくる。光源は見えない。寝具は肌を撫でるたびに溶けていくような質感で、ふと身体を起こすと、重いような軽いような、地に足がついているのかどうか曖昧な浮遊感があった。何もかもが、人の世界では味わない代物。──ここは、どこだ。問いは胸に浮かんだが、声にはならなかった。喉がまだ、自分のための働き方を思い出せていないようだった。しばらく呼吸を整えてから、琉苑は寝台から足を下ろした。床に触れた瞬間、重力が揺らいだ。確かに立っているのに、地面に沈みもせず、浮きもせず、この空間そのものが「歩く」という行為の必然性を失わせている。それでも扉らしき形のない境界に触れると、そこは薄膜のように割れ、静かに外へと繋がった。外廊は……空に浮いていた。正確には、床は存在するのに、その周囲の景色が、上と下の区別を拒むように流動している。壁に沿って水が逆さに流れ、しかし落ちない。光の粒がゆらぎ、数歩歩くと色が変わる。異界、だ。言葉にしなくても、わかる。「……なんだ、ここ……」思わず声をこぼした時、ふいに背後で空気が揺れた。振り返るより早く、そこにいた。シュア。まるで、初めからそこに立っていたかのように、存在だけが空間を支配していた。そして彼は、完全に人の姿をしていた。琉苑は息を呑む。今までの夢の影や、焦点の合わない輪郭ではない。ましてや竜の姿でもなかった。かすむことも歪むこともなく、確かな肉体としてそこに在る。夜の底を煮詰めたような黒髪は、光に触れるたび藍を帯び、流れ星のように揺れた。肌は白いというより光が染み込んだ色で、冷たさを予感させるのに、見るだけで熱を感じる矛盾を孕む。額から顎へと落ちる骨格は厳密で、刃のようなのにどこか神殿の柱のような安定がある。そして、目。深く、しかし濁らない緋。琉苑が動けば、それに合わせて、静かに揺れる。人ではない。けれど、人として隣に立とうとしている。それが、この姿の意味だった。「……気分はどうだ、リウ」声は相変わらず耳容易く通り越して、胸の奥に直接触れてきた。琉苑は、ほんの一瞬だけ体を固くし、次いで目を細めた。「
last updateLast Updated : 2025-11-16
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【第16話】竜の棲み家

目を覚ましたとき、琉苑はまだ、シュアの肩に頬を預けていた。一瞬、何が起こったのかと脳が追いつかず、まばたきを数度繰り返すうちに、ようやく昨日の記憶が、ゆっくりと胸の内に下りてくる。あの熱、あの視線、あの──異様なまでに静かな空気。そしていま、彼の肩で感じる呼吸と温度。すべてが、現実なのだと告げている。静か。それが第一印象だった。眠りの余韻が身体の奥に沈みこんでいて、けれど意識は不思議なほど澄んでいた。隣にいるシュアは、昨夜とまったく同じ姿勢のまま、微動だにせず座っていた。目は開いている。けれど、視線は琉苑のほうに向いていなかった。まるでその眼差しだけが時の外に留まっているようだった。「……おはよう、でいいのか?」小さな声で問いかけると、シュアは目だけをこちらに動かした。口元に、わずかな綻びが生まれる。「おはよう、リウ」音にならないその声が、胸の奥に小さく沈む。この空間では、耳よりも先に心が言葉を受け取るらしい。「……お前、ずっと起きてたのか?」「眠らぬからな」それはもう、何度目かの返答だった。琉苑はゆっくりと身体を起こす。シュアの肩から頭を離すと、ようやく自分の体がずいぶん長く寄りかかっていたことに気づいた。羞恥というよりは、妙な不可解さが先に立った。(俺が……あいつに、寄りかかった?)否定できない。記憶が残っているわけではないけれど、身体が、微かに覚えていた。ふと、帷も窓もない天井の向こうから、柔らかな光が差してきた。それを合図にしたかのように、壁がすうと消える。外へ繋がる道が、自然に開かれていた。「……あちらに、出ても?」「好きにするといい」その言葉を背に、琉苑は一歩ずつ廊下へと出た。昨夜の浮遊感がまだ残っているが、歩けないわけではない。むしろ、今日は数歩進むごとに重力が微調整されているような、優しい揺れを感じる。(慣れてきてるってことか?)そして、外に出た途端──琉苑は目を見開いた。空が、層になっていた。複数の空。上下左右ではなく、幾重にも折り重なるように、違う空が流れている。一層目は朝焼け、次は昼。更にその奥は夜のまま。星の瞬きと雲の流れが同時に存在していて、どれが現在の“空”なのかを、脳が判断できなかった。「……昼と夜が、同時にある?」「この地においては、昼も夜も差異はない。心
last updateLast Updated : 2025-11-17
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【第17話】最初の食事

目を覚ました琉苑は、しばらく動かなかった。今は支度を急がせる侍女もおらず、予定だって何もない。生まれてこの方、そんなことはほぼなかった。末のしがない自分とて王家に生まれたからには煩雑な儀式や、それに伴う手習があり、煩わしかった。だから、琉苑はこの時間を楽しむようにただ寝台の上でごろりと身体を横たえた。「……起きたのか?」声がした。最初は空耳かと思ったが、琉苑が視線を動かすと、部屋の隅に座っていたシュアが、こちらを見ていた。その距離に、琉苑は微かに驚く。昨夜はたしか、並んで眠ったはずだ。それがいつの間にか彼だけが離れていた。座り方はぎこちなく、背筋は伸びていた。まるで、寝るという行為を正確に理解していない者が、相手を慮って失敗したような、そんな位置。「……お前、ずっとそこに?」「そうだ。お前が眠る間、見ていた」「……寝るのはやめたほうが良かったかもな」冗談めいた返しに、シュアはわずかに眉を動かした。琉苑は身を起こしながら、微かにため息をついた。すると、部屋の空気がわずかに震え、どこからともなく現れた扉のようなものが静かに開いた。「朝の支度を、した」シュアが言った。すると、かすかに甘い匂いが鼻をくすぐった。興味半分、不安半分で外に出ると、短い回廊の先に、小さな卓が見えた。一見、普通の食卓──のようでいて、近づくほどに違和感が濃くなる。皿の上に載っているのは、ふわふわと宙に浮いた果実らしきもの、透き通った殻に入った花の蜜らしきもの、水の中で踊るように光る穀物らしきもの……どれも、美しいが、明らかに人の食べ物ではない。「……これ、食えと?」「人界の記憶を……参照して、用意した」なるほど、人間の食卓を頑張って再現しようとしたらしい。努力は、わかる。だが方向性は大いに間違っていた。(何だろうなこいつ……本当に、どうなってるんだ)琉苑は、漂ってきた香りを鼻で確かめたのち、最も食べ物っぽい果実をつまんで口に入れてみた。途端に、舌に広がるのは……味ではない。色だった。言語化しようのない紫と青の光が、味覚神経を支配する。「……」無言で咀嚼し、無言で飲み込む。その様子を、シュアがじっと見ていた。「それは、不味いのか?」「……うん」とてもじゃないが、お世辞でも美味いとは言えそうにない。感じたのは味覚じゃなかったのだから。
last updateLast Updated : 2025-11-18
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【第18話】竜の独占

「外に出よう」そう告げられたとき、琉苑は一瞬、耳を疑った。外──この空間の、外だ。屋敷の内でさえひとの常識が通じないのに、その外となれば、何がどうなっているのか想像すらつかない。「……どこまでを“外”って呼ぶんだ?」訝しげな声に、シュアは言葉の代わりに手を差し出した。白磁のような指。掌は厚く、骨ばっているのに、やけにやわらかそうに見えた。「空気がある。大地も、風も、光もある。お前に害はない」琉苑はしばし迷い、それから、ほんの指先だけを触れるようにして手を取った。途端、足元の床がふっと透け、次の瞬間には視界が開けていた。そこは、世界だった。と呼ぶには、あまりにも静かで、あまりにも奇妙で、なのに存在していた。空は丸く、複数の層でうねっていた。青、紫、薄紅、金、そして星の黒。その空の裂け目からこぼれる光が、大地を彩るように降り注ぎ、揺れる草も、踊るように咲く花も、琉苑の知っている植物とは似て非なるものだった。水辺には魚のようでいて、鳥のようなものが跳ねていた。「……全部、お前の記憶?」「一部は。あとは、この世界が勝手に再構成した」「……それ、安心していいのか?」「お前がここにいる限り、危険はない」その言葉に、琉苑はほんの少しだけ笑った。口調は相変わらず無機質なままだが、以前よりもずっと伝わるようになった気がする。ふいに風が吹いた。空気が震え、地が鳴った気がした。次の瞬間──それは現れた。巨大な影だった。翼を持ち、長い尾と鱗に覆われた、いかにも“竜”と呼ぶにふさわしい姿が、上空を横切るように飛来してきた。琉苑は一瞬、息を呑んだ。シュアの横に立つことさえ、いまだ慣れていない自分が、別の竜と相対することに、警戒を抱かないはずがない。「……他にも、いたのか」「いる。ただ、ここに姿を現すのは稀だ。だが……来るようだ」「は?なんで?」その答えを、シュアはしなかった。代わりに、彼の身体が、琉苑の前へと滑るように出た。瞬間、空気が軋む。「シュア……?」視界の端で、シュアの肩甲骨が盛り上がる。背中から、半透明の黒い膜が広がっていく。彼の意志で形を取った人間の姿が、わずかに崩れていく。「見られたくない」その声は低く、熱を孕んでいた。言葉の主語は、己自身ではなく琉苑を指していた。琉苑を、他の竜に見られたくないというのだ。(は
last updateLast Updated : 2025-11-19
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【第19話】贈り物

空は今日も、幾重もの色で折り重なっていた。朝焼けの層と、昼の光が交差し、遠くには夜の帳がゆるやかにたなびいている。空が多い、というのは不思議と人を落ち着かせるのかもしれない──そう思いながら、琉苑は軽く伸びをして、寝衣のまま庭の縁へと足を向けた。そして、背後から気配が近づく。「リウ」呼ばれた名に振り返ると、シュアがいた。変わらず無表情に見えて、しかしほんの少しだけ眉が柔らかくなっているような気がする。その手には小さな包みを持っていた。「……何だ、それ」「贈り物だ。受け取ってほしい」琉苑は訝しみながらも、その手から包みを受け取った。重さはほとんどなく、代わりにかすかな熱が、薄布越しに指先へと伝わってくる。包みをほどくと、中から現れたのは、銀のように光る細い鎖に繋がれた、楕円形の光の結晶だった。金属ではない。石でもない。形容しがたい光沢と、触れる前から感じるぬくもり──それは、ひと目でただの装飾品ではないとわかった。「……これ、なんだ?」「我の鱗の一部だ。力の核に近いものを、結晶化させた」シュアの声は淡々としていたが、その意味するところは、決して軽くない。「お前がそれを身につけるなら、我の力は安定する。いや……お前の傍に、より馴染むと言った方が近い」「……これってつまり、お守りとか?」「違う」言葉は即答だった。「それは我の一部だ。お前がそれを持つことで、我の中の何かが、ひとつの形を得る。……言わば、誓い」「ずいぶん……物騒だな」そう言いながら、琉苑は視線を落とす。掌の中で揺れる光の結晶は、熱を持って脈打っていた。まるで生き物のように──あるいは、シュアそのものの心臓の一部でも渡されたかのような。軽いのに、重い。「つけてやる」不意に、シュアの手が伸びた。琉苑がそれを避ける前に、鎖は彼の首筋にふわりとかけられ、するりと後ろで留められる。「おい……自分で……っ」言いかけた声が、言葉になりきる前に喉の奥で溶けた。シュアの手が、彼の首元に触れていたからだ。細く柔らかな部分。汗腺の少ない、熱がこもるその部分に、指先がほんの数秒、這った。「ああ……よく馴染んでいる」そう告げながら──彼の唇が、そこに触れた。口付けは短かった。だが、直接そこに熱が移ることによって、琉苑の背筋は思わず跳ねた。まるで、恋人に指先で
last updateLast Updated : 2025-11-20
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