All Chapters of 紅の番契 〜Ω皇子は封印竜に寵愛される〜: Chapter 21 - Chapter 30

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【第20話】眠るということ

夜は、静かだった。静かすぎるほどに、音も気配も、世界の縁から削ぎ落とされたように、何も聞こえない。琉苑は寝台に横たわっていた。目を閉じてはいたが、意識は冴えたまま。(……眠れない……)だって、眠るには、少しだけ、この場所の夜は音がなさすぎた。風は吹かず、草は揺れず、虫も鳴かず──夜が夜として在るだけで、何ひと響かない。こんな夜に、ひとりで眠るという行為は、やけに心細かった。(……いや、別に怖いわけじゃない、けどさ……)誰がいるわけでもないのに、言い訳する思考が、ゆっくりと脳内に浮かんでは消える。そのとき、不意に、部屋の空気が少しだけ変わった。扉も足音もなかったが、それでもわかる。空間そのものが呼吸を変えるように、シュアがそこに入ってきたのだと、わかった。「眠れないのか」静かな問いが届く。振り返らずとも、すぐ隣にいるのがわかった。「……まあ、静かすぎてな。眠れるようで眠れないって、あるもんなんだな」そう返すと、わずかに布が揺れて、シュアの身体が寝台の上に沈む気配がした。「人間が眠るには、何が要る?」「……さあ。人によるけど……ぬくもりとか、安心感とか……あとはまあ、疲れてると勝手に寝る」「今のお前には、何が足りていない?」問いながら、シュアの手が伸びてくる。琉苑は一瞬、身をこわばらせたが、それはただの反応であって、拒絶ではなかった。だから、自分からもそっと、手を探していた。それがシュアの手に触れ、絡み合ったとき──どちらからでもなく、自然と力が籠もる。「こうしてれば、少しはましだ」そう呟いた声は、面映くて小さくなった。それをどう受け取ったのか、シュアは何も言わず、ただその手を離さずにいた。やがて、シュアの顔が近づく。琉苑は目を開けた。暗がりの中でも、あの紅の瞳は濁らずに、ただまっすぐこちらを見ていた。「……何?」声にする前に、熱が触れる。鎖骨の少し上、あの結晶が触れているすぐそばの、皮膚が薄く神経の通り道のような場所。そこをシュアの唇が撫でていく。「っ……お、い……」声を上げたが離れることはなく、もう一度、同じ箇所を戻るように唇が触れる。今度は、先ほどよりも深く、濡れて、長い。琉苑の呼吸がわずかに乱れる。「……お前、そういうこと、を……」「拒まなかった」シュアの声が、耳の近くで低く響く。「
last updateLast Updated : 2025-11-21
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【第21話】夢の欠片

深く、静かな夜だった。身を委ねた寝台は柔らかく、シュアの手はまだ琉苑の指と絡んだまま、緩やかにその熱を伝えている。その温度が心地よくて、琉苑はつい目を閉じ、深く深く、眠りに落ちた。──そして、夢を見た。琉苑の意識は、地面になかった。彼は、地上の少し上、空の中層のような場所に浮かんでいて──誰かの視点で、見下ろしていた。庭がある。そこには、今の彼が知っている異界の庭に似た場所があり、小さな噴水の脇で、二人の影が並んでいた。ひとりは、明らかに琉苑だった。ただ、服装も年齢も、何もかもが違っていた。けれどその仕草、首の傾け方、指先の癖……どうしても、自分としか思えなかった。もうひとりは──シュア。だが、今よりずっと人間に近い見た目をしていて、肌の色も、声も違って聞こえた。にもかかわらず、琉苑はそれがシュアであると、確信していた。ふたりは、言葉を交わしていた。だが、音はなかった。口の動きだけが、まるで無音の劇のように、静かに繰り返されていく。琉苑は目を凝らす。何を話しているのか、どうにか読み取ろうとした。そのとき、ふと、自分の視界の奥に、誰かの目を感じた。視点はたしかに自分のものなのに、その中に、自分ではない意識が寄り添っている──そんな奇妙な感覚だった。そして、その視線の奥が感じた懐かしさに、胸の奥が不意にきゅ、と軋んだ。──また、お前たちは出会ったのだな。それは、どこか優しく、少し哀しい響きだった。内側から、それは聞こえた。琉苑自身はそんなこと思ってもなければ、喋ってもいなかった。ではそれが、誰なのか?わからないのに、疑問を持つよりも前に答えがわかる。光の粒のように漂う観察者。時を超えて、巡り巡って、そこに在る存在。次の瞬間、場面が変わった。暗く、けれど穏やかな部屋。窓辺に揺れる布。遠くで子どもの笑い声がする。琉苑は、そこに立っていた──いや、違う。それの視点に、彼はまた重なっていた。子どもがいた。年齢も性別も、はっきりとはわからない。けれど、小さな背中には、淡く銀の光が滲んでいた。その子は、庭を駆けていく。「……お前の子か?」視界の隣から、低い声がした。その声に、琉苑の胸が強く疼いた。振り返ろうとした。けれど、夢はそこまでだった。──目を覚ましたとき、琉苑は、シュアの腕の中にいた。寝台の
last updateLast Updated : 2025-11-22
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【第22話】白鱗の女

その朝、彼女は現れた。白銀の長い髪。雪を彷彿とさせる淡い肌。一見すれば儚げな少女のようでいて、まなざしの奥に燃える理性は、人よりもはるかに深く、冷たい静謐をたたえていた。現れたのは、何の前触れがあるわけではなく、ふと視界の隅に、雪の粉のようにひらりと舞っていた。「お初にお目もじいたします、番様。これなるは、主シュアの眷属でございます」「……シュアの眷属?」問いかけに、彼女はほんの少しだけ膝を折って、かすかに笑んだ。「はい。主の血を受け、在るもの──名はルシェリア。以後、お見知りおきを」声は鈴のように響いたが、そこには媚びや甘さはなく、礼儀の温度で整えられた言葉だけが、すっと琉苑の胸に入り込んできた。「……シュアの友人ってやつなら、見たことあるけど。眷属ってのは、初めて聞いたな」「主はあまり語られぬのでしょう。けれど私たちは、常に傍におります。ただ、今のように現れたいと願われたときだけ、その姿を得るのです」語りながら、ルシェリアはふわりと膝をつき、琉苑の足元に自然と身を低くした。驚いて身を引くと、彼女は顔を上げて、静かに言った。「あなたは主の番──つまり、私たちにとっても、特別な存在ですから」その言葉は、琉苑は少しばかり眉を寄せる。元の立場が皇族と言ったものであったから、こういった礼を取られるのは茶飯事ではあった。が──いかんせんそれは人の世界のことだ。不快ではない。だが、戸惑いは確かにある。「……特別って、まだ何になったわけでもないけどな……」思わずこぼれた本音に、ルシェリアは小さく笑った。「それでいいのです。主もまた、手探りのまま、あなたと向き合っておられる。──ただ、私は、あなたの身の回りの世話を命じられております。どうか、お気を張らず」それからというもの、ルシェリアは、衣服の手入れに始まり、まともな食事の支度や配膳、そして髪を結い上げる手際に至るまで、すべてを過不足なく──いや、驚くほど洗練された動きでこなしていった。彼女の所作は、どれも静かで美しく、決して急かさず、けれど決して手間取らない。その立ち居振る舞いは、仕えるという言葉よりも寄り添うという表現のほうがしっくりくる気がして、琉苑は最初こそ面食らったが、徐々にその存在に心を預けていった。人間ではない。だが、人間よりもずっと、細やかで、心地よい距離を保って
last updateLast Updated : 2025-11-23
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【第23話】肌の距離

琉苑が目覚めた時、背にぬくもりがあった。それは寝具ではなく──明確に誰かの体温だった。いや、誰かではない。シュアの体温だ。まどろみの中で、ふいに何かが琉苑の髪に触れた。起き抜けの乱れた髪を、ゆるやかに梳いていく、ゆるやかな指先。「……何してんだよ」声を出そうとして、思ったよりも掠れた自分の声に小さく驚いた。それでも、背後の主は何の照れも逡巡もなく、当然のように言葉を返してくる。「絡んでいた。梳かした方がいいだろう」「……そういうの、勝手に触るなって教えられなかった?」「教えられた。だが我は、触れてもいい立場だと、思っている」そんな言い分を真顔で吐けるのは竜くらいのものだろう、と琉苑はため息をつきかけて──結局、やめた。だって、実際に、嫌ではなかったのだ。それどころか、髪を梳かされる感触の心地よさに、体が緩みそうになっている自分を、彼自身が一番よくわかっていた。頭皮をかすめる指の温度が、やけに優しくて、穏やかで、つい、そのまま目を閉じてしまう。(……俺、こんなに他人に無防備になったこと……あったか?)数えきれない人間に囲まれ、利用され、持ち上げられ、崇められて生きてきたはずだったのに。そのどれよりも、いま、この異形の隣で感じている静けさのほうが、ずっとまともで、温かい。そう感じてしまう自分に、琉苑はひっそりとため息をついた。※昼過ぎ。日差しは高く、庭の木々が伸びた枝葉の先に涼やかな影を落としている。琉苑は、いつものように外の空気を吸うために庭へ出た。シュアもそれに従うように、しかし先を歩くでも後を歩くでもなく、自然な距離で傍らにいた。歩きながら、何かを話すわけではない。けれど、沈黙は重くなかった。むしろその沈黙が心地よくて、言葉よりも体の距離が、今のふたりには大切だった。ふと、軽く背に触れる気配があった。視線を向けると、シュアが片手で琉苑の肩を引き寄せ、ぴたりと隣に並びながら立ち止まっていた。「……なんだよ、急に」「陽が強い。お前が眩しそうだったから」言いながら、額にかかる髪をそっと指で払われる。指先の所作があまりにも自然で、誰かに見られていたらきっと誤解されるだろうと思ったのに、琉苑はそれを払うことすら忘れていた。今日はよく髪に触られる日だ、なんて頭の隅で思っていた。次の瞬間、頬に唇が触れた。「
last updateLast Updated : 2025-11-24
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【第24話】その名前と胸のつかえ

きっかけは、ほんの偶然だった。シュアがしばらく姿を消した夕刻、彼の部屋に呼ばれた琉苑は、ふと開かれたままの机の引き出しに目をやった。木肌の色に似た、手擦れのある革表紙。手に取るつもりなどなかったのに、指先が触れた瞬間、それは琉苑の掌に収まっていた。開いたページには、見たことのない古い言語が記されていた。──いや、それは正確ではない。「見たことがない」のに、「読めてしまう」のだ。目が、文字の形を理解していく。脳が、意味を汲んでいく。そして心が、拒否する前に内容を知ってしまっていた。そこには、名があった。優美な筆致で、その名前は何度も記されていて、すべての行の始まりにその名があることが、まるで呪いのようだった。知らないはずの、誰かの名。けれど、どこか胸に引っかかる──懐かしさすら滲ませる名だった。番。その言葉がふっと浮かんで脳内に染みを作っていく。「……どうして、俺じゃない?」声にはならない問いが、喉奥で震えた。これは、自分ではない誰かの記録。かつてシュアが愛したらしき相手の記録。シュアの手によって記されたその名を見て、琉苑はなぜか息苦しくなっていた。彼はページを閉じた。音を立てず、記憶の底に沈めるように。けれど、視界から消えても、胸の中のざらつきは消えなかった。※それから、なにかが変わった。琉苑のなかの温度が、わずかに。シュアの声が、いつもより遠く感じる。その手が肩に置かれても、自然と体が少しだけ引いた。本人は気づかぬふうだったが──いや、気づいていて、それでも距離を詰めようとしているのかもしれなかった。その日の夜も、寝室にはふたりきりだった。ルシェリアはとうの昔にその場から姿を消している。いつものように、琉苑が遅れて入ると、先に寝台にいたシュアが片腕を広げる。いつもなら、その中にすべりこむように身体を預けていた。けれどその日は、一瞬だけ足が止まった。シュアのまなざしが揺れる。言葉はない。ただ、そこには明らかな「問い」があった。琉苑は、それに答えず寝台に入ったが、背中を向けた。「……どうした?」低く、だが優しい声が降ってくる。「別に」そう返した声が、思ったよりも刺々しくて、自分で驚いた。「我は、何かしたか?」「……してない。でも、してたのかもな。昔」「──?」琉苑は目を閉じた
last updateLast Updated : 2025-11-25
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【第25話】透ける指先

夜の闇が淡く寝室を包むころ、灯りを落とした空間に、ひときわ深い静けさが漂っていた。琉苑はシュアに抱かれたまま、薄布の上で半分だけ目を開け、ぼんやりと暗闇を見やる。そのとき、ふと、自分の手先が――微かに、だが確かに――いつもとは違って見えた。――指先の輪郭が、少しだけ滲んでいたのだ。ただの錯覚。眠気と明暗の移ろいのせい。それが頭をかすめた瞬間、指先に触れた空気の涼しさに、琉苑の背筋がぞくりと震えた。だが、見えたようで見えないその薄い輪郭を確かめる術はなく、彼はそっと手を引き戻した。「……どうした?夢でも見たか?」低く、柔らかな声が後ろから聞こえた。シュアだ。琉苑はぎくりと息を飲んで、慌てて身体を固めたが、シュアの腕は離れず、ただ包み込むように締め直される。「手が――」と、言いかけて言葉を呑み込む。なんとなく言ってはいけないような気がした。いや、言うのが少し怖かったのかもしれない。理由はわからないが。幸いにも、シュアの体温が背にあり、鼓動が伝わってくる。その安定に、琉苑の中の何かが、ゆらりと揺れた。「大丈夫なのか?」そう聞かれて、頷く。だがシュアは納得がいかなかったのか、琉苑を抱き寄せて自分の方を向かせた。「……なんだよ」「嘘は言うな。何あったら必ず言え」真っ直ぐに見つめる瞳に中には,琉苑がいた。物言いは多少強かったが高圧的ではない。むしろ心配が滲みでいるような口調だった。琉苑は軽くため息をつき、覚悟を決めたように、手をシュアの胸のあたりへ滑らせる。薄布越しに感じる、熱と鼓動。そして、そのまま――唇を近づけた。頬に。額に。口端に。「……どうした?」驚きと温度を含んだ、衝動的な問い。琉苑は小さく笑い、答えた。「……したくなっただけだ。お前があんまりにも俺を恋しそうな顔をするから」唇が唇に触れた瞬間、空気が震えた。舌は絡まなかった。浅く、口端が重なり、そして離れた。その短い接触は、言葉よりもずっと雄弁で、琉苑の胸に、鈍い震えを残した。「リウ……そばにいると、誓え」言葉は刃ではなく、柔らかな布のように包み込むものだった。その声音に、琉苑の胸が強く締めつけられる。(……逃げるなんて、できるか……)彼は、小さくうなずきながら、そっと反応した。「……わかってる。お前のそばに――いる」その言葉を聞いたシュア
last updateLast Updated : 2025-11-26
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【第26話】共に舞う

風が穏やかに吹いていた。山の稜線を越えてきた風は、空の高みで冷たさを削がれ、どこか草の匂いを帯びながら、焚き火の煙と花の香を撫でて流れていく。炎が、まだ宵の淡さを惜しむように小さく揺れていた。そこは、シュアの眷属たちが古くから住んでいる場所。年に一度。月が最も大きくなる夜に、彼らはこの谷で火を囲み、歌い、踊るという。琉苑にとって、それは見知らぬ風景だった。人のような姿を持つ者もいれば、小さな竜の形の者もいる。どこを見ても飽きることはない光景。「リウが来たことを祝う祭りでもある。ここに煩わしい作法などはない。踊りたいなら踊れ、見ていたいなら見ていればいい」そう言った、シュアはいつになく穏やかな顔をしていた。いや、穏やかというより、どこか──祈るような顔、とでも言ったほうが近いのかもしれない。「ふうん。うん……なら、行くか。嫌いじゃないんだ、こういうのは」そう言って火の輪の中へと歩み出た琉苑を、誰も止めなかった。誰も戸惑いの目で見ることさえしなかった。眷属たちはただ、そこにあるべき者がそこに来たかのように、ごく自然に彼を笑顔で迎えた。──踊る、という行為に、どれだけ意味があるのかはわからなかった。けれど、音に合わせて身体を預け、足を運び、風を裂いて腕を振るその動作のひとつひとつが、まるで言葉にならなかった想いの断片を形に変えていくようで、琉苑は不思議な心地に包まれていた。誰のためでもない。ただ、自分のまま、自分の身体で、自分の感情をなぞるように。(どこもかしこも、自由だ……)長らく暮らしていた世界はいつもどこか息苦しかった。作法だ儀礼だとずっと縛られていた日々。でもここはまるで違った。琉苑を値踏みするような目もなければ、本心を隠して近付くものもいない。火が踊り、影が揺れ、空気が震える。その中心で、琉苑はひとつの命として息づいていた。──そして、見ている者がいた。遠巻きにではなく、まっすぐに。あらゆる瞬間を、その目で拾い集めるように、ひとりの男が。シュアは言葉もなく、ただその目に琉苑を映し続けていた。瞬きすら惜しむように、身じろぎもせず。やがて炎の動きと琉苑の足運びが交錯する瞬間、ふと、何かを吐き出すように呟いた。「……生を、美しいと思ったのは……久しぶりだ」それは琉苑に聞かせるための言葉ではなかった。だ
last updateLast Updated : 2025-11-27
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【第27話】誰でもない“自分”

月の明かりが、やわらかく部屋を満たしていた。外の風が葉を擦り、虫の音が遠くに滲んでいる。深夜、あるいは未明。そんな、時間という概念さえ曖昧になるような、ゆるやかな闇の中で──琉苑は夢を見ていた。その夢は、既視感を孕んでいた。──以前にも見た、あの夢だ。違うのは、視点だった。前に見たときは、自分は自分でなく,誰かの中にいたように思う。だが、今回は違う。身体の重みも、空気の感触も、ちゃんとある。それなのに──“今”の自分とは、何かが少し違う気がした。顔も髪も、感覚としては同じはずなのに、鏡で見ればきっと微細な差異があるだろうと思えた。違和感。それも、ほんのわずかな。まるで過去に使っていた服を、久しぶりに引っ張り出して着てみたときのような、身体に馴染んでいるのに妙にしっくりこない、そんな奇妙な感覚。そして──すぐそばに、シュアがいた。その姿は、変わらなかった。炎の奥で揺らいでいるような、静けさと凶暴さを併せ持った、竜の貌。シュアは黙ってその自分の手を握っていた。そして、ぽつりと、言った。「どうして……いつも、我を置き去りにする……」その声音には怒りも責めもなかった。ただ、耐えることに慣れてしまった者の、ひどく静かな悲しみがあった。自分は、何も言えなかった。言おうとした言葉は、のど元で何かに塞がれたように動かない。けれど、その隣で、自分と同じ姿の“誰か”が、薄く笑いながら答えた。「……シュアが長生きすぎるからだろ」まるで、当たり前のことを言うように。それがすべてだと、言い聞かせるように。「気長に待ってて。……また、会えるから……それまで、忘れるなよ」「いつも忘れているのはお前だろう?」「ああ、そうだっけ……どちらにしろ、またお前に惹かれるよ。だって番なんだから」自分の口がそう言ったとき、空が揺れた。風が、花びらを巻き上げて、時間の奥へと引き裂くように走り抜ける。そして、その“誰か”の意識が、ふっと、途切れた。身体が崩れるでも、血が流れるでもない。ただ、存在がそこから抜けるように、琉苑の中から何かが遠ざかっていった。「待て──」声を上げたときには、夢は終わっていた。琉苑は跳ね起きた。額にはうっすらと汗が滲んでいた。呼吸は荒く、胸の奥で鼓動がぶつかり合う。見慣れた天井が、やけに遠く、どこか現実味が
last updateLast Updated : 2025-11-28
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【第28話】輪廻の番

窓辺に残る夜気が、まだ湿り気を帯びていた。琉苑は、起き上がってからずっと眠れていなかった。シュアもまた、隣で同じように目を覚ましながら、ただ黙っていた。言葉が互いのあいだを泳ぐには、もう少し時間が必要だと、二人とも無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。沈黙は気まずいものではなく、ひとつの呼吸のようだった。やがて、琉苑の口が開く。それは、ぽつりと落ちた問いかけというより、濡れた葉の上に静かに降る露のように、音もなくその場に溶けた。「……その“前の俺”は、どんなやつだったんだ?」一瞬、沈黙が戻る。だが、今度のそれにはためらいがあった。琉苑は返事を急かさず、シュアは問いをはぐらかさなかった。「……語れるほど明確なものではない。名前も記憶も、全てが同じだったわけではないからな。だが、魂は……変わらなかった」そう言うシュアの声は、静かで、それゆえに重かった。そこに虚飾はなかった。見せるためでも慰めるためでもない、ただ真実だけが、ゆっくりとそこに降りてくる。「お前がお前であることに、変わりはない。それが何度目であろうと、どのような形であろうと……我にとっては、いつもお前だ」「……いつも、俺、か」琉苑は、目を伏せたまま、少しだけ笑う。その笑みには苦味と呆れ、そして少しばかりの安心が混じっていた。「なら、前の俺とも……その前の俺とも、こうしてたんだ?」「いいや、いつもがこうだったわけではない。……何度かは、我の存在にさえ気づかずに、過ぎ去っていった。一度は……我の顔を見た瞬間に、逃げ出したこともあった」「……そりゃまあ、お前、見た目こわいしな。竜だし」冗談めかした言葉に、シュアが鼻を鳴らす。しかし、すぐにその横顔は静かに曇った。「だが、どの時も……長くは、共にいられなかった。人であるお前は、いつも我より早く、去っていく」それは、過去の回想というより、傷の痕をなぞるような語りだった。癒えることのなかった時間の層を、淡々と積み重ねて、シュアはそこに立っていた。琉苑は、沈黙した。何をどう返すべきか分からなかったし、下手な言葉でこの空気を壊したくもなかった。代わりに、指先で自分の膝をなぞりながら、ぽつりとこぼした。「……終わりって、来るのかな。どこかで、さ」「終わり?」「……この繰り返しが。お前と俺が、会って、離れて、
last updateLast Updated : 2025-11-29
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【第29話】夜明けの問いかけ

夜明け前の空気は、まだひんやりと冷え、その透明な静けさが、琉苑の胸の奥を柔らかく刺した。寝台の縁に腰を下ろし、重ねた布をそっと撫でながら、彼はぽつりと言葉を吐いた──「人って、やめられるのか?」問いは小さく、しかし重く落ちた。それはシュアの話を聞いたからだ。幾度目かの自分と竜との話。隣で、シュアは目を覚まし、深い瞳で琉苑の顔を覗き込んだ。その瞳に映る月光は冷たく、しかし熱を灯すように揺れていた。静かに呼吸を繰り返す竜の胸。その鼓動と夜気が、琉苑の感覚をぐらりと揺さぶる。「……何を、言い出す」低く、けれど怒りは混じらない。その声に、琉苑は真っ直ぐ視線を返した。「お前と、生きたい。……だけど、この“人”のままじゃ、いつか終わるんだ。それが……嫌だ」言葉に嘘はなかった。胸には熱さと、冷たさと、切なさとを、全部をごちゃ混ぜにした感情が渦巻いている。今の自分になって、まだこの男と長くいたわけではない。契りだって、交わしてはいない。けれど、そうした思いを持ってしまうのは積み重なった運命なのか。竜はしばらく黙ったまま、その瞳を琉苑に据えた。そして、ゆっくりと唇を開いた。「人を、やめることはできる。我はそれを知ろうと思った」その言葉は、静かすぎて――儀式の鐘のように――胸に響いた。「だが、人であることを――捨てるなら」声に切り出すように、竜は言った。「それは“死”に等しい。肉体も、名前も、記憶も、形も。すべてを脱ぎ捨てることになる」ため息のように零れたその言葉に、琉苑の胸がきしんだ。「それでも……」言いかけたとき、竜の手が伸び、琉苑の唇が首筋へ、頬へ、静かに降りた。熱を帯びた吐息が肌を撫で、琉苑の背筋に小さな震えが走る。「生き様を変える──それが望みなら、選べ。だが覚えておけ。変わるということは、何かを捨てるということだ」指先が髪を梳き、肌をなぞるように。その所作は、祈りにも見えて、呪いにも見えた。琉苑は息を呑み、目を閉じた。胸の奥で、戦うように、理性と欲望が交錯する。(……俺は……お前と、いつまでもいたい。でも……)きらきらと残る月影。遠くで風が吹き、夜気が喉を打つ。「……俺は、どうしたいんだろうな」声は震えた。けれど、竜の手は離れず、その温度は温かい。「考えておけ。安易に決めることではない。覚悟があるな
last updateLast Updated : 2025-11-30
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