All Chapters of 紅の番契 〜Ω皇子は封印竜に寵愛される〜: Chapter 31 - Chapter 40

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【第30話】名を呼ぶ庭

朝日が差す前の空は、夜とも昼ともつかぬ鈍い青をしていて、琉苑はその色がなんとなく好きだった。はっきりとした光も影もない、あの曖昧さの中にだけ、物事の狭間が存在できる気がしたからだ。目覚めてから、しばらくのあいだ、琉苑は寝台の上で身動きもせずに天井を眺めていた。横にはシュアがいない。明け方前に出かけていった。理由は言わなかったが、何かを察したような声で「待っていろ」とだけ残して。「……だったら、こっちはこっちで動いてもいいか」声に出してから、琉苑は布を跳ねのけるように立ち上がった。何かを決めるには、たとえばそれが身勝手な決意だったとしても、行動を始めなければ何も変わらない。そういう気分だった。ゆるく整えた衣を纏い、廊下を抜け、厨房の奥へ。ルシェリアはちょうど木箱の中身を整理している最中だった。干した薬草と乾いた果実の甘やかな香りが、部屋の空気に色をつけている。「ルシェリア」声をかけると、彼女は振り返った。思っていたよりも驚いた様子はなく、むしろ少しだけ警戒を解いたような笑みを浮かべた。「お目覚めになられましたか、リウさま。まだ朝食には早いですけれど……」「食事じゃない。訊きたいことがあるんだ」琉苑の口調は、実に直球的だった。だが、遠回しにすればするほどこの問いは曖昧になる気がして、それを避けたかったからだ。ルシェリアの手が止まる。「人をやめる方法を、知ってるか」その一言に、彼女のまつ毛がわずかに揺れた。すぐには答えない。ただ目を伏せたまま、手元の木箱に視線を落としていた。沈黙が、空間を塞ぐ。が、やがてルシェリアは小さく息をつき、囁くように言った。「……詳しくは、存じません。リウ様……それは、我が主人には秘密の何かでございますか?」ルシェリアが問う。秘密、というほどではないが、勝手に動いてる面もある。どう答えるべきか、琉苑が考えていると、「……マースさまであれば、何かをご存じかもしれません」その名が出た瞬間、琉苑の胸に妙な熱が灯った。以前、ほんの一度だけ顔を合わせたことがある。謎めいた存在。己の立場を飄々と語りながらも、その目には底の見えぬ深さがあった。「マース……」ルシェリアが頷く。「会いたい。連絡手段はあるのか?」そう言われ、ルシェリアははっきりと戸惑いを見せた。困ったように視線をさまよわせ、言葉を
last updateLast Updated : 2025-12-04
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【第31話】再訪の代償

昼と夜の境目は、いつだって静かだった。それは世界が息を潜めて、何かが始まるのを待っているような時間で──琉苑はその沈黙に身を浸していた。シュアは朝から出ている。何をしに行ったのかは言わない。だが気配の端に、焦りでも不安でもない、なにかを整えようとする意思があった。見送る時の眼差しが、それを語っていた。(あいつも、考えてるんだろう……俺がどうあるべきかを)ならば、自分はもっと動くべきだ。待っているだけの存在ではいたくなかった。庭へ出る。昨日と同じ露の気配。草を踏む足裏に冷たさが刺さる。息を吸い、ためらいを押し殺す。「……マース」一度目は風。返事はない。「マース」二度目は空気がざわつく。だが姿は見えない。琉苑はひとつ息を吐いた。胸の奥にあるのは迷いではなく、欲望だった。人であることをやめられるかもしれない未来への、渇望。「……マース」三度目の名を呼んだ瞬間、風が逆巻いた。木々が揺れ、影が伸び、空気そのものが形を持つ。「強いじゃないか、今回は」声は背後から。振り返ると、マースがいた。いつもの薄ら笑いを、ほんの少しだけ楽しげに深くした顔で。「呼ぶ声に迷いがなかった。自分の願いが見えた?」「かもしれないな。……いや、初めから決まってる」その答えにマースは満足げに目を細めた。「人を捨てたい?」「それより──シュアの隣で、生きたい。あいつがもう、俺を探し続けなくてもいいように」マースは小さく笑い、指先で空をなぞった。何色とも言い難い瞳が濁りも狂気もなく、ただ透徹した知に満ちる。「なら、教えよう。道はひとつじゃない。ただし竜になるということは──人間的な輪郭を失うことだ」「輪郭?」「記憶。情。時間の流れの速度──それらはすべて、竜へ変質する時に溶ける。薄まる。君が君という形に留まる保証は、どこにもない」マースは腕を組み、少し顎を上げる。「竜はね、永く生きるほど変質する。心は硬化し、人の価値観が風化し、愛も記憶すらもゆっくり溶けていく。そうじゃなきゃ長い時間を生きられないのさ。竜に変わるということは、シュアを愛している今の君は、残らない可能性だってある」琉苑は息を呑んだ。胸がひやりとする。確かに、それは「死」となんら違わなかった。「それでも、やりたい?」「わからない。……でも知りたい。選ぶために、全部
last updateLast Updated : 2025-12-05
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【第32話】気配と疑念

シュアが屋敷に戻ったのは、日が高く昇り、空の青さが色の濃さを増しはじめた頃だった。昼と夜の概念が曖昧なこの場所にこうして時間が存在するのは琉苑という存在が大きく関わっている。乾いた風が外套の裾を揺らし、重たげな羽音が上空をかすめてゆく。屋敷の門をくぐった瞬間、彼はふと立ち止まり、わずかに鼻を動かした。空気の層が、庭の一角で妙に乱れていた。それは人の動きが生む温度差ではない──もっと、気配の深いひずみ。誰かを呼び寄せ、誰かがそこに“いた”痕跡。それは時間の砂に足跡を残したような残滓で、竜である彼には十分すぎるほどの証だった。(……また、か)何が“また”なのか、自分でも明確に言語化できなかった。だが、胸の奥で乾いた石が落ちるような音がする。「リウは?」屋敷に入ると、ルシェリアが静かに一礼した。「自室に戻られております。少し前まで……お庭に」やはりか、と心のどこかが凍る。彼は頷くだけで言葉を返さず、まっすぐに廊下を進んだ。琉苑は寝椅子に身を沈め、書を膝に広げていた。が、その目は一行たりとも追っていない。思索に沈むようでいて、むしろ内から浮き立つ何かを押し留めようとしているような、そんな張り詰めた気配があった。「……帰ったか」気づいた声は、どこかぎこちない。笑って誤魔化すには表情が素直すぎ、気づかれまいとするには視線が揺れすぎていた。「……ああ」シュアは短く応えたきり、言葉を継がなかった。互いの間に少しだけ空気が滞る。それを破るように、琉苑が無理に笑ってみせた。「今日は早かったな。てっきり長く帰らないかと」「予定より早く片付いた」「ふぅん……それは、よかったな」皮膚の下で、感情が擦れる音がした。どちらも笑っている。けれどそれは、互いの心を遠ざけないための演技のようで──それがどこか、余計に苦しかった。食事の間、会話は断続的だった。言葉自体は日常に沿ったもので、声の調子も穏やかさを装っていた。だが、汁物を啜る手の角度ひとつ、器を置く間合いひとつが、互いに見ないふりをしようとしているのを露呈していた。シュアは気づいていた。琉苑の肌に、風の匂いとは違う何かが染みついていること。それは、誰かと交わした会話、または思念の余熱。竜の感覚は鋭い。言葉での誤魔化しなど通用しない。──我の知らぬ誰かと、何かを話した
last updateLast Updated : 2025-12-06
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【第33話】欲望のきざはし

三度目の風は、前触れなく吹きつけた。そのとき、琉苑はすでに庭の中央に立っていた。両足を地に据え、両手を力なく下げたまま、ただ静かに──けれど確かな意志を胸に、名を呼ぶ。「……マース」呼気に混ざる声音には、もはや迷いも隠しもなかった。「よく呼ぶな、君は」風の中から、くぐもった声が現れる。今度のマースは、前よりも柔らかく、だがどこか戯れるような態度でそこにいた。袖口をはためかせ、琉苑を一瞥し、わざとらしく片眉を上げる。「恋人に隠れて密会なんて、ずいぶん危うい遊びだ。いい趣味だ」「はぁ?ふざけるな。のこのこ出てくるのはお前だって同じだ」「呼ばれたから来ただけさ。ほら、忠実な犬のように」そう言って笑うマースの顔には、冷笑とも好意ともつかぬ色が滲んでいた。からかうような口調の裏に、なにかを待っている気配がある──それが妙に、神経を逆撫でする。「前に言ったね?魂を変えるには、痛みと情が要ると」「……ああ」「今回は、その続きを話そう。魂は個であると同時に、繋がる器でもある。誰かと深く、長く関わることで、相手の存在に反応し、変質が始まる。君の魂は──もう、その兆候を見せてる」「……変質って、どういう意味だ」「たとえば、感情の反応域。記憶の染み込み方。存在の輪郭の揺らぎ方。俺たちはそれらを音に似たものとして捉えてる。魂にはそれぞれ固有の響きがある。でも君は、シュアの側にいすぎた。強く触れすぎた。……だから今、君の魂の音が、あいつのそれに引っ張られはじめている」その言葉に、琉苑の背筋が凍るような汗を伝った。「……引っ張られてるって、それは……」「同調。魂が、相手と重なる方向へ融けていくということだ。個としての輪郭が、ゆっくりと曖昧になる。変わるというより、混ざっていく感覚に近い」「……だから俺は、こうして迷うのか」「そうだ。迷っているうちは、まだ輪郭が残ってる証拠だ。けれどこのまま進めば、いずれ君は……君ではなくなる」マースは言葉を切ったあと、皮肉めいた笑みを浮かべる。「面白いよな。過去の君たちは何度も竜に恋して、けれど終わりを選んできた。だが今の君だけが、残る方法を探している。──その能動的な意思が、魂の輪郭を緩ませてるんだよ。誰かのために自分を変えようとする行為が、もっとも強く、魂の性質を動かす。だから今回は、本当に変われるかもし
last updateLast Updated : 2025-12-07
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【第34話】契り

朝が来ていた。どこまでも静かで、やけにやさしく、しかし乾いた朝だった。琉苑は、薄く開いた瞼の裏に広がる、どこか焦げついたような肌の感触にまず気づいた。首の裏。鎖骨のあたり。手首。背の一部。火照っているというよりも、そこだけ空気の密度が違う。誰かの熱が染み残ったような、粘度のある疼き。──昨夜のことを、思い出す。押し倒され、拒んで、赦して、そして……泣きそうな声を聞いた。シュアの震え。あの強い手が、壊す寸前で止まった瞬間。そのすべてが、感触として皮膚に残っている。ひと晩経っても、消えていない。寝台の右側は空だった。そこに、シュアの姿はない。整えられた寝具。きっちりと折られた毛布の端が、どこか不自然で、そこに手を伸ばすと冷たかった。その冷たさが、あの竜が琉苑よりもずっと早く目覚め、そして部屋を出たことを意味していた。琉苑は、静かに息を吐いた。胸の奥に、ざらりとした感情が残る。怯え、ではない。けれど、それに似たざわめき。昨夜のシュアは、怒っていた。とても深く、鋭く。それが欲望に変わっていったとき、自分は確かに──一瞬だけ怖かった。けれどそれ以上に、あの男の中にあった壊してしまうことへの恐怖が、今でも琉苑を縛っていた。(……あいつ、俺と何度も向き合ってるくせにな……)小さく、苦笑が漏れた。ほどなくして、部屋の隅の扉が静かに開いた。そこにいたのは、シュアだった。その目は、昨夜のように怒ってはいなかった。けれど──何かを強く押し殺している。呼吸の浅さ。視線の逸らし方。彼は、琉苑と目を合わせることを避けたまま、寝台に近づいた。「……どこ行ってたんだ?」琉苑の声は、思っていたよりも低かった。だが、返事はなかった。その代わり、シュアはゆっくりと息を吐いてから、背中を向ける。(こいつ……俺を避けてるのか)そこで、琉苑は無性に腹が立った。シュアにはシュアなりの理由があるのはわかる。昨夜のあの衝動。あの吐露。怒りと恐れと欲望の三重奏に、彼自身、まともな判断はできていなかった。それを煽ったのは、おそらくマースと会っていた自分だ。けれど、だからといって、何も言わずに距離を取られるのは、たまらなかった。「待て」言葉が、喉まで出かけて止まる。叫びたいわけじゃなかった。追いつめたいわけでもない。ただ、同じものを背負っ
last updateLast Updated : 2025-12-09
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【第35話】蜜月のかたち

寝台に横たわりながら、琉苑は仰向けのまま、天井の淡い影を眺めていた。夜は深く、窓の向こうでは風の音がささやいていたが、それすら遠く感じる。今、自分の周囲にあるのは──肌に触れる柔らかな掛布の感触と、左隣にいるあたたかな生き物の気配だけだった。その気配は、うごめくでも、じっとしているでもなく、ただ、重さと熱と呼吸だけで存在している。ふと、その呼吸が耳に触れた。低く、規則正しく。まるで焚き火のように。琉苑は少しだけ身体を傾けて、隣にいるシュアを見た。「なあ今までの俺って……どんなだった?」声は布団の中でくぐもった。視線を向けられたシュアは、ひとつまばたきをして、やや間を置いてから、唇の端をわずかに上げた。「それは……昔のお前の話か?」「そう。……俺にはあんま思い出せないけど、お前、知ってんだろ?」シュアは琉苑の頭にそっと手を置き、乱れた髪をなぞる。爪が当たらないよう、力加減はやけに優しくて──思わず、くすぐったくなる。「昔のリウは、今よりずっと無鉄砲だった。怒るとすぐ喧嘩を売った。なのに、誰より情に脆かった」「へえ……」シュアの指が耳の裏を掠め、琉苑は肩をすくめた。それを面白がるように、竜はもう片方の腕を伸ばして彼を引き寄せる。「……それに比べれば、今のお前はずいぶん慎重だ。よく考えるようになったし、言葉も選ぶ。だが、そのぶん迷いも深い」「それはどーも。成長したってことだろ」「そうかもしれん」「でもまあ、よく分かんないけど──きっと、俺は俺なんだな、今までも今も」「そうだな。リウはずっと、リウだ」ふたりの額がかすかに触れ、そこから体温がじんわりと交わる。ひとつの触れ合いが、どうしてこんなにも落ち着くのか──琉苑はそれを、考えるのが億劫になるくらいには幸福だった。「……いつも、オメガなのか?」ぽつりと、琉苑が口にした言葉に、シュアの動きが止まった。ふたりの身体の間に、ふわりとした沈黙が広がる。だがそれは、否定の重さでも、拒絶の冷たさでもなかった。「必ずしも、とは限らない。だが……お前は、幾度の生のうち、たびたび受け入れる側であった」「ふーん……そういうもんか」琉苑は、少しの沈黙の後、シュアを見上げる。「……じゃあさ、子供がいたことって、ある?」布団の中の空気が、少しだけ冷たくなる。それは、感情の揺れでは
last updateLast Updated : 2025-12-10
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【第36話】境界の影

夜の余韻がまだ室内の空気を曖昧に濡らしている頃、琉苑のまぶたは重く、けれど、まどろむほど安らかでもなかった。重なったままの布の感触や隣で眠るはずの温もりが、どうにもいつもとは違う圧をともなって肌に伝わる。それは、確かに感じるはずの呼吸の気配なのに、どこか遠く、響きだけが近くにあるような、不確かな距離感だった。琉苑はそっと目を開けた。視線の先で、シュアの身体はまだ睡りの中にあった。だがその胸の動きは、ふつうなら心臓の鼓動と連動するはずのリズムを、どこかたゆたうように刻んでいる。じっとしているのに、揺れが静かに波打つようで、時間そのものが粘度を帯びているようにも感じられた。(……なんか、おかしいな)眠気の膜が思考の芯を鈍らせようとしても、気配の違いを本能的に察してしまう。蜜月は深く甘く、魂の輪郭を溶かすような時間ばかりだった。それが今、皮膚の下でゆっくりと溶け残ったまま、薄い膜のように全身を包んでいる。寝台からゆっくりと身体を起こし、琉苑は隣のシュアの肩口にそっと触れた。その感触は温かい。だが、指先が皮膚をなぞるとき、そこにはじんわりと光が滲むような、不思議な反応が起きた。まるで世界の仕組みの一部がゆらいでいるかのようで、琉苑の胸を疼かせた。「……っ」その息に、シュアが低く唸るように目を開けた。視線は琉苑を捉えたまま、言葉を発することなく静かに起き上がる。ふたりのあいだで、言葉のない時間がゆっくりと流れた。止まっているようで、確実に進んでいる時間の中で、ふたりの周囲の空気だけが淡く揺れた。遠くから、折敷を整える音と淹れたての茶の香りが廊下越しに漂ってきた。ルシェリアが朝の支度を進めているらしい。ふだんなら当たり前のことが、不思議なほど遠い出来事に感じられた。琉苑がそっと布団から身体を起こしたとき、ルシェリアは静かに戸を開けて一礼をした。しかし、琉苑を視界に入れたルシェリアの手が止まった。目を細め、すぐに視線を逸らす。「おはようございます。お食事の用意ができておりますので」ルシェリアも何かに気付いたのだと、琉苑にもわかった。琉苑は軽く頭を振って、それ以上を問いたださなかった。食事の時間は静かだった。重い、というほどではないが、どこかに気まずさがある。沈黙が互いの距離を測るように漂い、食後、琉苑とシュアのふたり
last updateLast Updated : 2025-12-11
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【第37話】記録にない者

春だった。璃晏宮廷の庭に、白桃の花がはらはらと降る季節。枝の影が石畳にまだらな模様を落とし、風が吹くたびにそれがゆるく流れて、地面さえも夢を見ているように見えた。琉苑はその中に立っていた。かつて毎朝のように歩いていた、宮の裏庭。兄弟たちにとっては退屈な回廊も、彼には唯一無二の聖域だった。あの頃と何も変わらぬ配置のまま、花の香りと朝露の気配が漂っている。けれど、そこにいる人々──姉や兄たちも、幼い侍女も、下働きの書吏すら──誰ひとりとして、琉苑の存在に目を留める者はいなかった。琉苑は名を呼ぼうとした。けれど、喉からは声が出なかった。いや──声はあるのに、空気に届かない。音になる直前で消えていく。まるで、彼の「在る」が、この庭にとって“無”であるかのように。視線を下げると、縁の紙を束ねた書類が風で捲れていた。かつて自分の名が記されていた、璃晏皇族の系譜。そこには、もう「琉苑」という字はなかった。筆跡の歪みも、修正の跡もない。ただ、初めから、そこに名などなかったかのように。(──俺は、最初から……)その瞬間、胸元で何かが熱を持った。懐に手をやると、シュアから渡された小さな首飾りが、静かに輝きを放っていた。名を呼ばれるような、声が届く。──リウ。低く、深く、どこか遠い場所から、けれど確かにその名を抱き寄せるような声が、夢の淵を震わせた。※汗ばんだ額に指を当てながら、琉苑は目を開けた。寝台の上、まだ夜が明けきらぬ静かな空気の中。窓の向こうで鳥が鳴いている。朝が近い。首飾りを取り出し、指先で撫でると、そこには微かに残る温もりがあった。夢ではなかったのかもしれない、と琉苑は思う。あるいは、夢の形を借りて何かが告げられたのだ、と。「……俺の庭だったはずなのにな」ぽつりと呟いた声が、妙に薄く響いた。まるでこの部屋そのものが、彼の発した言葉を受け取りかねているかのように。外に出ると、空気は冷たく、早朝の石廊下に足音がひとつだけ響く。書庫に向かう途中、ルシェリアとすれ違った。彼女は目を見開きかけ、そして一瞬、何かに迷うように──言葉を飲み込んだ。「お……おはようございます」「……今、“お”の次、詰まったな?」琉苑の言葉に、ルシェリアははっとして伏し目になる。すぐに立ち去ってしまった背中に、何かを問いただす気には
last updateLast Updated : 2025-12-12
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【第38話】声のない時間、番の刻

朝ではなく、夜でもなかった。ただ、光の気配だけがぼんやりと天幕の布を透かし、時間というものが遠くの海の波のように寄せては返す、曖昧な時刻だった。琉苑は寝台の上で静かにまばたきをした。眠っていたのか、目を閉じていただけなのか、自分でもよく分からなかった。ただ確かなのは──身体の内側で、何かが熱を持って蠢いている、ということだった。それは微熱のようでいて、風邪とも違う。気だるさや鈍い重みの下に、ごく微細な疼きがあった。皮膚の奥からじわりと滲み出すような湿気、下腹を緩やかに押し上げるような圧。それは本来、身体が発しているはずの言葉のようだった。(……今、なのか。いや……今だからなのかもな)思考がまとまるより先に、身体はすでに知っていた。周期など知らぬはずのものが、魂の変容とともに姿を変え、いつしか不可逆な兆しとなって現れ始めている。あたたかく、けれど確かに自分を蝕む熱。寝返りを打つと、隣にいたはずの存在が気配だけを残していた。琉苑は片手を伸ばし、その空気の中に指を差し込む。誰もいない。だが、ぬるく残る残滓のようなものが、そこにはあった。思わず、首元に手をやる。首飾りがある。だが今は、それに触れようとしなかった。触れてしまえば、きっと何かが動いてしまうようで。「……俺、もう……どうなってるんだろうな」声は出た。けれど、それに応える者はいなかった。だからこそ、すぐに戸が開いて、シュアが静かに戻ってきたとき、琉苑の胸には奇妙な安堵が走った。「……目覚めていたのか」「ん。なんか……熱くて」言葉にすれば簡単すぎて、何も伝わらない気がしたが、シュアはただ近づいてきて、琉苑の手を取った。その手は、熱かった。琉苑の熱に応じるように、あるいは、それを映すように。まるで、ふたりの熱が互いに循環しているかのような──そんな錯覚さえ覚えた。「……発情期か?」「たぶん。周期がおかしい気がするけど……もう、そういう理屈じゃないのかも」琉苑は、目を閉じた。何よりも先に、身体が、感情が、何かを選び取ろうとしていた。シュアの指が首元を撫でる。ゆっくりと、丁寧に、柔らかく、琉苑という存在を確かめる指先。それだけで、もう充分だった。「……最後かもしれないからさ」ぽつりと漏れた言葉に、シュアの動きが止まった。「何が」「全部。お前、もう分
last updateLast Updated : 2025-12-13
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【第39話】臨界

夜は深く、しかし時間そのものが鈍っているかのように、どこまでも静かだった。シュアは隣にいなかった。どこかに出たのか近くにいるのか。身体の一部がわずかに透けて見えるその奇妙な光景を、琉苑は動かないまま見つめていた。触れようとしたら消えてしまうかのような輪郭が、そこにあるのにないようで、世界の外側へと引きずられていく気配。その時、空気が浅く震え、世界の奥の方から低い音が漂ってきた。風とは違う、空間そのものがひび割れるような音。琉苑の視線はその不協和音の方へ流れ、そしてそこに、マースがいた。マースはいつものように立っているが、その姿はどこか精彩を欠き、影が濃く落ちていた。目の奥に浮かぶ光は、冗談めいた色を含みながらも、どこか静かな焦燥を帯びている。「呼ばれた気がしてね」その声は遠くから聞こえるように、しかし確かにそこに存在していた。「……そうだな。呼んだかも」琉苑の声音は低い。胸の奥で、言葉よりも先に感覚がうずく。自分の身体が世界から薄れていくのを、ひどく実感していた。「正確には、もう時間がないって知らせが来たんだよ」マースは歩み寄り、琉苑の透けていく指先をじっと見下ろした。その視線は悲観とも諦観ともつかない静けさを持っていて、琉苑の胸に小さな棘を刺した。「……俺は、何をすればいいんだ」琉苑は問う。問いながら、それが自分自身への呼びかけでもあることに気づいていた。身体の熱は消え去る気配と拮抗し、魂はどこで終わり、どこから始まるのかをさまよっていた。「方法はある。だが、今からじゃ間に合わない」マースは淡い光を背にして言った。その声はやけに静かで、しかし重みを欠いていなかった。「……魂の輪郭が崩れすぎている」シュアが側にいないのに、その名前が胸の奥で震えた。琉苑は息を吸い、重みのある空気を吐き出す。「じゃあ……俺はどうなるんだ?」震えるのは恐怖ではなく、問いそのものの形の不確かさだった。シュアと過ごした時間の熱と冷たさが、身体の奥で渦を巻く。「ひとつだけある」マースは手をかざし、空間の奥から淡い器を取り出した。形の定まらぬ何かが柔らかく揺れ、光と影が混じり合っている。「これに魂を保存することができる。だが、これは君という存在の痕跡を留めるだけのものだ」琉苑の胸に、冷たい沈黙が重なる。「……その代償は?」問いはまっすぐだっ
last updateLast Updated : 2025-12-14
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