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All Chapters of 妻の血、愛人の祝宴: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

彰人は彼女に目を落とし、数秒間黙り込んだ。彼は頷いた。「好きにしろ」踵を返し、ドアに向かったが、そこでわずかに足を止めた。だが、結局何も言わずに立ち去った。部屋。静奈はその指先で冷たい玉細工にそっと触れた。涙がついにこぼれ落ちた。失ったものが再び手元に戻ってきた喜びの中に、あまりにも多くの、言葉にできない感情が混じり合っていた。夜。静奈は悪夢にうなされた。両親が、惨たらしい死を遂げた、あの瞬間。「お父さん、お母さん――!」彼女はベッドから飛び起きた。額に張り付いた髪は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。しばらくの間、荒い息を繰り返しようやく、彼女は我に返った。また、あの夢を見てしまった。翌朝。静奈はわざと帽子を目深にかぶって家を出た。彼女は近所の花屋へ行き、白菊を選んでいた。「朝霧さん?」背後から、聞き覚えのある声がした。静奈が振り返ると、湊がカウンターの前に立っていた。彼の視線が、彼女の顔にわずかに留まる。そして静かに尋ねた。「昨夜、眠れなかったのか?」静奈は隠さなかった。「ええ、怖い夢を見て」彼女の指先が、白菊の花弁に触れた。「神崎さんも、お花を?」湊は頷いた。「友人の会社が開店するので、祝いのフラワースタンドをいくつか」静奈に誤解をさせないためか、彼は付け加えた。「その会社がちょうどこの近くなんだ。お前の家からも、そう遠くない」静奈は「そうか」とだけ応えると、選んだ白菊を店員に手渡した。「すみません、控えめに包んでいただけますか」会計を済ませ、彼女は店員から花束を受け取った。「では神崎さんはごゆっくり。失礼する」「ああ、気をつけて」湊は彼女の背中がドアの向こうに消えるのを見送った。実は昨夜、自分は彼女のことが少し気にかかっていた。彼女を慰めようと、何度かメッセージを打ってはみたが、どれもひどく唐突な気がして、結局、すべて削除したのだ。そして、今朝。当てもなく車を走らせているうちに、気づけば、この辺りをうろついていた。「お客様、フラワースタンドのご注文は?」店員の高い声が、彼を現実に引き戻した。湊の視線が、カウンターのそばにあった花束に落ちた。彼は衝動的に、向日葵の花束を指差した。「じゃあ、これで
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第82話

隣の墓石には一枚のモノクロ写真がはめ込まれていた。写真の中の若い男性は白いシャツを身につけ、その目元は穏やかで、口元には淡い笑みを浮かべている。その顔は彰人と瓜二つだった。すっと通った鼻筋、シャープな顎のライン、そして耳にある小さな黒子の位置まで、寸分違わなかった。墓碑には名前が深く刻まれている。長谷川遥人(はせがわ はると)。そこに記された生没年月日は彼が七年前に亡くなったことを示していた。静奈の呼吸が止まり、全身の血液が、その瞬間に凍りついたかのようだった。遥人……彰人……その二つの名前を口の中で呟くと、記憶の奥底で固く閉ざされていた扉が、不意に開かれた。七年前。あの頃、自分は両親を失ったばかりだった。世界はまるで一部分を無慈悲に抉り取られたかのように欠けてしまい、そこには果てしない暗闇だけが残されていた。自分は重いうつ病を患った。両親の墓石の前に座り、ただ涙を流すこと。それが、自分の唯一の日課だった。まさに、そんな絶望に沈んだある日の午後。節くれだった手がすっと差し出され、一枚の白いハンカチを渡された。「ほれ」穏やかな男性の声がした。「目を泣き腫らしてはせっかくの顔が台無しだよ」静奈が顔を上げると、澄み切った、温かい眼差しとぶつかった。彼は自分の隣に腰を下ろした。「すべて、時が経てば過ぎ去っていく。太陽が毎日、必ず昇るようにね」それは両親を失って以来、自分が耳にした初めての温かい言葉だった。その日を境に、自分は墓園で、時折彼と顔を合わせるようになった。彼は多くを語らず、ただ静かに、自分の隣に寄り添ってくれた。彼は一筋の光のように、自分の世界を照らした。転機が訪れたのはある土砂降りの日だった。その日、静奈は天気予報を見ずに家を出た。墓園に着いて間もなく、バケツをひっくり返したような大雨が降り出した。帰ろうとした時、足元の泥道に足を取られ、彼女は激しく転倒した。足首に、錐で刺すような痛みが走る。雨はますます強くなり、もがいても立ち上がることができない。絶望が再び彼女を飲み込もうとし、彼女は膝を抱えて泣き出した。まさにその時、一本の傘が、彼女の頭上に差し出された。彼女が顔を上げると、そこにはまた、あの見慣れた顔があった。雨水が彼の前髪を濡らしていた
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第83話

その疑念は毒の棘のように、彼女の胸に突き刺さった。静奈はよろめくようにして墓地を離れた。タクシーに乗り込んでも、指先の震えは止まらなかった。長谷川本邸。静奈は玄関のドアの前で深く息を吸い、中へと入った。リビングは静まり返っている。大奥様は寝室で昼寝をしており、相馬が掃除をしているだけだった。「若奥様、お戻りなさいましたか。大奥様は今しがたお休みになられたところです」「相馬さん」静奈の声はこわばっていた。「彰人には……お兄さんが、いらっしゃいましたか?」相馬の動きが止まった。その目に一瞬、動揺が走る。やがて、彼女はため息をつき、声を潜めた。「ははい……長男の、遥人様という方が。ですが、お可哀想に、お若い頃に難病を患われ、七年前に……あれは大奥様の心の病でございます。普段は誰もそのお名前を口にいたしません。そのお話が出ますと、大奥様が、夜も眠れなくなってしまわれますので」静奈の心は冷たく沈んでいった。難病?でも、自分の記憶の中のあの人はどう見ても健康そのものだった。「静奈、何を話しているんだね?」大奥様が寝室から出てきた。「いいえ、何でもありませんわ」静奈は慌てて表情を取り繕い、笑顔で駆け寄った。「おばあさん、お顔を見にまいりました。少し、お話相手をさせていただきたくて」大奥様は特に気にした様子もなく、彼女の手を引いてソファに座らせた。「ちょうどいい。午後にスープを作らせたんだ。お前さんも、付き合いなさい」静奈は上の空で返事をした。頭の中は記憶の中にある、あの優しく整った顔でいっぱいだった。夕方、彰人がドアを開けて入ってきた時、彼女ははっと我に返った。彼はスーツを脱いで使用人に渡すと、ソファに座る静奈に気づき、わずかに足を止めた。いつもの彼女なら、彰人に気づくと、決まってわざとらしく視線を逸らした。だが今日は彼を真っ直ぐに見つめている。瞳には彼には理解できない、探るような色が浮かんでいた。彰人は彼女がまだオークションの件で怒っているのだと思った。彼は静奈の向かいに、ごく自然に腰を下ろした。「汐見台のあの屋敷だが、お前の名義に変更させる手配をした。それとは別に、200億円を……」彰人はそのようにして、彼女に対する負い目を償おうとした。静奈は視線を外し
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第84話

「平気よ」静奈は立ち上がった。その声は静まり返った水面のように平坦だった。彼女は枕と布団を手に取ると、隣の客室へと向かった。「疲れたから、先に休むわ」彰人はベッドの端に腰掛け、彼女の後ろ姿がドアの向こうに消えるのを見送った。整った眉が、わずかに寄せられる。今しがたの静奈の眼差しは赤の他人に向けるよりも、なお冷ややかだった。あの瞳には憎しみも、恨みもなかった。ただ、すべてが荒廃した、完全な虚無があるだけだ。まるで、自分たちの間のあの四年間の結婚生活など、初めから存在すらしなかったかのように。その夜、彰人の眠りは異常に浅かった。客室には化粧室がついていない。静奈が夜中に起き、化粧室へ行く物音が聞こえた。そのかすかな物音が、まるで羽で心臓を撫でられるかのように、彼をわけもなく苛立たせた。翌朝。静奈は目の下にうっすらと隈を浮かべて、ダイニングに現れた。大奥様が、そばに座っていた。「静奈、どうしたんだね、顔色が悪くて。また彰人が、お前さんを怒らせたんじゃないだろうね?」「いいえ、おばあさん」静奈はトーストを一枚手に取り、何でもないことのように、自然な口調で答えた。「昨夜は少しお水を飲みすぎたみたいで。夜中に何度も起きてしまって、あまり熟睡できませんでしたの」そこへ、彰人もやってきた。彼の視線が、静奈の顔に数秒留まったが、彼女は瞼一つ動かさなかった。午前、静奈は明成バイオに出社した。PCを立ち上げるとすぐに、昭彦がやってきた。「朝霧君、少し話があるんだ。君の今の仕事量はかなり多いだろう。だから、人事部に掛け合って、君のアシスタントを一人、採用することにした。雑務を分担させようと思ってね」神崎グループとの連携業務だけでも、かなり煩雑だ。それに加えて、本来の研究業務もある。昭彦は彼女に無理をさせたくなかった。「いえ、結構です、社長。私一人で十分対応できますから」静奈は反射的に断ろうとした。「無理はしなくていい。求人情報はもう出してしまったから」昭彦は彼女がそう言うことを見越して、先手を打っていた。「今日の午前にはもう面接が入っている。書類選考は済ませてあるんだが、君も、見てみるかい?」静奈はため息をついた。「会社のご判断にお任せしますわ。私からは特に要望はございません」「
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第85話

静奈が去った後、彰人は会議室のドアを開けた。湊はファイルを整理していた。彼が顔を上げると、彰人だった。「まだ帰っていなかったのか?」「さっき、静奈と随分と話が弾んでいたようだな」彰人は椅子に腰を下ろし、テーブルのミネラルウォーターを手に取ってキャップを捻った。その声に、感情の起伏はなかった。「いつから、あいつとそんなに親しくなった?」湊はファイルを置くと、椅子の背にもたれかかった。彼を面白そうに見つめる。「なんだ、嫉妬か?」彰人は水を飲み、彼の視線を避けた。「別に、ただ、ふと気になっただけだ」「仕事上の付き合いだ。彼女がプロジェクトの窓口担当だから、接触が多くなるのは当然だろう」湊は笑いを堪えている。「どうした、お前。本気で嫉妬したか?」彰人はペットボトルを置いた。「考えすぎだ」彼は立ち上がり、ジャケットを整えた。「じゃこれで。午後も会議がある」湊は彼が去っていく背中を見送りながら、その顔からゆっくりと笑みを消した。もし彰人が知ったら……自分が、彼のまだ離婚していない妻に、気があったなどと知ったら、一体どんな騒ぎになるだろうか。その考えが浮かんだ途端、彼はそれを押さえつけた。いくつかの事は暗闇に隠しておくしかない。翌日の午前。人事部の担当者が一人の若い女性を静奈の前に連れてきた。「朝霧先生、こちらが新しいアシスタントの林希(ばやし のぞみ)さんです。昨日、面接に合格されまして、本日付けで正式に入社されました」「朝霧先生!私、林希と申します。新卒です。これから、どうぞご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします!」彼女は深々とお辞儀をした。まだ学生気分が抜けない、初々しさがある。静奈は頷き、向かいの空いている席に座るよう促した。「座って。まずは会社の業務フローに目を通しておいて。関連資料をメールで送っておくから、分からないことがあれば、いつでも聞いて」「はい、朝霧先生!」希は席に着くと、すぐにノートPCを開いた。彼女は資料に目を通しながら、時折、ちらちらと静奈を盗み見た。その眼差しには崇拝の色が浮かんでいる。薬学部を卒業した身として、先日の業界サミットには当然、注目していた。あの抗がん剤標的薬の成功に、静奈が多大な貢献をしたことも知っている。希にとって、
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第86話

希の目が輝き、途端に元気を取り戻した。「本当ですか?」静奈は頷いた。「ええ」彼女の笑顔が戻ったのを見て、静奈の心も少し軽くなった。「少し休んでいらっしゃい。午後はまた忙しくなるから」希はカップを手にした。「静奈さん、私、お水汲んできますね!」その真剣な眼差しを見て、静奈はアシスタントがそばにいるというのは確かに随分と気が楽になるものだと、ふと思った。金曜日の午後。長谷川グループ、社長室。沙彩がハイヒールを鳴らして入ってきた。その手にはキャラクターの猫がプリントされた紙袋が二つ提げられていた。「ニャーン」ふくふくとしたオレンジの子猫がソファから飛び降り、尻尾を振りながら彼女のズボンの裾にすり寄ってきた。「もう、私が美味しいものを持ってきたって分かったのね?」沙彩は笑いながら屈み、袋からキャットフードの缶詰と、おやつのスティックを取り出した。「彰人さん、トラに新しいおやつを買ってきたの。それと、自動給水器も。この前の、ちょっと水漏れしてたみたいだから」彰人は書類の決裁に没頭していた。「この前買ったフリーズドライがまだ残っていただろう。なぜ、そんなに買うんだ」「トラは今が育ち盛りなんだから」沙彩が缶詰を開ける。濃厚な肉の香りが広がり、子猫はすぐに顔を寄せて夢中で食べ始めた。沙彩は子猫のふわふわした毛並みを指先で梳いた。「それに、私がマメに来てあげないと、この子、また私のことを忘れちゃうわ」その時、秘書が軽くノックをして入室した。「社長。神崎グループ様から、提携の補足契約書が届いております。ご確認を」彰人は「ああ」とだけ応え、脇に置くよう目で合図した。秘書は一瞬ためらったが、二歩ほど近づき、声を潜めた。「それと、社長。失礼ながら、今週末は遥人様のご命日です」彰人のペン先が、ぴたりと止まった。数秒の沈黙の後、彼は淡々と答えた。「分かっている」沙彩は猫じゃらしでトラをじゃらし、そのぎこちない動きを見て、楽しそうに笑っていた。秘書と彰人の間で交わされた短く重い会話には全く気づいていなかった。秘書が退室した後。沙彩は猫じゃらしを置いた。「彰人さん、今週末、ご都合いかが?パパとママが、うちで食事でも、と。この前、彰人さんが回してくださったプロジェクトのお
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第87話

静奈は微笑んだが、その瞳は少し潤んでいた。「あなたがあの世で元気にしているか分からないけれど。安心して。これからは私がよく会いに来るから。昔、あなたが私に付き添ってくれたみたいに」しばらくして、静奈は立ち上がった。彼女は遥人の写真を深く見つめ、踵を返した。静奈が立ち去って間もなく、彰人の車が墓園の外に停まった。彼は黒いスーツに身を包み、手には白菊の花束を持ち、その表情は厳かだった。彼が遥人の墓石の前に立った時、そこに置かれた場違いな向日葵の花束を見て、足を止めた。「これは……」彼の目に、わずかな驚きが浮かんだ。後ろに控えていた秘書も一瞬戸惑ったが、推測した。「大奥様が、どなたかに届けさせたのかもしれません。大奥様も、ずっと遥人様のことを気にかけておられましたから」彰人はそれ以上は追及せず、持っていた白菊を向日葵の隣に供えた。彼はしゃがみ込み、写真の中の兄を見つめた。その眼差しは幾分か和らいでいた。「兄さん、会いに来たよ」彼は低い声で語りかけた。「会社は順調だ。心配いらない」彼は墓石の前で、グループの新しい動向や、大奥様の体調がまだ矍鑠としていることなどを、まるで世間話でもするかのように報告した。「それと、兄さんが想っていた人は俺が、ずっと大事にしてきた。おばあさんは彼女のことを良くは思っていない。だが、俺がいる限り、彼女を周りから守り通す。彼女に、指一本触れさせない」七年前。遥人が死の淵にあった時、彼は彰人の手を握り、二つのことを託した。一つは長谷川グループの後継者としての地位。もう一つは二瀬台(ふたせいだい)12番地に住む、朝霧の娘を、守ってやってほしい、と。兄の死は彰人にとってあまりにも大きな傷となった。彼は後継者としての重責を背負うため、自らを鍛え、三年間の修練を経て帰国した。長谷川グループの新たな社長として、その手腕でグループを新たな高みへと押し上げた。二瀬台12番地に住むという、その娘も、見つけ出した。それが沙彩だった。兄が守りたかった人こそが、自分が守るべき人。彼が沙彩を甘やかし、何でも言うことを聞いたのはただ、兄の遺言に背きたくなかったからだ。墓園に、ふと風が吹き、木々の葉がザワザワと音を立てた。まるで何かに抗議するかのように。秘書が腕時計に
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第88話

「ただ、離婚の手続きが複雑で、もう少し時間がかかるだけよ」そうは言ったものの、彼女の心にはわけのわからない不安が渦巻いていた。そうよ、彰人ほどの男なら、どんな女だって選び放題なのに。どうして、自分だけを特別扱いするの?彼の甘やかしと寵愛は時折、ひどく現実味のないものに感じられた。「『できるだけ早く』って、いつよ?」美咲は豚の角煮を一切れ、沙彩の皿に置いた。「女の若さなんて、ほんの数年よ。そんなに、無駄にできる時間なんてないの。言わせてもらえばね、あなた、いっそ子供でも作っちゃえばいいのよ。長谷川家の血を引く子ができてしまえば、名分なんて、後からついてくるわ。あの大奥様だって、あなたのことがどれだけ嫌いでも、ひ孫の顔を見れば、認めざるを得なくなるわよ」沙彩の顔が、カッと赤くなった。彼女は反射的に反論した。「ママ、そんなこと……」「何が『そんなこと』よ」美咲は彼女を睨みつけた。「あなたたち、もう長い付き合いなんでしょ。子供ができるなんて、当たり前のことじゃない。子供さえいれば、あの大奥様と交渉する切り札ができるのよ」良平も頷いた。「ママの言う通りだ。長谷川夫人の席はどれだけの女が狙ってると思ってるんだ。馬鹿な真似はするんじゃないぞ」沙彩は箸を握る指先が白くなった。「彰人さん、あの人……私に、とても誠実なの」付き合ってから、彰人は一度も自分に触れようとしなかった。彼は自分を過剰なまでに尊重していた。もし、彼があれほど自分を甘やかし、特別扱いしてくれなかったら、自分は彼の心の中に本当に自分がいるのかどうか、疑ってしまっていたかもしれない。「『誠実』で、何ができるのよ?」美咲はもどかしそうに言った。「彼が奥手なら、あなたが積極的に仕掛けるのよ。面子なんて気にしてる場合じゃないわ。子供を作ることこそが、一番大事なの」沙彩は何も言わなかった。だが、その胸の内は何かで引っ掻かれるようだった。もし、本当に子供ができたら……あの大奥様がどれだけ反対しても無駄。彰人が、自分の唯一の血筋を外に放り出しておくはずがない。翌日の午後。彰人は沙彩を迎えに病院へ来た。彼の姿を見つけると、沙彩の目が輝いた。「彰人さん、どうして?今日は運転手さんが迎えに来てくれるんじゃなかったの?」「たまた
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第89話

「あの……おばあさんのご容態が、もしお悪いようでしたら、必ず、私にも教えてちょうだい」「ああ」沙彩はドアを開けて車を降りた。黒いロールスロイスが車の流れに溶け込み、遠ざかっていく。カードを握るその手に、じっとりと汗が滲んだ。母の言葉が不意に耳元で蘇った。「あの大奥様は彰人さんと静奈が二人きりになる機会を、あれこれと作っているんだろう。万が一、静奈が先に妊娠でもしたら、あなたの居場所はもうなくなるんだよ」沙彩はカードを握る手に強く力を込めた。そうよ。大奥様はかつて彰人と静奈を強引に結びつけ、無理やり結婚させた。今だって、静奈を妊娠させることくらい、やりかねない。もし、静奈が先に子供を産んでしまったら、長谷川夫人の席は本当に自分とは無縁のものになってしまう。「沙彩様、どうぞ、お車へ」秘書の車が目の前に停まり、彼女の思考を中断させた。沙彩は車に乗り込んだ。窓の外を流れる景色を眺めながら、彼女の胸の内にある考えがますますはっきりと形になっていった。母の言う通りだ。もう、待ってなんていられない!明成バイオ。静奈は相馬からの電話を受け、大奥様の容態をひどく心配していた。終業時間になると同時に、彼女は会社を飛び出した。時刻はちょうど帰宅ラッシュのピークだった。彼女は道端に立ったが、タクシーはなかなかつかまらない。配車アプリも、順番待ちの人数が多すぎた。このままでは日が暮れてしまう。「車、捕まらないかい?」一台の黒いセダンが、ゆっくりと彼女の前に停まった。窓が下ろされ、昭彦の穏やかな顔が現れた。「どこへ行くんだい?僕が送っていくよ」「いえ、結構です、先輩。もう少し、待ってみますから」会社から本邸までは決して近くない。往復すれば、一時間以上はかかるだろう。昭彦にそこまで遠い道のりを付き合わせるのは申し訳なかった。「いいから、乗って」昭彦は助手席のドアを開けた。「僕にそんなに遠慮することないだろう?」静奈は一瞬ためらった。だが、大奥様の青白い顔が脳裏をよぎり、彼女は頷いた。「では……お言葉に甘えさせていただきます」車が古い商店街を通りかかった時、静奈が不意に窓の外を指差した。「先輩、少し、停まっていただけますか」昭彦はブレーキを踏んだ。道端
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第90話

彼女は振り返り、彰人の底知れぬ瞳とぶつかった静奈は眉をひそめた。「何をするの?」「朝霧静奈」彰人の声は低く、抑え込んだ怒りがこもっていた。「俺たちはまだ離婚していない。他の男に本邸まで送らせた挙句、降りる時には媚を売るような視線を交わす。それが、ふさわしいことだと思うか?」その手の力はそこまで強くはないものの、抗うことを許さない強引さがあった。静奈はもがいたが、振りほどけない。その口調も冷たくなった。「タクシーが捕まらなくて、桐山社長が通り道だからと送ってくださっただけよ。何が『媚を売る』ですって?彰人、少し、想像力が豊かすぎるんじゃないかしら?」「通り道?」彰人は口の端を吊り上げ、嘲りを隠そうともしない。「明成バイオからここまで、街を半分横断する距離だ。それが通り道だと?」「あなたね!」静奈は言葉に詰まった。「あなたと、こんな不毛な話をしている時間はないの。おばあさんが待っているの」「他の男と買ってきた菓子折りを持って、おばあさんを不愉快にさせるつもりか?」彰人は彼女の持つ菓子折りに目をやった。「おばあさんが、お前が男といるところを見て、また発作でも起こしたらどうする!」「彰人!」静奈はついに彼の手を振り払った。「私と桐山社長はただの同僚よ!あなたこそ、私の動向を見張る暇があるなら、どうすれば一日でも早く離婚して、あなたの沙彩さんに『地位』を与えられるか、そちらをお考えになったらどう?」彰人の纏う空気が、一瞬にして重くなった。胸に、わけのわからない怒りが込み上げた。相馬が物音を聞きつけ、中から出てきた。「彰人様、若奥様、どうして玄関先でお立ちに?」静奈が先に歩み寄った。「相馬さん、おばあさんのご容態は?」相馬は首を振った。「相変わらず、何も召し上がろうとなさいません。お一人で二階へ上がられたきり、誰も近づけてくださらないのです」静奈と彰人は相前後して階段を上がった。全ての部屋を探したが大奥様の姿はなく、ついに、最後の部屋に行き着いた。静奈の手がドアノブにかかる。彼女は覚えていた。この部屋は昔から鍵がかけられ、誰も入ることを許されていなかった。あえて尋ねることもできなかったが、ここはまさか……静奈がドアを開けるべきかためらっていると、彰人が先に、迷
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