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妻の血、愛人の祝宴 のすべてのチャプター: チャプター 91 - チャプター 100

100 チャプター

第91話

大奥様は静奈の異変に気づき、少し慌てた。「静奈、どうしたんだね?急に泣き出して。また誰かにいじめられたのか?」「いえ……違います」静奈は慌てて涙を拭い、首を振って無理に落ち着いた。「ただ、おばあさんが悲しそうなお顔をなさっていたので、私まで辛くなってしまっただけですわ。どうぞ、お気になさらないでください。平気です」彼女はもう、あの写真を見ることができなかった。自分の感情が、抑えきれなくなりそうだったからだ。彰人は傍らに立ち、静奈のその反応を、全て目の当たりにしていた。彼女が兄、遥人の写真を見た瞬間の呆然とした様子。そして、突然こぼれ落ちた涙。そのすべてが言いようのない奇妙さを帯びていた。彼女が……兄を、知っている?その考えが浮かんだ途端、彼はそれを押さえつけた。あり得ない。恐らく、亡くなった自分の両親を思い出しただけだろう。兄と彼女に接点などあるはずがなかった。静奈は大奥様を支えて階下へ降りた。彼女は持ってきた菓子折りを開け、一口サイズにちぎって大奥様の口元へ運んだ。「おばあさん、お好きだと伺っていたお菓子を買ってまいりました。まだ温かいですわ。どうぞ、一口」大奥様は彼女の瞳に宿る気遣いを見て、ついに口を開き、小さく一口食べた。「相馬さんから伺いました。今日一日、何も召し上がっていないと。厨房でお粥を準備させました。熱くありませんから、半分だけでも、召し上がっていただけませんか?」静奈はまるで子供をあやすようにして、大奥様に少しずつ食べさせた。彰人は傍らに立ち、まるで人形の置物のように、そこにいるしかなかった。大奥様は彰人本人よりも、静奈に対してよほど心を許していた。一日座りっぱなしだったせいか、大奥様も疲れが出たようで、早めに自室へ戻られた。相馬は静奈に向かってこっそりと親指を立てた。「若奥様、さすがでございます。若奥様がいらっしゃったからこそ、大奥様も、ようやく少し召し上がってくださいました」静奈は微笑み、何も言わなかった。まさにその時、彰人の携帯電話が鳴った。画面に浮かんだ「朝霧沙彩」の文字が、ひどく場違いに見えた。彰人は脇へ寄って電話に出た。「もしもし」受話器の向こうから、沙彩の声が聞こえた。わざとらしく心配そうな声色だった。「彰人さん、おばあさんのご
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第92話

肩紐が緩く腕にかかり、広い素肌が露わになっている。沙彩は爪先立ちになり、彼の顎にキスをしようと試みた。彰人は咄嗟に半歩下がり、その吐息を避けた。「沙彩、服を着ろ」その声は低く、有無を言わせぬ厳しさがあった。沙彩の動きが止まり、その目に戸惑いが浮かんだ。「彰人さん、私、ただ……あなたのそばに、もっと近づきたいだけなのに」彼女はそう言うと、再び彼に手を伸ばそうとした。肩紐が腕を滑り落ち、雪のような肌が微かな光に艶めいた。彰人はその手首を掴んで制した。力は込めていないが、それ以上近づくことを許さない。彼の視線は彼女の肩に落ちたが、すぐに外され、虚空に向けられた。「よせ」「どうしてダメなの?」沙彩の声が、甲高くなった。彼女は最後の望みを賭け、身に纏っていたネグリジェを脱ぎ捨てた。黒いレースが、床に落ちる。そのまま裸の姿で彼の前に立ち、その瞳には期待の色が浮かんでいた。「彰人さん、私を見て。今夜、このまま、あなたのそばにいさせてくれない?」彰人の顔が険しくなった。彼はすぐに身を翻すと、ソファにあったカシミアのブランケットを掴み、問答無用で彼女の体に巻き付けた。「いい加減にしろ!」「彰人さん、私、ふざけてなんか……!」沙彩が何かを言い募ろうとしたが、彰人はすでに書斎へと向かっていた。「主寝室の鍵は開いている。新しいナイトウェアが置いてあるはずだ」沙彩は彼が書斎に入っていくのをただ呆然と見送った。その背中には一切のためらいもない。書斎のドアが閉められ、二つの世界が隔絶された。彼女の目から涙がこぼれ落ちた。理解できなかった。彰人はあんなに自分を甘やかして、何でも許してくれたのに。どうして、この瞬間だけ、こんなに理性的になれるの?裸で、目の前に立っているというのに、彼はまるで何も見ていないかのように。彼のその自制心が、ナイフのように、彼女の胸を何度も切りつけた。書斎。彰人は椅子に深くもたれかかり、指には燃え尽きていない煙草が挟まれていた。沙彩に優しくすることに慣れていた。彼女の様々な要求に応え、彼女が困難に陥れば、無意識に手を差し伸べて庇う。その習慣はまるで骨の髄まで刻み込まれた本能のようだった。それが責任感からなのか、それとも別の何かなのか、自分にも分からなかった。
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第93話

良平が書斎から出てくると、母娘の会話が聞こえてきた。彼はいぶかしげな顔をしている。「彰人君はもしや、その……不能なんじゃないか?」美咲はハッとしたように目を見開いた。「そう言うと、本当にそんな気がしてきたわ!あの人、静奈と結婚して四年にもなるのに、子供が一人もいない。絶対に、あっちの方に問題があるのよ!それに、あの人の周りには沙彩の他に女の影もない。この理由じゃなかったら、何だって言うの」「まさか……」沙彩は愕然とした。「それじゃあ、どうすればいいの?」美咲は彼女の肩を叩いた。「大丈夫よ。ママがいい薬を手に入れてあげる。男なんて、ああいう薬さえ飲ませれば、無理やりでも勃つのよ!」沙彩はさすがに卑怯なやり方だと思ったが……とはいえ、長谷川家に嫁ぐためなら、やれることは何でもやるしかない。彼女は唇を噛み、やがてこくりと頷いた。長谷川グループ、社長室。彰人はPCのスクリーンに映し出されたレポートを睨み、午前中ずっと、眉間に皺を寄せていた。今朝。沙彩が帰る時、自分が書斎にいると、その低い嗚咽がはっきりと聞こえてきた。その声がどうにも胸に引っかかって、気分が晴れない。秘書が恐る恐る傍らで業務報告をしていた。「社長。海外の提携プロジェクトに関する補足契約書が、先方から送られてまいりました」彰人は「ん」とだけ応え、視線はスクリーンのまま、冷淡に言った。「法務部に回しておけ」秘書が退室しようとした時、呼び止められた。「何か贈り物を見繕って、センター病院の、沙彩の医局へ送れ。それと、タピオカとデザートも注文して、医局の全員に行き渡るように手配しろ」秘書は一瞬戸惑ったが、すぐに察した。「かしこまりました。すぐに手配いたします」センター病院。彰人の秘書は医局員たちの衆人環視の中、沙彩のオフィスへと進み、選び抜かれた贈り物と花束を手渡した。「朝霧先生。こちら、長谷川社長からの差し入れでございます。お気に召しますと幸いです」ギフトボックスが開けられる。中には数千万円の宝飾品のセットが入っていた。その眩い輝きに、誰もが目を奪われた。「また、社長からは医局の皆様に、タピオカとデザートもご用意するよう、申しつかっております」テーブルは所狭しと並べられたドリンクとデザートで埋め
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第94話

看護師長はタピオカを手に、目尻に皺を寄せながら笑っていた。「朝霧沙彩先生のおかげですよ」彼女はオフィスの方を親指で示した。「恐らく、昨日、長谷川社長が朝霧先生のご機嫌を損ねてしまわれたんでしょう。今日は朝からプレゼントだの花束だの、おまけに、医局全員にデザートとタピオカまで差し入れてくださって。あんな風にご機嫌を取るだなんて。うちの病院でも、初めて見ましたわ」そう話しているうちに、若い看護師がタピオカを二つ持ってきた。「朝霧先生、桐山社長、よろしければどうぞ。長谷川社長のおごりです。まだ、たくさん残ってますよ」静奈の視線がオフィスの中をさっと掠めた。沙彩がまるで女王蜂のように同僚たちに囲まれ、その顔には得意満面な笑みが浮かんでいる。静奈は視線を戻し、首を振った。その声は冷ややかだった。「ありがとうございます。でも、甘いものはあまり好きではないので」昭彦も、すぐに言葉を継いだ。「申し訳ない。僕も、タピオカはあまり得意ではなくて、お気持ちだけ、いただきますよ」二人が病室に入り、データの収集を始めた時。昭彦は思わず彼女の横顔を見つめた。「朝霧君、大丈夫かい?」静奈は患者情報に目を落としたまま、ペン先をカルテの上で滑らせていた。その声には何の感情も浮かんでいなかった。「はい、何ともありません」彼女の表情は確かにいつも通りだった。仕事に集中する、真剣な眼差しだ。まるで、先ほどの光景など、彼女とは何の関係もないことであるかのように。昭彦は彼女のその淡々とした様子を見て、胸の中の懸念を、ようやく少しだけ和らげた。もしかしたら、彼女はもう、あの男のことを吹っ切れたのかもしれない。データ収集を終え、病院を出た。静奈は湊から、打ち合わせをしたいというメッセージを受け取った。昭彦が彼女のために車のドアを開けようとした時、静奈が口を開いた。「先輩、神崎グループの神崎さんから、仕事の話でと連絡がありました。ですので、私は会社へは戻らず、このまま」「送っていこうか?」「結構です。カフェはここからそう遠くありませんから。歩いて行けます」カフェ。静奈がガラスのドアを開けると、湊はすでに窓際の席に座って彼女を待っていた。目の前にはアイスコーヒーが二つ置かれている。「神崎さん、お待たせ」
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第95話

彼はしばらく言葉を置き、誠実さを込めた。「それに、率直に言って、俺はお前の専門能力を高く評価している。この謝恩会が、俺たちとのより深い提携への新たな出発点になることも望んでいる。俺にチャンスをくれないか。明成バイオのためにもだ」静奈は彼の瞳に宿る真摯さを見つめ、このプロジェクトの開発がいかに困難だったかを思い返した。この謝恩会は確かに人脈を広げる絶好の機会だ。自分の私情で、会社の利益を損なうわけにはいかない。指先が招待券の上でしばし彷徨う。遂に静奈は頷いた。「神崎さんがそこまで言うのなら、必ず出席するよ」湊の目に、笑みが広がった。「心待ちにしている」静奈は謝恩会の招待券を会社に持ち帰り、昭彦に神崎グループとの提携について話した。昭彦は招待券を指でなぞった。「金曜の謝恩会、僕も一緒に行こうか?ちょうどいい機会だ。神崎グループの役員たちとも顔合わせができる。今後の仕事も進めやすくなるだろう」静奈は微笑んだ。「いえ、お気遣いなく。林さんを連れていきますわ」彼女はデスクの上のスケジュール表を指差した。「社長は金曜日、行政主催の革新医薬シンポジウムにご出席なさるのでは?今後の公的な助成金申請にも関わる、重要な会合だと伺っております」昭彦は眉をひそめた。「だが……」彼は静奈をあのような場に一人で行かせるのが気がかりだった。希はまだ学校を出たばかりの新人だ。不測の事態が起きても、対応などできまい。「ご心配なく。神崎さんは私どもとの提携を重要視してくださっています。私に恥をかかせるような真似はなさらないはずです」静奈の口調は自信満々だ。「行政の会議の方が、よほど重要ですわ。会社の未来の研究開発には公的な支援が不可欠です。この機会は逃せません」昭彦は彼女の瞳に宿る落ち着きを見て、ついに頷いた。「わかった。何かあったら、いつでも僕に電話してくれ」謝恩会の当日の午後。静奈は希を連れて、高級ドレスブティックを訪れた。ずらりと並んだドレスを前に、希は緊張した面持ちで拳を握りしめた。「静奈さん、私たち、本当に、こんなに着飾らないといけないんでしょうか?」「神崎グループの謝恩会よ。いらっしゃるのは業界の大物や、政財界の名士ばかりだわ」静奈は何気なく、深い青色のマーメイドドレ
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第96話

静奈は服を着替え、試着室から出てきた。「希さん、これ、どうかしら……」言葉は不意に途切れた。そこに希の姿はなく、代わりに、深く、黒い瞳と真正面からぶつかった。彰人が数メートル離れた場所に立ち、彼女の姿に視線を落としていた。彼女は深い青色のマーメイドドレスを身に纏っていた。胸元のデザインが、彼女の精巧な鎖骨のラインを美しく描き出し、極限まで絞られたウエストラインが、豊かな胸の曲線を一層際立たせている。スカートの裾は体の曲線に沿って滑らかに落ち、足首のあたりでわずかに広がっていた。ドレスから覗く肌は雪のように白く、黒い長髪が滝のように流れ落ちている。彼女はまるで、深海の底から現れた人魚姫のようだった。その美しさは見る者の視線を奪って離さない。彰人の、常日頃、薄氷に覆われているかのような眼差しがその瞬間、彼自身も気づかぬほどに、微かに揺らいだ。視線がが交わった瞬間、空気さえもが凝固したかのようだった。「彰人さん、これ、似合うかしら?」隣の試着室のドアが開き、沙彩があの白いドレスを身に纏って現れた。無数のダイヤモンドが散りばめられたスカートが眩い光を放っている。彰人の視線が静奈から引き剥がされ、沙彩へと向けられた。「似合う」その言葉はあまりにも平坦だった。先ほど、静奈の姿を目にした瞬間の、息を呑むような熱はどこにもなかった。沙彩は隣に立つ静奈の姿に気づいた。深い青色のドレスを纏った姿。自分のドレスほど華美ではない。それなのに、言いようのなく圧倒的な美しさを放っている。沙彩の胸の中に、途端に得体の知れない怒りが込み上げてきた。彼女は口元を吊り上げ、わざと親しげに声をかけた。「奇遇ね、静奈も、ここにいたの」静奈の口調は冷ややかだった。「本当に奇遇ね」沙彩の視線が静奈の全身を舐めるように動いた。「静奈のそのドレス、色は素敵だけど……ちょっと、地味じゃない?見ていて退屈だわ」それは服を批評するふりをしながら、明らかに静奈本人に向けられた攻撃だった。静奈は顔を上げ、沙彩を見つめた。「私は明成バイオの代表として、神崎グループの謝恩会に出席するの。落ち着いた装いをすることは提携先に対する敬意の表れよ」その口調は平坦だったが、鋭い刃を隠し持っていた。「彰人のパート
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第97話

彰人が沙彩を伴って入ってくると、瞬く間に会場の視線を独占した。「長谷川社長、沙彩さん、お待ちしておりました!」取引先の一人が、グラスを手に駆け寄ってきた。「沙彩さんの今日のドレス、本当に素晴らしい。長谷川社長とお並びになると、まさに絵に描いたようなお二人ですね!」沙彩は頬を赤らめ、彰人のそばにより一層ぴったりと寄り添った。「高坂会長、褒めすぎですわ。これも、彰人さんのセンスが良いおかげですの。このドレス、彼が私のために特別に誂えてくださったものなんです」彰人は軽く頷き、周囲の挨拶をそつなくこなしていた。業界の人間は皆知っていた。彰人が沙彩を際限なく甘やかし、どのような公の場にも彼女を同伴させ、その顔には「溺愛」の二文字が書いてあるも同然だということを。当然、沙彩に媚びへつらうために集まる者も少なくなかった。陸がシャンパンのグラスを揺らしながら近づいてきた。「沙彩さん、今日はずいぶんとキラキラしているのではないか。また高級車一台分の金と同等するのを身に纏ってるってわけだ」彼は眉を上げ、彰人に視線を向けた。「彰人、お前も本当に甘やかすよな。沙彩さんがお前の最愛の女だって、世間に知らしめなきゃ気が済まないのか?」沙彩は甘えるように彼を軽く睨みつけた。「陸さん、もう、からかわないでよ」数人が談笑していると、湊もやってきた。彼はシルバーグレーのスーツを身に纏っていた。「さっきまでお前らがまだ来てないって思ってたんだ。こんな所に固まってたのか」陸がふざけて言った。「お前こそ、今日の主催者様が忙しそうにしてるから、俺たちは邪魔しちゃ悪いと思ってたのによ」まさにその時、入り口が不意に小さくどよめいた。静奈と希が入ってきた。「マジか」真っ先に気づいた陸は手にしたシャンパンを危うくこぼしそうになった。彼は肘で彰人をつつき、声を潜めた。「おい、お前の『もうすぐ元妻』さん、化粧すると、なかなかイケるじゃねえか。まさか、お前がここに来るって知ってて、お前を誘惑するために、わざわざあんな格好してきたとか?」彰人の視線が静奈に注がれたが、すぐに外された。「考えすぎだ」湊が振り返り、入り口のその姿を認めると、グラスを持った手が不意に止まった。彼は静奈が人混みを抜けてくるのを見つめた。
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第98話

彰人はその場に立ち尽くし、何も言わなかった。彼はグラスの中のウイスキーを一気に飲み干した。焼けつくような液体が喉を滑り落ちたが、胸の奥で渦巻く得体の知れない苛立ちを、それは押し流してはくれなかった。沙彩はドレスの裾を握る指先に力を込めた。静奈の出現は自分にとっての脅威だった。彼女が現れた途端、本来なら自分に注がれるはずだった注目を、すべて奪い去っていった。それが自分にはどうにも我慢ならなかった。彼女は無理やり笑みを作り、わざと軽い口調で言った。「神崎グループと明成バイオは今、提携交渉の真っ最中なんでしょう。湊さんが、提携相手に気を遣うのは当然のことよ」陸が、傍らで鼻で笑った。「だよな。湊は昔、あれほど朝霧静奈のことを嫌ってたんだ。仕事が絡んでなけりゃ、あいつに視線さえ向けねえよ」湊は静奈と談笑していたそこへ、神崎グループの重鎮である、湊の祖父が到着した。「すまない、少し失礼する。祖父に挨拶を」湊は祖父の元へと歩いていった。会場の多くの人々も、次々と湊の祖父の元へ挨拶に集まっていく。その中には目下の者として、彰人や陸の姿もあった。希が会場の隅を指差した。「静奈さん、あちらの席へ行きましょう」静奈は頷いた。「ええ」二人は人混みを抜け、隅のテーブルについた。窓の外に広がるきらびやかな夜景が、ホールの中の喧騒よりも、よほど心を落ち着かせてくれた。希が小声で呟いた。「静奈さん、すごい人の数ですね。私、さっきから、手の汗が止まらなくて」静奈は彼女を安心させた。「大丈夫よ。社会見学だと思えばいいわ」希の視線が少し離れた場所にあるビュッフェ台に注がれ、その目が輝いた。そこには色とりどりの美しいデザートや飲み物が並べられていた。「静奈さん、私、何か食べるものと、飲み物を取ってきますね」湊の祖父は顔見せ程度で、すぐに体調が優れないことを理由に会場を後にした。湊の視線が、人混みの中を何度も巡り、ようやく、隅の席にいる静奈の姿を捉えた。彼は真っ直ぐに彼女の元へと歩み寄り、その向かいの席に腰を下ろした。「すまない、待たせたな」彼はノートPCを二人の間に滑らせた。画面には補足条項の草案が表示されている。「これを見てほしい。何か意見があれば、いつでも。ゆっくりと詰めてい
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第99話

「は、はい」沙彩は微笑み、甘ったるい声を出した。「奇遇ね」彼女は半歩前に出た。「高校以来かしら。あなた、とっくに潮崎市を出て行ったものだと思ってたわ。連絡先、交換しましょうよ。今度お茶でも」希の目に怯えが走った。「わ、私、携帯、持ってなくて……」沙彩はその嘘を見透かしたように笑った。「平気よ。私から追加するわ。LINEのID、教えて?」希の体がビクッと震えた。沙彩の視線に射すくめられ、彼女はしどろもどろに番号を伝えた。沙彩は携帯を振って見せた。「申請、送っておいたわ。ちゃんと承認してね。また今度、お茶に誘うから」沙彩が立ち去った後。希はその場に固まったまま、全身の血液が凍りついたようだった。静奈が湊と提携の詳細を詰め終え、顔を上げると、希が真っ青な顔で立ち尽くしているのが見えた。彼女は立ち上がって、希の元へ歩み寄った。「どうしたの?顔色が真っ白よ」希ははっと我に返ると、慌てて首を振った。「な、何でもありません」彼女は視線を泳がせ、静奈の目を見ようとしなかった。「静奈さん、私、ちょっと、めまいがして。先に失礼してもよろしいでしょうか?」静奈は彼女の様子が確かに優れないのを見て取った。「病院まで付き添いましょうか?」「い、いえ、大丈夫です。家に帰って、少し休めば治りますから」静奈は頷いた。「そう。じゃあ、お先にどうぞ。道中気をつけて。家に着いたら、連絡してくれる?」「はい!ありがとうございます、静奈さん!」希はまるで恩赦でも受けたかのように、バッグを掴むと、足早に戸口へと向かった。その慌ただしい後ろ姿は何かから必死に逃げているかのようだった。希が立ち去って間もなく、バンケットホールの照明が不意に落とされ、ステージと、周囲の柱を照らす、温かい色のスポットライトだけが残った。司会者の声がスピーカーを通して響いた。「これよりはダンスタイムでございます。皆様、どうぞ、ご自由にお楽しみください」ゆったりとしたワルツの旋律が流れ始める。男性たちが次々と、傍らの女性の手を取り、ダンスフロアへと歩み出ていった。湊が静奈に向き直った。「朝霧さん。一曲、踊れないか」静奈は反射的に断った。「申し訳ない。私、あまりダンスは……」「構わないよ。俺がお連れする
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第100話

静奈は陸の瞳に宿る敵意を感じ取った。彼が、良からぬことを企んでいるのは明らかだった。彼女は陸と湊が幼馴染の仲だから、湊も陸の顔を立てて、断らないだろうと思っていた。だが意外にも、湊は淡く微笑んだ。「遠慮しておく。それほど踊り慣れたお相手はむしろ、お前のような遊び人にこそふさわしいだろう」陸は口を尖らせ、それ以上は食い下がらなかったが、その瞳に浮かぶ嘲笑は一層濃くなった。彼に連れられた赤いドレスの女は機転が利くようだった。とっくに陸の口調から、敵意を読み取っていた。ターンするふりをして、彼女は肘が不意に当たったかのように、静奈の脇腹へとぶつかった。その動きはあまりにも速く、防ぎようがなかった。「うっ……」静奈の体は激しく前へよろめいた。足首に激痛がが走る。彼女は体勢を崩し、倒れそうになった。「危ない!」湊は素早く手を伸ばし、彼女を支えた。その掌は彼女の背中に当てられ、彼女の体が瞬時に強張ったのが、はっきりと伝わってきた。「足を捻ったか?」静奈は痛みで顔色が蒼白になり、額には汗が滲んだ。唇を噛み締め、こくりと頷くことしかできない。湊は慎重に彼女を支え、近くの休憩エリアへと連れて行った。彼はその場にしゃがみ込み、彼女の足首が赤く腫れ上がっているのを見て、眉をひそめた。「病院でレントゲンを撮った方がいい。俺が送る」静奈が怪我をしたのを見て、沙彩は内心、ほくそ笑んでいた。だが、彰人が不意に彼女の手を放し、真っ直ぐに休憩エリアへと歩いていく。沙彩の胸が、きゅっと締め付けられた。彼女は慌てて、その後を追った。彰人は湊の前に立ち、平坦な口調で言った。「お前は今日の主催者側だ。中座するのはまずいだろう。ここは俺が送る」湊は笑った。「彼女は俺の誘いで踊り、怪我をした。筋を通す意味でも俺が責任を持つべきだ」「どう言おうと、こいつは俺の妻だ」彰人の口調はあくまでも平坦だった。「俺が送るのが一番筋が通る」湊は彰人の瞳に宿る頑なさと、青白い顔の静奈を見比べた。最終的に、彼は笑って頷いた。「そうだな。では頼む」「彰人さん!」沙彩が追いついてきた。彰人が静奈を病院へ送ると知り、その声には悲痛な響きが混じっていた。「そしたら、私は?」彰人は彼女を振り返り、いつものように甘やかす口調
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