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All Chapters of 血と束縛と: Chapter 1761 - Chapter 1770

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第48話(39)

「ヤバイ。俺もその場にいたかった。楽しそう」「……お前ならそうだろうな」 こちらは心臓に悪かったと、無表情で店内の備品を破壊し尽くす烏丸の姿を思い返し、少し遠い目をする。 庭を通り抜け、玄関前に戻ってきたところで、さらりと千尋に問われる。「気に入った? いつか和彦のものになるというビル」 この問いに答えるのはおこがましいなと、曖昧に笑って返す。本来は、紗香のものであったビルなのだと、そんな思いがどうしても拭えない。それに、総子と正時の決断次第では、綾香のものとなっていたかもしれないのだ。言葉は悪いが、棚ボタだと他人から謗られても和彦は反論できない。「何もかも急すぎて、本当に大丈夫なんだろうかと不安になる。……おばあ様が急ぐ気持ちもわかるんだけど」 先日実家に出向きながら、綾香の前から逃げ出した自分の行動を悔やむ。自分の口から、綾香に報告したいことがありすぎる。そして綾香の口からは、自分を産んだ女性のことを聞いてみたい。 紗香のことを考えるとき、和彦の心は頼りなくふわふわと揺れる。思い出にもなりきれない、しかし記憶というほどはっきりとした輪郭を持たない〈母親〉の存在に、いまだにどう寄り添えばいいのか戸惑うのだ。 敷地内の散歩を続行しながら、千尋はまだスマートフォンで地図を眺めている。転ぶぞと窘めると、聞こえているのかいないのか、千尋は首を傾げている。「千尋?」「――ビルがある辺りの住所、聞いた記憶があるんだよなー。けっこう前に、じいちゃんが話してたような……」「楽しい話題で出たと言ってくれ……」「いや、じいちゃんが電話で誰かと話してるのをちらっと聞いたぐらいで、そんなのを覚えてた俺の記憶力をまず褒めてよ」 和彦はおざなりに千尋の頭を撫でてやる。「……ここ、ヤクザの抗争とかある場所なのか?」「聞いたことないなあ。昔、地域の洗浄とか言ってヤクザが一掃されたらしいんだよね、そこからまた、いろんな組織が入り込んでぐっちゃぐちゃになって問題になっ
last updateLast Updated : 2026-09-30
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第48話(40)

**** テーブルに頬杖をついた和彦は、斜め向かいに座っている優也の様子をじっと見つめる。手土産の桜餅を食べながら。 最近、人と会う機会の多さに伴い、手土産も頻繁に選んでおり、すっかり和彦も楽しんでいる。今日はあえて和菓子を選んでみたが、優也はひょいひょいと口に運んだあと、手ずから淹れた渋めのお茶をぐいっと飲み干してから、黙々と和彦の話を聞いて、ときおりコピー用紙に何かを書き込んでいる。その合間にさりげなく、残りの桜餅が入った箱をテーブルの下に隠していたが、和彦は気づかないふりをする。気に入ってくれたのなら何よりだ。 ここは、優也の部屋だった。和彦が初めて足を踏み入れたときはひどい有り様だったが、今はすっかり片付いており、開け放たれた窓からは心地よい風が入ってくる。玄関に通されたときにさりげなく確認したが、城東会の組員によって切られたドアのチェーンは新しいものに取り換えられていた。 引きこもりから脱したのを物語るように、ハンガーラックには春物の服がかかっており、白のスプリングコートが特に目を惹く。 優也によく似合いそうだなと思ったときには、ふっと疑問が口をついて出ていた。「あの白のコート、自分で選んだのか?」「んあ? ああ、コート……。叔父さんが買ってきたんだ。出歩くようになったから必要だろうとか言って」「趣味がいいな」「あの人、結局のところシスコンなんだよ。僕の母さんが、似た色のコートを着てて似合ってたとか語り出してさ」「おとなしく聞いてたんだ」 和彦がニコニコしながら言うと、気恥ずかしそうに優也が視線を伏せる。 ひどい風邪で痩せ細って荒んでいた優也の姿しか記憶になかったのだが、久々に顔を合わせてみると、実年齢よりずっと若く見える彼のことを、叔父の宮森が過保護にするのもわかる気がした。 こけていた頬はいくらか肉がついており、血色のよさもあってずいぶん健康的に見える。それでいて華奢なあごのラインはそのままで、すっきりとした一重の目や、桜餅を二口で食べたとは思えない小さな口のおかげで、小動物のように愛らしい印象を受ける。人によって
last updateLast Updated : 2026-09-30
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第48話(41)

 優也がシャーペンを置いたので、和彦がコピー用紙を覗き込もうとすると、素早く裏返しにされた。「さっきから何を書いてたんだ」「あんたが相続するというビルの家賃収入をざっと計算してみた」「……数字に強いって、そういう……」「冗談。話の要点を書いてただけだよ。相続税ぐらいなら計算してあげてもいいけど、周りから心配しなくていいと言われてるなら、あんたは知る必要はないだろ」 それはわかっているんだがと和彦が口ごもると、優也がため息をつく。「そもそも相続の話は年始にされて、しっかり弁護士先生からも説明受けたんだろ? いまさら何にうろたえてんだよ」「なんだろう……。自分でもよくわからない。状況の理解はしているのに、本当にぼくに権利はあるのかって――」「あんたが受け取らないなら、誰に権利がある。母親が遺して、息子が継ぐ。しかも祖父母は乗り気。どこもおかしいところはないけど」」「ぼくは、母親が二人いるんだ。生んでくれた人と、育ててくれた人と。そして、二人は姉妹なんだ。育ててくれた人は存命で、戸籍上の母親となってる」 書かないと気が済まない性分なのか、優也はコピー用紙に簡単な家系図を書き、そこに和彦は修正を加えつつ、育ての母親との仲について説明する。円満な仲とは言いがたいということを。 家系図を眺め、優也は一声唸った。「なんかさー、あんたがウジウジするのもわかる気がするわ。込み入ってる度合いがこっちの想像を超えてる」 そう言って優也が、コピー用紙に書いた綾香の名を指先で示す。「あまりうまくいってないとか言ってたけどさ、この人の意見を聞くのはどうよ。相続について同意するにしても、嫌がるにしても、どう思ってるのか確認するのは大事だと思うぜ。法的なことは弁護士先生に丸投げできるけど、感情的なものは本人同士で話すしかない」 ため息が出たのは、先日実家で綾香と顔を合わせたときのことを思い出したからだ。そのとき、相続についても話すつもりだったのだ。なのに和彦はその場から逃げてしまった。「……気
last updateLast Updated : 2026-10-01
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第48話(42)

 正面のイスに腰掛けた綾香はメニューを開くことなくアイスティーを注文する。そして、和彦が飲んでいるものを見て、ふっと表情を和らげた。「相変わらずオレンジジュースがお気に入りなのね」 覚えていたのだと、素直に驚いた。「ごめん。今から会いたいなんて、いきなり連絡して……」「和泉の家のことでしょう。最近、うちにも連絡が来るの。話すのは、ほとんど俊哉さんとだけど」 綾香の表情にわずかに苛立ちの色が浮かぶ。それを目にした和彦は、自分が和泉家の資産を継ぐことに、きっと綾香はいい感情は抱いていないだろうなと思った。「確信はあったのよ。あなたはきっと、あの家に取り込まれると」「取り込まれているわけじゃ――」「あなたには、いいおばあ様でしょう。和泉総子という人は」「……うん。優しかったよ」「昔からよ。英俊にはそんなに関心を示さなかったのに、あなたに対しては甘いおばあ様だった。英俊は長男だから、何があっても手放すことはないとわかっていたんでしょう。だからわたしはずっと、あなたは実家に連れていけなかった。子供に何を吹き込んでも、不思議じゃない人だったから。わたしの母親は……」 昔、家族揃って和泉家に出かけていた中、自分だけが置いていかれていた光景がふっと蘇った。 ここでアイスティーが運ばれてきて、一旦会話が止まる。「いろいろ聞いたよ。ぼくを産んだ女性のこと……。写真も何枚かもらったんだ。母さんにそっくりだった」「普通の女の子だったのよ。将来は何になりたいとか、そのためにどこの学校に行きたいとか。夢見がちで、自由だった。だけどわたしが、弁護士か官僚になるために進学したいと言い始めたことで、何もかも変わった。当然、両親とも反対したけど、わたしは家を出たの。紗香にすべて押し付けて」 綾香は俊哉と知り合い結婚した。そこから何が起こったのか、今の和彦ならわかる。「わたしのわがままが、結果として紗香を壊した。あの子が残したたった一つの宝物も奪ってしまった」 綾香の唇が微かに
last updateLast Updated : 2026-10-01
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第48話(43)

「でもぼくは、母さんがどう感じているか、聞きたいんだ。和泉の家について、母さんも関係者なんだし」「今言ったでしょう。権利はないと。わたしはもう、和泉の家の相続に関しては一切なんの権利もないの」 綾香の言った言葉がすぐには理解できず、首を傾げる。綾香は自嘲気味に唇を歪めた。「――……和泉の家を出てから、あの家からの援助は受け取らないつもりで生きてきた。だけど家同士の繋がりは、そんなに簡単にはいかない。姓は変わっても、結局わたしを守ってくれたのは和泉の家だった。だったら……、利用するしかないでしょう」 息子のために、と綾香は呟いた。もちろん、英俊のことだ。 詳しく話を聞くと、綾香は英俊の出馬に関して便宜を図ってもらうため、自分が将来相続するはずの和泉家の土地を利用したのだという。もちろん綾香の独断でどうにかなる話でもなく、当然総子と正時が承諾した結果だ。「和泉と佐伯の家から、英俊が離れられるなら、悪くない取引でしょう」「そのこと、兄さんは……?」「そう、とだけ。あの子の優秀さは俊哉さんに似ているけど、神経が細やかすぎる。紗香のようで、ときどき不安になるの……。あの子には、二つの家の名は重すぎる」 そんな人間に、政治家と、主張の強く奔放そうな女性の夫という役割は務まるのだろうかと、ふと和彦は思う。しかも背負うのは、大企業の創業者家の名だ。実家に里帰りをしたとき、初めて英俊と衝突したが、何かの拍子に簡単に折れてしまいそうな危うさを感じた。英俊は苦しんでいる。 綾香がわが子にしていることは、かつて綾香たち姉妹が和泉家から受けた、息が詰まるような過保護さと何が違うのだろうか。 そう指摘できなかったのは、和彦が、綾香の実子ではないからだ。「和泉の家が贖罪として何かを譲ると言うなら、あなたの思うとおりにしなさい。どういう事態になろうが向こうは織り込み済みでしょう。いまさら、わたしが心配したところで――……」 和彦はため息をつくと、すっかり氷が溶けたオレンジジュースを一口飲んだ。
last updateLast Updated : 2026-10-01
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第48話(44)

「割れ鍋に綴じ蓋とは、あの夫婦のためにあるような言葉よ。お母さんに足りないものを、お父さんが補ってた。わたしは、お母さんのようにはなりたくなかったけど、ああいう夫婦にはなりたかった」 綾香は、姉妹でまだ和泉家で暮らしていた頃のことを話してくれる。厳しく躾けられていたわけではなく、欲しいものはなんでも買い与えられ、どこにでも遊びに連れて行ってもらってはいたものの、総子が団欒の場にいたことはあまりなかったのだという。家を守っていたのは正時で、外に出て交渉事に臨むのは総子と、役割が完璧に決まっていたのだろう。 正時はいつでも優しく穏やかだったと綾香は言った。日頃から、姉妹のどちらかが婿を取り、家を継ぐよう告げられてはいたものの、正時のような伴侶とならそれもいいかもしれないと、綾香は考えていたそうだ。「――だけど、わたしにはできなかった。そういう性分ね。自分一人の力でどこまで行けるか知りたくなって、試したくなった。若い頃は順調だったからこそ調子に乗ってたのね。気がつけば、男社会の中で行き詰って、立ち尽くしていた。そんなとき実家に顔を出してみれば、紗香は何も変わらず……、変わらないまま、幸せそうにしてた」 紗香のために見合い相手を見繕っていると総子から聞かされたとき、綾香が感じたのは、実家から切り離されたという失望感だったという。その後、綾香は俊哉と出会い、互いに家格が理想的であると認識し合い、結婚した。そこから先の話は、和彦も知っている。「英俊がいなくなった家で、あの人と二人きりの生活が送れるのか、ずっと考えているの」「それって、父さんと……、別れたい、とか……?」「そうなったら、あなた、俊哉さんと二人で暮らせる?」 ぎょっとするような問いかけに和彦は返事に詰まる。いまさら自分が佐伯家に戻るなど、まったく考えていなかった。「……あの人との関係に波はないの。知り合ったときも、紗香とのことがあっても、ずっと一定。あの人も同じように感じているのかもしれない。だから一緒にいられる」 いつでも実家に戻ってきなさいと綾香は続けた。すべてを知った今の和彦
last updateLast Updated : 2026-10-01
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第48話(45)

 再び仰向けとなり、唸りながら前髪に指を差し込む。知らん顔をされるより、ああして触れてもらったほうが、まだ救われた気分だった。自分はもう、佐伯家に戻るつもりはないし、戻ってはいけないのだと確認できたからだ。 いざというときがくれば、ためらうことなく自分は決断ができる。「――もうすぐ夕方だが、寝てるのか」 前触れもなく、頭上から話しかけられる。和彦がハッと目を開くと、忌々しいほど魅力的なバリトンの主がじっと自分を見下ろしていた。 なぜいるのかと問いたかったが、理由は一つしかない。「心配して、来てくれたのか?」「お前が予想外の行動を取ると、反動が怖い。……顔色が悪いぞ」 和彦は自分の頬を撫でてから体を起こそうとしたが、賢吾に止められる。長居するつもりはないのか、賢吾はコートも脱がないまま床の上に座り込み、和彦と目線の高さを合わせてくる。「宮森から、お前が甥っ子と会うのは聞かされてたんだが、まさかそのすぐあとに、自分の母親に会いに行くとはな。予想外もいいところだ」「この間は、まともに話せなかったから……。会って話しておいたほうがいいと、優也くんが背中を押してくれた」「今度、宮森の甥っ子に小遣いを渡しておくか」 賢吾の冗談に小さく笑うと、頬を優しく撫でられる。「話せてよかったと思う。何もかも思い出したあとだと、これまでの母さんの態度も納得……というか、理解できたし。すっきりというわけにはいかないけど、母さんも、苦しんだり悩んだりしてきた一人の人間なんだと感じられただけ、進歩だ」「――お前はいままでは、自分をどこにも属さない枠の外に置いているようだった。高みから見下ろしているというわけじゃなく、そうだな……、仲間に入りたくても入れない子供みたいな」「だから、悪辣な大蛇にあっさり捕まったんだな」 賢吾が声を洩らして笑う。その低い笑い声が耳に心地いい。安定剤や鎮痛剤より、よほど頭痛に効く。「ヤクザ一家の俺が言うなと思うかもしれねーが、お前の実家は歪だ。枠の外にいたから、こうし
last updateLast Updated : 2026-10-01
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第48話(46)

**** ここ数日の和彦は、真っ当な経営者らしい理由で多忙だった。 新しく雇い入れたスタッフの研修をクリニックで行い、平行して、継続して勤務することになっているスタッフと、個別の面談も行った。長期となった休業の理由を改めて自分の口から説明して、不安を与えたことを詫びたのだ。このとき、体調不良による休業としていたため、スタッフたちから反対に気遣われて、非常に心苦しかった。 五月の連休明けにクリニック再開となり、それを知らせる案内状はあらかじめ組が手配してくれていたため、和彦とスタッフたちで封筒に詰めて発送した。あとは、クリニック内の掲示物の準備に、受付カウンターや待合室にささやかな小物を置いたりと、レイアウトに時間を取る。 作業を終えてから、せっかくスタッフ全員が集まったのだからと、クリニックを閉めてから近くのファミリーレストランに移動した。中途半端な時間のため、食事会というよりお茶会だ。 新旧のスタッフがとりあえず馴染んでいる様子を眺め、そういえばと、和彦は思い出す。昨年の十二月には忘年会を兼ねた食事会を催したのだが、あのときは、まさか年明けからクリニックを数か月も閉めることになるとは想像もしなかった。 本当にいろいろあったと、うっかり遠い目をしそうになったが、注文していたものが次々と運ばれてきて我に返る。小腹が空いていたため、和彦はアイスコーヒーの他にピザを頼んだ。 和彦はピザを口に運びつつ、店の外の通りに目を向ける。陽気がいい――というよりよすぎることもあり、すでに半袖や、上着を脱いで歩く人がちらほらいる。 結局今年はゆっくりと花見はできなかったが、惜しいとは感じなかった。散ってしまったものは仕方ない。また来年咲くものだ。 そろそろお開きかという雰囲気が漂い始めた頃、ジャケットのポケットの中で短くスマートフォンが震えた。テーブルの下でチェックしてみると、外で待機してもらっている護衛の組員からだ。文面を読んで、軽く眉をひそめた。 支払いがあるため、スタッフたちを先に送り出したあと、和彦は再びイスに腰掛ける。少しだけ早くなった鼓動を落ち着ける必要があった。数分ほど待って、スタッフたちが通りを
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第48話(47)

 この場合、〈軽いトラブル〉とは、和彦を不安にさせないための方便だと考えたほうがいい。気にはなるが、引き返したところで足を引っ張るだけだ。よほど慌てていたのか、メッセージの指示は曖昧だ。どちらに向かって移動すればいいのかと戸惑いつつ、きょろきょろと辺りを見回してから、とりあえずファミリーレストランから離れることを優先する。 タクシーが通りかかるのを待つより、駅まで行ってから帰宅方法を決めるほうがいい。そう考えながら速足で歩いていると、ふいに傍らで短くクラクションが鳴らされた。危うく飛び上がりそうになる。 いつの間にか黒の軽ワゴン車に並走されていた。ハンドルを握っているのは加藤だ。ウインドーが下ろされ、短く告げられる。「――先生、乗ってください」 躊躇する間も惜しく、和彦は素早く後部座席に乗り込む。このとき、助手席の小野寺の存在に気づく。 すぐに加藤は車を出したが、なかなか運転が荒い。車中に漂う緊張感に怯みそうになりながら、和彦は口を開く。「何があったんだ?」「ちょっと面倒な人物が、あのファミレスに近づこうとしていたそうです」「面倒な人物って……」「俺たちも詳しくは聞いてないんです。たぶん先生にとって、面倒な人物ということじゃないかと。それで、長嶺組の組員さんたちが引き止めている間に、先生を連れて行ってくれと頼まれました」 誰のことだと、和彦は眉をひそめる。長嶺組の組員が、護衛任務をこの二人に引き継いでまで和彦との接触を避けた人物となると、すぐには思い当たらない。「……じゃあ、マンションか、長嶺の本宅に戻らないといけないということか……」 スタッフたちと別れたあとは買い物に行くつもりだったが、それどころではなくなった。落胆が声に出ていたのか、小野寺が振り返った。今日は耳朶でリングピアスが揺れている。「先生、このあと何か予定が?」「買い物に行く予定だった。だけど――」「行きましょう。つき合いますよ」 大丈夫なのかと怪訝な顔をする和彦に対して、小野寺が頷く。「――…&h
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第48話(48)

** 勝手が違うなと、ジャケットを選びながら密かに和彦は苦笑を浮かべる。 もういつ暑くなっても不思議ではないため、それに合わせて薄手のジャケットと、ワイシャツも何枚か買おうと、今朝のうちになんとなく予定に組み込んでいた。しかし、これは予定になかったと、傍らに立つ小野寺に視線を向ける。距離が近い、というのがまず頭に浮かんだ感想だ。 長嶺組の護衛は慣れたもので、和彦が外を出歩くときは絶妙な距離を取り、窮屈な思いをしないよう配慮してくれる。だが、護衛任務はまだ試行錯誤中らしい加藤と小野寺は、なぜか和彦にぴったりと張り付いている。「……こんなに側にいなくても大丈夫だぞ。もう少し離れていても……。ほら、あそこにイスがあるから、座って待ってたらどうだ」 途端に小野寺から呆れたような眼差しを向けられる。一方の加藤は黙然としてただ周囲を見回している。「不審者が出たというのに、呑気ですね……」「騒ぎにはならなかったと組から連絡が来た。おかげで警察も来なかったとも。一体何者だったのかは書いてなかったが――あえて書かなかったのかな。まあ、なんにしても、すぐに戻らないといけない事態ではなかったみたいだ」 小野寺と加藤の役目はとにかく騒動の場から和彦を離すことだったため、今からでも護衛を戻そうかと問われたが、断った。わざわざ買い物の付き添いのためだけに、組員を移動させるのも申し訳ない。「そういえば、さっきの騒ぎ、もう南郷さんには報告したのか?」 さりげなく尋ねると、加藤と小野寺はちらりと視線を交わし合う。「もちろんです」「……自分の隊の人間が役に立ったと、喜んでいるだろうな」 そして、二人を護衛につけた自分の判断が間違っていなかったことも。 加藤はともかく、小野寺がまったく興味なさそうな顔で立っているのが気になり、和彦は手早くジャケットとワイシャツを選んでいく。嫌がらせのつもりはないが、選んだものは小野寺に持たせていく。「先生は、もっと気取った……お高
last updateLast Updated : 2026-10-02
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