LOGIN優也がシャーペンを置いたので、和彦がコピー用紙を覗き込もうとすると、素早く裏返しにされた。
「さっきから何を書いてたんだ」「あんたが相続するというビルの家賃収入をざっと計算してみた」「……数字に強いって、そういう……」「冗談。話の要点を書いてただけだよ。相続税ぐらいなら計算してあげてもいいけど、周りから心配しなくていいと言われてるなら、あんたは知る必要はないだろ」 それはわかっているんだがと和彦が口ごもると、優也がため息をつく。「そもそも相続の話は年始にされて、しっかり弁護士先生からも説明受けたんだろ? いまさら何にうろたえてんだよ」「なんだろう……。自分でもよくわからない。状況の理解はしているのに、本当にぼくに権利はあるのかって――」「あんたが受け取らないなら、誰に権利がある。母親が遺して、息子が継ぐ。しかも祖父母は乗り気。どこもおかしいところはないけど」」「ぼくは、母親が二人いるんだ。生再び仰向けとなり、唸りながら前髪に指を差し込む。知らん顔をされるより、ああして触れてもらったほうが、まだ救われた気分だった。自分はもう、佐伯家に戻るつもりはないし、戻ってはいけないのだと確認できたからだ。 いざというときがくれば、ためらうことなく自分は決断ができる。「――もうすぐ夕方だが、寝てるのか」 前触れもなく、頭上から話しかけられる。和彦がハッと目を開くと、忌々しいほど魅力的なバリトンの主がじっと自分を見下ろしていた。 なぜいるのかと問いたかったが、理由は一つしかない。「心配して、来てくれたのか?」「お前が予想外の行動を取ると、反動が怖い。……顔色が悪いぞ」 和彦は自分の頬を撫でてから体を起こそうとしたが、賢吾に止められる。長居するつもりはないのか、賢吾はコートも脱がないまま床の上に座り込み、和彦と目線の高さを合わせてくる。「宮森から、お前が甥っ子と会うのは聞かされてたんだが、まさかそのすぐあとに、自分の母親に会いに行くとはな。予想外もいいところだ」「この間は、まともに話せなかったから……。会って話しておいたほうがいいと、優也くんが背中を押してくれた」「今度、宮森の甥っ子に小遣いを渡しておくか」 賢吾の冗談に小さく笑うと、頬を優しく撫でられる。「話せてよかったと思う。何もかも思い出したあとだと、これまでの母さんの態度も納得……というか、理解できたし。すっきりというわけにはいかないけど、母さんも、苦しんだり悩んだりしてきた一人の人間なんだと感じられただけ、進歩だ」「――お前はいままでは、自分をどこにも属さない枠の外に置いているようだった。高みから見下ろしているというわけじゃなく、そうだな……、仲間に入りたくても入れない子供みたいな」「だから、悪辣な大蛇にあっさり捕まったんだな」 賢吾が声を洩らして笑う。その低い笑い声が耳に心地いい。安定剤や鎮痛剤より、よほど頭痛に効く。「ヤクザ一家の俺が言うなと思うかもしれねーが、お前の実家は歪だ。枠の外にいたから、こうし
「割れ鍋に綴じ蓋とは、あの夫婦のためにあるような言葉よ。お母さんに足りないものを、お父さんが補ってた。わたしは、お母さんのようにはなりたくなかったけど、ああいう夫婦にはなりたかった」 綾香は、姉妹でまだ和泉家で暮らしていた頃のことを話してくれる。厳しく躾けられていたわけではなく、欲しいものはなんでも買い与えられ、どこにでも遊びに連れて行ってもらってはいたものの、総子が団欒の場にいたことはあまりなかったのだという。家を守っていたのは正時で、外に出て交渉事に臨むのは総子と、役割が完璧に決まっていたのだろう。 正時はいつでも優しく穏やかだったと綾香は言った。日頃から、姉妹のどちらかが婿を取り、家を継ぐよう告げられてはいたものの、正時のような伴侶とならそれもいいかもしれないと、綾香は考えていたそうだ。「――だけど、わたしにはできなかった。そういう性分ね。自分一人の力でどこまで行けるか知りたくなって、試したくなった。若い頃は順調だったからこそ調子に乗ってたのね。気がつけば、男社会の中で行き詰って、立ち尽くしていた。そんなとき実家に顔を出してみれば、紗香は何も変わらず……、変わらないまま、幸せそうにしてた」 紗香のために見合い相手を見繕っていると総子から聞かされたとき、綾香が感じたのは、実家から切り離されたという失望感だったという。その後、綾香は俊哉と出会い、互いに家格が理想的であると認識し合い、結婚した。そこから先の話は、和彦も知っている。「英俊がいなくなった家で、あの人と二人きりの生活が送れるのか、ずっと考えているの」「それって、父さんと……、別れたい、とか……?」「そうなったら、あなた、俊哉さんと二人で暮らせる?」 ぎょっとするような問いかけに和彦は返事に詰まる。いまさら自分が佐伯家に戻るなど、まったく考えていなかった。「……あの人との関係に波はないの。知り合ったときも、紗香とのことがあっても、ずっと一定。あの人も同じように感じているのかもしれない。だから一緒にいられる」 いつでも実家に戻ってきなさいと綾香は続けた。すべてを知った今の和彦
「でもぼくは、母さんがどう感じているか、聞きたいんだ。和泉の家について、母さんも関係者なんだし」「今言ったでしょう。権利はないと。わたしはもう、和泉の家の相続に関しては一切なんの権利もないの」 綾香の言った言葉がすぐには理解できず、首を傾げる。綾香は自嘲気味に唇を歪めた。「――……和泉の家を出てから、あの家からの援助は受け取らないつもりで生きてきた。だけど家同士の繋がりは、そんなに簡単にはいかない。姓は変わっても、結局わたしを守ってくれたのは和泉の家だった。だったら……、利用するしかないでしょう」 息子のために、と綾香は呟いた。もちろん、英俊のことだ。 詳しく話を聞くと、綾香は英俊の出馬に関して便宜を図ってもらうため、自分が将来相続するはずの和泉家の土地を利用したのだという。もちろん綾香の独断でどうにかなる話でもなく、当然総子と正時が承諾した結果だ。「和泉と佐伯の家から、英俊が離れられるなら、悪くない取引でしょう」「そのこと、兄さんは……?」「そう、とだけ。あの子の優秀さは俊哉さんに似ているけど、神経が細やかすぎる。紗香のようで、ときどき不安になるの……。あの子には、二つの家の名は重すぎる」 そんな人間に、政治家と、主張の強く奔放そうな女性の夫という役割は務まるのだろうかと、ふと和彦は思う。しかも背負うのは、大企業の創業者家の名だ。実家に里帰りをしたとき、初めて英俊と衝突したが、何かの拍子に簡単に折れてしまいそうな危うさを感じた。英俊は苦しんでいる。 綾香がわが子にしていることは、かつて綾香たち姉妹が和泉家から受けた、息が詰まるような過保護さと何が違うのだろうか。 そう指摘できなかったのは、和彦が、綾香の実子ではないからだ。「和泉の家が贖罪として何かを譲ると言うなら、あなたの思うとおりにしなさい。どういう事態になろうが向こうは織り込み済みでしょう。いまさら、わたしが心配したところで――……」 和彦はため息をつくと、すっかり氷が溶けたオレンジジュースを一口飲んだ。
正面のイスに腰掛けた綾香はメニューを開くことなくアイスティーを注文する。そして、和彦が飲んでいるものを見て、ふっと表情を和らげた。「相変わらずオレンジジュースがお気に入りなのね」 覚えていたのだと、素直に驚いた。「ごめん。今から会いたいなんて、いきなり連絡して……」「和泉の家のことでしょう。最近、うちにも連絡が来るの。話すのは、ほとんど俊哉さんとだけど」 綾香の表情にわずかに苛立ちの色が浮かぶ。それを目にした和彦は、自分が和泉家の資産を継ぐことに、きっと綾香はいい感情は抱いていないだろうなと思った。「確信はあったのよ。あなたはきっと、あの家に取り込まれると」「取り込まれているわけじゃ――」「あなたには、いいおばあ様でしょう。和泉総子という人は」「……うん。優しかったよ」「昔からよ。英俊にはそんなに関心を示さなかったのに、あなたに対しては甘いおばあ様だった。英俊は長男だから、何があっても手放すことはないとわかっていたんでしょう。だからわたしはずっと、あなたは実家に連れていけなかった。子供に何を吹き込んでも、不思議じゃない人だったから。わたしの母親は……」 昔、家族揃って和泉家に出かけていた中、自分だけが置いていかれていた光景がふっと蘇った。 ここでアイスティーが運ばれてきて、一旦会話が止まる。「いろいろ聞いたよ。ぼくを産んだ女性のこと……。写真も何枚かもらったんだ。母さんにそっくりだった」「普通の女の子だったのよ。将来は何になりたいとか、そのためにどこの学校に行きたいとか。夢見がちで、自由だった。だけどわたしが、弁護士か官僚になるために進学したいと言い始めたことで、何もかも変わった。当然、両親とも反対したけど、わたしは家を出たの。紗香にすべて押し付けて」 綾香は俊哉と知り合い結婚した。そこから何が起こったのか、今の和彦ならわかる。「わたしのわがままが、結果として紗香を壊した。あの子が残したたった一つの宝物も奪ってしまった」 綾香の唇が微かに
優也がシャーペンを置いたので、和彦がコピー用紙を覗き込もうとすると、素早く裏返しにされた。「さっきから何を書いてたんだ」「あんたが相続するというビルの家賃収入をざっと計算してみた」「……数字に強いって、そういう……」「冗談。話の要点を書いてただけだよ。相続税ぐらいなら計算してあげてもいいけど、周りから心配しなくていいと言われてるなら、あんたは知る必要はないだろ」 それはわかっているんだがと和彦が口ごもると、優也がため息をつく。「そもそも相続の話は年始にされて、しっかり弁護士先生からも説明受けたんだろ? いまさら何にうろたえてんだよ」「なんだろう……。自分でもよくわからない。状況の理解はしているのに、本当にぼくに権利はあるのかって――」「あんたが受け取らないなら、誰に権利がある。母親が遺して、息子が継ぐ。しかも祖父母は乗り気。どこもおかしいところはないけど」」「ぼくは、母親が二人いるんだ。生んでくれた人と、育ててくれた人と。そして、二人は姉妹なんだ。育ててくれた人は存命で、戸籍上の母親となってる」 書かないと気が済まない性分なのか、優也はコピー用紙に簡単な家系図を書き、そこに和彦は修正を加えつつ、育ての母親との仲について説明する。円満な仲とは言いがたいということを。 家系図を眺め、優也は一声唸った。「なんかさー、あんたがウジウジするのもわかる気がするわ。込み入ってる度合いがこっちの想像を超えてる」 そう言って優也が、コピー用紙に書いた綾香の名を指先で示す。「あまりうまくいってないとか言ってたけどさ、この人の意見を聞くのはどうよ。相続について同意するにしても、嫌がるにしても、どう思ってるのか確認するのは大事だと思うぜ。法的なことは弁護士先生に丸投げできるけど、感情的なものは本人同士で話すしかない」 ため息が出たのは、先日実家で綾香と顔を合わせたときのことを思い出したからだ。そのとき、相続についても話すつもりだったのだ。なのに和彦はその場から逃げてしまった。「……気
**** テーブルに頬杖をついた和彦は、斜め向かいに座っている優也の様子をじっと見つめる。手土産の桜餅を食べながら。 最近、人と会う機会の多さに伴い、手土産も頻繁に選んでおり、すっかり和彦も楽しんでいる。今日はあえて和菓子を選んでみたが、優也はひょいひょいと口に運んだあと、手ずから淹れた渋めのお茶をぐいっと飲み干してから、黙々と和彦の話を聞いて、ときおりコピー用紙に何かを書き込んでいる。その合間にさりげなく、残りの桜餅が入った箱をテーブルの下に隠していたが、和彦は気づかないふりをする。気に入ってくれたのなら何よりだ。 ここは、優也の部屋だった。和彦が初めて足を踏み入れたときはひどい有り様だったが、今はすっかり片付いており、開け放たれた窓からは心地よい風が入ってくる。玄関に通されたときにさりげなく確認したが、城東会の組員によって切られたドアのチェーンは新しいものに取り換えられていた。 引きこもりから脱したのを物語るように、ハンガーラックには春物の服がかかっており、白のスプリングコートが特に目を惹く。 優也によく似合いそうだなと思ったときには、ふっと疑問が口をついて出ていた。「あの白のコート、自分で選んだのか?」「んあ? ああ、コート……。叔父さんが買ってきたんだ。出歩くようになったから必要だろうとか言って」「趣味がいいな」「あの人、結局のところシスコンなんだよ。僕の母さんが、似た色のコートを着てて似合ってたとか語り出してさ」「おとなしく聞いてたんだ」 和彦がニコニコしながら言うと、気恥ずかしそうに優也が視線を伏せる。 ひどい風邪で痩せ細って荒んでいた優也の姿しか記憶になかったのだが、久々に顔を合わせてみると、実年齢よりずっと若く見える彼のことを、叔父の宮森が過保護にするのもわかる気がした。 こけていた頬はいくらか肉がついており、血色のよさもあってずいぶん健康的に見える。それでいて華奢なあごのラインはそのままで、すっきりとした一重の目や、桜餅を二口で食べたとは思えない小さな口のおかげで、小動物のように愛らしい印象を受ける。人によって







