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私と先輩のキス日和 のすべてのチャプター: チャプター 41 - チャプター 50

60 チャプター

第九章『証明のキス』 その1

『ひかり書房』は今年で設立六十周年を迎え、十一月末開催に向けて、記念パーティーの準備が総務部を中心にして行われていた。当日は経営陣や幹部クラスの役員だけでなく、梢たち社員も出席することになっており、また任意ではあるが笑理や久子を始め『ひかり書房』の契約作家や、取引のあるデザイナーやイラストレーターといったクリエイターなども出席をする予定である。「ねえ、今回の六十周年記念パーティー、結構大がかりなものになるみたいだよ。いろいろ発表することもあるみたいだし」出勤した梢は、エレベーター前で会った真由美からそう聞かされた。恐らくは、久子の原作小説の映画化の発表と、高梨の執行役員就任の発表だろうと、内心見当がついていた。文芸部の自分のデスクにいつものように出勤してくると、同じタイミングでやってきた高梨に声をかけられた。「山辺君」「はい?」「今度の設立記念パーティーのことなんだけど、三田村先生にもぜひ出席してもらうように、君からお願いしてくれないか」高梨の話では、五年前の五十五周年パーティーは世間の状況を鑑みて中止となり、リモートで式典のみを開催したが、笑理は画面越しでも顔を出したくないという理由で欠席したそうである。それもあり、ぜひ笑理には出席をしてほしいというのが、高梨の想いであった。「分かりました。一度、相談してみます」上司からの頼みともあれば断わるわけにもいかず、梢はとりあえずの対応をすることにした。「パーティーねぇ。ごめんけど、やめとくよ、私は」その夜帰宅した梢は、夕食後にソファーに座って笑理と一緒にコーヒーを飲んだ際、パーティー出席の件を相談したが、案の定断られてしまった。「どうして? やっぱり、顔出したくない?」「まあね。どうも私は、ああいう場には合わなくて」「そっか……来てほしかったけどな……」梢は残念そうにうつむいた。「梢からお願いされたら断りたくないんだけどね。こればっかりは、ごめん」「しょうがないよね。三田村理絵先生の意向だもん」「高梨部長には、私から直接連絡入れとくよ。梢からだ
last update最終更新日 : 2025-10-23
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第九章『証明のキス』 その2

十一月の下旬のある日、『ひかり書房』設立六十周年記念パーティーは、都心の大きなホテルの大広間で開催された。『株式会社ひかり書房 設立六十周年記念パーティー』という白看板が天井から掲げられ、木箱を並べて上から絨毯を敷いた簡易ステージには、スタンドマイクが中央に設置され、背後には大きな金屏風が立てかけられている。会場は立食パーティーのビュッフェスタイルとなっており、壁側のテーブルには和洋中、様々な料理が彩りよく器に並べられている。ドレスコードをした梢や真由美は食事をしながら談笑しているが、次期役員就任が決まっている高梨はネクタイを締めてスラッとした背広姿で、幹部役員たちと共にウエイターが時折運んでくる白ワインを飲みながら何やら真面目そうな話をしている。「パーティーは十年ぶりの開催だから、結構賑やかにやってるね」料理に目がない真由美は、呑気そうに食べながらそう言ったが、梢の視線は役員たちと話をしている高梨に向けられていた。「多分、今日の役員就任発表の最終確認でもしてるんじゃない」梢の視線に気づいた真由美が、横から小さく呟いた。「まあ、ご無沙汰」どこからか、耳に残る高い声が聞こえてきた。振り向くと、見るからに高級な反物で設えたであろう留袖を着た久子が出席者と談笑をしていた。「出たぁ、西園寺久子」真由美が険しい顔で、久子のほうを見た。「真由美も知ってるんだ」「こないだ、何か炎上してたじゃん。平然とこういう場に来るなんて、やっぱり図々しいのかな、あの人」「まあ、否定はしないでおくよ」久子はやがて、高梨のもとへ近づいていき、会話を始めた様子が見えた。こちらもおそらく、久子の原作小説の映画化の発表についての相談をしているのだろうと、梢は思っていた。発表が公になれば、もう後戻りはできず、映画公開に向けて様々な準備が始まることは梢も覚悟しており、ふと久子の姿を見て大きな溜息をついた。同じ頃、笑理は書斎兼作業部屋にこもって、相変わらずパソコンに向かって原稿執筆をしていた。休憩をしようと思った笑理は、スマホを手にして、写真フォルダを開いた。一番新しい写真は、パーティーに出かける前
last update最終更新日 : 2025-10-23
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第九章『証明のキス』 その3

記念パーティーは、すっかり会も中間に入っていた。梢も真由美も食事に舌鼓を打ちながら、場の雰囲気を楽しんでいた。「飲んでるかしら?」と、久子がシャンパンの入ったグラスを二つ持ってやってきた。「私、ちょっとトイレ行ってくるわ」真由美は逃げるようにそそくさと去っていき、梢は久子と一緒にシャンパンを飲むことになった。「乾杯」久子に言われ、梢はグラスを打ち合うと飲み始めた。「この後の発表が楽しみね」「ええ」何度かシャンパンを口にした後、梢は少しずつ頭がボーっとしていく感覚に襲われた。「どうしたの?」久子が不安そうに尋ねた。「ちょっと、めまいというか、立ちくらみが……」そんな梢や久子の様子に気が付いて、高梨も駆けつけた。「山辺君、どうした?」「立ちくらみがするんだって。私、今日ここに泊まるつもりで部屋取ったから、そこで休んでもらうわ」「ああ、よろしく頼むよ」久子に抱えられながら、梢はパーティー会場を去っていった。二十分ほど経ってからのこと。ホテルのロビーには地模様の入ったオープンショルダーの黒ドレスに身を包んだ笑理が、スマホを持ちながらソファーに腰掛けて待っていた。すると、高梨と真由美が話をしながら通りかかっているのが見えた。笑理は慌てて立ち塞がるように高梨たちの前にやってきて一礼した。「三田村先生」真由美は驚いた様子で、「え……この方が、三田村理絵先生」「紹介します。『ひかりセブン』を担当している、倉沢真由美君です」「山辺さんから話は伺ってます。連載小説の件、引き続きよろしくお願いします」高梨から真由美を紹介され、笑理は深々と頭を下げた。「こちらこそ、よろしくお願いいたします」真由美も恐縮するように頭を下げた。「それにしても、パーティーには来ないって言ってた人が一体どうして?」「気が変わったんです。それに、せっかく山辺さんが誘ってくれましたし。ただ、彼女に連絡してるんで
last update最終更新日 : 2025-10-23
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第九章『証明のキス』 その4

久子の宿泊室のベッドで休んでいた梢がゆっくりと目を覚ますと、久子が様子を伺うようにこちらを見つめていた。「すいません。ご心配おかけしました」「ちょっと、薬の量が多かったかな」「え……?」梢は慌てて体を起こした。久子は次回作の参考のために今度は女性と関係を結びたいと考え、梢と強制的に関係を築こうと企んでいたのだ。「大丈夫。すぐに終わるから」恐怖を感じて後ずさりをする梢だが、久子はどんどん迫ってくる。「ほら、私の言うこと聞きなさい」馬乗りにされた梢は、両手首を強く掴まれた。「やめてください!」梢は必死に抵抗するが、薬の効き目のせいで体に力が入らず、久子は接近してくる。するとチャイム音が鳴り、勢いよくドアを叩く音が聞こえた。久子がその音に気付いて隙を見せた瞬間、梢は久子を勢いよく突き飛ばし、這いつくばりながらもオートロックになっているドアを開けた。「大丈夫だった!?」笑理と高梨が駆けつけ、部屋に入り込んできた。笑理の姿を見て安堵した梢は、そのまま抱き着いた。「西園寺先生、これはどういうことですか?」高梨は険しい顔で久子を問い詰めた。だが久子は目をそらしてごまかし、「幻覚でも見てたのか、この子が急に暴れ出すから。それよりも、この人は誰なの?」「初めまして、西園寺先生。同業の三田村理絵と言います」「あら、あなたが三田村理絵さん。お名前は拝見してますわ」「私の編集者に、何したんですか?」「別に何も」苛立ちが限度に達した笑理は、久子の頬を引っぱたいた。「何するのよ!」「ちょうど良い機会なのではっきり言っておきます。私、梢と付き合ってるんですよ。同棲もしてます」久子と高梨は、唖然となった。「あなた、何言ってるの」「これ見てください」笑理が手首につけたブレスレットを久子に見せつけたので、梢も同じものを見せた。「じゃあ、今からあなたに見せつけてあげますよ。私たちが付き合ってる証拠を」心の
last update最終更新日 : 2025-10-23
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第九章『証明のキス』 その5

パーティー終了直前、高梨は幹部役員たちと相談の上、久子の作品の映画化発表の件を公表しないことを決定し、結果として社員たちに発表されたのは、高梨の文芸部担当執行役員就任の知らせのみにとどまった。久子の一件は水面下で動いたため公になることはなかったが、高梨にとっては梢と笑理が交際していることが気がかりであった。事の経緯や詳細を二人から聞きたかったが、「今日は帰ります。梢のケアしなきゃいけないので」と、一足先に帰っていく際に笑理に言われ、梢も放心状態で会話もままならなかったので、妙なモヤモヤだけが残っていた。マンションに帰宅した梢は、ソファーに小さく座り込んでいた。「はい、レモンティー。気分が楽になるよ」と、笑理が運んできてくれたが、梢にはまだ心の整理がつかず飲む気になれなかった。梢の手首には久子に強く押さえつけられた跡が薄ら赤く残っており、また久子も相当な力を入れたのか爪がめり込んだ跡も微かに残っている。「痛かったでしょ……」じっと梢の手首の跡を見つめた笑理は、腕を持ち上げて顔に近づけると部位にそっと優しく口づけを何度も繰り返した。「笑理……」「こんなことしたところで、梢の心の傷は治らないのに……」梢は手首にポタッと水が落ちる感触に気が付いた。よく見ると、目を潤ませた笑理の瞳から頬に伝った涙が、ポロポロと梢の手首に落ちている。「ありがとう、助けに来てくれて。私、それだけで嬉しい」「梢……」「どうして、パーティーに来てくれたの?」「梢のドレス姿、もっと見たいって思っちゃってね。でもまさか、あんなことに……」そのまま笑理に密着するように抱きしめられた梢は、笑理から伝わるぬくもりを肌で感じていた。「絶対離さない。梢は、私が守るから。これから先もずっと」「ありがとう、笑理」梢は安堵した途端、ドッと疲れが出て心の整理がついたのか、ようやく涙を流し始めた。笑理が微笑みながら涙をぬぐってくれると、その
last update最終更新日 : 2025-10-23
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第十章『旅行中のキスー前篇ー』 その1

世間では師走一色となり始めた十二月上旬。高梨にミーティングルームへ呼ばれた梢は、幹部役員との協議の末、『ひかり書房』として久子との契約を打ち切ることを決めたことを聞かされた。「彼女のことは忘れて、これからも励んでくれ」「はい」久子との関わりがなくなり安堵した梢は、その夜久子の件を笑理にも伝えた。「当然の処分だよ、梢にあんなことしたんだから」これ以上のことは何も求めない梢に対し、笑理はまだ気に入らない様子だった。「どうかした?」「『ひかり書房』で書けなくても、他の出版社で書くでしょう。何か腑に落ちないというか……いっそのこと作家辞めれば良いのに」「笑理……」自分事のように怒ってくれることが、梢にとっては嬉しかった。「あのさ、梢。一緒に、旅行行かない?」すると笑理は改まったように提案をしてきた。「旅行?」「もうすぐ、お母さんの三回忌なの。お墓参りに行きたくてさ。それに、おばあちゃんやお姉ちゃんに、梢のこと紹介したいの」梢に断る理由などなく、大きく頷いて、「うん。デートは何回もしてきたけど、旅行は初めてだもんね」恋人との旅行という楽しみが増え、梢の顔には明るい笑顔が戻っていた。翌週。梢と笑理は、早朝出発の高速バスに乗り、約六時間をかけて岐阜県高山市の奥飛騨に到着した。十二月の奥飛騨は既に雪が降り始めて気温も寒く、連絡バスを乗り継いで『奥飛騨クマ牧場』に赴いたときには、梢も笑理も持参していた厚手のコートを羽織り、マフラーを首に巻いた。「すごい! こんなに間近で熊見たの初めて」子どものように興奮気味で熊を見る梢を笑理は愛おしそうに見つめている。また、ピンクのマフラーと、萌え袖状態でコートを羽織っているのも重なって梢が可愛く見え、一人ほくそ笑んでいた。完璧なビジュアルとはまさにこのことだと、熊を眺める梢の横顔を、笑理はスマホで撮影した。「ほら、笑理も見てみなよ」手招きをされて、笑理は梢の隣から熊を眺めた。幼少期、父や母、姉と共に家族旅行で奥飛騨に来た時は
last update最終更新日 : 2025-10-24
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第十章『旅行中のキスー前篇ー』 その2

奥飛騨温泉郷は、平湯、福地、新平湯、栃尾、新穂高の五つの温泉地で形成されている。梢と笑理は『奥飛騨クマ牧場』からタクシーで十五分ほどの平湯に向かった。その一角に、昔ながらの二階建て木造建築で、しっかり手入れされた日本庭園が設えられている『奥飛騨温泉郷平湯・湯の宿むらた旅館』があった。 タクシーを降りてすぐ、梢は外観を物珍しく見上げて、 「ここが笑理のおばあちゃんの旅館」 「そうだよ」 笑理にとっては、母の納骨の際に宿泊して以来二年ぶりだが、長い年月来ていなかったような懐かしい気持ちであった。 梢と笑理がロビーへやってくると、フロントから黄土色の布地に写実的な草花模様という加賀友禅の着物の若い女性が姿を現した。 「笑理ッ」 「久しぶり、お姉ちゃん」 迎えたのは、笑理の三歳年上の姉、朱理であった。 「こちらが、お連れ様?」 「うん。私の担当をしてくれてる編集者の山辺梢ちゃん。高校の時のテニス部で後輩だった子なの」 「初めまして、山辺梢と言います」 「若女将で笑理の姉の朱理と言います。本日は遠いところお越しくださり、ありがとうございます。お疲れになりましたでしょう、早速お部屋にご案内いたします」 祖母を手伝っていることもあり、佇まいに品が出てきていると姉の姿を見て笑理は思った。 「おばあちゃんは?」 「今、組合の会議で出かけてて、夕方には戻ってくると思う。夕飯時になるとみんなバタバタしちゃうから、夜にでもゆっくり挨拶に行くわ」 「うん」 朱理に案内され、梢と笑理は二階にある客室の一室を案内された。広々とした十畳の和室で、広縁からは山の景色が一望できる造りである。 「良い部屋ですね」 「ありがとうございます」 「ねえお姉ちゃん。もう露天風呂って入れる?」 「うん、うちは十五時から夜中の十二時まで入れるの。朝は六時から入れるから朝風呂にも良いと思う」 朱理は改めて正座をして宿泊の案内を一通りすると、仕事に戻っていった。 「じゃあ梢、一緒にお風呂行こうか」 「うん」 浴衣に着替えた梢と笑理は、風呂場へと向かった。ち
last update最終更新日 : 2025-10-24
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第十章『旅行中のキスー前篇ー』 その3

夕食は広間で他の宿泊客と同時に取った。仲居が運んできた料理は、飛騨牛の陶板焼や山菜の天ぷらなど、板長が腕によりをかけて名物や旬の食材を調理した彩り豊かなものばかりであった。幼少期から変わらぬ味で笑理にとっては懐かしい味だが、梢は初めて食べるものばかりでどれも美味しそうに食べていた。「どうしたの?」不思議そうに梢が見つめた。「ううん。やっぱり、美味しそうにご飯食べる梢って可愛いなと思って」笑理はうっとりと、梢を見つめながら箸を進めた。九時を回り、客室に戻っていた梢と笑理は、缶チューハイを飲みながらのんびりとしたひと時を過ごしていた。「失礼いたします」「どうぞ」廊下から女性の声が聞こえて梢が答えると、朱理と共に、井桁模様をあしらった藍色着物の老女が一緒に入ってきた。所作の美しさから、品格の良さがにじみ出ている。「本日は、湯の宿むらた旅館にお越しいただきありがとうございます。大女将の村田房代と申します」丁寧に三つ指を立てて挨拶をした笑理の祖母房代に対し、梢も改まったように、「『ひかり書房』で編集者をしています、山辺梢です」笑理は微笑みながら房代を見て、「おばあちゃん、久しぶり」「笑理、ようおんさった」梢にとっては聴き慣れない岐阜弁だった。「山辺さんは、笑理の高校時代の後輩でもあると、若女将から聞きました。当時から本当にお世話になったそうで」「いえ、お世話になってるのは私の方です」すると笑理は、険しい顔でボソッと一言、「お父さんが、よろしくお伝えくださいって」笑理のその言葉で朱理が険しい顔になり、房代も明らかに不機嫌な顔になったのを梢は見逃さなかった。「お父さんに会ってるの? 母子家庭だって……」梢は不思議そうに尋ねると、笑理は一瞬うつむいたが、「私、梢に黙ってたことがあるの」「……?」「親が離婚する前までの私の名前はね、高梨笑理って言うの」「高梨って…&helli
last update最終更新日 : 2025-10-24
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第十章『旅行中のキスー前篇ー』 その4

「結婚して二人の子どもができた後も、あの人はほとんど家庭を顧みなくて。身の回りの世話をしてくれる、体の良いお手伝いさんが欲しかっただけなんでしょう。離婚した後だって、養育費払えば済まされると思って、父親らしいことなんて何もしなかったんですよ。この子たちの母親が亡くなったときも、笑理に持たせた香典も突き返してやりました」嫌悪感満載で話す房代を見て、高梨がこの家族たちから相当嫌われていることを梢は察した。「私が大学在学中にコンクールに応募して、ペンネームでデビューしたとき、お父さん……高梨部長は別のプロジェクトで忙しくて、私の作品を読んでなかったの。後になって、私だって知った時は驚いたらしい」笑理が冷静に口を開いた。「『ひかり書房』に応募したのは、高梨部長がいらっしゃったから?」「うん。本当の目的は、あの人に私の存在を知らしめたかったからなの。結果としては同じような仕事をすることになるなんて、とんだ皮肉だよね」「……」「お母さん、亡くなる前、私に呟いたの。ごめんねって。何に対して謝ったのか分からないけど、家族に謝罪しながら死んでいったお母さんが哀れに思えてさ……」梢は笑理にどう言葉をかけて良いのか分からなかった。「この子たちの母親は早くに亡くなりましたけど、二人の娘がそれぞれの思いをもって今を生きてるだけで、あの世から喜んでると思います。朱理はこの旅館を継いでくれてますし、笑理も作家として活動しながらも、母親の三回忌のために帰ってきてくれましたし」梢がふと笑理を見ると、笑理は大きく頷くと正座をした。「あのさ、おばあちゃん……。こっちに来たのは、確かにお母さんの三回忌のためでもあるんだけど、本当はもう一つあるの」房代と朱理は不思議そうにお互いの顔を見合った。「私ね、今、梢と付き合ってて、同棲もしてるの。私は、女の人しか好きになれないの」笑理のカミングアウトを梢は黙って聞き、そのまま房代たちに頭を深々と下げた。「そう……。まあ、そうなるのも無理ないわ。け
last update最終更新日 : 2025-10-24
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第十章『旅行中のキスー前篇ー』 その5

房代と朱理が去った後、笑理は安堵の様子だったが、梢は笑理と高梨の関係性のことが頭からは離れず難しい顔のままである。「いつ言おうか、ずっと迷ってた……」梢の中で、一つ合点がいくことがあった。それは、件のパーティーの後、二日の休みを経て復帰した際、高梨から何も言われなかったことだ。「もしかして、笑理が何か言ったの?」「まあね」パーティーの翌日、笑理は買い物に出かけると外出をしていた。その時、笑理が高梨と会って梢との関係性を説明したことを、梢は聞かされた。「あの人に、私の恋愛をとやかく言う資格なんてないもん。自分だって好き放題やってきて、家族を壊したんだから」「これまで他人のふりをしてたのは、周囲の人たちに家族だってことを知らされないようにするため?」「うん……。だから、梢にもなかなか言い出せなくて。それに、西園寺久子のことも……」「西園寺先生?」「離婚する頃、あの人の不倫相手だったのが西園寺久子」笑理が久子を毛嫌いしていた本当の理由が、梢にはようやく分かった気がした。「生理的に嫌いって言ってたけど、本当は家族崩壊の原因になった人だったからなんだね」「そういうこと……。私の親を離婚に追い込んで、梢にもあんなことして、私は一生あの女を許さない」梢は雰囲気を変えるように優しく微笑んで、「今日はもうゆっくり休もうよ」「そうだね」笑理も小さく頷いた。それぞれの敷布団の中で眠っている梢と笑理だったが、笑理はどうも寝付くことができず、何度も寝返りを打っている。「寝れないの?」笑理の様子に気づいた梢が振り向いた。「まあね……」「一緒に寝ようよ」梢が掛布団をめくった。笑理が枕を持って、梢の隣に密着するように入る。「ねえ、笑理」「……?」「私、まだ全然笑理のこと知らなかった。今日、それを痛感した気がする。笑理は、
last update最終更新日 : 2025-10-24
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