All Chapters of 再婚したら、元夫と息子が泣いてるんですが?: Chapter 631 - Chapter 640

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第631話

光一の背筋が、芯まで凍りついた。怒りで煮えたぎっていたはずの熱情が、張り詰めた血管の中で、凍りつくように急速に冷え切っていく。瑠璃子も、完全に息が止まった。奥歯を強く噛みしめた瞬間、これまでの人生で一度も経験したことのない恐怖が、黒い波のように胸を突き上げてきた。これよりも凄惨で危険な死地なら、今までいくらでも経験してきた。死への恐れなど、とうの昔に忘れていたはずだった。でも今は、違う。絶対に守らなければならないものができた。自分のお腹の中に、愛おしくも致命的な「弱点」が宿っている。血に濡れた手が、自分でも気づかぬうちに、お腹へと伸びていた。指の関節が白く浮き上がるほど、その場所をきつく、きつく押さえていた。その切実な小さなしぐさを、澪ははっきりと見ていた。その瞳の奥底に、一瞬だけ、底知れぬ暗い光がよぎった。瑠璃子は長い睫毛を震わせ、すがるように光一の横顔を見た。しかし光一は、彼女の方を一切見ようとはしなかった。「たかがボディガードの女一人で、そんなに深く迷うっすか、佐久間社長」晟が狂気に目を剥き、鋭い針先を澪の柔らかい肌にさらに深く押し込んだ。澪が悲鳴を上げ、恐怖に顔を引き攣らせて頭を振り続ける。「この中身を一本でも打ち込んでやれば、このお嬢さんは一生、これなしでは生きていけない体になっちまうんっすよ」「やめて……お願いだから、やめてください……!」決断を下さない光一の姿を見て、澪はさらに激しく、絶望したように泣き崩れた。「お兄ちゃん!助けて……怖いよぉ!」「――わかった。お前の条件を約束する」光一が激しい葛藤に苛まれたのは、ほんの一瞬のことだった。光一はそれ以上、わずかな迷いすら見せなかった。「俺の妹を返せ」瑠璃子の体が、冷水に浸かったようにふるっと震えた。顔から、すべての血の気が引いていく。その場に石のように立ち尽くしたまま、指一本動かすことができなかった。肺に入ってくる冷たい空気が、鋭い刃のように彼女の内臓をズタズタに切り刻む。自分の内側が、がらんどうの空洞になっていく感覚があった。魂が足元から崩落していくようだった。理屈では痛いほどわかっている。光一がそういう決断を下すのは、経営者として、兄として至極当然のことだ。彼女はしょせん、金で雇われたボディガードにすぎないのだから。
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第632話

扉が閉まった瞬間、瑠璃子は底知れぬ深淵に、一人突き落とされたような感覚だった。晟の執拗な手が、遠慮など微塵もなく体中を這い回る。注射器の鋭い針先が、彼女の青ざめた頬を冷たく不気味になぞった。「今の見たかよ、佐久間社長はなんて冷酷で薄情な男だ。あんなにあっさりと、お前の命を捨てやがって。あの男、股ぐらに立派なものがついてるだけで、中身のどこが男なんだか」瑠璃子の目は深い闇のように暗く、そこにはいかなる表情も存在しなかった。「あんな冷血漢は放っておいて、この俺についてくればいいじゃないっすか。佐久間の下についていたって、一生ただの使い捨てのボディガードで終わるだけだろ。俺の女になれば、このオリエント・ユニオンの『次期トップの女』にしてやるよ……――ぐああぁぁッ!」下劣な言葉を言い終わらないうちに、獣のような鋭い悲鳴が密室に響き渡った。何の予備動作も見せないまま、瑠璃子は自分のお腹へと無遠慮に伸びてきた晟の手首を掴み、躊躇なく、無残に叩き折っていた。「その汚らわしい手を、あたしの子に伸ばすな」晟は自らの腕を信じられない面持ちで持ち上げ、あり得ない方向にぶらりと垂れ下がった手首を見て、今にも気絶しそうになっている。「御曹司!」異変を察知した手下たちが、怒声とともに一斉になだれ込み、黒い濁流のように瑠璃子の細い体を完全に飲み込んだ。……ナイトシェードの外は、パトカーのサイレンが鳴り響き、野次馬が集まって騒然としていた。しかし佐久間側にとって不幸中の幸いか、死者は一人も出ていない。重傷者は数名出たものの、全員命だけは繋がった。もし一人でも死人が出ていれば、警察が介入し、取り返しのつかない事態になっていたはずだ。さもなくば、光一の社長職は完全に終わりだ。役職の罷免どころか、身内の不祥事を厭うことで知られる父親の手によって取締役会から叩き出され、海外の僻地へ送りにでもなりかねない。「お兄ちゃん……首が……痛いよぉ……」高級車が佐久間邸へと急ぐ中、ようやく絶対の安全圏に入った澪が、光一の胸にすがりついて泣きじゃくり、その涙が血の匂いの染み付いたスーツに冷たく滲んでいく。「本当に、あそこで殺されて死ぬかと思った……もう二度と、お兄ちゃんには会えないかと思って……」「馬鹿なことを言うな。もう完全に安全だ。これから
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第633話

「社長、前が赤信号で――」「構うな、突っ切れ!」「はっ!」ボディガードは赤信号を完全に無視し、制限速度などお構いなしに、深夜で周囲に車がいなかったからよかったものの、真昼間であれば、確実に交通機動隊に追いかけ回されていただろう。木原はルームミラー越しに、光一の壮絶な横顔を盗み見た。すべてを一人でこらえるような、悲痛な眼差し。その瞳の奥底に重く沈んでいる心配の深さは――先ほどの澪に向けられていたそれと、少しも変わらないように見えた。木原は胸が痛み、思わず重い溜息を漏らした。「社長、今から私が申し上げることは、耳の痛いお話かもしれませんが、それでも私は、社長の右腕として不敬を承知で申し上げます。これほどまでに小山さんのことが心配でたまらないのなら、今夜、そもそも彼女をこんな危険な現場へ連れてくることはなかったはずです。社長が無理に彼女を連れてこなければ、彼女がこんな絶望的な危険な目に遭うことも、決してなかったのですよ」光一は、ひび割れた乾いた唇をわずかに開いた。その口から漏れた声がかすれて震えていた。「……そこまで、深く考えていなかったんだ」長年、どこへ行くにも彼女を連れ歩くことが、彼にとって当たり前の日常になっていた。彼女の完璧な護りに、完全に甘えきっていた。彼女が自分のすぐそばにいると、ただそれだけで、なぜか無条件に安心できたのだ。「それに、あいつは誰よりも腕が立つ。この佐久間グループのボディガードの中で、一番強い人間だ」それは絶対の称賛だ。瑠璃子の類まれなる能力への、彼からの紛れもない最高の評価だ。なのに――そうして理由を並べるのを聞いていると、なぜかひどく哀れで滑稽に思えてならなかった。木原は静かに、誰にも聞こえないような溜め息をついた。「どれほど腕が立とうとも、彼女は血の通った一人の女性ですから……」「あの部屋にいた連中、誰一人として彼女の敵ではないはずだ」光一は血走った目をきつく閉じ、肺の奥から大きく息をついた。何度も何度も、呪文のように同じ言葉を繰り返す。木原への強がりの返答のようでもあり、崩れ落ちそうな己に必死に言い聞かせているようでもあった。「彼女は大丈夫だ。絶対に大丈夫なはずだ……」車はエンジンの限界を引き出す最大速度で、血生臭い空気が漂うナイトシェードへと引き返した
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第634話

午前四時。彩葉は悪夢にうなされ、弾かれたように目が覚めた。短い悲鳴を上げ、ベッドの上で跳ね起きる。溺れる者のように喘いだ。全身が汗に濡れていた。まるで海から這い上がったばかりのように、パジャマが肌にべっとりと張り付いていた。目を閉じ、額に手を当て、息を整えようとした。かつて、母が逝った後、一年間ずっと悪夢を見続けた。蒼真と結婚し、瞳真が重い病を患い、義母に子どもへの面会を禁じられていた時期には、うつ病が悪化して夜ごと悪夢にうなされた。雪美が息子を奪い、雫に預けてしまう夢。雫が腕の中に息子を抱えて、軽蔑するような笑みを向けてくる。泣きながら取り戻そうと走るのに、蒼真に後ろから抱きすくめられて、ただ見ていることしかできない。あの頃、夢の中にはいつも母と、瞳真がいた。でも今夜の夢に出てきたのは、瑠璃子だった。傷だらけで、血の気の失せた瑠璃子が、彩葉の前にふらりと歩いてきた。泣きながら言った。「いろはっち、もう疲れた……光一から離れたい……もう限界なの……」抱きしめようと走り寄った瞬間、瑠璃子は煙のように消えた。「るりちゃん……何ともないよね?ねえ、るりちゃん……」親友の勘というものがあるのかもしれない。胸騒ぎが止まらなかった。ベッドサイドの明かりをつけ、スマホを手に取り、瑠璃子に電話をかけた。しかし、一向に繋がらない。彩葉の胸の不安が膨らむ。瑠璃子が光一と一緒に暮らしていることは知っている。光一に電話をしようとしたが、番号を登録していないことに気づいた。どうしよう。蒼真に連絡すべきか……迷っていると、スマホが震えた。見知らぬ番号だった。「はい、どちらですか?」彩葉はすかさず出た。「俺だ。佐久間光一だ」電話の向こうの声は、ひどくしゃがれていた。数語の言葉が、途切れ途切れに聞こえた。「佐久間さん?」彩葉はすぐに聞いた。「るりちゃんは今そこにいますか?何かありましたか?」返ってきたのは、心臓が縮むような沈黙だった。男の荒い息だけが聞こえてくる。「……何か言ってください。彼女はそこにいるんですか?電話が繋がらないんですけど、無事なんですか?声を聞かせてください!」「瑠璃子が……いなくなった」光一の一言一言が、重たく、震えていた。「そっちへ行っていないか、確認したかった」「いなく
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第635話

救急車は北都第一病院へ一直線に向かった。車内で医療スタッフが深い昏睡状態に陥った瑠璃子に応急処置を施す。全身に管が繋がれ、人工呼吸器まで装着されていた。美しい顔には血が飛び散り、体には数カ所の深い切り傷があった。致命傷こそないが、失血が著しく、予断を許さぬ容体だった。「もうるりちゃん……怖いよ……お願い、目を覚まして……!」普段どれほど冷静な彩葉でも、今この瞬間だけは恐怖で子どものように泣き崩れていた。涙が頬を濡らし続ける。「絶対に頑張って!死なないで!あなただって、私と離れたくないよね!」彼女の人生は、失うことの連続だった。別れ、捨てられ、そのたびに立ち上がってきた。でも、もうこれ以上は耐えられない。大切な人が自分の前から消えていくことに、もう耐えられない。「この方、ずいぶん傷が多いですね。何者かに襲われたんですか?通報はされましたか?」処置を続けながら医療スタッフが聞く。彩葉は涙をぼろぼろ流しながら、ただ首を振った。「わからない……本当にわからないんです!」何があったのかは知らない。でも、どう考えても光一と無関係なはずがなかった。もし瑠璃子に万一のことがあれば、あの薄情な男を、絶対に許さない。病院に到着した時、翔吾と弘明はすでに先に来ていて、一切の手配を済ませていた。今夜は非番だったはずの蒼唯も、自宅から急いで駆けつけていた。あまりにも慌てて出てきたのか、真冬だというのに、素足にサンダルだった。瑠璃子が救急救命室に運び込まれた時には、呼吸も脈拍も、ほとんど消えかけていた。彩葉は泣きながらずっと傍についていたが、扉の前で医療スタッフに止められた。「氷室さん、安心してください。全力で処置に当たります」蒼唯は力強く彩葉に約束した。「助けてください……お願いします、森田先生……!」彩葉は両手を合わせた。泣きすぎて声が完全にかすれていた。「そんなふうに言わないでください。人の命を救うのは、医者として当然のことですから」言い終えると蒼唯はすぐさま救命室に入り、扉が閉まった。「手術中」の赤い表示灯が点灯する。「るりちゃん……」彩葉は崩れ落ちるように廊下の冷たい床に膝をついた。涙がぽたぽたと、氷のように冷えた大理石の上に落ちて、じわりと広がっていく。突然、背中に温もりを感じた。耳元に、翔吾の
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第636話

静まり返った廊下に、二人だけが取り残された。翔吾はずっと片膝をついたまま、彩葉の足を温め続けていた。一言も発しない。微動だにせず、ただ静かに寄り添っている。「るりちゃん……彼女……助かるよね……」彩葉の声は、聞こえるかどうかというほど細かった。「大丈夫だ。絶対に助かる」翔吾は顔を上げ、まっすぐ彼女と目を合わせた。その瞳に、揺るぎない光が宿っていた。「蒼唯は優秀な心臓外科医だが、他の外科手術でも国内屈指の腕前だ。今は悪い方にばかり考えないで。医師を信じて。それより、小山さんを信じてあげて。あの人は、そう簡単に折れる人じゃない」「全部、光一のせいよ……彼がるりちゃんをこんな目に遭わせたのよ!」彩葉が歯を食いしばって吐き捨てた、その瞬間。廊下の向こうから、乱れた足音が近づいてきた。光一と木原が走ってきた。木原は上司の後を必死で追いかけ、息を切らして全身汗だくだった。光一も荒い息をついていた。けれどそれより、この世の終わりのような恐怖が顔を蒼白に染め上げていた。季節を問わず白いスーツを好む男が、今夜は左腕に一筋の深い傷を負っていた。ガーゼを簡単に巻いただけで、縫合もしていない。滲み出た血はすでに左袖全体を赤黒く染め、見るも無残な有様だった。傷の手当てをする間も、着替える時間も、惜しかった。魂が抜けたような顔で、ただここまで走ってきた。廊下に入った瞬間、彩葉の言葉が耳に飛び込んできた。光一の足が、ぴたりと止まった。汗に濡れた顔に、悔恨と羞恥が滲んだ。虚勢を張る気力さえ、もう残っていなかった。そこへ、また別の足音が近づいてきた。蒼真が颯を連れて現れ、光一の傍に立った瞬間、彼も思わず体を強張らせた。椅子に腰かけ、泣き崩れている彩葉。その前に片膝をついて、足を温めている翔吾。自分が一度も彼女にしてやったことのない、そのことを、部外者の男が平然とこなしている。怒りが湧いた。しかしそれ以上に、言葉にならない複雑な感情が、胸の内側を締め上げた。悔しさ、嫉妬、羨ましさ、それらが混ざり合い、胃の腑を焼くような苦い塊となって、喉元までせり上がってくる。翔吾は彼らが来たことに気づいていた。それでも表情一つ変えず、目を伏せ、自分のすべきことだけをし続けた。彼の心にも、目にも、映っているのは彩葉だけだった。た
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第637話

「気持ちはわかる」蒼真は震える彼女の手首をしっかりと握りしめながら、彩葉をじっと見つめた。その声は珍しいほどに静かで、ひどく穏やかだった。「光一も今、心が折れかけている。傷の手当てもせずここまで来たんだ。あいつが女のためにこれほど必死になったのは初めてで、彼は……」ようやく、夫としての権利を主張するかのような顔をした。でも、もう遅い。彼の白々しい配慮など、今の彩葉には少しも必要なかった。「……離して」彩葉はゆっくりと視線を動かし、深い憎しみの滲んだ蒼真の顔に、鋭い視線を真っ直ぐに突きつけた。その瞳の奥に、かつての温もりのかけらさえ見えなかった。「蒼真、二度言わせないで。今の私は本当に、まともじゃない。この手を離さないなら、あなたも叩く」「彩葉、なぜいつもそうなんだ。小山のことで、光一だって身を削るような思いで苦しんでいるのが見えないのか」蒼真は不快げに眉を寄せ、決して手を離そうとはしなかった。彩葉は凄絶な笑みを浮かべた。「はっ……笑わせないでよ。何が苦しいの、全部茶番じゃない!」光一の胸には、重く湿った鉛のような塊が蟠っていた。目の奥が焼けつくように熱くなり、息が詰まる。昨夜の出来事が、頭の中で何度も何度も繰り返される。あれほど穏やかに始まった夜だった。それを――自分が無残に壊した。永遠に手放してしまった。なぜ瑠璃子を連れて行ったのか。なぜ連れて行ったのか、自分はなんて身勝手だったのか。彩葉は掴まれた手首を力いっぱい振りほどこうと、激しくしゃくりあげた。青白い額に、細かな汗が幾重にも滲んでいる。「お前……大丈夫か?どこか悪いのか?」蒼真は明らかに彼女の異変に気づき、急に声色が変わった。手が小刻みに震えていた。怒りと悲しみで、目元を激しく震わせていた。端整な顔立ちは相変わらず冷ややかさを保っていたが、心の中では言いようのない焦りが黒い染みのように広がっていた。こんな彩葉を見たことがなかった。感情的になることはあっても、これほどまでに理性を失った狂乱の姿は――ずっと背後で黙って見ていた翔吾が、すっと彩葉の背後に回った。決して揺るぎない壁のように立ちふさがり、その華奢な背をしっかりと支える。「彩葉、深く呼吸して」耳元で、ひときわ静かに声をかけた。彩葉は胸をきつく押さえ、目を
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第638話

泣きながら訴えているのに、蒼真を見るその目は、刃のように鋭く冷たかった。底知れぬ憎しみだけが、そこにあった。かつての愛の欠片も、もはや見当たらなかった。まるで不倶戴天の敵を見るような、呪詛の目だった。上質なスーツに身を包んだ蒼真の肩がかすかに揺れた。その冷徹な視線に、確かに深く刺し貫かれた。鋭い痛みが音もなく心の底から滲み出し、じわじわと全身へと広がっていく。どんなに深く、どんなに強く燃え盛った愛情もいつかは消えていくものなのだ。残酷に尽き果てるものなのだ。ただ、今この瞬間まで、彼はどうしてもその事実を認めたくなかった――自分と彩葉がここまで修復不可能に壊れてしまったのは、すべて自らが招いたことだ。彼女が自分に向けていた純粋な愛を、彼自身の手で木っ端微塵に打ち砕き続けた結果だ。もう、どこにも繋ぎ合わせられないほど粉々に。「彩葉、俺はお前に対して、最初からそういう男だった。何も変わっていない。お前だって、この結婚の本質は承知の上だったはずだ」蒼真は真っ赤に充血した目を見開いたまま、複雑な感情に心臓を激しく掻き乱されながらも、翔吾の前では、死んでも頭を下げようとはしなかった。後悔も、申し訳なさも、一切表に出すことはなかった。「俺はお前に無理強いはしていない。選ぶ権利も与えた。それでも何があってもこの妻の座にしがみつきたいと願ったのは、お前じゃないか。今さら被害者面をして俺を責め立てるのは、滑稽だな。動機が不純な上に、他所に心を移したのは、お前自身だ!」彩葉の胸が、ずきずきと痙攣するように激しく痛んだ。呼吸が、完全に止まりそうだった。世の中に、これほど厚顔無恥な輩がいるものだろうか。本当に、一切の救いようがない。今この瞬間、彩葉は少しだけ雫に感謝したい気持ちにさえなった。あの女が恥知らずにも自分たちの結婚に割り込んできたおかげで、この男の腐りきった本性を早くに見抜けた。そうでなければ、こんな人間と一生を過ごして、三十歳を待たずに心も体も完全に壊れていたかもしれない。「愛さないのは仕方がない。だがこれ以上彼女を傷つけるのはやめてくれ」翔吾は彩葉がまた体に異変をきたしているのを見て、すぐにその細い腰を支えた。「北川ぁ!俺の妻から手を離せ!」蒼真が怒鳴った。翔吾は唇の端を冷酷に引いた。彼女の腰を抱き寄せる手の甲
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第639話

「血液型は何型ですか?」「Rhマイナスです!」彩葉は即座に答えた。瑠璃子の命を救えるのなら、今はもうそれだけしか頭になかった。蒼真の目が、驚愕に大きく見開かれた。あり得ない幻視でもしているかのように、彩葉を呆然と見つめる。Rhマイナス――自分とまったく同じ、希少な血液型だ。これほど稀な型の人間が、こんなにも身近にいたとは。今日という日まで、まったく知らなかった。「駄目だ」看護師が口を開くより早く、翔吾が地を這うような低い声で制した。「君の衰弱しきったその体では、輸血はさせない。取り返しのつかないことになる」「大丈夫です。できます!」彩葉は頑として引き下がらなかった。「駄目だと言ったはずだ!」翔吾の瞳に、どうしても抑えきれない深い懸念が滲み出る。看護師が急いで尋ねる。「以前に、大量の輸血、あるいは出血を伴う既往歴はありますか?」彩葉は不意に言葉に詰まった。「それは……」「もしそういったご経験がおありなら、確かに難しいですね。それに負傷者はO型ですから、そもそも血液型が合いません」蒼真の胸が、鋭利な刃で抉られたように跳ねた。Rhマイナス――大量輸血の経験。目の前が急にぼやけた。六年前の遠い記憶が、堰を切ったかのごとく突然脳裏に蘇る。視界を遮るほどの土砂降りの夜、スピードを出しすぎてハンドルを取られ、車体が激しく横転した凄惨な事故。――「しっかりして!目を開けて!眠らないで!」――「すぐに助けますから!今、病院へ運びますから!眠らないで、お願いだから頑張って!」耳の奥底に、あの時の悲痛で切迫した声がガンガンと響き渡る。蒼真はきつく目を閉じ、激しく首を振った。瞼の裏に彩葉の顔が鮮明に浮かび――次の瞬間には、それが雫の顔へと残酷に塗り替えられる。なぜ……彩葉にも、あんな経験があるんだ。なぜ、こんなにも恐ろしいほど似ているんだ。「O型です。俺が行きます」翔吾が彩葉の腕を引いて後ろへ下がらせ、看護師の後に続いて急ぎ足で救命室へ入っていった。重い扉が、再び無情に閉ざされた。彩葉は震える両手で顔を深く覆った。突然全身の力が、砂の城が崩れるように抜けていく感覚に襲われ、体が崩れ落ちそうになる。冷たい床に倒れる寸前、大きな手が彼女をしっかりと受け止めた。そのまま、強靭な腕の中に
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第640話

病室から救命室の前まで、二百メートルもない。しかし彩葉の体はもう限界だった。疲労と緊張が重なり、廊下の途中でつまずき、激しく転倒して、膝を赤く擦りむいた。流産、拉致、暴行――何年もの間、彼女の体はあまりにも無残に、その身を削られ続けてきた。今の彼女には、もうひとつの衝撃を撥ね除けるだけの余力など残っていなかった。蒼真がすぐ後を追ってきた。転んだ彼女を見た瞬間、駆け寄って手を伸ばす。「触るな、聞こえなかったの!?」彩葉は腕を振り上げて払いのけた。まるで汚いものにでも触れられたかのように。「いい加減にしてくれ!」蒼真が怒りを押し殺して怒鳴った。「今の自分の姿を見ろ。ボロボロじゃないか。なぜそんなに強がる、なぜそうやって自分を追い込むんだ!」「私が自分をこんな目に遭わせたの?私をこうした人間が、あなたじゃないの?」蒼真の動きが止まった。伸ばしかけた両手が、空中で固まる。「雫のところに行けばいい。ここで白々しい振る舞いはやめて……私には必要ない」そう言い捨て、彩葉は床から這い上がり、救命室へと駆けていった。蒼真はその後ろ姿を見つめた。胸の奥に、これまで感じたことのない、焼けるような痛みが胸を締め付けていく。……蒼唯が救命室から出てきた時、頬にはマスクの跡が赤く刻まれていた。額には汗が滲み、手術着まで濡れている。続いて出てきた二名の医師と助手の体にも、あちこちに、生々しい血の跡が残っていた。「森田先生!瑠璃子は……どうなりましたか!」光一が真っ先に飛び出した。乾ききった唇を、無理やりこじ開けたような声だった。恐ろしくて、その先が聞けない。彩葉たちも駆け寄る。その場の全員が、息を呑んでいた。そこへ、輸血を終えた翔吾も姿を現した。本来は安静にしていなければならない体だが、彩葉を一人にしておくことが心配で、強引に起き上がってきたのだ。彩葉はすぐに翔吾の元へ駆け寄り、そっと体を支えた。「大丈夫?気分は悪くない?つらくない?」「俺は大丈夫だ。心配しなくていい」翔吾は目を細め、穏やかに答えた。向かい合い、互いを気にかけ合う二人を、周囲の者は黙って見ていた。傍目には、あちらの方がよほど夫婦に見える。蒼真はそれを正面から見据えていた。胸が締め付けられ、咳が漏れる。喉の奥に、鉄の味が広がった。蒼
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