All Chapters of 戻れぬ二人、江海の涯に: Chapter 1 - Chapter 10

16 Chapters

第1話

国民護衛隊に所属する軍人である婚約者に、99回目のプロポーズをしたが、またも冷たく拒まれた。堀友夏見(ほりとも なつみ)は親友の足立志帆(あだち しほ)に電話をかけた。「もしもし、志帆。この前言ってた、一緒にアトリエを開こうって話だけど、まだ開きたいと思ってる?来週の新幹線のチケットを取ったよ。M市に帰るつもり」電話の向こうで志帆が思わず目を見開いた。「M市に帰るって?近石基之(ちかいし もとゆき)、今じゃもう隊長に昇進したんでしょ?あの人がキャリアを捨てて、あなたと一緒に戻ると思う?」夏見はスマホを握りしめ、小さく自嘲するように言った。「ううん、私ひとりよ。もう彼とは、終わりが近いの」その一言に、志帆は信じられないように声を荒げた。「夏見、正気なの?!近石がまだ新隊員だったころから、あなたはずっと彼のそばで支えてきたじゃない。任務に失敗して死にかけたときだって、肝臓を提供したのはあなただよ!今や彼はS市基地で最年少の隊長となり、そんな立派な人の妻として安泰に暮らせるのに――わざわざこんな田舎に戻るなんて、頭おかしいんじゃない?まさか、近石に何かされた?」夏見は指先をぎゅっと握りしめ、無理に笑みを浮かべた。「……ううん、何でもない。ただ、ちょっと疲れただけ」電話を切ったあと、夏見はその場に力が抜けるように崩れ落ちた。床に転がる婚約指輪を見つめると、基之に拒まれたときの、あの毅然とした表情が思い浮かんだ。「近石家の家訓だ。勲章をもらうまでは、結婚は許されない。悪いけど、君の気持ちには応えられない」99回のプロポーズ、99回の拒絶。理由はいつも同じ。夏見はずっと、基之も苦しんでいるのだと思っていた。けれど今日、偶然彼のスマホを見てしまい、その内容がすべてを覆した。そこには、国民護衛隊の同僚・玉村誠(たまむら まこと)からのメッセージがあった。【お前さ、何なんだ?勲章の話が出るたびに逃げてばかりだな。お前んとこの許婚、ずっと待ってるんだろ?】基之の返信を期待してスマホを握りしめた夏見。けれど彼の返事は胸を抉るような内容だった。【傷つけたくないだけだよ。俺にとって、あいつは妹のような存在だから】夏見はその言葉を思い出すと、涙が音もなく頬を伝った。懐かしい日々が次々と胸を締めつけた。
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第2話

基之が任務を終えて戻ってきた日、部隊はミシュラン三ツ星のレストランを予約し、盛大な打ち上げ会を行う予定だ。家族同伴が条件なので、基之は珍しく夏見にメッセージを送った。【今夜八時に打ち上げ会を開く。支度しておけ。迎えに行く】画面を見た夏見は、いつものように【分かった】とだけ返した。基之はいつもそうだ。冷たい口調で一方的に予定を告げるだけで、彼女の都合を一度も聞いたことがない。きっと彼の中では、夏見に対して「自分以外に大事な用事はない」と思っているのだろう。夜、基之の車が時間ぴったりに夏見の家の前で停まった。車に乗り込んだ夏見は、助手席にすでに誰かが座っていることに気づいた。――静菜。その瞬間、ドアを閉める手が一瞬止まった。基之は昔から、誰かが助手席に座るのを嫌っていた。「視界が遮られる」と言われて、夏見でさえ一度も座らせてもらえなかった席。それなのに、今そこにいるのは別の女性。呆然とする夏見を現実に引き戻したのは、静菜の穏やかな声。「初めまして。横島静菜なの。もし間違ってなければ――あなたは基之のいとこだよね?」……いとこ?一瞬、夏見は息を呑んだ。基之は普段から、自分のことをそう紹介しているのだろうか。胸の奥に苦みがじわりと広がる。けれど、夏見は無理に笑みを浮かべた。「ええ、いとこです」静菜はにこやかに頷き、スマホを取り出して夏見に差し出した。「せっかくだし、ライン交換しよう?」そして、半分冗談めかして笑いながら言った。「この人ね、基地ではいつも私をいじめるのよ。次やったら、あなたに告げ口するから――そのときは味方になって、彼を止めてね」もしこの言葉を夏見が言ったなら、基之はきっと笑いもせずに、「子どもみたいだ」「君は昔から変わらないな」と軽く流しただろう。だが今、彼は違った。静菜の方を見つめ、目尻をやわらかく下げ、声も優しくなった。「はいはい、分かったよ。君の言う通り」……車内は二人の笑い声で満ちている。二人だけに分かる冗談や、基地での出来事。夏見は後部座席に座り、一言も口を挟まず、ただ静かに目を閉じて居心地の悪さを誤魔化している。けれど、耳に入ってくる基之の柔らかな声――自分には一度も向けられたことのないその声色に、堪えきれず瞳が熱くなった。
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第3話

言い終えると、誠は無意識に夏見の方を見た。その目には、かすかな警告の色が宿っている。だが、基之のそばにいる同僚たちは気づく様子もなく、むしろ調子に乗って話を続けた。「おお、お前が言ってるのは基之さんの許婚のことだろ?」「その相手は家柄もなけりゃ、後ろ盾もない。昔から釣り合わなかったのに、今や基之さんが昇進までした。もうますます釣り合わねぇよな」「肝臓を提供して何年かそばにいただけのくせに、それを恩に着せて無理やり基之さんと結婚しようとしてるんだろ?」「俺は、ああいう奴が一番嫌いだ。恩を武器にして、感謝を踏み台にするタイプ」「恋愛ってのは、互いに想い合ってこそだろ?一方的にモラルを言い訳にして押しつけるのは何なんだ?あいつのやってることは、基之さんの罪悪感を利用してるだけだ。ほんと胸くそ悪い……」その言葉を聞くうちに、夏見の胸の奥が鈍くえぐられた。まるで鈍い刃で心臓のあたりを何度も何度も抉られているかのようだ。彼女はテーブルの端をつかみ、ゆっくりと立ち上がった。指先が小刻みに震えている。「……みんなさん、ゆっくり食べてください。私、ちょっと気分が悪いから先に帰ります」そう言って、夏見は個室を出て行った。ドアに手をかけた瞬間、背後から荒い足音が迫ってきた。基之が彼女の手首をつかみ、息を乱しながら言った。「怒ったのか?気にするな。彼らは昔からああいう奴らで、何でもズバッと言うんだ。もし無礼があったなら、俺が……」「基之、それは謝るような話じゃない」彼女は自嘲気味に笑い、彼の言葉を遮った。「じゃあ、何なんだ?」基之の声には戸惑いが混じっている。夏見はまっすぐ彼の目を見つめ、爪が掌に食い込んだ。「どうして……みんながいとこだなんて言ったとき、あなたは一言も否定しなかったの?」基之の体がぴくりと固まり、喉仏がごくりと動いた。けれど、言葉は出てこなかった。「あなたの心の中では――」夏見の声は震え、今にも泣き崩れそうだ。「私は……あの人たちが言うように、恩を盾にしてあなたに結婚を強要する卑しい女なの?」空気が凍りついた。基之は視線を落とし、長い沈黙が夏見の心を鈍く切り裂いていった。「夏見……君、酔ってるんだ」彼はようやく口を開き、彼女の手首をそっと握った。「送っていくよ」かつては、その手の温もり
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第4話

「それ、君が一番大事にしてた日記帳だろ?なんで燃やしてるんだ?」基之の睫毛がかすかに震えた。「もう……好きじゃないの」夏見の声は、遠くからかすかに届くように、淡く響いた。「好きじゃない?」基之は眉をひそめ、彼女の穏やかな表情の奥に何かの裂け目を探そうとするように、じっと見つめた。「うん。もう二度と、好きにはなれない」その瞬間、基之の胸はぎゅっと締めつけられた。まるで体の中から何か大切なものを突然引き抜かれたかのような感覚。理由は考えなかった。ただ、彼女を見つめたまま言葉を発した。「明日は静菜の誕生日だ。君にも一緒に来てほしいって言ってるけど……来られるか?」その言葉を聞いた途端、夏見は唇を噛み締めた。舌の先に、鉄のような血の味が広がった。明日?――でも、明日は自分の誕生日でもある。十八年の間、彼女は覚えている。彼が砂糖を入れないブラックコーヒーを好むことも、バスケットボールの練習で痛めた古傷の位置も、毎年の誕生日に食べるのはショートケーキだということも。それなのに、彼は一度も彼女の誕生日を覚えていなかった。「基之……」夏見の声は、羽が地に落ちるほどかすかに響いた。「明日が……何の日か、知ってる?」基之はしばらく考え込んだ末、困惑したように首を振った。「何の日だ?」夏見はふっと笑った。だがその口元に浮かんだ笑みは、まるで傷口のように痛々しかった。「明日、私は行けない」基之の眉間にさらに深い皺が刻まれた。十八年の間で初めて、彼女が自分の誘いを断ったのだ。「俺以外に、何の用があるんだ?」沈黙を貫く彼女を見つめながら、ふと基之の表情が変わった。「……怒ってるのか?静菜の怪我は本当にひどかったんだ。俺は――」「違う」彼女は静かに遮った。「じゃあ、勲章のことか?」彼の声が一気に高くなった。「夏見、もう俺を追い詰めないでくれ!俺が取りたくないんじゃない、取れないんだ!」夏見の爪が掌に深く食い込み、声が震えている。「……私は責めてない。ただ、明日は本当に……行けないだけ」バン!ドアが激しく閉まる音が、静寂を粉々に打ち砕いた。だが今回は、夏見はもう追いかけなかった。布団にくるまり、胸の奥に押し込んでいた涙がついに堰を切ったようにあふれ出した。――本当に痛いのは、忘れられることじゃない。
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第5話

夏見は伏せた睫毛の影に、一瞬だけ傷ついた色を浮かべて隠した。それでも唇の端を強がるように引き上げ、薄く笑った。「もしあなたが私のことをそういう人間だと思っているのなら、もう何も言い訳する必要はないわ」基之の喉仏がごくりと動いた。言い返そうと用意していた冷たい言葉は、舌の先でほどけ、夏見の痛みに滲む瞳を見た瞬間、すべて飲み込まれた。「基之さん」傍らの誰かが声をかけた。「早く行かないと、静菜さんの誕生日パーティーに遅れるよ」その言葉が落ちた瞬間、まるで雷鳴のように響き渡った。それを耳にした志帆は、驚きのあまり目を見開いた。「近石基之!」彼女は信じられないというように声を張り上げた。「あなたがここに来てたのは――他の女の誕生日を祝うためなの!?」怒りで声が震えている。「今日も夏見の……」「志帆」夏見が静かに口を開け、志帆の服の裾をそっと引き、小さく首を振った。基之は眉をひそめ、夏見を見つめた。その目の奥には、言葉にできない感情が渦巻いている。しかし結局、唇をきつく結んだまま無言で背を向け、反対方向へと歩き去った。このレストランの座席はすべて、一階のホールに並んでいる。夏見は視線を逸らそうとしたが、背後のテーブルから聞こえる笑い声が、一言一句、耳の奥まで突き刺さってきた。彼女は手にしたグラスを強く握りしめ、指の関節が白く浮き上がった。「そんな顔しないで」心配そうに見つめる友人たちに向かって、無理に口角を上げて笑ってみせた。「本当に、大丈夫だから」志帆の目が赤くなった。「……なるほど、前にあなたが夜中に電話してきて、もう基之のそばを離れたいって言ってたわけだ」彼女の声が詰まった。「彼のそばには、もう別の人がいるのね」そして怒りをこらえながら、言葉を絞り出した。「約束、彼は忘れたの?勲章を取ったらあなたと結婚するって言った、その言葉を!あなたはそれを信じて、十年も待ってたのに」志帆の声は震えた。「なのに、今になって――出世して最初に捨てたのが……」言葉の続きを飲み込み、顔を背けた。その場に沈黙が訪れた。やがて、夏見の瞳が静かに赤く染まっていく。うつむいたまま、小さな声でつぶやいた。「……きっと、もう忘れたのね」あの「勲章」に縛られていたのは、最初から彼ではなく、彼女の方だったのだ。言い終
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第6話

願いを言い終えた頃には、基之のテーブルはすでに片付けられ、誕生日会もすっかり終わっていた。外はすでに夜の気配が濃く、健と志帆もそろそろ帰る時間だ。夏見が彼らを入口まで見送りに出たとき、階段の上で健がふと立ち止まり、振り返った。彼はもともと多くを語らない性格だが、そのときはまっすぐに夏見の瞳を見つめて言った。「夏見――本当の愛っていうのは、相手を不安にさせるものじゃない。基之のああいう態度は……」夜風が彼の言葉をさらっていった。「……それは、愛の形とは言えない」夏見の目尻がわずかに赤くなり、拳をぎゅっと握った。「うん、健さん……分かってる」二人を見送ったあと、彼女はあてもなく歩き出した。気づくと、足はいつの間にかレストラン近くの広場にたどり着いた。夜風に乗って、どこからか笑い声が聞こえてきた。顔を上げると――夜空いっぱいに色とりどりの花火が咲き乱れている。その光の下で、基之は静菜の耳をそっと両手でふさいでいる。彼女を見下ろすその眼差しは、痛いほどに優しい。それは、夏見が一度も受けたことのない、特別な扱いだ。静菜は空に咲く花火を見上げ、嬉しそうに笑っている。けれど基之の視線は終始その笑顔に釘付けだ。夜風が冷たくなり、夏見は立ち尽くしたまま、自分の影が花火の光に照らされて揺れるのを見つめている。そして呆然とした様子で、服の裾を握りしめながら、自嘲気味に微笑んだ。「……どうやら、私の誕生日の願いは、もう叶っちゃったみたいね」彼女が振り向こうとしたとき、背後の夜空から突然、異様な破裂音が響き渡った。驚いて顔を上げた瞬間、基之の鋭い視線とぶつかった。数発の暴発した花火が流星のように四方へ弾け飛び――そのうちいくつかが夏見と静菜の方へまっすぐ飛んでくる。刹那、基之の瞳孔がぎゅっと縮んだ。思考が追いつく前に、彼の体が動いた。脱ぎ捨てたジャケットを宙に投げ、静菜の体をしっかりと包み込んだ。そのすれ違いざま、彼が起こした風が夏見の髪をかすめた。ひとつの火の粉が彼女の開いた掌に落ち、肌に小さな火傷の跡を残した。だが、彼女は痛みを感じていないかのように動かなかった。ただ、彼の背中を見つめながら、夜風に肌の焼けた匂いを任せている。――心が何度も置き去りにされると、痛みさえも鈍くなってしまう。夏見はもう
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第7話

スマホの画面に浮かんだ、たった五文字の短いメッセージ。それを見つめる夏見の指先には強い力が入り、節が白くなるほどだ。胸の奥で、得体の知れない不安が静かに渦巻いている。けれど彼女は、その正体を突き止めようとはしない。その夜、彼女は何度も寝返りを打ち、夜明けが差し込むまで一睡もできなかった。そしてようやく、【わかった】と短く返信した。――いずれにせよ、終わりをつけなければならないことがある。約束の場所はKレストラン、昼の12時。そこは、かつて基之が初めて彼女を連れて行った洋食屋だった。当時の夏見はナイフとフォークの使い方すら知らなかったが、彼が手を取って教えてくれたおかげで、恥をかかずに済んだ。約束の日、彼女は基之からもらった白いワンピースを身にまとった。それは彼からもらった最初で最後の贈り物だ。ワンサイズ小さいそのワンピースを着るために、彼女は必死に食事を減らし、体重を落とした。それでも、ウエストはまだきつく、呼吸をするたびに苦しくなる。ドアを押して店内に入ると、基之はすでにいつもの席に座っている。大きな窓から差し込む日差しが、彼の端正な横顔をやわらかく縁取っている。目が合った瞬間、彼は久しぶりに優しい声で言った。「今日の君は、とても綺麗だ」「……ありがとう」掠れた声で、夏見は答えた。ウェイターがメニューを差し出すと、基之は迷うことなく「ステーキ、ミディアムレアで」と注文し、彼女に視線を向けた。「君は?」ナイフとフォークの金属が光を反射し、それは初めてこの店に来た日の光景と同じだ。――ただ、もう誰も彼女の手を取って使い方を教えてはくれない。「ウェルダンでお願いします」夏見はメニューを閉じ、金色の文字を指先でそっとなぞった。ウェイターが去ると、基之はグラスを手に取った。立ち上る水蒸気が、彼の表情をかすかに曇らせた。「覚えてるか?初めてここに来たとき、俺が国民護衛隊に入りたいって言ったこと」彼の親指が無意識にグラスの縁をなぞっている。「両親――二人とも元軍人なのに、反対してて。でも君だけが言ってくれた……」「やりたいことは、やってみたらいい」夏見が小さく続きを口にした。睫毛の影が頬に細やかな揺らぎを落とした。「……あの頃の私はね」彼女は小さく笑ったが、目は暗いままだ。「
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第8話

本来、それは基之が望んでいた答えのはずだった。けれど、夏見の口からその言葉を聞いた瞬間、なぜか彼の胸の奥に、言いようのない痛みがじんわりと広がった。基之はナイフとフォークを手に取り、切り分けた肉を口に運んだ。柔らかく、肉汁が溢れ、完璧な焼き加減のはずなのに――なぜか苦味を感じた。しばらくして、彼は夏見の目をじっと見つめた。彼女の表情の裏を読み取ろうとしたが、その顔には終始、淡々とした静けさが漂っている。まるで他人事を語っているかのように。基之の言いたいことは山ほどあった。聞きたいことも、問い詰めたいことも数多くあった。けれど、結局すべての思いは、たった一言に凝縮された。「……夏見、ごめん」夏見はふっと微笑んだ。その穏やかすぎる声が、かえって胸を締めつけた。「謝らないで。むしろ――ありがとう。これでようやく、あの合わないワンピースを無理に着る必要がなくなる。そして、十年前の口約束にしがみつく必要もなくなる」その声は、氷のかけらが深い水面に落ちるように静かだ。けれど、確かに響き、余韻を残した。「十年。99回のプロポーズ、99歩の距離」彼女はふっとうつむいて笑った。睫毛の上に、月明かりの粒がかすかに揺れた。「もう、数えるのはやめるわ」彼女は指先で、色あせたワンピースの裾を無意識になぞった。「最後の一歩は――」風の音が残りの言葉をかき消した。その瞬間、彼女の体が後ろに引かれたように見え、まるで時間が止まったかのようだ。「……振り向くために、取っておくわ」彼女は少し顔を上げた。目元は赤く滲んでいるが、意地を張って涙をこぼさなかった。「近石基之――覚えておいて。私のほうから、あなたはいらないって言ったの」そう言い残し、彼女は一度も振り返ることなく歩き去った。背後から基之の声が追いかけてきた。「夏見!どこへ行くんだ?送っていく――!」夏見の頬を一筋の涙が伝い落ちた。それでも、彼女は振り返らなかった。「いらないわ、基之」掠れた声で、彼女は呟いた。「もう……道が違うの」それだけ言い残して、彼女はレストランをあとにした。基之はその場に立ち尽くした。まるで体の芯から力を抜き取られたかのように、喉元で言葉が詰まり、何も出てこなかった。――夏見が戻ったのは、あの別荘。もともと基之の両親が、二人の新
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第9話

「……もういいわ、鞠子さん。新幹線が来るみたいだから、そろそろ乗りますね」夏見は慌てて電話を切った。これ以上話していたら、きっと離れられなくなってしまう気がしたのだ。彼女はスマホをしまい、列車に乗り込んだ。画面には、ここ数日間に基之からの数件の不在着信とメッセージが残っている。【今どこにいる?】だが、彼女は返信しなかった。ただ電源を切っただけだ。夏見はひどい乗り物酔いをするため、列車の中ではスマホを触らない。十時間の長旅を経て、ようやくM市の駅に降り立ったとき、背後から親友の志帆の声が響いた。「夏見!こっちだよ!」……勲章を授与されたその日、仲間たちは皆、喜びに満ちた笑顔を浮かべている。「やったな、基之さん!家訓も果たしたし、これでようやく静菜さんに告白できるな!」「おめでとう、基之さん!これでようやく、お二人が末永くお幸せに!」そんな祝福の声が飛び交う中、基之だけはなぜか笑えない。胸の奥に、説明のつかない空洞がある。S市に戻ったときも、仲間たちは口を揃えて「まず静菜さんのところへ行け」と背中を押した。だが彼は「先に着替えてから」と言い張り、まっすぐ自宅の別荘へ戻った。車を降り、大股で玄関をくぐった。だが、家の中は不気味なほど静まり返っており、人の気配がまったくなかった。違和感を覚えたが、基之はその原因が分からない。ほどなくして、掃除に来ていた家政婦の由梨の姿を見つけた。「佐藤さん、夏見は?」由梨は戸惑いながら答えた。「さあ……私が来たときには、もう堀友さんの姿は見当たりませんでしたよ」その言葉に、基之の心臓がドクンと大きく鳴った。長靴のまま、階段を一段一段踏みしめる。そして、彼女の部屋の前で立ち止まり、扉をノックした。「夏見。……夏見?」彼は小さな声で呼びかけた。しばらく待っても沈黙が続いたため、彼はゆっくりと扉を押し開けた。――次の瞬間、息を呑んだ。そこには、夏見の痕跡が一つも残っていない。クローゼットの中は空っぽで、ドレッサーの上にも何もない。床には埃ひとつなく、彼女がいつも履いていたふわふわのスリッパも見当たらない。唯一、裸のベッドボードだけが月明かりを反射し、冷たく輝いている。まるで癒えない傷跡のように。基之の瞳孔は無数の針で刺されたかのように縮み、
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第10話

基之は画面を見つめたまま、二秒ほど呆然としている。そして次の瞬間、自分の中に浮かんだ考えにハッと息を呑んだ。――今、彼はこの通知が夏見からのものだと、どこかで期待していたのだ。本来なら、静菜に告白するために、血を流しながら手に入れた勲章だ。だが今、その目的であるはずの瞬間に、彼は迷っている。【俺……】その一言を打ちかけたところで、再び通知音が鳴り響いた。【早く来い!静菜さん、もう帰っちゃうぞ!】そのメッセージを見た途端、基之は何も考えられなくなった。手の中の勲章を強く握りしめ、全速力で車を走らせた。到着した会場は、薔薇とシャンパンで飾られた、まるで夢のような告白のステージだ。同僚たちの祝福と囃し立てる声の中、花火が一斉に打ち上げられた。色とりどりのテープが宙を舞い、白いワンピースを着た静菜がゆっくりと振り返った。首元で揺れるネックレスがスポットライトに照らされ、まばゆく輝いている。だが、基之の視線はその光景を透かし、どこか遠くを見つめている。――脳裏に浮かぶのは、白いワンピースを着た夏見が彼に背を向けて去っていく姿。静菜はその場に立ち尽くし、じっと彼を見つめている。涙が今にもこぼれそうな表情を浮かべた。基之の喉がごくりと動いた。言葉を発しようとしても、まるで喉を締めつけられたかのように声が出ない。周囲の囃し立てる声が、押し寄せる波のように重なり合い、彼の呼吸を奪っていった。手の中の勲章を握る指先が自然と強張り、金属の縁が掌に食い込んだ。静菜の期待に満ちた視線がまっすぐに突き刺さった。まるで彼をその場に釘付けにするかのようだ。基之は喉から声を絞り出そうとする。唇もかすかに震えている。言葉は舌の先まで届いているのに、焼けつく炭のように熱くて声にできない。「……静菜」ようやく絞り出した声は、ひどく乾いている。勲章を握る手がわずかに震えながら、基之は言った。「俺……君が好きだ。俺の……彼女になってくれ」最後の音は、歯の隙間から押し出すようにして、やっと出た。硬直した腕を持ち上げ、彼は手の中の勲章を差し出した。ライトに照らされたその輝きは、どこか冷たく、皮肉なほど無情だ。静菜は涙をこぼしながら、こくりと頷いた。そして、その勲章を両手で大切そうに受け取った。その瞬間、基之の頭の中は真っ白になった。歓
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