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戻れぬ二人、江海の涯に
戻れぬ二人、江海の涯に
Author: そうめんは飛べない

第1話

Author: そうめんは飛べない
国民護衛隊に所属する軍人である婚約者に、99回目のプロポーズをしたが、またも冷たく拒まれた。堀友夏見(ほりとも なつみ)は親友の足立志帆(あだち しほ)に電話をかけた。

「もしもし、志帆。この前言ってた、一緒にアトリエを開こうって話だけど、まだ開きたいと思ってる?来週の新幹線のチケットを取ったよ。M市に帰るつもり」

電話の向こうで志帆が思わず目を見開いた。

「M市に帰るって?近石基之(ちかいし もとゆき)、今じゃもう隊長に昇進したんでしょ?あの人がキャリアを捨てて、あなたと一緒に戻ると思う?」

夏見はスマホを握りしめ、小さく自嘲するように言った。「ううん、私ひとりよ。もう彼とは、終わりが近いの」

その一言に、志帆は信じられないように声を荒げた。「夏見、正気なの?!

近石がまだ新隊員だったころから、あなたはずっと彼のそばで支えてきたじゃない。

任務に失敗して死にかけたときだって、肝臓を提供したのはあなただよ!

今や彼はS市基地で最年少の隊長となり、そんな立派な人の妻として安泰に暮らせるのに――

わざわざこんな田舎に戻るなんて、頭おかしいんじゃない?

まさか、近石に何かされた?」

夏見は指先をぎゅっと握りしめ、無理に笑みを浮かべた。

「……ううん、何でもない。ただ、ちょっと疲れただけ」

電話を切ったあと、夏見はその場に力が抜けるように崩れ落ちた。

床に転がる婚約指輪を見つめると、基之に拒まれたときの、あの毅然とした表情が思い浮かんだ。

「近石家の家訓だ。勲章をもらうまでは、結婚は許されない。

悪いけど、君の気持ちには応えられない」

99回のプロポーズ、99回の拒絶。理由はいつも同じ。

夏見はずっと、基之も苦しんでいるのだと思っていた。けれど今日、偶然彼のスマホを見てしまい、その内容がすべてを覆した。

そこには、国民護衛隊の同僚・玉村誠(たまむら まこと)からのメッセージがあった。

【お前さ、何なんだ?勲章の話が出るたびに逃げてばかりだな。お前んとこの許婚、ずっと待ってるんだろ?】

基之の返信を期待してスマホを握りしめた夏見。けれど彼の返事は胸を抉るような内容だった。

【傷つけたくないだけだよ。俺にとって、あいつは妹のような存在だから】

夏見はその言葉を思い出すと、涙が音もなく頬を伝った。懐かしい日々が次々と胸を締めつけた。

基之は幼馴染で、同じ団地で育ち、とても仲が良かった。

お互いの親が決めた許婚の約束が、二人の絆をさらに強めた。

けれど、両親が事故で亡くなってからは、夏見は近石家で暮らすようになった。

それからずっと、彼の背中を追い続けてきた。

「俺、軍人になる」そう言われたとき、夏見は独学で看護を学んだ。彼が傷ついたとき、誰よりも早く手当てできるように。

「短い髪が好きだ」そう言われたとき、十八年間伸ばしていた長髪を迷わず切った。ただ、彼に少しでも見てほしかったから。

初めての任務で彼が瀕死の重傷を負った際、医者が肝臓の提供を求めた。両親でさえためらう中、夏見は迷わず署名した。

あのとき、麻酔から目覚めた基之は、夏見の手をしっかりと握りしめ、声を詰まらせながら言った。

「近石家の家訓では、勲章を取らなければ結婚できない。取れなければ、一生独り身で終わる。

待っててくれるか?必ず勲章を手に入れて、君と結婚する」

彼がそう言ったとき、夏見は信じた。そして十年間、待ち続けた。

ついに彼が功績を挙げ、夢だった勲章を手に入れたとき――夏見はようやく報われると感じた。

だが現実は残酷で、勲章はただの口実に過ぎなかった。

彼にとって、夏見は妹のような存在だ。

回想に沈んでいた夏見は、不意にテレビの光に顔を照らされた。

画面には、今日の任務に従事している基之の姿が映っている。

医務室でインタビューを受ける彼に、記者がマイクを向けた。

「近石隊長、昇進後初の任務はいかがでしょうか。以前と比べて、現在のお気持ちに何か変化はございますか?」

その瞬間、彼の眉間にわずかな皺が寄った。

十八年間も彼を見てきた夏見には、それが苛立ちのサインだと分かる。

どう答えるのだろうと見守っていると――冷たい女性の声が割り込み、記者の質問を遮った。

「失礼ですが、取材はここまでにしてください。私たちは軍人です。マスコミに注目されると困ります」

その声に、夏見はテレビに目を向けた。彼女の知っている人だ。

横島静菜(よこしま しずな)――基地に新たに配属された医者。

この一年間、基之が怪我をするたびに、彼女がいつも治療してきた。

夏見の前で基之も何度か静菜の話をしており、そのたびにどこか嬉しそうだった。

テレビの中で、静菜は記者を押しのけ、綿棒を手に取り、冷ややかな声で言った。

「顔を上げて」

その口調で基之に命じられる者は他にいない。静菜だけが例外だ。

だが基之は怒るどころか、素直に顔を上げ、その瞳には夏見が一度も見たことのない優しさが宿っている。

記者が苛立ち気味に口を挟んだ。「あなたは誰ですか?私が聞いているのは近石隊長のことですよ!」

基之は少しだけ目を細め、唇の端を上げて言った。

「彼女の言うとおりだ」

その瞬間、夏見の指先が掌に食い込んだ。けれど痛みは感じなかった。

もう辛さを感じて見ていられず、リモコンを取ってテレビを消した。

これ以上彼のことを想うのは、失礼かもしれない。

終わりの見えない片想い。自分で始めたのなら、自分の手で終わらせよう。

握りしめた新幹線のチケットを見つめながら、夏見は静かに決意を固めた。

一週間後、彼女はこの街から完全に姿を消す。

もう二度と彼を困らせないために。

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