Share

第3話

Author: そうめんは飛べない
言い終えると、誠は無意識に夏見の方を見た。その目には、かすかな警告の色が宿っている。

だが、基之のそばにいる同僚たちは気づく様子もなく、むしろ調子に乗って話を続けた。

「おお、お前が言ってるのは基之さんの許婚のことだろ?」

「その相手は家柄もなけりゃ、後ろ盾もない。昔から釣り合わなかったのに、今や基之さんが昇進までした。もうますます釣り合わねぇよな」

「肝臓を提供して何年かそばにいただけのくせに、それを恩に着せて無理やり基之さんと結婚しようとしてるんだろ?」

「俺は、ああいう奴が一番嫌いだ。恩を武器にして、感謝を踏み台にするタイプ」

「恋愛ってのは、互いに想い合ってこそだろ?一方的にモラルを言い訳にして押しつけるのは何なんだ?あいつのやってることは、基之さんの罪悪感を利用してるだけだ。ほんと胸くそ悪い……」

その言葉を聞くうちに、夏見の胸の奥が鈍くえぐられた。まるで鈍い刃で心臓のあたりを何度も何度も抉られているかのようだ。

彼女はテーブルの端をつかみ、ゆっくりと立ち上がった。指先が小刻みに震えている。「……みんなさん、ゆっくり食べてください。私、ちょっと気分が悪いから先に帰ります」

そう言って、夏見は個室を出て行った。

ドアに手をかけた瞬間、背後から荒い足音が迫ってきた。

基之が彼女の手首をつかみ、息を乱しながら言った。「怒ったのか?

気にするな。彼らは昔からああいう奴らで、何でもズバッと言うんだ。もし無礼があったなら、俺が……」

「基之、それは謝るような話じゃない」彼女は自嘲気味に笑い、彼の言葉を遮った。

「じゃあ、何なんだ?」基之の声には戸惑いが混じっている。

夏見はまっすぐ彼の目を見つめ、爪が掌に食い込んだ。

「どうして……みんながいとこだなんて言ったとき、あなたは一言も否定しなかったの?」

基之の体がぴくりと固まり、喉仏がごくりと動いた。けれど、言葉は出てこなかった。

「あなたの心の中では――」夏見の声は震え、今にも泣き崩れそうだ。

「私は……あの人たちが言うように、恩を盾にしてあなたに結婚を強要する卑しい女なの?」

空気が凍りついた。基之は視線を落とし、長い沈黙が夏見の心を鈍く切り裂いていった。

「夏見……君、酔ってるんだ」彼はようやく口を開き、彼女の手首をそっと握った。「送っていくよ」

かつては、その手の温もりに胸が高鳴った。けれど今は――

「今日、私お酒なんて飲んでない!」夏見は勢いよくその手を振りほどき、血を吐くような声を上げた。

その声は、刃のように二人の間の空気を断ち切った。

基之は二歩ほどよろめき、驚愕のあまり顔を歪めた。

十八年――

これまで一度も見たことがなかった。こんなにも涙と怒りと絶望に染まった夏見を。いつも従順な彼女が、今は呼吸さえも震えている。

「基之、知ってる?来週、私――」

「基之さん!」突然、個室のドアが勢いよく開いた。一人の同僚が慌てた様子で顔をのぞかせた。

「横島先生の足首がひどく腫れてて、すぐに病院へ行かないと!」

基之の表情が一瞬で変わった。夏見の言葉を最後まで聞くことなく、「夏見、ちょっと待ってて。すぐ戻るから――」

そう言い残すや否や、彼の背中はすでにドアの向こうに消えている。

廊下の白い照明が、夏見の顔を冷たく照らしている。

彼女は口を開き、やっと残りの言葉を風に溶かすように呟いた。

「来週……私はM市に帰るの」

……

それ以来、基之は戻ってこなかった。そして夏見も、もう待つことはなかった。

帰りのタクシーで、彼女はまっすぐ別荘へ戻ると、十年間大切にしまっていた一冊の日記帳を取り出した。

それは十年前――

基之が「勲章を取ったら必ず君と結婚する」と言ってくれたあの日に買ったもの。

その後の十年間、彼女は彼がその勲章を手にする日を、毎日心待ちにしていた。

待つ時間があまりにも長く、彼女は期待と苦しみのすべてを日記に書き留めてきた。

けれど――もう、必要はない。

彼はもう彼女を必要としていない。そして彼女も、もはや書く意味を見いだせない。

震える指先で日記帳を持ち上げ、夏見はゆっくりと暖炉に投げ入れた。

紙が音もなく燃え上がり、少女の想いを込めた言葉が灰となっていく。

十年かけて書き上げたものが、わずか十秒で燃え尽きた。

炎が最も激しく燃え上がったその時、背後から驚愕と怒りが入り混じった声が響いた。

「君、何してるんだ!」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 戻れぬ二人、江海の涯に   第16話

    豪雨のあと、夏見は重い足取りで家に戻った。鍵が鍵穴に触れた瞬間、突然の力で熱く焼けつく腕に引き寄せられた。彼女は驚いて身をよじったが、後ろの首に湿った感触がある――雨でずぶ濡れの体が触れたのだ。「俺だ」掠れた声が彼女の耳元をかすめた。振り返ると、基之の赤く充血した瞳が目に入った。普段は誇り高いあの目が血走り、顎のラインは折れそうなほど強張っている。彼の腕が彼女の肋骨を締めつけ、震える吐息が肩の窪みに押し潰されている。「ちょっとだけ、抱かせてくれ。ほんの少しでいい……お願いだ……」夏見は全身が硬直し、瞳孔が急速に収縮した。背中に密着する体温は灼けるようで、全身が痺れた――これは彼女が無数に想像した抱擁。だが今、現実はあまりに異質で、震えが走った。「放せ!」声の調子が変わり、肘が本能的に後ろへ跳ねた。抜け出して振り向くと、夏見は壁際でよろめきながら後ろの消防設備にぶつかった。基之のシャツはずぶ濡れで、中で激しく動く胸の動きが見える。決して人前に見せなかった狼狽の姿が、初めて夏見の目に映った。しかし、驚くよりも先に湧き上がったのは滑稽さだ。「酔ってるの?」長年の付き合いの中で、基之が酔っている姿を見たことがなかった。これは彼女にとって、初めて目にする泥酔した彼だ。基之は答えず、ただ夏見の瞳を見つめ、長く胸に秘めていた言葉を口にした。「夏見、君のことが好きだ」彼は彼女の驚いた瞳を無視して、話を続けた。「ずっと好きだ。でも、自分の気持ちを認められなかった。今になってようやくわかった――愛しているのは君だ」この言葉を、夏見は十年間待ち続けていた。しかし、基之が口にした瞬間、なぜか期待していた胸の高鳴りは訪れなかった。十年間、いつでも言えたはずの言葉を、彼は言わなかった。そして、この言葉が出たのは、彼女が離れたそのタイミングだ。皮肉なことだ。十年も待ち続け、心は冷え切り、完全に諦めていたのに。彼から目を離すことを学んだのに。こんな時、彼はかつて彼女が最も望んでいたものを手に入れ、遅れてやってきた。基之は喉を詰まらせ、指先が無意識に丸まり、何かを掴もうとしたが、結局はただ垂れ下がった。「君の周りの人に聞いたんだ……」低く掠れた声に執着が混ざっている。「君は恋愛していない――嘘をついたんだ

  • 戻れぬ二人、江海の涯に   第15話

    夏見はその言葉を聞いて軽く笑った。その清々しい笑みは鋭い刃のように、基之の最後の望みをあっさりと断ち切った。「手放したんじゃない――ようやく前に進むことを学んだの。近石基之……」彼女は突然、彼のフルネームを呼んだ。声はかすかで、まるでため息のようだ。「私のこと、いつもうるさいって思ってたでしょ?」そして振り返り、健の手を握った。十本の指が絡み合った瞬間、雨音が突然、耳をつんざくほど大きくなった。「あなたの望み通り、もうあなたにまとわりついたりしない」そう言い残し、夏見は振り返った。指先は健の掌にわずかに震えを残しつつも、決して離れなかった。二人は並んでカフェを出た。背後でガラスの扉がゆっくりと閉まり、基之の固まった姿を永遠に記憶の彼方へと隔てた。雨の中、二人が交差点を渡っていると、夏見の足が突然もつれた。健が手を伸ばす間もなく、彼女は歩道の水たまりに膝をついた。長く抑えていた嗚咽が喉を突き破り、激しい雨の中で砕け散った。雨水が髪先から口元に流れ込み、塩気が雨なのか涙なのか判別できない。健は傘を支える手の指の関節を白くしながら、最終的に傘をわずかに彼女の方へ傾けた。雨水が彼の左肩を濡らし、シャツに染み込む冷たさが彼をはっとさせた――二人の間には、ずっとちょうどよい友人としての距離感が保たれている。彼はしゃがみ込み、差し出したティッシュを途中で止めた。「利用されたのは俺だ。俺は泣かなかったのに、なぜ君が泣くんだ?」軽く装った声には、本人も気づかない震えが隠れている。街灯が二人の影を水たまりに映しているが、その間には三センチの距離が保たれている。まるで、この年月、細心の注意を払って守り続けてきた距離のように。夏見はゆっくりと顔を上げた。雨と涙が彼女の蒼白な頬を伝い、細い川のように流れている。震える睫毛には細かな水滴が光を反射し、砕けたように煌めいている。「健さん……」声は雨に濡れて、しわくちゃになったようだ。「もう二か月……私は必死に頑張ってきたのに……」夏見の指先は無意識に彼の袖を握り、関節が白くなった。「でも、どうして……彼を見ると、ここが――」胸を押さえ、嗚咽で言葉がほとんど出ない。「まだ痛いの?」健の喉仏が苦しげに動き、言葉にできなかった想いは重いため息へと変わった。彼

  • 戻れぬ二人、江海の涯に   第14話

    夏見はわずかに体をそらし、よそよそしい口調で言った。「あなたは私にとって、尊敬する兄のような存在。理屈で言えば、もしM市に来てくれたなら、きちんとおもてなしすべき」彼女は腕時計を見ながら、落ち着いた声で続けた。「でも、今日は残念ながら約束があるの」「兄のような……?」基之は呆然とした。その呼び方は鈍い刃のように、少しずつ胸を抉るようだ。かつて彼は、彼女に本当に自分を兄として見てほしいと願ったこともあった。しかし今、その言葉を耳にした瞬間、胸に込み上げたのは言葉にできない鈍い痛みだけだ。基之は声を震わせながら言った。「夏見……今の君は、本当に俺のことを兄のような存在として見てるのか?」長い沈黙の後、夏見はふっと笑みを浮かべた。その瞳には冷たい光が宿っている。「そうじゃないとしたら?」彼女は彼の目をじっと見つめた。「これって、昔あなたがずっと望んでいたことじゃないか?」基之は、心臓が引き裂かれるような痛みに襲われた。一歩踏み出し、かすれた声で言った。「もし、俺は君のことを妹以上に思っていたら?」「妹以上……って、何?」夏見は小さな声で返し、その瞳に皮肉が漂っている。彼女は思い出した――眠れずに転げ回ったあの夜、「俺は彼女を妹みたいな存在として見てる」という基之の言葉に、泣きじゃくったあの夜を。基之が口を開こうとしたその時、カフェの入口から清らかな声が響いた。「夏見、こっち」健はガラス扉の外に立ち、手に透明で長い柄の傘を握っている。細かい雨が彼の後ろで、朧げなカーテンのように降り注いでいる。夏見の表情はたちまち柔らぎ、唇に自然な笑みが浮かんだ。「待ち合わせしてた人が来た」彼女は基之に向き直って言った。「先に行くね」一歩踏み出した瞬間、手首を強く掴まれた。振り返ると、基之の赤く充血した瞳と目が合った。「彼はあの日のレストランにいた人か?」彼の声はかすれ、恐ろしいほどに震えている。「君たち……付き合ってるのか?」雨音がガラスを叩く音が急に鮮明に響いた。夏見はそっと手を振りほどき、答えずに健のもとへ走り出そうとした。だが、その前に振り向きざまに小声で認めた。「そうよ、彼は私の彼氏」彼女の声は雨音に溶け込むかのようにか細かった。だがその言葉は、基之の胸の奥で、何かが砕ける音を響かせた。それはま

  • 戻れぬ二人、江海の涯に   第13話

    知らぬ間に、夏見がM市に来てからすでに二か月が経っていた。引き出しの中のスマホが、再びあの馴染み深い振動を始めた。着信表示は、まだ乾いていない油絵の絵具の上に、四文字を映し出している。彼女は【近石基之】という文字が琥珀色に溶けていくのを見つめている。指先は受話ボタンの上にかかっているが、結局押すことはなかった――二人の間には、言い尽くすべき言葉が多すぎて、沈黙さえが最も安全な距離となっているのだ。彼女は志帆から届いた報告のメッセージを確認した。【夏見、あなたのあの絵が高額で買い取られたよ。それに、私たちのアトリエも黒字に転じ始めた】その知らせを聞いた夏見の目には、抑えきれない喜びが宿った。簡単に返信を返すと、再び画筆を手に取った。実は、彼女は大学で美術を専攻しており、絵の才能はずば抜けていた。さらに、美術大学の関係者から留学資金の提供も申し出られていた。だが、基之の後を追いたい一心で、長い間考えた末に断っていた。6700マイルも離れた距離にいても、夏見が唯一気にかけていたのは基之だけだった。しかし今、彼女と基之は別れた。だから、ようやく自分の趣味に取り組む時間ができたのだ。午後、夏見は志帆に教えてもらった住所へ向かい、絵を購入した人に会いに行った。だが、カフェに到着して扉を押し開けた瞬間、彼女の足は突然止まった。窓際の席で下を向き、画集をめくる姿が――あまりにも見覚えがあり、目が痛くなるほどだ。基之が顔を上げると、夏見は図面ケースを握りしめ、指先が白くなるほど力を込めて立っている。「あなた……」喉に言葉が詰まった。「俺が、その絵を買った人だよ」基之は画集を閉じた。表紙には夏見の作品が大きく印刷されている。夏見の目に驚きの色が走った。基之が絵を収集する趣味がないことは、彼女がよく知っている。ましてや、たった一枚の絵のために、わざわざS市からM市まで来るはずがない。こんな偶然があるはずがない――それなのに、その絵は偶然にも彼女の作品だ。彼女が困惑している間に、基之は喉仏を動かし、声をわずかに震わせた。「夏見、この二か月間……すごく会いたかった」夏見は眉間に軽く皺を寄せ、唇に苦い笑みを浮かべた。「基之、そんなこと言って……彼女に怒られないの?」「もう……彼女とは別れた」

  • 戻れぬ二人、江海の涯に   第12話

    基之が別荘に戻ると、思わずいつものように声を上げた。「夏見?」しかし、空っぽの屋内に響くのは、自分の声だけだ。一瞬呆然とした後、彼はすぐに口角を引き上げて自嘲気味に笑った。――どうしてまた忘れてしまったのか。夏見はもうここにはいない。最初の頃、彼はまるで何かを見逃すのを恐れているかのように、毎日別荘に戻っていた。しかし次第に、この家の静けさに息が詰まるようになり、結局彼自身が引っ越すことになった。出て行く日、リビングの入口に一冊のカレンダーが置かれているのを見た。手に取ってみると、びっしりと印がつけられている――すべて彼が任務を終えて帰宅した日々の記録だ。誰がつけたかは一目瞭然で、夏見以外に彼の帰宅日を気にする者はいない。視線がふと、7月25日の日付で止まった。その日付は赤いペンで太く丸が描かれ、【私の誕生日】と書かれている。隣には手描きの笑顔。筆致は軽やかで、期待を込めているようだ。基之はカレンダーを握りしめ、指先が白くなった。瞳には驚きの色が隠せない。その笑顔のマークを見つめると、彼は喉が詰まった。――その日は静菜の誕生日だった。彼は思い出した。この件で夏見と大喧嘩したこと、そして深夜に静菜に誕生日の祝福を届けたことを。しかし、あの日が夏見の誕生日であることだけは、まったく覚えていなかった。基之の手はかすかに震えた。あの笑顔は鈍い刃のように、少しずつ彼の心臓を切り刻んでいる。そして、喧嘩の日の夏見の最後の眼差しを思い出した――言いたいことを押し殺した瞳の奥に、千の言葉が詰まっていた。しかし、それは結局、沈黙へと変わった。あの日、夏見は行きたくなかったわけではなかった。ただ、その日も彼女の誕生日だった。遅すぎる後悔が、巨大な岩のように基之の胸に重くのしかかり、息苦しさをもたらした。そのとき、スマホが震え、画面に静菜からのメッセージが表示された。【基之、あなたの家の前にいるわ】しばらくして、次のメッセージが届いた。【最近、私の勘違いかもしれないけど、ずっと私を避けている気がする】基之は画面をじっと見つめている。ここ数日、静菜に会う気になれず、彼女を冷たく扱っていた。しばらく考えた末、ついに静かに玄関へ向かった。「水」彼はガラスを向かいに座る静菜に差し出した

  • 戻れぬ二人、江海の涯に   第11話

    送信した瞬間、基之の呼吸が一瞬止まった。指先は無意識のうちにスマホの縁をなぞった。後悔のようでもあり、何か予め知っている答えを待っているようでもある。スマホが突然震え、画面が光った瞬間、基之は目を細めた。夏見の返信は予想以上に早く、一行の簡潔な文だが、鈍い刃のように胸を刺した。【何を返せばいいの?】彼の指先は画面の上で止まったままだ。そのとき、残酷な事実に気づいた――彼女が【いいね】を押したのは、自分と静菜のカップルツーショット写真だ。トーク画面の上部に【入力中】と何度も表示され、やがて送られてきた文字は――【わかった】続けて、もう一行――【基之、静菜とお幸せに。早く結婚できますように】その文字を見つめる基之の喉が詰まったように感じられた。指は無意識に握りしめられ、指先が白くなり、まるでスマホを握り潰しそうなほどだ。突然、彼は左胸に手を当てた。そこに鋭い鈍痛が走った。心臓を誰かに握り潰されるようで、内側から何かがゆっくりと砕けていくようでもある。……M市に到着した初日、夏見はキャリーケースを引きながら、志帆が手配してくれたアパートの前に立っている。扉を開けると、日差しが掃き出し窓から室内に満ちている。広すぎはしないが、オープンキッチンや温かみのある寝室、緑にあふれた小さなバルコニー――すべてが友人の心遣いを物語っている。「志帆、ありがとう……」少し声を詰まらせながら、夏見は荷物の整理を手伝っている友人を見つめた。「私のために、こんなに苦労してくれて……」「バカなこと言うな!」志帆はぴんと背筋を伸ばし、手には包装を取ったばかりの枕カバー。「私たちの間柄に遠慮なんて必要ないだろ!これ以上遠慮したら怒るぞ」彼女はわざと真顔を作ったが、夏見の赤くなった目の下を見ると、すぐに表情が和らいだ。夏見は唇を噛み、財布から古びたキャッシュカードを取り出して、丁寧に志帆の手のひらに置いた。「これは両親が残してくれたもの……中には二千万円あるの。この十年間、一度も使わなかった」彼女は指先でカードの表面をなぞった。「私たちの起業には資金が必要。場所も人員も、すべてお金がかかる。まずはこれを持ってて」志帆の手のひらが、突然熱を帯びたように感じた。彼女は知っている。これは夏見の全財産であり、亡き両親

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status