*** 店を出ると、夜の風が頬を撫でた。少し冷たい空気が、熱を帯びた心を落ち着かせてくれる。「はなれ亭」の看板は灯りが落ちていて、暗闇に浮かぶその文字が、まるで今の自分を映しているように見えた。 ――「僕、友則さんの支えになりたいんです」 ――「もっと僕に頼ってください」 拓海くんの声が、まだ耳の奥に残っている。それはまっすぐで、揺るぎがなくて。しかも何度も視線を逸らそうとしても、あの瞳だけは追ってきた。 彼を思い出しながら、手のひらを見つめる。そこに残る熱――もう拓海くんが触れていないというのに、確かに何かが灯っている気がした。 ――俺は、何をしているんだろう。誰にももう触れられたくなくて、傷つくくらいなら一人でいいと思っていたのに。 それでも、あのまっすぐな想いに心の奥が少しずつほどけていくのを感じてしまう。 あの人に捨てられた傷は、まだ癒えていない。けれど、今夜だけは痛みだけの夜じゃない気がした。 ふと見上げた空には薄い雲の切れ間から、滲むような星がひとつ光っていた。頼りないけれど、確かにそこにある光。「……信じてみてもいいのかもしれないな」 小さくつぶやいた声が、夜風に溶ける。ポケットの中で、指先がレシートに触れた。“豚汁定食”――その文字が妙にあたたかくて、思わず笑みがこぼれる。 星の光がゆらりと揺れて、誰もいない通りを明るく照らした。 友則さんに告白した次の日。夜明け前の空は、薄墨を流したような灰色をしていた。窓の外で、雀が短く鳴く。冷たい空気がゆっくりと部屋に満ちていく。 胸の奥に、小さな不安が沈んでいた。友則さんの瞳に宿っていた迷いを、僕は見逃さなかった。――押しすぎたんじゃないか。怖がらせたんじゃないか。 そう考えれば考えるほど、心臓が重く鳴る。 それでも、後悔はなかった。あの夜、ようやく自分の気持ちを言葉にできた。たとえ答えが返ってこなくても、嘘のない想いだけは確かに届いたはずだ。 布団の中でぼんやりしていると、母さんの声が台所から飛んできた。「拓海ー、朝ごはん冷めるわよー」 「いま行くー」 返事をしながら起き上がり、鏡の前で髪を整える。目の縁が少し赤いのは、きっと寝不足のせいだろう。けれど胸の奥は、不思議と軽かった。 リビングに顔を出すと食卓には、湯気の立つ味噌汁と焼き鮭が用意済みだった。
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