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285 Chapters

第二章:傷の音

しばらくすると九条さんは隣室のソファに身を預け、壁越しにこちらを眺めた。濃い睫毛の奥から放たれる視線は、俺の動きを音のように捉えているみたいに感じた。 それでも集中して調律したことで、ピアノの音は淀みなく、理想に近いバランスを保たれた。作業がうまくいったことに安堵のため息をつき、工具を布で包もうとしたとき――。「ねえ、芹沢くん」 静かだが芯のある声に、俺は反射的に振り返る。九条さんはソファで脚を組み、肘を背もたれに乗せたまま、こちらを見ている。 スポットライトのような陽光が彼の整った顔を照らし、瞳の奥に琥珀色の光が揺れた。俺の心の奥を覗き込むような、柔らかくも鋭い視線だった。「君の左手側の低音……本当にほんの少しだけ、響きを残すように調律してるだろう?」 「えっ?」 そんな意図はしていない……はず。俺はどの鍵盤にも均等に冷静に、誤差なく調律した。「そうか。わざとじゃないのなら、それは君の癖だ。あの音だけ、僅かに余韻が長く続く」 九条さんは言いきって、調律の終えたピアノに近づいていくと、椅子に腰かける。そして間を置かずに、低音域を撫でるように鍵盤を叩いた。 その指先から奏でられたものは深く、濡れたような音が空気を震わせる。まるで夜の海の底から届くような、静かで重い旋律。胸の最奥をそっと撫でられるような感覚に酔いしれ、俺は思わず息を止めた。「うん、とても優しい音だ。なにも身にまとっていない心を、優しく包み込むような――」 彼の言葉で、胸の内が異様にざわめく。俺は意識して、音を整えてきたつもりだった。どの鍵盤にも偏りなく、プロとして完璧に仕上げたはず。なのに九条さんの耳は、俺の無意識の感情さえも拾い上げてしまうらしい。「俺は……そんなつもりじゃ」 「否定しなくていい」 九条さんは鍵盤から目を離さず、ふっと微笑む。「僕、この音が好きだ。君の指が残した、君だけの痕跡だから」 その声は静かで、どこか熱を孕んでいた。俺の心の隙間を埋めるように、甘く響く。思わず喉の奥が詰まり、言葉を失う。「ねえ芹沢くん。君ってさ、言葉にしない感情を、指に預けてるだろう?」 笑うでもなく、詰るでもない。九条さんはフラットな口調で訊ねた。俺はハンマーを握りしめ、視線をピアノに落とす。なぜか、彼の目を見返すことができない。「あの……勝手なことを言って、すみませ
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第二章:傷の音2

*** 調律を終えてからも、なぜか九条さんは「もう少しここにいてくれ」と俺を引き留めた。 断る理由も見つからず、俺はソファに腰を下ろして、コーヒーカップを手に持つ。カーテンの隙間から夜が忍び込むことで、部屋全体がほのかに温度を落としたような気がした。 九条さんは黒いグランドピアノの前に佇み、鍵盤には触れず、ただ楽器そのものをじっと見つめる。その姿は、コンサートの一瞬を切り取ったかのようだった。 完璧な輪郭、静かな佇まい。きっと彼のファンなら、このまま時が止まってもいいと願うだろう。「芹沢くん……眠れない夜ってあるだろうか?」 九条さんはピアノから窓の外の闇に目を向け、ぽつりと呟く。「眠れない夜ですか?」 「ああ。誰にも逢いたくないのに、ひとりでいるのも怖いみたいな夜」 彼は振り返らずに続ける。九条さんの声には、僅かな濁りがあった。音に敏感な職業ゆえに、そんな些細なことにも気づいてしまう。「僕には昔、そういう夜がずっと続いたときがあった。音を出しても、音じゃないものにしか聞こえなかった」 その言葉に、胸の奥が締めつけられるような感覚が走った。耳が捉えた九条さんの声には、普段の艶やかさとは異なる、どこか脆い響きがある。彼の完璧な仮面の裏に、確かに“キズ”があることを感じさせた。「……なにがあったんですか?」 自分でも驚くほど自然に、言葉が口をついて出た。九条さんは短く笑い、ゆっくりと振り返る。細く切れ長の瞳に、夜の光が映り込む。頬に浮かぶ儚い影。整った顔立ちにふと滲む虚無感が、俺の息を止めた。「よくあることだよ。人を信じすぎたとか、音に縋り過ぎたとか……ね。少し前までは、それすらも“美談”にしてごまかした」 彼の声は軽く、だがどこか自嘲的だった。(彼の奏でるピアノの音と、漂ってくるこの雰囲気……そこに深いキズがあるって、ハッキリとわかってしまった) 安易に声をかけられず、俺は押し黙った。九条さんは瞼を伏せ、まるで自分の言葉を反芻するように静かに続ける。「でももう、語るほどのことでもない。ただ、たまに思うんだ。あのとき、誰かが僕を抱きしめてくれたら――って」 一瞬俺に「抱きしめてほしい」と言っているように聞こえた。いや、違う。俺が勝手にそう思っただけ。 そのことを意識した途端に急に恥ずかしくなり、心臓が速く脈を打って、コーヒーカッ
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第二章:傷の音3

*** 芹沢くんが帰ったあとの部屋には、静寂の中に彼の痕跡がいくつも息づいていた。 ドアの閉まる控えめな音。足音。カップがテーブルに置かれる乾いた響き――どれもすでに聞こえない音なのに、耳の奥でずっと反響する。まるで彼がこの空間に刻んだぬくもりが、夜の帳に溶けきれずに漂っているように。 調律を終えたピアノは、驚くほど素直に鳴る。さっき試した低音も、ただ静かに、だが確かにそこにあった――とても優しい音だった。 あれは偶然の癖なんかじゃない。無意識の、もっと深いところから滲んだ音。芹沢くんの指がそれを選んだ。彼自身がまだ知らないままに。(彼の音には、温度がある――) 冷静で真面目で、まっすぐすぎるくらいの青年。なのにピアノを調律する指先は、まるで誰かを救おうとするような音を引き出す。自分では気づかないまま、誰かの心をそっと包むような音を。 そんな音に触れたのは、いつぶりだろう。誰かの奏でるものでも、自分の演奏でもない。ただひとつの音が胸の奥にじんわりと染みて、深いキズの輪郭をなぞるような感触。 ピアノの鍵盤と同じモノクロの世界で生きる僕に、鮮やかな色彩を与えてくれるなんて。(……ズルいな、あれは――あんな音を持ちながら、僕の心に無造作に触れた。本人はきっと、気づいていないくせに)「まさに、魔性の男と表現したらいいかもな」 口に出して呟き、苦笑する。 弱いところなんて、見せるつもりはなかった。あんな言葉を、本当は言うべきじゃなかったというのに。“誰かが僕を抱きしめてくれたら”――なんて馬鹿みたいだ。今さらそんなことを思っても、どうにもならないのに。 でも彼は目を逸らしただけで、笑わなかった。なにかを悟ったような顔で、ただ静かに黙っていて。問い返さず、騒がず、逃げもせず――ただ、そこにいてくれた。(……だからだ)“司”と呼んでほしかった。誰でもないこの名前で、ステージの外の自分を見てほしかった。「ピアニスト・九条司」という虚飾を脱いだ、本当の僕の姿を。きっと彼なら、気づいてくれると思ってしまったから。 指先にカップの縁に触れたときのぬくもりが、まだ残っている気がする。ほんの僅かに、触れかけただけの熱。直接彼に触れられなかったからこそ、余計にその感触が心に焼きつく。(陽――) 彼の名前を、声に出さず心の中で呼んでみる。その響きは、彼の音
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第二章:傷の音4

*** 数日ぶりに訪れた九条さんの家は、この間と違う空気をまとっていた。 扉の奥から出てきた彼は相変わらず綺麗で、いつもどおりの穏やかな微笑みを浮かべる。けれどその笑みが妙に遠く見えたのは、気のせいだろうか――あの夜の親密さが、今日は薄い膜の向こうに閉じ込められているみたいに感じる。「芹沢くんお疲れさま。外は暑かっただろう? 中へどうぞ」 玄関からリビングに通されるまでの数メートルが、やけに長く感じる。 前回来たときは、こんなふうじゃなかった。あの夜のぬくもり――指先すれすれの熱は、今はもう空気のどこにも残っていない。ただ、サンダルウッドの香りだけが微かに漂う。 九条さんはすぐにピアノの前に立ち、背を向けたまま、いつもの軽やかな調子で話す。「この前の調律、すごく良かった。低音、まるでピアノが生まれ変わったみたいだった」 「ありがとうございます……でも、もしまたなにかあれば遠慮なく」 そこまで言うと、彼がこちらを振り返った。 笑っていた。でもその目には、前とは違う曇りがある。まるで、あの夜のことを全部“なかったこと”にしようとしているような――。「芹沢くんも本番前とか、緊張するのだろうか?」 「あ、はい。たまに」 「そう。僕もね……そういう夜は、音のないところに行きたくなる」 その言葉は、あの夜の「眠れない夜」の話と似ていた。だが、明らかに温度が違う。あの夜は脆く、触れれば崩れそうなほど近く感じたのに、今はどこか他人行儀で、心をなぞるだけの言葉に思えた。(……あれは、夢だったのだろうか) 手のひらに、あの日のコーヒーカップの感触が残っている気がするのに。俺の中では、まだ終わっていないのに。「九条さんは……あの夜のこと、覚えてますか?」 意を決して口にした瞬間、鍵盤に触れている九条さんの指がふと止まった。けれど、すぐに動き出す。鍵盤の上を軽くなぞるように。微かな単音が、部屋の静寂に溶ける。「覚えてるよ。でもあれはちょっとだけ、夜が深かったせいだね……」 まるで自分に言い聞かせるみたいに、やわらかく。だが確かに、距離を置く声だった。「僕としては、変に気を遣わせたくない。仕事の相手に、ね――」 そう言って九条さんは笑う。どこまでもやさしい顔。そのやさしさで拒まれるのが、なぜか一番堪えた。胸の奥で、なにかが軋むような痛みを感じる。
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第二章:傷の音5

*** リビングのソファに、向かい合って座る。間に置かれたティーカップは、口をつけてもすぐ冷めてしまうほど、熱のやりとりがまだたどたどしい。 九条さん――いや司が、ひとつ呼吸をおいた。「昔ね。僕には“音楽しかない”って時期があった。家の事情とかいろいろ……まあ音楽に携わる人間なら、よくある話だけど」 笑おうとしたその顔に、どこか陰りが差す。俺は黙って耳を傾けた。「ピアノの前にいれば、音に集中するだけでよかった。誰かにどう思われるか、なにを失うか……そういう雑念が、全部音に溶けていく気がした」 「……はい」 「でもね一度だけ、全部壊れかけたことがあるんだ。大きな演奏会でミスして。それだけならよくあることなんだけど、僕は……そこから立ち直れなかった」 その言葉に、思わず目を見開く。完璧なピアニスト九条司が、そんな脆い瞬間を持っていたなんて。「ひとつの音がズレただけで、世界が簡単にぐらついた。僕には“それしかない”と思ってたから。なのにその音さえ、ちゃんと弾けなかった」 「司さん」 「司って呼んで」 訂正された瞬間、頬が僅かに熱くなる。小さく頷き、声を絞り出す。「……司」 「うん。ありがとう」 その小さな“ありがとう”に、確かな痛みと感謝が混じっていた。「それからは怖かった。コンサートを開くことも、誰かと深く関わるのも、またなにかを失うのも……でも陽は違った」 司は俺の名前を呼び、嬉しそうに瞳を細めた。「気づいたら、君に話しかけてた。君が来た夜は、不思議と音が温かかった。よく眠れたんだ」 その言葉に、胸の奥でなにかが熱を灯す。まるで調律がうまくいったときの、ピアノの弦が震えるような静かな喜び。「俺はただ、調律をしただけです。でも、もし少しでも司が“音を好きでいられる”手伝いができてるなら、すごく嬉しい」 司が目を伏せる。そのまま、少し肩を揺らして笑った。その笑みには、どこか切なげな光が宿っていた。「ねぇ、陽」 「はい」 「――また、来てくれるだろうか?」 まっすぐな問い。でもそれは、音を確かめるように揺らめいたものだった。「もちろんです。何度でも来ます」 俺の言葉に、司の肩がほんの少し緩む。その表情に今まで見えなかった素顔が、静かに滲んだ気がした。「ありがとう……その言葉、今の僕には、ずるいくらい沁みる」 司は冷
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