All Chapters of 月光聖女~月の乙女は半身を求める~: Chapter 11 - Chapter 20

55 Chapters

禁忌は甘い香りと棘を持っている。薔薇のように 6

『サナン……』 たやすく気圧され、続ける言葉を失ったマテアを嘲るようにサナンは冷笑を浮かべる。『何度でも言ってあげるわ。事実だもの。あのひとの真実の相手はわたしで、あなたは単に横やりを入れただけなの。あのひとってとても優しいから、見るからに弱々しいあなたをほうっておけないのよね。それを愛情と錯覚してるだけなのよ。でもそれも今のうちだけ。すぐに返してもらうわ。『月誕祭』にはね。 ……ねぇ。わたしがなぜ<魂>を強める方法を教えてあげてるかわかる? そんな事したってむだだということを教えてあげたいからよ。<魂>の弱さを気にしてるあなたが、『月誕祭』後にそのせいでできなかったのだと思いこんで、いつまでもうじうじラヤにまとわりつくなんてこと、してほしくないの。<魂>が強まってもあのひとがあなたのものにならなければ、あなたも納得して、諦めがつくでしょう? むだな努力だってわたしは知ってるけどね。でも、界渡りをするのが怖いっていうのなら、あなたはあなたで別の方法を考えなさい。『月誕祭』まであと少し。他にいい方法があるとは思えないけれど』 ふん、と鼻を鳴らして作業に戻って行くサナンに、マテアは何も言えなかった。それは、既にラヤから思いをうちあけられ、申しこまれている負い目と同情ゆえか、それとも、彼女の言葉は真実であると、心のどこかで思ってしまったゆえなのか……。  その後、作業室へ戻ったマテアは傷の痛みがひどいからと偽って部屋にこもり、一昼夜考えた。サナンの言葉と月光聖女としての戒律がマテアの中でせめぎあい、息をするのもつらいほど胸を苦しめる。  一昼夜考え続けて、そしてマテアは決めたのだ。地上界の月光を浴びることを。 サナンの言葉は真実であると信じること。これは大前提だ。そしてレイリーアスの鏡はこの時間、ちょうど地上界につながっていると、サナンは言っていた。  近寄ることも禁じられた鏡。これをくぐれば、地上界がある。命の尊さも知らない、野蛮で、粗野な人間たちが、のべつ暇なく互いを殺しあっているという、おそろしい世界……。「大丈夫、なんでもないことだわ。行って、月光を浴びたら
last updateLast Updated : 2025-10-30
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出会いは運命か、それとも破滅のはじまりにすぎないのか 1

 鏡面に指先が触れた次の瞬間、鏡面が逃げるようにへこみ、まるで真上から石を投げ落とした水面のように鏡面から闇が吹き出した。思わず上げた小さな悲鳴ごとマテアを包みこみ、闇は向かい風となって背後に吹き抜ける。強烈な寒気が一瞬全身をなぶり、ぐらりと大きく体が揺れて、天地の感覚が崩れたと思ったときにはもう、うす暗い闇の中で生温かな風に吹かれていた。周囲では今まで見たことのない、白い湯気のようなものがまばらに浮かんで、途切れない強風に流されている。一応見てみたが、足の下には踏みしめられるような固形物はなさそうだ。 たぶん、ここが地上界の空なのだろう。推測をして、マテアはゆっくりと下に向かって降りて行く。やがて、一際濃い白い湯気が草原のようにどこまでも広がっているのが見えた。所々で渦を巻き、風に吹き流される表面が夢の中の光景のように美しい。ほんの少し足をとめ、見惚れた後、そこを突き抜ける。途端、風はさらに鋭さを増して横殴りに吹きつけてきたが、風よりも、その中に含まれた邪気がマテアの喉をつまらせた。 手で鼻と口をおおい、目を細める。 なんて濃い負の気だろう。いたる所で穢れ同士がぶつかりあい、飲みこみ、ひしめきあっている。どこに目を向けても穢れのない所を見つけられない。これが、地上界。 あらためて足下に広がった地表を見下ろし、嘆息をついた。十重二十重とからみあい、黒霧のような穢れに包まれたそこは、まるで幾つも頭を持つ巨大な毒蛇がとぐろを巻いて地表を抱いているようだ。つい先程目にした美しい白湯気の草原と同じ世界の光景とは容易に認められず、マテアは嫌悪に顔をしかめる。 とても人の生きられる場ではないように見えた。こんな所でも生きていられるとしたら、それはサナンの言う通り、相当鈍い神経の持ち主だろう。 正直言って、あんな所には近寄りたくない。だがなぜここにきたのかを思うといつまでもこうしてここから見下ろしているわけにもいかず、マテアは、白い筋のようになって大気にからみついている月光の波動に勇気づけられ、背を押される思いで再び降下をはじめた。 サナンから聞いた、月光を浴びるのに適した場所を探しつつ、なるべく黒霧の層の薄い、まばらな場所を選んで降下する。地表がぐんぐん近付く中、平
last updateLast Updated : 2025-10-31
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出会いは運命か、それとも破滅のはじまりにすぎないのか 2

 彼女が降りてきた斜面の中腹あたりにあるひび割れから流れ出ている水は穢れの黒霧を寄せつけず、月光を弾いている。いたるところで水面が黄金色に輝き、波打ち、まるでこの地上界における聖域のようにマテアには感じられた。 こんなすばらしい場所へ導いてくれた鳥や木々たちに丁寧に礼を言い、水辺に歩み寄る。まるで光の破片のようにきらきらと宙を飛び散る水飛抹までが月光に染まっているようで、そのまぶしさに目を細めた。 体が熱かった。木々の天蓋からはずれて月光の下に一歩踏み出した途端、肌という肌が張り、じくじくとうずく。 サナンの言ったことは正しかった。月光界ではただの一度たりと浴びたことのない、比較にすらならない強力な月光がここには満ちあふれている。なんという力か。ベールや衣服を間に挟んでいながら、共鳴のあまりの強さに自身が炎を発しているように感じられて、思わず自らを抱きしめ身を震った。 強すぎる。サナンから前もって教えられていたとはいえ、まさかこれほどのものとは思わなかった。これだけの力を毎日浴び続けたなら、きっと自分は十日と生きていられないだろう。水を与えられすぎた植物のように、きっと生きてはいられない。 そのことに、月光神の慈愛をますます確信した思いでマテアは膝をつき、指を組んで天上の月にむかって祈りをささげた。馬車・月輪を駆る、りりしい御姿を思い浮かべながら。 祈りを終え、立ち上がると同時にベールがするりとはずれて落ちた。拾い上げることもせず、おもむろに帯を解く。 強すぎて、常に浴び続けることはできなくとも、この一時だけなら大丈夫だろう。ここに蓄積されている月光力を、水を通して自分の内側へとりこむ。そうすればあのサナンのように強い<魂>が得られるはず。そう考えて。 直接浴びてとりこむには、この月光はあまりに強すぎた。 衣を脱ぎおとし、素早く水中へ入る。ひんやりと気持ちのいい水の感触に、銀の魚のように身をくねらせたマテアは滝壷の近くまで泳ぐと一度底までもぐり、全身に水滴をまつわりつかせながら上半身を出した。 水底はそう深くなく、一番深い所でせいぜい胸までといったところだろう。流れの勢いもさほど強くない。腰の深
last updateLast Updated : 2025-11-01
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運命の出会いは良きものと思われがちだがそうでない時もある 1

「どうしたの? マテア! その格好!」 夜明け前、ふらりと青月の宮に現れたマテアを見つけた聖女たちの誰もがその言葉とともに絶句した。 そうなるのも無理はない。胸のところでかきあわせた衣は泥と枯れ葉にまみれ、鉤裂きだらけでもう二度と着衣できないほど裂けてしまっているし、汚れた手足はいたるところに切り傷や擦り傷ができて血が流れている。乾きかけた土がこびりついた髪はぐしゃぐしゃに乱れて首や顎に貼りつき、一体どれほどの時間涙を流し続けていたのだろうか、瞼も頬も、赤く腫れていた。「どうしてそんな姿に……!」「レイミが交替に行ったとき、あなた、いなかったそうじゃない」「みんなで捜していたのよ?」「何があったというの、マテア!」 マテアがかすかに衣擦れの音をたてながら前を通りすぎた後、ようやく我に返った聖女たちは先を争って彼女をとり囲み、次々と言葉を投げかける。その声に反応してか、マテアはわずかに唇を開いたが、いくら耳をそばだてても、何もつむぎ出されはしなかった。「マテア! 答えて!」 たまりかね、イリアが肩をゆさぶった。けれどマテアは応えようとしない。瞳にはたしかにイリアの姿が映っていたが、心まで届いてはいないようだった。 焦点のあっていない、虚ろな目のまま、マテアは右足を引きずりながら彼女たちの間を抜け、ゆっくりと、自室へ向かって歩いて行く。その不確かな足取りは、まるで一寸先も見えない真暗闇の中を進んでいるようだった。 一体何があったというのだろう? 昨晩、彼女は主神殿の祭壇で月光神に祈りをささげていたはずなのに、交替の聖女が行ったとき、彼女の姿はどこにもなかったという。香木はすっかり燃え尽きて、熱の名残りすらなかった。机の上には彼女が持ってきた香木がそのまま残っており、交替した後すぐ消えたらしい、との報告を受け、警備の若者たちと聖女全員が捜索に加わったけれど、主神殿はおろか月光神殿のどこにも彼女の姿はなかった。 祈りをささげていた彼女の身に、一体どんな災いがふりかかったというのか。 ほんのわずかな時間に彼女を幽鬼のように変えてしまった、それを知ってしま
last updateLast Updated : 2025-11-02
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運命の出会いは良きものと思われがちだがそうでない時もある 2

 扉と窓に鍵をかけ、それから四日の間、マテアは枕に顔を埋めて泣き続けた。 ほんのわずかの救いの光も見つけることのできない深い絶望を知ったとき、涙というものは涸れることがないのかもしれない。頬は赤く腫れあがって熱を持ち、泣きすぎて目も頭もズキズキと痛んだが、次々とあふれ出てくる涙を彼女にはとめることができなかった。 記憶は断片的に途絶えていて、崖の上からいつ・どうやって自分の部屋まで戻ってきたのかマテアは覚えていない。けれど、はっきりと覚えていることもある。自分から<魂>がはがれおち、奪われた、あの瞬間だ。 どうして自分はもっと慎重に周囲の安全を確かめなかったのか。どうしてもっと注意して、もっと早くあの男が近付いていたことに気付かなかったのか。 どうして。どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして! 尾をくわえた蛇のように、そればかりがぐるぐる頭の中を回っていた。とり返しのつかない事をしてしまった後悔と、他の者たちに知られることへの恐怖が瘴気となって胸に渦巻いている。どす黒い、毒の色に染まっているであろうそれが己を内側から侵食し、蝕み、食い破ろうと暴れているのがわかった。 あれは何? 目をあわせた瞬間の男の姿が瞼の裏に焼きついて、片時もはなれてくれない。 この月光界には存在しない、闇色の髪と瞳、肌の持ち主。手も足も服も血に染まって、穢れたおぞましい姿でじっとこちらを見ていた。 地上界の民だ。命の大切さもわからずに、寝食を惜しんでひたすら互いを殺しあっているという、愚かな、最も蔑すべき相手。そんな者に、いくら油断していたとはいえやすやすと<魂>を奪われてしまうだなんて! 腹立たしかった。その愚かな人間よりも、もっと自分の方が愚かだったのだと思うと、自分自身への憎しみまでがあふれた。 おそろしい所であるとは噂で聞いて知っていた。サナンも言っていたではないか、噂通りの地だと。あんなに穢れにまみれていて、警戒していたはずなのに、いざそのときになると月光力をとりこむのに夢中になって、すっかりそれを怠った。あげく、あんな輩にたやすく<|魂《
last updateLast Updated : 2025-11-03
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この道の行く手に待ち受けるは……。それでもなお 1

 夜。かちゃりと鍵のはずれる音がして、ついにマテアの部屋の扉が開かれた。扉の向こうに誰もいないことを確認するよう途中で一度押す手をとめ、人の気配がないことを確信してから廊下にすべり出る。マテアは外出用の長衣をまとい、自分と悟られないよう濃い色のついたベールを目深に被っていた。 もう一度、地上界へ降りるためだ。 どうにかして<魂>をとり戻してくるしかない。そう思ったのだ。 この四日の間に地上界はマテアにとって、前にもましておそろしい場所になっている。穢れが一面に満ちていて息のつまる地だし、あの血にまみれた男のような存在がそこいら中に跳梁しているのを想像しただけで足のすくむ思いだった。できることなら二度と踏み入りたくはない。けれど、行かないわけにはいかなかった。行って、あの男を捜し出し、<魂>を返してもらわなければならない。 『月誕祭』までに、なんとしても。 そう思うだけで、胸が張り裂けそうだった。 願ったからと、はたして返してもらえるだろうか。相手は地上界人だ。懇願したところで、すんなり返してもらえるか……。返す気があるなら、奪ったりはしないだろうし。 でも、だからといって他にどんな方法がある? <魂>がなければ、自分は破滅するしかないのに! 幸いにも仲間の乙女たちはまだマテアの<魂>が失われたことに気付いていない。それは彼女がとても敬虔な月光聖女で、自ら禁忌を犯すような者ではないと誰もが信じて疑わないことと、彼女がなぜ地上界へ降りねばならなかったのか、その理由を思いあてられないためだ。だが今の姿を見れば、皆一瞬で理解するだろう。彼女がレイリーアスの鏡を用いて地上界へ降りたのだということを。 禁忌を犯した月光聖女が月光神よりどんな罰を受けるか、マテアは知らないし想像もできない。きっと、想像もつかないような罰なのだろう。理解の範疇をはるかに越えるような。けれど、それを受けるかもしれないとのおそれよりもずっと、はるかに、皆に知られ、見限られてしまうことの方がマテアにはおそろしかったのだった。&n
last updateLast Updated : 2025-11-04
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この道の行く手に待ち受けるは……。それでもなお 2

「いつまでもそんな冷たい所にいないで、さあこちらにいらっしゃいな。凍えてしまうわ」 マテアの知るどの月光聖女よりも澄んだ声が祭壇の方からかけられた。どこか幼さの残る、それでいて気品を備えた響きは、マテアのからまった糸のような心をそっと包みこむ。「できません、月光母さま……」 マテアは喉の奥に力をこめ、どうにか言葉をしぼり出し、顔面をおおった。「わたくしはあなたが禁忌とされた行為を犯してしまった愚か者です。あげく、<魂>までも失ってしまいました。このようなみすぼらしい様を、お目にさらすことはできません。どうか、どうか、ご容赦くださいませ……!」 崩折れるようにその場に両膝をつき、床についた己の手の甲にすりつけるくらい額を下げる。ひたすら手の甲を見つめていたマテアの視界に、間もなく白銀色にさざめく光波をまとった指先が割って入った。「こんなにもきれいなあなたをみすぼらしいだなんて、誰が言ったというの? マテア」 その者にはわたしからきつく叱っておかなくてはね。嘘を言うものではありませんと――いつの間にこんな近くまでと驚くマテアに、月光母は、それが事実ではないと知る笑みを浮かべながらやんわりと告げる。「――月光母さま……!」「ほら、すっかり指先まで冷たくなってしまっているわ。氷のようよ、マテア」 月光母が何をしようとしているのか、マテアが気付くよりも早く彼女の両手をとり、月光母は自らの両手で包みこむ。美しく整った十本の指と、ほっそりとした両腕が放つ光が、マテアの目をまぶしくくらませた。 月光母は神。月光神と対をなし、万物の創造神である彼女を、こんなにも間近で見たのははじめてである。不可侵とされ、月光聖女の司以外は何人たりと踏み入ることを許されない月神宮で眠り続ける月光母は、『月誕祭』のときだけ皆の前に姿を現すが、そのときも薄絹の幕によって三方を遮られている。唯一開かれた前方から彼女を見ることができるのは、三百年目を迎え<魂>を結合させてもらえる月光聖女だけだ。
last updateLast Updated : 2025-11-05
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この道の行く手に待ち受けるは……。それでもなお 3

 月光母の優美な指先が触れて、通りすぎた後は、きれいに痛みがひいていた。すり傷に塩をすりこまれたように絶えずひりひりとして、熱っぽくうずいていた肌の感覚が消え、瞬くたびにこすれて涙がにじんだ目許の違和感が失われる。 治癒は、鏡で見ずともはっきりしていた。 今までに増して崇拝の念をこめて自分を見つめるマテアから、月光母はすっと手を退く。彼女の一途な瞳の中に、はたして月光母は何を見たのか。眉を寄せ、美麗な面には不似合いな皺を眉間に作った。「先に言ったことは嘘ではないわ。あなたはとても賢い子だもの、界渡りを禁じるのはあなたを案じるからこそだと、わかるわね? わたしがあなたに腹を立ててはいないことも。だから、それ以上自分を傷つけるのはおやめなさい。自己崩壊の痛みにいつまでも堪え続けられるほど、あなたたちは強くできてはいないの。まして、あの世界では、あなたたちがあなたたちとして生きるのはとても難しいわ。リイアムが大地母神ではないように、大地母神がリイアムでないように。あそことここではすべてが違いすぎるの。<魂>をとり戻したいというあなたの気持ちはわかるわ。でも今のあなたでいることが、あなたに課せられた罰であると思うことはできない?」「それは……」 マテアは口ごもった。 月光母に対し、反する言葉を口にしていいものか、ためらって目をそらす。自分から流れた視線に揺れるマテアの心を悟り、月光母はさらに告げた。「あなたは先に<魂>を失った自分をみすぼらしいと言ったけれど、あなたの友達がそう言ったわけではないのでしょう? まして、今のあなたを見て、<魂>がないから友達ではないと言った者も。それともあなたは、友達の誰かがあなたのように考え、行動して<魂>を失ったとしたら、友達ではないと言うのかしら? みすぼらしいと、彼女を軽蔑する? そうでないのなら気に病むことはないでしょう。わたしは今までと変わらず、他の聖女たちと等しくあなたを愛しく思っているのですし」「それは……、ですが月光母さま」 
last updateLast Updated : 2025-11-06
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この道の行く手に待ち受けるは……。それでもなお 4

 周囲には、大勢の者が上げる悲鳴と、動物たちの狂ったような鳴き声が充満していた。幻覚とはいえ、思わず耳をふさぎたくなるような苦悶の呻きがあちこちから聞こえ、バキバキと木の板が折れる巨大な音がしている。青い煙が充満し、炎が燃え上がる中を、マテアは布を目深く被って慎重に歩いていた。 ビイイィンと弓弦のしなる音がして、マテアのすぐ目の前にいた女性が、喉に矢を貫かれて悲鳴を上げることなく倒れる。地に押し倒され、首飾りを胸から引きちぎられる少女。逃げようとした背中に男の剣がくいこみ、鮮血が吹き出す。 一方的な略奪と暴力が、そこかしこで展開されていた。 布の下から辺りを見回し、何かを捜していたマテアの手首が、突然煙の中から現れた手に掴みとられる。「いやっ、はなして!」 もう片方の手で、相手の胸らしきところを懸命に叩いていた。けれどすぐにその手もとられ、マテアはあっけなく抵抗する力を失う。男は強引に身をかぶせ、のしかかり、マテアは地面に押し倒された。「……っやぁっ……」 死に物狂いで手足をばたつかせ、男の暴力をなんとかして阻もうとする。けれど、マテアの腕は男の半分の太さもなくて、ものの数秒であっけなく組み敷かれてしまった。「いやっ! やめて! 助けて!」 伸び放題の不精髭の隙間から覗く、男のひび割れだらけの肉厚な唇が鎖骨に触れ、服の上から胸を鷲掴まれる。どんなに泣き叫び、拒否を伝えようとも男は己の望みを達成することに躊躇すら見せず、動きをとめようとしない。男の手が下腹部を伝って下におりたとき、マテアの体が大きくのけぞった。「い、やあああああああ――っっ!」 もはやどうあがいたところで彼女に選択の余地は残されていない。彼女の命も肉体も、もはや彼女のものでなく、この男に掌握されているのだ。  堪えきれず、マテアがぎゅっと目を瞑った直後、『マテア』は目を見開いていた。   唐突に襲った長い一瞬の白昼夢にとまどう両目をなだめようと、指をおしつける。  声が出なかった。  なんという屈辱。わたしはわたしの肉体を、暴
last updateLast Updated : 2025-11-07
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異なる世界、異なる理(ことわり) 1

 レイリーアスの鏡をくぐり抜け、地上界の天空へ出たマテアは、四日前と同じく雲の草原を突き抜け、地表目指して下降していった。 周囲の空は以前ほどではなかったがやはり青暗く、紺色というには鈍い色をしている。けれどそれが夜を間近にした暗さではなく、夜明けが迫っているための暗さなのだということは、マテアにもうすうす理解できていた。 一定速度を保ち、時には厚く時には薄い雲の層を幾度となく突き抜ける。そうしてとびきり厚い最後の層を抜けて地表を目にしたとき、マテアはあっと声を上げてしまった。 なぜならまるでそこにもう一枚厚い雲の草原があるように、視界一面が真っ白く染まっていたからだ。 緑らしい緑がなく、あの夜目印とした崖も見つからない。風に流され、雲を突き抜けているうちに大幅にずれてしまったのだろうか。 はたしてどこへ降りればいいのか、とまどう彼女の背を北風が突き飛ばした。直後、まるで数百の針で一斉に突かれたような痛みが起きる。服と肌の間に割って入った冷気が裏底に鋲のついた靴で踏みしめるように背をかけ上がって、一気に足の爪先まで鳥肌立った。 地上界と月光界とでは格段に時間の進みが違う。マテアが月光界に戻っていた四日の間にこの地上界ではなんと五ヵ月近くが経過し、季節が終夏から初冬に移り変わったせいだったのだが、四季というものがなく、常に常春の月光界の住人であるマテアにそれがわかるはずもない。唇からもれる息が目の前で白く変わるというのも容易には信じがたい、生まれてはじめての体験だった。 四日前と打って変わった寒気にとまどい、景色のあまりの変容ぶりに混乱しながらも、とにかくあの夜の崖を探してマテアは飛行した。けれど、どこまで飛んでもどこを見ても、真っ白く平らな地が続くばかりで、崖も森も滝も、まるでそれ自体が幻想であったかのように、それを連想できるものすら見つからない。 もしや、出る世界を間違えたのだろうか。 一度月光界へ戻った方がよくはないか。 どんどんどんどん膨らんで胸を押しつぶそうとする、際限ない不安に、そう考えて眉を寄せた頃、小さな小さな呼び声が真下から聞こえてきた。  ――の乙女。  ――そ
last updateLast Updated : 2025-11-08
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