All Chapters of 月光聖女~月の乙女は半身を求める~: Chapter 31 - Chapter 40

55 Chapters

アルフ=イルク帝国記(あるいはアルフリースの狂記) 1

 マテアの言う地上界・シャウアルには、シーリャンという大陸と広大な海、大小無数の小島がそこかしこに点在している。そして、シーリャン大陸にはいまだかつてない、巨大な帝国が過去存在した。 名を、アルフ=イルクという。 これは史上はじめての大陸統一という偉業をはたした双子の兄弟・アルフレーエンとイルフリーエクの名をとってつけられたものだ。 大陸統一前、彼等はイーリイェンという、当時の大陸では中規模の国の第二・第三王子だったが、二人は戦乱の最中大陸南よりのラゥマイアス高原にある古城を改築して拠点とし、アルフ=イルク国建国を突如宣言した。そして統一後、帝国とあらためたのだった。 一方、アルフレーエンとイルフリーエク、それに彼等を大地母神の御子と崇拝する大勢の国民から見離され、弱体化したイーリイェン国の王位は病弱の第一王子・リシエカが継ぎ、独立王権を認められるかわりに服従を誓わされた国の一つとなった。 アルフ=イルク帝国は過去に例をみないほど強大にして大陸最高の軍と技師を保持しており、その指示に不満を持ったところで誰にもどうすることもできなかったのである。 それから百数十年、人類発生以来はじめてではないかと囁かれるほど平和な時が、大陸全土を覆っていた。 大陸統一中の戦乱は、のちに生まれた者が口伝として聞いても言葉を失ってしまうほど苛烈さを極めており、それが四半世紀にも及んだ結果、死者の数は大陸人口の約三割にも及んだ。 滅んだ村や町の数は数えきれない。それゆえ今は各地に残る戦争の爪跡という後遺症を治療することが先決と、誰もがそのことに専念したからだった。 勝利者であるアルフレーエンとイルフリーエクもまた、戦時中の計略の犠牲となり、略奪などで荒れた町々を修復することに力を入れた。生活水準を戦争前よりも引き上げ、言語の統一や帝国への忠誠を盛りこんだ教育を徹底させ、地方の情報が中央に伝わりやすいよう伝達機構の改善を進め、安全で効率よく旅ができるように街道を整え、兵宿をいたるところに設け――民衆が、自分たちへの惜しみない援助に素直に感謝し、二人を新たな主人として歓迎したことも、アルフ=イルク帝国の定着に関係した。武勇に優れた者は<力の持つ権威
last updateLast Updated : 2025-11-19
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アルフ=イルク帝国記(あるいはアルフリースの狂記) 2

 ――ひとには、そのひとそのひとに見合った生き方というものがあり、誰もが均等にアルフリース十二世のような強い心・自己啓発の志しを持ち得ないのだということを、理想家であるアルフリース十二世には気付けなかったのである。 また、帝国との戦いは、アルフリース十二世の想像以上に長引いた。帝国軍を相手に三度も勝利したなら長く帝国の影として押さえつけられていたものが一気に吹き出し、同盟を申し出る貴族が次々と出てくるだろうとの予測はたてていたのだが、彼のした予想以上に多くの貴族や小国がアルフリース十二世側についたせいだ。 それは、帝国を滅した後は専制君主制度を廃止し、議会を発足して民主主義をとるとアルフリース十二世が宣言したためでもあった。議席の三分の二は革命を支援し、武勲をたてた者たちから選出するという内容の文面に、皇帝の下にいたとき以上の権力を求めた欲深な者たちが新国家における自分の有力な地位を確保するためこぞってアルフリース十二世ひきいる連合軍に名を連ね、私軍を投入した結果、連合軍は帝国軍に対し四・六の勢力となったのだった。 加えて、アルフリース十二世は、町や村といった<定置を保持することにこだわらなかった。徴兵した若者を町などに守備隊として配置するよりも、攻撃隊の数を増やす策に出たのである。それは狂気の策であると、誰もが考えた。無二の親友を称する者たちでつくられた陣営にも、やはりアルフリース十二世は狂っているのだとの噂がまことしやかに広がって、ある者は身内の不幸を理由に、ある者は領内で起きた出来事を理由に、アルフリース十二世の元から離れていった。 狂っているからこそ、彼は帝国に反旗を翻せたのではないか――忠義に厚いがゆえ、アルフリース十二世の元を去ることができなかった幕臣たちですら、考えなかった者はいなかったろう。「定置にこだわるな、国境にこだわるな。どうせすべての地は一つでしかなく、大地母神の持ち物で、人間が勝手に紙の上に引いた線や点でしかないのだ。一担神に返したと思えばいい。そのうえで、山を川を丘を崖を町を外壁を、どう用いれば一番有効であるかを考えよ」 アルフリース十二世はそう言い、そして自ら前線に赴き実践してみせた。無謀としか思えない方法でも、勝利し続けたなら、
last updateLast Updated : 2025-11-20
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わが身は地を往き、心は月を想う 1

「起床ーッ!」 天幕の外、槌で木製のドラをガンガン叩きながら歩く男の乱暴な声によって、レンジュは目を覚ました。 天幕のすぐ向こう側を右から左へ、かと思えば左から右へと走り抜けていく、ばたばたと忙しない軽くて騒々しい足音は世話女たちのもの。天幕を透かせて入ってくる光はまだまだ青暗くて、地中からくる寒さを防ぐために敷いた毛皮は体の下にしている場所以外、夜の冷気を含んで冷たい。 どうやら夜はまだ完全に明けきってはいないようだ。「起床ーッ! 各自荷を整え、終えた者はすみやかにそれぞれの所属する下隊長の元へ集え!」 そんな言葉が通りすぎる足音に混じって繰り返し聞こえてくる。 もう移動するのか。 身を起こし、前にきた横髪を梳き上げながら溜息をついた。 前の移動からまだ十日しか経っていない。いつもなら最低でも半月はいるのに。 おそらくは北からやってくる寒気のためだろう。敵軍よりも厄介な、自然現象。真冬の到来。北寄りに位置するこの辺りは冬の訪れとともに凍りつくから、その前にもう少し南下して、春まで持ちこたえられる堅固な陣を敷くのだ。 二ヵ月も定置にとどまるのは敵に居場所を悟られ、襲撃を受ける危険が少なくないが、飢えと凍死を免れるにはそれしかない。「また生き残るに厳しい季節に入るな……」 眠気のとれきれない声でそう呟きながら上着をはおり、胸あてや膝あてといった軽武具をまとう。突然の移動命令にもすぐさま対応できるように、もとから整えるだけの荷は広げていない。敷物の中に碗とカップをくるみ、枕がわりの数枚の衣服ごと荷袋の中へ入れて口を引きしぼる。上がけにしていたのはマントで、それを肩にはおって外へ出ると、どこの者も慣れた手つきで丸めた天幕をさっさと荷袋の中へ押しこんでいた。それにならうよう、かがみこんで天幕の端へと手がける。 いつも通りの手順で杭をはずすレンジュの心を占めていたのは、今冬の宿営地と定められた場所――寒さを凌ぎ、また敵の来襲をも防ぐことのできる数少ない宿営地の一つ――シュダがどうなっているのかということでも、行きがけに通ることになるアーシェンカの市で
last updateLast Updated : 2025-11-21
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わが身は地を往き、心は月を想う 2

 到底言葉として形容しがたい、永遠とも刹那とも思える時間・不可思議な感覚にすべてを飲みこまれ、価値観も生き様も、この世に誕生した瞬間から自分を盲縛してきたしがらみごとこの世の何もかも一切が消失し、世界が彼女と自分だけのように感じられたそのとき。たしかに自分は見たのだ。 あれは目の錯覚でも、はたまた見間違いでもなかったと、今も信じている。 彼女の身を包んでいた金の輝きが徐々に彼女の体から離れていき、宙で球体になったと思った瞬間にはもう、それは自分めがけて飛来してきていた。 たとえ気の半ばを奪われていなくとも、躱わす暇などなかった。矢よりも早くまっすぐ飛んできたそれが目の前で弾け散った刹那、その、世界を覆わんばかりのまばゆい光に身構え、反射的、顔面を庇って出していた腕の下で目を強く閉じあわせる。だがいくら待っても何の衝撃も襲ってこず、周囲に異変も生じなかった。思うに、逃げるために咄嗟に放った幻だったのだろう。光に気を奪われていたわずかな間に、彼女の姿は跡形もなくその場から消え失せていた。よほどあわてていたのだろう、飾り帯を岩の上にとり残して。 見たこともない織り方をされた、薄絹。表にほどこされた刺繍飾り一つとっても、人の手が加わったことを感じさせない。 人為らぬものが存在することを受け入れるのは、容易だった。 彼女がいることを認めることは、すなわちその存在を認めることだ。あれは戦いに継ぐ戦いを送る日々に疲労しきった頭が見せた夢だと単純に思いこみ、彼女との出会いを否定する気にはとてもなれなかった。 あの数瞬の出会いで、彼女はいとも簡単に、自分の心を奪っていったのだから。 彼女は、もしかすると伝え語りに出てくる妖精や精霊などといった存在なのかもしれない。幼かった昔、寝物語に聞いた話の中に出てきた、流血をきらい、命が消えるおそろしさにおびえて神のもとへ還ったとされる天の御使いや、人間の男を愛して地に降り立ったものの受け入れてもらえず、光となって還って行った月神の娘。どちらもこの世のものと思えないほど美しかったそうだが、金の髪に銀の瞳ということから、どちらかといえば彼女は月神の娘のイメージに近い。 月神の乙女。 あの夜
last updateLast Updated : 2025-11-22
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幻の交易都市アーシェンカ 1

 アーシェンカとはアリセカ国とサシサカ国との国境にある草原の名である。 サシサカ国は国土のほとんどが山岳地のため、国民の大半が山岳民族だ。小~中規模の一族で構成された遊牧の民がいて、季節の変わり月の新月の翌日から三日間、アーシェンカにおいて大規模な市を定期的に開いていた。 もともと遊牧の民は場所や時間に執着せず、出会ったその都度に部族同士で物々交換をして互いを補いあっているのだが、この年に数度の定期市だけは必ず開催する。客はもっぱら移動中の連合軍・帝国軍兵士だ。彼等は物を手荒に扱ってすぐ消耗させてしまうので、いいお客になるのだ。兵士たちもいちいち隠れ里を探して迂回したり、部族部族で微妙に違うしきたりを考慮して交渉するなど面倒なことをせず、気軽に日用品などを購入できるので、好んでその日その場所へとやってくる。 結果として敵とかち合うこともよくあるのだが、ここでは争いはご法度とされる。市では遊牧民たちが強い権能を持っていて、そして彼等は独自の大地母神信仰によって流血をきらう。また、かなり根に持つ性質で、一度彼等の気を損ねたりすれば次から利用が大きく制限されてしまう。 利益・不利益を天秤にかけた結果、最善の方法として、入り口に帝国軍の旗があるときは連合軍が、連合軍の旗があるときは帝国軍が、市からは距離をとって陣を張ることを暗黙の了解とし、長居をしないことで衝突を避けていた。 連合軍・帝国軍、大小合わせて数十の部隊がこの地に集結する。目的は買い物。 それがわかっているから遊牧民だけでなくいろいろな商品を荷車いっぱいに積んだ商隊も各地から集まってくる。その中には旅芸人の一座もいる。商売に忙しい彼らの世話を焼き、下働きをしたり商売を手伝うことで利を得ようと考える者たちも。 市の規模は自然とふくれあがり、わずか三日間だがアーシェンカはたくさんの露店と行商人、彼らの荷車が長く連なる幻の交易都市へと変貌するのだった。「あいかわらず騒々しい所だよなー、アーシェンカは」 うなじのところで指を組みあわせたハリは、入り口に設けられたアーチをくぐった直後、隣のレンジュに向けてそんな感想をもらす。「これくらいの規模の市、スターハにもケイシャ
last updateLast Updated : 2025-11-23
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幻の交易都市アーシェンカ 2

「大変だな」 レンジュは心から同情する思いで言う。ハリはうんうん頷き、先から香ばしい匂いを漂わせているクカの新芽を一袋買って口に放りこんだ。クカの新芽は栄養価が高く、固い表皮をむいて焼いたのを噛んでいるとわずかに甘みが出てくる、ハリの好物だ。 おまえも食うか? と差し出された袋に手を突っこみ、ほかほかと湯気をたてるそれを奥歯でがりがり噛み砕きながら歩いた。「で、おまえは何を買いにきたんだ?」「おれか? おれは、鎖帷子でいいやつがあったらと思ってね」「ああそういや前の、切れたんだっけ」 二日前の戦いの最中、対峙した兵士の突いた剣先がひっかかり、ちぎれ飛んだレンジュの鎖帷子を思い出す。「直せなくもないけど、もうずいぶんくたびれてたからな。そろそろ買い替え時だろう」「それ言ったらおまえの場合、膝あても剣もだぞ。物持ちがいいっていうか、ケチっていうか……一体いつのだ、あれは」「さあ……三年は使ってるかな」 思い出すように指をおる。いや四年だったかな? とつぶやくのを聞いて、ハリは心底から嫌そうに顔をしかめた。「随分くたびれてるなと思っていたが。 普通ああいったのは一年で償却するもんだ。二日前を思い出してみろ。受け止めきれずに砕け散って、見てたおれの方がヒヤヒヤした」 レンジュの剣が下から入って相手を切り裂き、即死させたことで事なきを得たが、もし相手のほうが早ければ、無防備なレンジュのほうが裂かれていただろう。 なのに。「ははははは」「笑うんじゃない。笑い事じゃないんだから」「ああごめん。でもあれは傑作だったよな。こう、ばらばらっと落ちて」 そのときの様子を再現するように手を動かす。しかしハリが笑っていないどころかこちらをにらみつけるように見ていることに気付いて、レンジュもそれ以上口にするのをやめた。 何が傑作だって? とハリの目は言っている。 ハリは子どものときから一緒にいた、気のおけない唯一の友だ。こんなことで安心して背中を任せられる彼の気
last updateLast Updated : 2025-11-24
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幻の交易都市アーシェンカ 3

「ユイナに頼まれた、か……」 ハリの消えた雑踏へ目を向けたまま独りごち、ふうと息をつく。 女ができると男は変わる、というのはしばしば耳にしていたし、隊の中にも数人そういった者がいることはいるが、まさかハリがそうなるとは思ってもいなかったレンジュには、こんなふうにときおり見せる甲斐甲斐しさが不思議な印象を与える。ハリは幼なじみで、お互い物心つくかつかないかの頃からの知りあいだからというのが一番強い理由だと思う。どうしても子供の頃の延長線で見てしまうからだ。 彼は昔から奔放で屈託がなく、自分と違って一つ事に対して長い間深刻に悩むようなことはしない。面倒くさがりで、気がむかないとテコでも動かず、そのくせ好奇心は人一倍旺盛でひとたび興味が引かれると誰に何を言われようが全力で追求する。それで望む結果が得られずに傷つこうが、周りから口をそろえて「だから言っただろう。少しは言うことを聞け」と言われても、ハリはあらためようとしない。まるでちょっと転んだだけだとばかりに、服についた砂を払うように立ち上がって、また繰り返すのだ。 何よりも自分が自分のままで生きるということを十全に楽しんでいる――その生き方を変えられる者はいないと思っていた。 アネサなどは『飽きれるくらい、いくつになっても子供気分が抜けない子だね』と首をふりふりよく言っていたが、それはなかなか的を射た表現で、女の子よりも男友達との遊びに熱中する子供のように、ハリの興味は常に男女の睦言よりも屈託のない冗談を言っては肩をたたいて笑い合う方にこそ向いているとばかり思っていたのに。『おれ、ユイナと暮らすことにした』 まるで昨夜食べた夕飯の事でも話すような口調でいきなり爆弾発言をして、その場にいた全員が「まさかな」「よく言ってる冗談の一つだろ」と驚いている間にさっさとアネサに見受金を払い、専属の世話女にして、二人で暮らし始めた。 ハリは子供だ。女と暮らすにはまだまだ我慢が足りない。未亡人ならまだしもユイナは若すぎる。きっと長くもたないだろう、と年長の男の大多数が予想した。何日もつか、こっそり賭けをする者たちもいた。 そのころレンジュは――生まれが影響してい
last updateLast Updated : 2025-11-25
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交わる運命は耐え難き灼熱のもとで 1

 マテアが奴隷商人に捕まってから十日後、商隊はアーシェンカの市に着いた。『さあさっさとこっちに並びな! どいつもこいつももたもたしてんじゃないよ! 尻を蹴り上げられたいのはどいつだい!』 ひきりなし、神経質なまでにぴしぴしと鞭で馬車の一端を打ちながら、外であの中年女が喚いている。 その言動に表れているように、彼女は今猛烈に機嫌が悪かった。道中先頭の馬車がぬかるみにはまって車軸が割れてしまい、その交換修理に手間どって思わぬ時間をくってしまったためだ。そのせいで、着くのが半日も遅れてしまった。 市でいい場所をとりたいのであれば、夜が明ける前から今回の市の主催者である首長たちの集まった天幕の前に集合して、会合に参加しなくてはいけない。そこで参加費額を記した紙を手渡し、希望の場所を述べる。 参加費の額は決まっていない。各人が市での売り上げを予想して、算定した額を記す。そして発表を待ち、割り当てられた場所の番号を記した木券をもらう。 つまりこの草原を仕切る部族への寄付金の額によって、天幕を張る位置の優先権が決まるのだ。出店者にとって、これは大きな問題だった。どこに店を出すか、それによって売上に天地の差が出てくるからだ。位置や面積によっては演出から考え直さなくてはならなくなる。できるだけ大きく、見栄えのする位置をと誰もが望んで挑む会合に遅刻するというのは、致命的な失態なのである。 案の定、残っていたのは荷車を横に二つ並べたならはみ出るほどの幅しかない、出口のすぐ隣だった。しかも陽は中天近くまで昇っていて、市はとうに始まっている。これでは予定していたような、人目をひきつける華々しい台の組み立てはできないだろう。『市を見て終え、財布を軽くした者たちを相手に商売をしなけりゃならないなんて。ああなんてこったい! なんでよりによってこの日に……。一体あたしが何したっていうのさ!』 横木を赤錆色に塗布した馬車の腹に、競売へかける順で女たちを並べながら、中年女はいまいましげに舌打ちをくり返す。 いつもの数倍唾をとばし、金切り声が裏返るほどぎゃんぎゃんわめきたてては雪に足や裾をとられて思うように動けない
last updateLast Updated : 2025-11-26
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交わる運命は耐え難き灼熱のもとで 2

 そういった輩を相手にしなければならないその他大勢の女とは別格として扱われているという優越意識と、まだ自分の番ではないのだとの安心感、そして今日ばかりは口うるさい中年女のお小言とは無縁だという爽快感から、彼女たちは気を大きくして、祭りにはしゃぐ娘のようにきゃいきゃい声をあげて事の成り行きを見守っている。馬車の外には当然ながら見張りの男が数人いるのだが、彼等の耳に入ることなどまるで気にとめてないようだ。『ちょっと。よく見えないわ。そっちの方、もう少しつめてよ』『いたたっ。誰かあたしの髪、踏んでるでしょっ』『もお。静かにしてよ、聞こえないじゃない』『押さないでったら! 胸がつぶれちゃうでしょ!』『誰よ、今首に息吹きかけたの!』『やだぁ! 肩紐ほどけちゃったぁ』 女ばかり三人閉じこめたら恥は消えると言うが、それが十数人ともなると、とても奴隷とは思えないほど図々しい。恥じらいの消えた彼女たちの声には、外の男たちまで顔を赤らめてしまうほどだ。布をざっと縫いあわせただけのほろはかなり使いこまれており、ところどころに鉤裂きや小さな穴があいている。その隙間は今、彼女たちの指によって引き裂ける寸前まで広がって、外界の様子を馬車内に伝えているのだが、そこから入ってくるわずかな陽光におびえて、彼女たちとは反対側の隅でマテアは小さく縮こまっていた。 陽の光は矢のように鋭く己を傷つけ、人と接触したならその体熱は肌を焦がすのだと知って以来、マテアの胸は絶望の暗闇におおわれている。 まさか、昼の地上界がこんなだとは思ってもみなかったのだ。はじめて訪れたときは夜だったし、雪原を歩いていた間もずっと厚い雲に覆われていたので、気付けなかった。 その意味では、この商隊に拾われたのはマテアにとって幸いだったと言える。あのまま小屋にいたなら、たとえ吹雪がやんでも外に一歩も出られなかったろう。こんなに早く人のいる地へ移動することもできなかったはずだ。けれど、マテアにとってもはや『人間』は恐怖の対象でしかない。その指先で触れられただけで、火脹れができるのだから。 商隊の者は外で仕事にあたるため、いつも厚手の手袋を着用し、防寒具を着こんでいるので直接肌が
last updateLast Updated : 2025-11-27
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交わる運命は耐え難き灼熱のもとで 3

『どうして?』 それは、マテアも訊きたかった。なぜこの世界の者は他者を害してまで生きようとするのか。なぜどの人間も彼等の訴えに耳を貸してやらないのか。彼等は彼等にできる精一杯の心話で、あんなにも叫んでいるというのに。 最後の叫びすら、彼等は黙視される。あるいは、否定を。 マテアは配給される食事は水以外すべて拒み、一切手をつけなかった。もともと割当量が少なかったため、それらは商隊の者に見つかる前に他の女たちの間で分配されてしまう。マテアが食事をとらないことを知らせる者はおらず、誰もが知らぬふりをきめこんでいた。 ゆえに、マテアの食事は夜、月光神の投げかける月光のみとなったのである。 季節のせいか、はたまた厚い天幕のせいか。天幕を透かせて入ってくる月光は、あの夜の力強い月光と違って月光界の月光よりもさらに弱々しく、満足するにはほど遠い。だがそれでもないよりはましだ。地上界の月光だからこそ、布の織り目を抜けて入ってこられるのだ。これが月光界の月光だったなら、天幕内は闇一色に染まり、マテアはとうに衰弱しきって意識を失っていただろうから。 しかしそれは緩慢な死でしかない。大切な商品である彼女が夜、外へ出してもらえる可能性は皆無なのだから。 少しずつ、少しずつ、ナイフでそぎ落とされていく命。多少朦朧とはしていたが、それでもマテアの意識はまだ現実を向いている。明日もまだ向いているだろう。だが明後日はどうかわからない。明々後日はどうかも……。 そんな彼女の皮膚が、突如強張った。 通りすぎる雲影のように人の流れを映していただけの瞳に、ある一瞬を境に意志の輝きが戻り、急速に焦点をあわせた。ありえないものを見つけたときのように大きく見開かれ、食い入って一点を見つめ続ける。 マテアは肘に力を入れ、懸命に身を起こすと馬車の後方に向かってかけ出した。 仕切り布をはね上げ、外に飛び出す。見張りの男たちは突然間近に現れたマテアの美貌――彼等はマテアをまともに目にしたことが一度もなかったため――に一瞬圧倒され、制止の手を出し遅れてしまった。 草地に降り立ったマテアはよろめきながらも
last updateLast Updated : 2025-11-28
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