All Chapters of 月光聖女~月の乙女は半身を求める~: Chapter 21 - Chapter 30

55 Chapters

異なる世界、異なる理(ことわり) 2

 マテアは絶句し、あらためて周囲を見渡した。 かつて森があった場所。天をおおい隠すほど緑がしげり、様々な鳥が鳴いて彼女を滝まで誘導してくれた。目に見えなくとも、暗がりにはたくさんの命が息づいていたのが感じられた。それが、今は立木一本生えていない平坦な地となっている。 これをすべてこの地の民が為したというのか。 寒さによるものとは違う、もっと底冷えのする、心の芯から凍りつくような冷気の忍び寄りに、マテアは己でも知らぬうち、両の肩を抱いて震えていた。 なんとおそろしい者たち。自分が何をしたか、それさえも理解できないなんて、まるで赤子のようではないか。同じ世界に住むものである森を焼きはらうなど、『他者』を害するというその意味を本当に理解できていれば、とてもできるはずがない。 森や滝の恩恵を受けていたものたちは、きっと数多くいただろう。あそこは穢れを寄せつけない、聖地だった。それを蹂躙され、あの夜の鳥や小動物たち、それに木々は、どれほど泣き叫んだことか。やめてくれと、口々に叫んだろう。なのに人間たちはそれを無視した。無理矢理、力ずくでねじ伏せ、殺し、己にとって都合のいいように事を運んだのだ。 命の声を無視し、平然と森を焼きはらう、そんな冷酷な輩に<魂>の返還を求めなければならないとは。 あらためて実行の困難さを噛みしめていたマテアに、木々は安堵するよう息をついた。  ――ああでもまたいらしてくださってよかった。あのような事になり、もしや二度といらしてもらえないのではと案じておりました。 その言葉に、マテアも木々に訊きたいことがあったのを思い出す。「わたしの<魂>を奪った男があの後どうしたか、あなたたちは知っていて?」  ――もちろん存知ております、月光の乙女。わたしたちはなんとしてもそれだけはあなたさまにお伝えせねばと思い、土中で眠らずに待っていたのです。  ――あなたさまの禊を中断させた人間の男は、あなたさまの<魂>の恩恵によりこの地での長い戦いを無事生き抜いて、同じく生き残った他の者たちとともに南西へむかいました
last updateLast Updated : 2025-11-09
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異なる世界、異なる理(ことわり) 3

 地上界にきてはじめての夜、マテアは雪の上で眠った。 月光界でも飛ぶことは少なかったし、歩くこと自体はきらいではなかったが、地面から浮いて雪を軽く踏みながら歩く、というのは想像したよりかなりきつい。しかも長時間。 せめてあの夜のように、周囲に月光の力が満ちていてくれたならよかったのだが、灰色の空は夜がきても厚い雲の層におおわれていて、月はその輪郭すらのぞかせようとせず、かろうじて雲の隙間からこぼれ落ちるように降ってくる月光は月光界のものより弱々しかったため、すっかり疲れきってしまったのだ。 季節が変わり、人間がいなくなったとはいえ、変わらず周囲の空気は穢れにあふれている。寒気にはすぐ慣れることができたけれど、こればかりは昨日今日で慣れることができず、袖で鼻と口をかばいながら歩き、何度となく雪に足をとられ、転ぶうち、起き上がれなくなってそのまますうっと睡魔の手におちた。夢も見ず、気がつけば夜はすっかり明けていて、重い頭を振りながらまた歩き出す。 二日目も、三日目も、マテアは風に運ばれてくる雪を肩や頭からはたき落としながら、ひたすら南西を目指して歩き続けた。 四日目に、ようやく立木を見つけることができた。葉は一枚もなく、丸くすべすべした細枝に雪を積もらせて眠っているその姿は少し寂しげに見えたが、それでも自分以外の命の気配を感じられたことがマテアにはうれしくて、勇気づけられた思いで足を前へ動かす。 五日目の朝、目を覚ますとちらほらと白い粉が暗色の強まった空から舞い降りてきていた。ああこれが雪の正体かと掌で受ける。足跡一つない雪原に音もなく降り積もるそれらにしばらくの間見とれた後、肩に積もった雪をはらい落とし、歩き出した。 どこにも動く影のない、静寂に包まれた、美しい光景。しんしんと降り積もってゆく白い粉。冬のない月光界では起こり得ない、その神秘さに目を奪われ、うっとりと見とれることも度々あったそれが、実はとんでもない事象の先触れであった事に気付くのに、そう時間はかからなかった。 向かい風が目に見えて強まりだすにつれ、雪の粒が大きくなり、量も増えてきた。風は空から降る雪を運ぶだけではもの足りないのか、雪原に降りていた雪片までも舞い上げてぶつけ
last updateLast Updated : 2025-11-10
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異なる世界、異なる理(ことわり) 4

 あの男に会って<魂>を返してもらえればいいだけだ、なんて。今さらながら、自分のした考えの甘さに涙がにじんだ。 異なる神によって創造された広大な世界で、誰一人知る者も頼る者もなく、見知らぬ地を目指し、顔もろくに覚えていない一人の男を捜し出す――そんなことがわたしにできるだろうか? もう五日過ぎた。その間ずっと歩き続けたのに、周囲の景色は変わらない。月光界での四日がこちらでの四ヵ月と少しにあたるのなら『月誕祭』まではまだ十一ヵ月近くある計算になるのであせることはないとはいえ、どこまでいっても雪景色で、生き物の姿一つなくて……。はたしてこの景色が途切れることがあるのだろうか? 明日も明後日も明々後日も、ずうっとこのまま雪原をただ一人歩き続けるだけなのだとしたら…?(――だめ。今は考えちゃいけない) 熱くなった瞼にマテアは直感的にそう思い、それまでの考えを断ち切るように寝返りを打つ。心の防御が弱まるこのときを狙っていたかのように胸中へすべりこもうとする、不安と孤独を追い払うべく強く首を横に振って、固く固く瞼をとじあわせたとき。 まさにその一刹那に運命は彼女を襲った。   風に負けて開くことのないよう、床との間に布を押しこみ、閉じていた扉が突然押し開けられ、途端どっと強い雪風が吹きこむ。内側の壁に扉が打ちつけられた、バンッという音に重なって、強張った女の声が飛びこんだ。『た、助けて、誰か……!』 声に遅れて、黒髪の女性がよろよろと小屋へ入ってくる。 戸口によりかかるように両手をついたのは、ぼろぼろの衣服をまとった少女だった。 マテアほど薄着ではなかったが、重ね着したどの布も質が粗悪なのが一目でわかり、安っぽい。なにより、どこもかしこも色褪せて毛羽だち、くたびれきっている。そしてそれをまとった少女の方も、すっかりくたびれてしまっているようだった。 面からも指先からも病的なまでに血の気が失せて、体に積もった雪を払い落とそうとしない。唯一、充血した目だけがぎらぎらしてい
last updateLast Updated : 2025-11-11
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異なる世界、異なる理(ことわり) 5

『もうよせ、ゼクロス! それ以上やったら死んじまう!』 ゼクロスより大分小柄な体格のその男は、はがいじめたゼクロスをそのまま小屋の壁まで引っ張り、痙攣している少女から引き離す。『うるせえ! はなせナウガ! このおれさまが、こんな小娘なんぞに馬鹿にされたままでたまるかってんだ!』『だからって殺すのは短絡的だぞっ。いくら自分が見張りしてたときに逃げられたからって、熱くなりすぎだぜ、おまえ』『殺しちまえばいいんだよ、こんなあばずれは! いい見せしめだ! ひとがちょっと手綱緩めてやりゃあすぐ調子にのって、よけいな手間かけさせやがって! おかげでこんな、しなくてもいいクソ寒い思いまでしなくちゃならなくなった! おまえもだ! ほんとなら今ごろあったかい天幕の中で酒飲んで飯食ってるはずだったんだぞ! なのにこいつやあのガキどものせいで、おれたちだけこんな……。 おまえは腹立たねーってのかよ!』『いくら頭にきたからって、殺しちまったら元も子もないだろう。せっかくフラオの片田舎まで出向いて仕入れてきたんだ、売らなきゃこっちが損をするだけだぜ?』 ねばり強く言い聞かせるナウガの言葉はいちいちもっともで、ゼクロスも沈黙するしかない。やがて、ゼクロスの鉄板のようだった全身から余計な力が抜けて、彼に分別が戻ってきたのを知ったナウガはゆっくりと手を離し、慰めるように肩を数度叩くと、今度は床で失心している少女に近付き、覗きこむようにして髪に埋もれた顔をさぐった。『あぁあ。これはしばらく跡が消えないぞ。腹の方もだ。骨が折れてなきゃいいが……』『けッ。その器量じゃせいぜい五十~七十上級銀貨がいいとこの下級奴隷だ。痣の一つや二つ、気にするほどの値段か。まとめ売りでもしなけりゃ買い手なんざ現れっこないさ』 頭では理解できても感情の方はそう簡単におさまってくれないのか、ゼクロスは忌々しげに少女の尻に軽く蹴りを入れる。『だからだよ。今度の市でも売れ残ったりしてみろ。次の市まで二ヵ月も連れ歩いたら、それこそ大赤字じゃないか』 ゼクロスの子供っぽい態度を非難するように眉
last updateLast Updated : 2025-11-12
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異なる世界、異なる理(ことわり) 6

「あっ…」 逃げ場を求めて壁にすがりついたマテアを強引に小屋の中央まで引きずり出し、慣れた動作で両手を胸のところに敷きこませて俯伏せにすると、その背に尻をのせて動きを封じる。せめてと足をばたつかせて抵抗するマテアの両足首を難無くとったゼクロスは、そこに巻かれていた布と履物をはぎとり、足の裏を見てヒュウと口笛を鳴らした。『おれたちゃついてるぜ、ナウガ。この奴隷、まだ誰の所有でもないぞ。焼き印をそぎ落とした跡や上から焼きつぶした跡もない。つるっつるできれいなもんだ。こりゃ焼きつぶす手間がはぶけたな』 見てみろよとばかりに足の裏を横についたナウガに見せる。『あたりまえだろ。こりゃあきっと先の大戦での置き土産だぜ。絶対そうに違いない。これだけの美女だ、将軍クラスの妾だな』『案外娘かもな。ちょい薄着だが布質は上等だし、指や爪・肌も整ってる。髪先にも栄養が十分に行き届いていて、こりゃ貴族並の手入れをされてきた証拠だ。大方父親にわがまま言って物見遊山でくっついてきて、敗走の際置いてきぼりにされたんだろうさ』 ナウガの見立てにゼクロスも大いに満足したらしい。マテアの両手首を掴み、まるで戦利品であるウサギか何かのように得意気に釣り上げた。『どっちにせよ上玉だ! これなら最低でも一万上級金貨はふっかけられる! うまくいきゃ二万になるかもな! そうすりゃおれたち三年は働かないで食ってける。ほんと、思わぬ所でいい拾いモンしたぜ!』 生臭く、すえた異臭を放つ口を大きく開けて高笑いをするゼクロスのおぞましさに、マテアは少しでも男たちから離れようと顔をそむけ、もがく。だが手首を掴むゼクロスの力はいくら暴れてもびくともせず、どうしても、彼の腕の中から逃げ出すことができない。 ゼクロスはマテアの顎に指をかけ、今一度面の美しさを確認してにたにた笑う。マテアは、自分の身に何が起きたのか、これからどうなってしまうのか、何一つわからないまま、恐怖に堪え切れずに現実から意識を遠ざけた。
last updateLast Updated : 2025-11-13
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異邦の民は苦役を強いる 1

 すぐ近くでびゅうびゅうと吹きすさぶ風の音に揺り起こされ、目を開いたとき、視界は真っ暗だった。 夢現つで聞いたときよりもはっきりと風は鳴いていたが、頬などにあたる分には隙間風程度しかない。上の方で何やらひらめいている気がして、目をこらして見つめ続ける。それは、布でできた天井のようだった。外の強い風にあおられ、黒い波のようにうねっている。自分は大きな天幕の中に寝ているのだとわかる頃には目も暗闇に慣れて、気を失う寸前までの記憶もよみがえった。(そうだわ。わたし、腕を掴まれて……) 鉛のような頭に手をあてる。直後、ずきん、と手首と足首が同時に引き攣るように痛んだ。 あわてて手首を見る。男に掴まれたところが、黒くにじんでいるように見える。周囲が暗いのでそれ以上はわからない。 半身を起こそうと床に手をついて、自分が毛皮の上に寝ていたのがわかった。手入れが悪いのか古いのか、ひどくごわごわしている。ともかく裾をめくり、足首の方もそうなっているのかを確かめようとして、その瞬間マテアはぎょっとなった。 自分の足首の有り様に、ではない。足元の方向――おそらくは天幕の布にそって半円形にぐるりと、人がいたからである。 もしやこの中にあの男たちがいはしないかと顔を強ばらせたが、それは杞憂に終わった。その者たちは全員が女で、男は一人もいない。見える限りで頭の数を数えてみると、十五ほどあった。人同士の影に隠れて見えない分を入れても、二十そこそこだろう。ある者は己を抱きしめながら声を殺して泣いており、ある者は手足を縮めて眠っている。だが、大半はじっとマテアを見返していた。 暗がりながらも目鼻立ちの整った美しい女ばかりなのがわかる。だが年齢に幅があり、艶っぽい美女から清純そうな少女、年端もいかない少女までいて、一体どういった集まりなのかよくわからなかった。 皆一様に黒髪・黒い瞳をしているけれど、血のつながりを感じさせるほど面差しの似ている者はいない。何枚もの布や毛皮を重ね着した、厚ぼったい服装は似かよっていたが、布の織り目、耳飾りの細工や髪形・布帯の差し方・結び方など所々で違いがあり、統一性もなさそうである。 そもそも、
last updateLast Updated : 2025-11-14
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異邦の民は苦役を強いる 2

 こんなに人がいるのに、吹きすさぶ外の風の音しかしないだなんて。あまりに静かすぎる。一度そう考えるとそれが頭から離れず、気になって心がおちつかない。 周りに少しでも月光の波動があったなら、それを用いて背の布壁を破ることも可能だった。けれど雪の闇は深く、風は強すぎて、地上に届く前に月光の波動はすべて蹴散らされてしまっているようで、切れ端すらマテアの知覚に触れてこない。 もっとも、たとえ外へ出れたとしても、あきらかに小屋へ入る前より強まっているこの風雪の中を再び歩き出すのは無謀な気がした。雲間から月の光も見えないのでは、どちらが南西なのかもわからない。 夜が明けるまで堪えるしかない。 しぶしぶながらそう結論して、布壁に深くよりかかって目を閉じる。鼻の先に膝がつくほど足を抱きこみ、マテアが寝に入った途端、それを待ちかねていたようにぼそぼそと天幕の至る所で話し声が起きはじめた。薄目を明けて盗み見ると、とても好意的とは思えない目をして自分を見ているのがわかる。話題が自分についてであるのはまず間違いないだろう。 言葉が通じない――それは、小屋の一件でとうに理解していた。 あの小屋で、マテアには少女や男たちの口にしていた一切の言葉が、単なる<音にしか聞こえなかったのだ。 世界が違うのだから用いられている言語が違うのもあたりまえなのだろうが、それにしてもなんと歯切れの悪い、長く耳にぬるぬるとした感覚の残る<音か。くすんだ語尾も気持ち悪い。月光界一の悪声と言われているマエアシシロマダラガエルだってあんなにひどい印象を与えはしないだろう。 視線や表情の変化を見ていれば、言葉が通じなくともある程度意味は理解できるものだ。特に悪意ある言葉は。けれどマテアはそれを読みとる努力も放棄した。目を固く閉じ直して、瞼を膝にすりつける。 地上界の女たちが自分のことを何と言っているのか、知りたいとは思わなかった。むしろ、できるものなら耳に飛びこんでくるこの不快な音をすべて自分の中から叩き出し、耳を封してしまいたい思いにかられる。 通じない言葉、理解しがたい行動。 ここは異世界で、自分以外の者はただの一人も月光界人
last updateLast Updated : 2025-11-15
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異邦の民は苦役を強いる 3

 ばっ、と勢いよく仕切り布がめくり上げられ、突然強い光が天幕内に差しこんだ。『さあさあ、いつまで寝てんだよ! とっくにお天道さんは東の地平から離れちまってるじゃないか! ったく、あんたらはひとが起こしにこなけりゃ一日中だって寝てるんだから、始末が悪いよ。睡眠不足は肌の大敵とはいえ、今のあんたたちじゃとりすぎたって一文の得にもなりゃしないんだ! 目が覚めたらさっさと表に出て顔を洗いな!』 めくり上げた中年女は、せり出した腹に吸いこんだ空気全部を怒声に変えてしまったように、鼓膜の破けそうな大声を張り上げて中の女たちに指示を出す。女たちは眠い目をこすりながらのろのろと起き出した。一列に並び、順に天幕を抜けて行こうとする女たち一人一人に、中年女の厳しい検分の目が光る。『ちょっとあんた、また指を太腿の間に挟んで寝るのを忘れたね! 凍傷やしもやけは指の大敵だって、何度言わせたら気がすむんだ! 指の形をこれ以上悪くしようものなら性奴しょうどからはずすって言っただろ! 水くみや飯炊き女になりたいのかい? ならゼクロスに言って、そっちの集まりに加えてもらいな。なりたくないならちっとは気をおつけ! それからそこの! 腕を見せてみなっ! 指じゃない、ほら肘んとこだよ! 見てみな、ガサガサになってるじゃないか! 膝もだ! ちゃんと与えた油を毎晩塗りこんでるのかい? ひび割れたりしたら、それこそみっともなくて台上に立てなくなるよ!』 彼女の眼力にはどんな些細な事も見逃してはもらえないらしい。視界に入ったほんの数秒たらずで女たちの全身を観察し、目ざとく見つけては尻をひっぱたき、髪を引っ張って、早口に一通り説教をする。 矢継ぎ早にほとんど全員に小言を入れたあと、中年女は自分の前に勢ぞろいした彼女たちの姿を今一度流し見て、言った。『いいかい? 何度も言うけど、あんたたちは今回集められた女奴隷の中でもえりすぐりの器量良したちだ。他の十把一からげと違って、当然最初から高い値でとりひきされる。買う者たちだってそれ相応の金持ちさね。けど、最高値がいくらつくかはあんたたち次第なんだよ。肌や髪が少し荒れてただけで三十はおちる。傷モノだったら間違いなく百はおちるよ。 高い値で買いとっ
last updateLast Updated : 2025-11-16
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異邦の民は苦役を強いる 4

『あのゼクロスがめずらしく絶賛してたっけねぇ。今まで扱ったどの奴隷より上玉だって。すっかり興奮しちまってて、手がつけられなかったよ。 さあ出てきてごらん。どれほどのものか、あたしがじきじきに検分してやるからね』 そう言い、出てくるのを待つが、マテアは従う素振りすら見せない。眉間にうっすらと嫌悪の皺を寄せて、ぴくりともせず中年女を見返している。 地上界の言葉を知らなくて、彼女が何を言っているのか正確には理解できないマテアでも、中年女がさっきの女たちのように自分も外へ出ることを促しているのはわかった。ただ、先から聞こえていたつんけんとした語感がひどく不愉快に感じられて、おとなしく従う気になれなかったのだった。 指先一つ動かさないマテアに、ずい、と中年女が一歩中へ踏みこむ。『出ておいでと言ってるんだよ。聞こえないのかい? ゼクロスは耳が悪いとは言ってなかったけどね』 声が低くなった。耳にとげとげしく、不機嫌なものへと変化している。 ぴしりと音をたてて、中年女は帯にはさみこんでいた鞭を左手に軽く打ちおろした。 性奴は外見の出来不出来によって売買の値が決まることから他の奴隷たちと違って手荒な扱いは受けない。移動中は馬車にも乗せられるし、肌を磨き髪や爪に艶を出すための品も配給される。そのため何かと図にのりやすく、すぐに言うことをきかなくなったり、隊での生活に慣れて、常に緊張するということを忘れていろいろと怠けだしたりもする。 これは、そんな輩を相手にしばしば用いる調教用の鞭である。 打った箇所には醜いみみず腫れができて、最低でも三日は熱をもつし、へたをすると傷が残ってしまう場合もあるので、高級性奴相手にはそうそう用いたりしない。だから今回も、中年女はマテアの恐怖心に訴えるためだけに見せたのだが、マテアにそれとわかるはずもなく。 目にした瞬間、鞭打たれるのだと察して、さっと頬が強張った。『ふん、強情っ張りが。目は悪くないようだね。ならあたしが言ってる意味がわかるだろう? 表へ出るんだよ、さっさとね』 中年女はマテアの変化した表情の意味を素早く読みとり、勝ち誇って鞭の先で仕切り布を突く。
last updateLast Updated : 2025-11-17
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異邦の民は苦役を強いる 5

「……っあ、っ……!」 何千、何億の鋭い針で頭の先から足の爪の先まで刺されている気がした。今まで体験したことのない重圧感に胸がつぶされる思いで千切れるような息をもらす。 一体何が、どうしたというのだろう…? わけがわからないままにとにかく立ち上がろうと、俯せになった状態から懸命に腕に力をこめるが、なかなか体が持ち上がらない。『? ちょっとあんた、どうしたってんだい? まさか病持ちなんじゃないだろうね?』 様子がおかしいことに気付いた中年女が膝をつき、マテアへと手を伸ばす。「さわらないで!」 ようやく自分の身に何が起こっているのか気付けたマテアは、接近する中年女の手から逃げようと身を起こしたものの――両目から飛びこみ頭内を直撃した激痛に堪えかね、再び雪面へ膝を屈した。「いたい……いたい!」 頭の中に直接針を突き立てられたかのような激痛に身をよじる。見たのはほんの一瞬だったけれど、彼女の目ははっきりとこの痛みの大元を捕らえていた。すなわち。「陽の女神よ、どうか、どうか月光神の娘に、お慈悲を……!」 それは太陽光。陽の女神が地上界の生きとし生けるものすべてに投げ与える、恵みの光矢。しかし儚い月光力によって生まれ、生きてきた月光界人のマテアにとって、それはあまりに強すぎる力の矢だったのである。 死んでしまう。 このままでは、死んでしまう……!「あっ……、ああぁあぁぁあああーーーーーーーーーーーっ!」 我が身を貫く数千もの陽の光矢に太刀打ちできるはずもなく。 マテアは意識を失うまで絶叫し続けた。
last updateLast Updated : 2025-11-18
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