Home / ホラー / 禁区の残穢 / 第四十話:地下への扉②

Share

第四十話:地下への扉②

Author: 花柳響
last update Last Updated: 2025-11-28 20:00:00

 地下への階段は、巨大な生物の食道のように生暖かく湿っていた。

 カツ、カツ、カツ。

 先行する慧のヒールが、コンクリートの壁に反響して不規則なリズムを刻む。だが、音がおかしい。一つ足音が響くたびに、余韻の中にジュルリという水気を帯びた粘着質な音が混じっている。踏みしめているのは固い地面ではなく、腐った肉の上であるかのように。

「……最悪ね。湿気でカビだらけじゃない」

 前方の闇から、慧の苛立った声が聞こえた。

 静が光を向けると、踊り場で立ち止まった慧が、ハンカチで必死にジャケットの袖を拭っている。天井から垂れ下がった蜘蛛の巣のような白い菌糸が、肩に絡みついていたのだ。

「これ、建築基準法違反よ。換気設備も稼働していないなんて、学生を病気にさせる気?」

 彼女はカメラのシャッターを切った。

 バシャッ、という閃光が一瞬だけ壁一面を覆う黒いシミを照らし出す。そのシミが無数の「人間の顔」に見えたのは、錯覚だったのだろうか。

 いや、違う。フラッシュが焚かれた瞬間、壁のシミたちが一斉に目を閉じ、光を嫌がるように蠢いたのを静は見逃さなかった。

「廻さん、壁に触らないで……!」

「触りたくて触ってるわけじゃないわよ。狭すぎるのよ、ここ」

 慧は忌々しげに吐き捨て、再び階段を降り始めた。背中には先ほどの菌糸が白くへばりついている。それが細い「手」のように首筋へ向かって這い上がり始めていることに、当の本人は気づいていない。

 静は喉まで出かかった悲鳴を飲み込み、必死に足を動かした。

 足首が重い。まとわりつく「影」が、地下に近づくにつれて質量を増している。怯えているのか、それとも懐かしい場所へ帰れることを喜んでいるのか。伝わってくる感情は、恐怖と安堵がない交ぜになった混沌のノイズだった。

 大丈夫。私がついてるから。

 心の中で足元の影に語りかける。それは自分自身を鼓舞するためでもあった。この先に何が待っていようとも、決して彼を見捨てない。その覚悟だけが震える膝を支えている。

 やがて、階段の底が見えてきた。

 既に降りていた観月斎が、腕組みをして二人を待っていた。下から光を当てられた顔は陰影が深く刻まれ、まるで髑髏のように見える
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 禁区の残穢   第五十四話:残されたもの③

     翌日、大学へ向かった。 昨日まであれほど濃厚だった霧は嘘のように消え、冬晴れの空が広がっている。 中庭ではサークルの学生たちが笑いながらビラ配りをしていた。講義室からは気怠げな学生たちの話し声が漏れてくる。日常だ。かつて憧れ、そして今は何よりも憎んでいる、平穏で無関心な日常。 誰も、昨夜この地下で起きた惨劇を知らない。一人の学生が泥に飲まれて消えたことを知らない。事実は胸に重く沈殿するばかりだ。 講義室に入り、いつもの席に座る。隣の席は空席のままだった。 そこには燈が座っていたはずだった。くだらない冗談を言って、笑わせてくれたはずだった。でも、もう誰もそこを見ない。まるで最初から空席だったかのように、空気のように扱われている。「……静ちゃん?」 顔を上げる。宇津木深琴だった。 以前のように怯えた表情はしていない。むしろ少し気まずそうに、けれど心配そうに眉を寄せていた。「顔色、悪いよ? やっぱり、まだ体調悪いの?」「……深琴ちゃん」 彼女の顔をじっと見つめる。記憶はどうなっているのだろう。私が燈の話をして拒絶されたこと、あの時感じた恐怖。それらは残っているのだろうか。「……ねえ、深琴ちゃん」「うん?」「朱鷺燈くんのこと……覚えてる?」 最後の賭けに出た。もし、少しでも覚えているなら。まだ希望はあるかもしれない。 深琴は小首を傾げた。瞳には一切の曇りも、演技の色もなかった。「とき……ともる? 誰それ、静ちゃんの好きな人?」「…………」 喉が凍りつく。 完全に消えている。前回の「誰だっけ?」という曖昧な反応ではない。存在そのものが認識されていない、真っさらな無知。「……ううん、なんでもない。……変な夢を見ただけ」「夢? 静ちゃん、最近疲れてるんだよ。今日はも

  • 禁区の残穢   第五十三話:残されたもの②

     どのようにしてアパートまで帰り着いたのか、記憶は曖昧だった。  早朝の街は暴力的なまでに日常を取り戻している。新聞配達のバイクの音、部活の朝練に向かうジャージ姿の学生たち、ごみを出す主婦の姿。泥まみれで幽鬼のようにふらつく静を、彼らは怪訝そうに見るか、あるいは関わり合いになるまいと視線を逸らして通り過ぎていく。  その反応がありがたかった。もし誰かに「大丈夫ですか」と声をかけられたら、その場で叫び出してしまっていたかもしれない。  世界は正常に機能している。昨夜、地下であれほどの怪異が起き、一人の人間が泥に飲まれて消滅し、もう一人が精神を破壊されたというのに。地上は何食わぬ顔で、新しい朝を迎えている。あまりの無関心さが薄ら寒く、吐き気がするほど空々しい。  アパートの部屋に入り、鍵をかける。ガチャリと鳴った金属音が、世界と自分を隔てる最後の結界のように響いた。  玄関のたたきに座り込み、泥だらけのスニーカーを脱ぐ。靴紐の間まで入り込んだ黒い泥は、乾いてボロボロと崩れ落ちた。ただの土ではない。数千人の死者の怨念と、燈の「咎」が凝縮された残骸だ。 「……汚い」  呟くと、涙が溢れてきた。  汚い。自分が汚い。友人を殺して、自分だけがのうのうと生き残って帰ってきた、薄汚れた身体が憎い。  服を脱ぎ捨て、浴室へ向かう。シャワーをひねると冷たい水が出たが、構わずに頭から浴びた。排水口へ流れていく水は墨汁のように黒い。  髪にこびりついた泥を爪で掻き出す。皮膚に染みついた腐敗臭を落とそうと、スポンジで肌が赤くなるまで擦る。けれど、匂いは落ちない。鼻の奥の粘膜に、地下書庫の湿ったカビの臭いが焼き付いてしまっている。 「落ちて……落ちてよ……ッ」  嗚咽しながら、身体を傷つける勢いで洗い続けた。  鏡を見るのが怖かった。曇った鏡の向こうに、また「蠢く影」が見えるんじゃないか。背後に燈の亡霊が立っているんじゃないか。  恐る恐る顔を上げる。  鏡の中には、濡れた髪を張り付かせ、充血した目でこちらを見つめる青白い顔の女が一人映っているだけだった。  影は遅れない。歪みもしない。  ただの、疲れ切った、抜け殻のよ

  • 禁区の残穢   第五十二話:残されたもの①

     地上への扉が開いた瞬間、網膜を焼いたのは暴力的なまでに清浄な朝の光だった。 地下書庫の重厚な鉄扉の向こう側には、昨夜の世界を塗り潰していた異界の霧はない。ただ白々とした冬の夜明けが広がっているだけだ。肺に流れ込んできた空気は氷の針を含んだように冷たく、無味無臭だった。 さっきまで鼻腔を犯していた湿った土と腐敗の臭い、何千もの死者が吐き出す怨嗟の熱気。それらが嘘のように遮断され、あまりの落差に視界がぐらりと揺れる。「……出たぞ」 頭上から降ってきた声には、少しの乱れも温度もなかった。 足がコンクリートの地面を踏んでいる。泥ではない。吸い付くような粘り気も、這い上がってくる触手もない、ただの固い地面だ。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。「あ……、はぁ……」 呼吸をするたびに、肺の奥から泥の味がした。身体は地上に戻ったが、内側はまだ暗い泥の中に半分浸かっている感覚が抜けない。 自分の手を見る。爪の隙間、指の皺の間に、黒く乾いた泥がこびりついている。単なる汚れではない。あの場所で触れた「咎」の残滓のように見えて、慌てて手をこすり合わせる。落ちない。皮膚の下にまで染み込んでしまったかのように、黒い染みは消えなかった。「……う、……うぅ……」 隣で、うめく塊があった。 慧だ。地面に投げ出されたまま、胎児のように背を丸めて震えている。泥と脂汗で固まった髪。汚れ、破れたブランド物のスーツ。かつて鋭い眼光を放っていた瞳は焦点を結ばず、どこか遠くの虚空を彷徨っていた。「……トリック……全部、トリック……」 譫言のように繰り返される言葉は、もう意味を成していない。首筋には、泥人形に掴まれたどす黒い手形が火傷の痕のようにくっきりと残っていた。彼女が直面した現実の証拠だ。だが、彼女の精神は受容を拒絶し、結果として砕け散ってしまったのだろう。 かける言葉は見つからなかった

  • 禁区の残穢   第五十一話:観月の「処理」③

     ドォォォォォン!! 繭が内部から爆発するように膨張し、泥の一部が弾け飛ぶ。 その裂け目から、二つの影がもつれ合うのが見えた。 一つは、必死に何かにしがみつく、小さな影。静。 もう一つは、それを飲み込もうとする、巨大で不定形な影。燈であり、ウツロ様であるもの。「今だ」 瞳孔が開く。 この瞬間、二つの影の輪郭が明確に分かれた。 躊躇なく、掲げていた手鏡を振り下ろすように構え、鏡面を繭の裂け目に差し向ける。「――穿て!!」 咆哮。 鏡面から、目に見えない衝撃波が放たれた。 光線でも物理的な力でもない。「認識」の強制書き換え。鏡に映ったものを「実体」として固定し、そこにあるものを「虚像」として弾き飛ばす、因果の逆転。 ガシャアァァァァァッ!! 地下空間全体が、巨大な鏡が割れたような轟音に包まれた。 空間に亀裂が走り、泥の繭が真っ二つに裂ける。「ぎゃあぁぁぁぁぁッ!!」 繭の中から、この世のものとは思えない断末魔が響いた。 静の声であり、燈の声であり、そして泥に沈みかけていた慧の悲鳴とも重なる。 斎の放った一撃は、静と燈の結合部を正確に断ち切っただけではない。その余波が周囲の空間ごと衝撃を与え、慧に群がっていた影たちさえも吹き飛ばしたのだ。「……チッ、余計なものを」 顔をしかめる。 慧を助けるつもりはなかった。だが、鏡の出力が高すぎたせいで、結果的に周囲の雑魚を一掃してしまった。 吹き飛ばされた影たちが霧散し、泥の中から慧の体がボロ屑のように放り出される。「ごほっ、ごほっ……!」 泥の上に転がり、激しく咳き込む慧。 全身泥まみれで、髪も服も皮膚も溶けかかっている。だが、生きている。 虚ろな目で、裂けた繭の方を見上げた。 そこには、泥の中から這い出そうとする静の姿があった。 そしてその背後――切り離された巨大な「燈の影」が、苦痛にのたうち回りながら、形を保てずに崩壊しようと

  • 禁区の残穢   第五十話:観月の「処理」②

     地下書庫の高い天井に、女の悲鳴が不協和音となって降り注ぐ。 泥の触手が太ももまで這い上がり、高価なスーツの生地を腐食させながら肉に食い込む。焼けるような痛みに、慧は半狂乱で泥を掻きむしった。「いやぁぁッ! 入ってくる……! 泥が、体の中に……!」 皮膚の毛穴という毛穴から、おぞましい「他人の記憶」が侵入してくる。 何十年も前にここで死んだ者の後悔、痛み、怨嗟。それらが汚水となって血管を巡り、自我を内側から汚染していく。 だが、観月斎は止まらない。 慧の絶叫を、単なる環境音の一部として処理し、思考を研ぎ澄ませる。 優先順位は明確だった。 第一に、「ウツロ様」の核である朱鷺燈の影を切り離すこと。 第二に、そのために必要な「隙」を見極めること。 廻慧の命は、そのリストのどこにも記述されていない。「……悪くない」 手鏡の曇った表面を親指で拭いながら、独り言ちる。 視線の先には、脈動する巨大な泥の繭。 中には氷鉋静がいる。彼女は自らの強い感受性を触媒にして、ウツロ様の意識を内側に引きつけている。 そして背後では、廻慧が「雑魚」の影たちに襲われ、新鮮な恐怖と絶望を撒き散らしている。「あの女の『咎』……独善的な正義と、無自覚な加害性。それは腐った肉のように強烈な臭いを発する。……奴らにとっては、抗いがたい撒き餌だ」 計算は冷徹だった。 静が「本体」を抑え込み、慧が「周囲」を引きつける。この二重の囮によって、斎自身への攻撃は最小限に抑えられ、本体への接近が可能になる。「み、観月……ぅ……!」 背後から、空気を絞り出すような喘ぎ声。 慧の首に泥の手が巻き付いたのだ。 視線が、斎の背中に突き刺さる。助けて、という懇願と、なぜ助けないのかという激しい憎悪。 斎は一瞬だけ足を止め、肩越しに慧を一瞥した。 そ

  • 禁区の残穢   第四十九話:観月の「処理」①

     鼓膜を劈く死者の嘲笑も、鼻孔を犯す腐敗臭も、この黒い繭の内側までは届かない。 あるのは羊水に似た粘度と、ドクン、ドクンと波打つ巨大な心臓の拍動だけ。 溶けていく。 指先が、髪が、皮膚が、砂糖菓子のように崩れ落ち、黒い泥へと還元されていく。個体としての輪郭が消失する感覚。そこに痛みはない。むしろ、張り詰めていた神経が一本一本焼き切れていくような、背徳的な安らぎがあった。『……しずく……』 脳髄に直接、声が響く。 朱鷺燈の声であり、同時に私自身の声でもある。泥の中で意識が混濁し、境界が曖昧になっていく。 他人の記憶が、奔流となって流れ込んでくる。 真夏のアスファルトの照り返し。舌に残るコンビニコーヒーの苦味。そしてあの日――バイクの後部座席で友人が血を流していた時の、咽せ返るような鉄錆の臭いと、冷え切った戦慄。「俺は悪くない」「誰も見ていない」。 卑小な自己保身と、それを塗り潰すほどの巨大な罪悪感。(ああ、燈。ずっと、こんなに痛かったんだ) 泥の中で、彼の形をした「影」を抱きしめる。 影は黒いタールのように腕にまとわりつき、感受性という回路を通して苦痛を共有してくる。私の心にあった「救えなかった後悔」と、彼の「逃げたかった弱さ」。二つの咎が混じり合い、化学反応を起こして熱を帯びる。『……いっしょに、いよう……』『……もう、かえらなくていい……』 無数の死者たちの囁きが、燈の声に重なる。 ここは心地いい。誰も私を「異常」だと指差さない。深琴ちゃんのように怯えない。廻さんのように否定しない。ただ泥になって、何もかも忘れてしまえばいい。 意識が、甘い腐敗の底へと沈んでいく。 だが、その微睡みを無粋に断ち切るように、遥か頭上の「外側」から硬質な音が響いた。 カツ、カツ。 革靴が湿った地面を踏みしめる、冷徹なリズム。「…&hellip

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status