All Chapters of 幽霊聖女は騎士公爵の愛で生きる : Chapter 21 - Chapter 30

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21

「あ、あの……」「めっちゃ可愛い! なにこれ、可愛い。殺人的に、可愛い。アレク坊やの『ドクタ~』に匹敵する可愛さ。あーもー!」「……え?」ぎゅうううっと抱きしめる腕に力が籠り、レティーシャはおろおろと戸惑った。「会いたかったよ、聖女様! うん、会えて、とても嬉しい!」またぎゅうっと抱きしめられたあと、パッと手が離れた。次の瞬間に、典医の体が後ろに強く引っ張られる。「……いい加減にしろ、おっさん」「アレク坊や、可愛らしさををどこに落としてきたの?」「早く診察して、早く帰れ」「こういうところ父親にそっくり……さて、やりますか」典医はアレックスの赤い瞳を覗き込んだ。「目に痛みはある?」「痛みはない。見えないことを除けば、これといった異常を感じない」「それではしばらく様子を見よう。魔法を使うときに目の色が変わることがあるように、目は魔素の影響も受けやすい場所でもありますからね」体内の魔素のサイクルが乱れたことで、視力の回復が遅れているのかもしれない。典医の診断に、レティーシャはひとまず安心した。「聖女様、アレク坊の目に治癒力をあててみた?」「は、はい」「そっか。それなら、治癒力はしばらく使うのをやめてみようか。目は体の中でも特に複雑なところだからね」典医の判断にレティーシャが息を飲む。「も、もうしわけありません。私が、余計なことを……」「それはないよ。あくまでも聖女様が使うのは治癒力だからね。改善することはあっても、悪化することはない」「でも……」「治癒力がここで停滞しているのかも、って話だから。治癒力も、結局は魔力を使った魔法だからね」自分のせいでアレックスの回復が遅れているのかもしれない。そう思って焦りながら顔を青くするレティーシャを、典医はよしよしとレティーシャの頭を優しく撫でた。「聖女様のせい。これは、確か」「はい……」「ただ、診たところ、アレク坊やの体の中には二つの魔力がある。一つは、アレク坊や自身の魔力。これは自分の魔力だから、アレク坊やは呼吸するのと変わりなく自分の体に馴染ませることができる」「もう一つが、私の……」「そう。一つが聖女様の魔力で……アレク坊やの体のあちこちに付与された聖女様の魔力が、アレク坊やの魔力の巡りを妨げちゃってる感じだね」体に付与と聞いて、アレックスは首を傾げた。 「
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「典医殿ももういい御年でしょう。弟子が五人もいるのですし、どなたかにその座を譲って隠居なさってはいかがですか?」「そうだね~……引退して、国王陛下と近衛騎士団長と、あとはその辺の爺たちで茶でも飲みながら坊やの思い出話でもして、いずれ一冊の本にまとめて聖女様に献上……」「いらんことしないで、当分現役で頑張ってください」「……はいはい」(弟子、か……)典医とアレックスのやりとりに、レティーシャはふと思う。医術は技術。魔法とは違い、もって生まれた才ではなく個人の努力で得る技術である。いまの国王の代になり、医者を養成するための学校や、現役の医師が弟子をとって育成する制度ができた。これは国家事業として始まったことだが、「聖女がいるのに」と不満の声が多いためなかなか形になっていないのが実情。(聖女よりも医者のほうが重要ですわ)聖女はいま一人しかいない。三人違う場所で同時に死にかけたとき、聖女が助けられるのは一人だけ。でも医者が三人いれば、三人とも救える可能性がある。単純な計算の話。 隣国にはとても皇帝直轄の医術院があり、皇妃主導で身分を問わず優秀な方が集められているという。他国から留学生を招き、様々な地域の民間療法も吸収し発展もしていっている。医術は日々進化する。発展させようとする人々が、不断の努力をしている。それはこの国の新聞でも報じられているのに、この国の上層部はまだ『聖女』に拘っている。(隣国には動物を救う医者も生まれてきているというといいますのに……) 主に畜産用の動物の治療をしたり、感染症の予防に力を入れているようだが、富裕層の中には自分の飼っている動物に主治医をつける者もいる。 「聖女様?」気遣うような典医の声にレティーシャはハッとし、思い出しかけていた目の前で死んでしまった大切な命のことを努めて忘れようとしたが……。(聖女、なんて……助けることができなかったのに、烏滸がましいですわ……)聖女の治癒力なら助けられたのに、助けられず死なせてしまった大切な存在がレティーシャにはいた。「聖女様、顔色が悪いけど気分が悪い?」「大丈夫ですわ」典医の言葉に首を横に振ったが、典医の顔からは心配が消えなかった。「ずっとアレク坊の治療をしてきて疲れたんだね。よし、診察しよう」「いいえ、本当に大丈夫です。特に、異常も感じて
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「ご安心ください、取って食ったりなどいたしません」「は、はい……」「その代わり聖女様の魔力で私の体を舐ってください」「ね、ねぶっ!?」レティーシャが驚いて典医を見ると、彼の襟首を執事長のグレイブが引っ張っていた。「発言にお気をつけくださいね、典医殿」「……お、おう」「奥様、診察はこちらで受けていただけますか? 典医殿が不埒な真似をしないか監視しませんと」レティーシャはキョロキョロと周りを見る。「ここで、ですか?」(部屋ではなく?)予想外の提案にレティーシャが医者を見ると、典医はにこにこと笑いながら了解した。「医者とはいえ男と二人きりにさせるのはお嫌ですよね~。いやあ、愛ですね~、愛」(愛……?)レティーシャが首を傾げていると、典医は使用人に指示をして椅子を用意した。 「脈を診たいから、腕に触るね」「は、はい」「そんなに緊張しなくても……診察は初めて?」(あ、いけません)「主治医以外に診てもらうことは初めてで……聖女の力のせいか、あまり風邪もひきませんし」それは本当のことで、レティーシャだけでなくラシャータも基本的に風邪をひかない。「聖女の力は血に何か意味があるのかもしれないね。力を使えるのも直系女児だけって、一般的にみれば変な制限がついているし」「そうかもしれませんね」話している間に、レティーシャの体から緊張が抜けた。「特に疲れた様子はないですけれど……目元に疲れがあるね」典医の目がアレックスの傍にあるサイドテーブルの本の塔に向けられる。「原因は、読書だね。昨夜も遅くまで、本を読んでいたようだ」「は、はい……タイミングを逸してズルズルと……」反省するレティーシャに典医は笑う。「僕もよくある。あとで点眼液を処方するから、目が乾いたと感じたら使うといいよ」レティーシャは礼を言った。 「ついでに魔力の確認もしておこう」「……魔力?」「疲れると、魔力が体内で滞って体調を崩しやすいんだ」「そう、なのですね」レティーシャが頷くと、典医が両手を広げた。「あ、あの」「ほらほら。聖女様の治癒力を、僕の体にふわあっと使ってみて」「あ、でも、治癒力は国の許可がなければ……」「検査なら問題ないない。……今までも似たような検査をしてきたでしょう?」(それは知りませんが……そう、なのですね……それなら)「わ
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ウィンスロープ公爵夫人になった『ラシャータ』はもしかしたら……。そんな空気が、いつの間にかウィンスロープ邸に流れ始めた。今日もまた、甲斐甲斐しくアレックスの世話をする『ラシャータ』を見ながら、グレイブもまたそう思っていた。そう思っているのは、グレイブだけではない。それは、その者の顔を見れば分かる。でも、誰も「もしかしたら……」の先を口にはしない。口には、できないから。なぜなら、レティーシャ母子の心中は、自分たちのせいだから。自分たちが死の恐怖から逃げたくて、死にたくないと願い、聖女を欲した。自分勝手に、自分たちは聖女を欲するだけで何もせずに、その期待も責務も、全てを一人の貴族令嬢に負わせて、我慢を強いた。我慢を強いられた彼女は、自殺した。   *  「奥さん」(旦那様は、あの日から奥様を『あの女』とか『あいつ』とか呼ばなくなった)あの日。それは、アレックスが典医の診察を受けた日。「どうしましたか?」「暇だから、何か話をしてくれ」「何かと言われましても……」甘えるようなアレックスの要求に『ラシャータ』が困る。ラシャータなら困るなんてあり得ない。アレックスが関心を向ければ、「見て見て」と言わんばかりに自慢話を始める。(そもそも水を向けなくても勝手に話す方だ) 「なんでもいいぞ」「なんでもいいは困るのですが……」困った声を出す『ラシャータ』に、アレックスは甘く蕩けそうな顔を向ける。(旦那様はご自分がどんな表情をなさっているのか、分かっていないのでしょうな)ラシャータに一度も向けなかった、その表情。これを見ると「もしかしたら」という願望の混じる思いが、「やっぱり」という確信に変わっていく。 変化魔法で色は変えられても、姿形は変えられない。色を変えれば雰囲気は変わるが、人の性質が変わることはないのだ。ラシャータと同じ顔立ち。治癒力を使える、聖女。それで、“ラシャータでない”となれば……グレイブに思い当たるのは、一人だけ。―― じい、僕のお嫁さんはピンクの目をした可愛い子なんだよ。(生きて、おられた……)アレックスの要望に何を話したらいいか悩む『ラシャータ』の姿がグレイブの視界で滲んだ。(おっと、年を取ると涙もろく……)「寝ているのにも飽きたな。グレイブ、何か仕事はないか?」(……
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「閣下、お目が見えないのに何をなさるおつもりですか?」ふんわりと優しい『ラシャータ』の、諫める声音にアレックスが怯む。「書類を……読んでもらって……」「今日の午前中、執事長様は今日中に決済の必要な書類といって何枚も読み上げてくださったではありませんか」(奥様、もっと言ってやってくださいませ!)喉の痛みを感じながら、グレイブは心の中で『ラシャータ』を応援した。「それなら、侍女の仕事を手伝う」アレックスの言ったことに、ソフィアの頬がぴくっと動くのが見えた。(これは……まずいぞ)「旦那様……」「閣下、いま“それなら”と軽くおっしゃいましたが、侍女たちの仕事の中で何ができるのですか?」アレックスが愚かなことを口にしないよう、止めようとしたグレイブの声は『ラシャータ』にさえぎられた。グレイブは、『ラシャータ』のほうを見た。反射的にグレイブの背筋がひゅっと伸びた。優しい声音はもはや罠でしかない。「洗濯、とか?」(旦那様! 奥様の顔、顔……って、目が見えないんだった! 坊ちゃまのおバカ!)「洗濯を舐めていらっしゃるのですか?」『ラシャータ』の冷たい声に、アレックスはやっと自分が愚かなことを言ったことに気づいた。でも……。(遅い!)「閣下。洗濯とは小麦一粒ほどの汚れでも残したら、それはもうネチネチと嫌味込みの注意を受ける大変な仕事なのですよ?」(……そうだっけ?)グレイブがソフィアを見ると、視線に気づいたソフィアが首を横に振った。洗濯はそんな、精神的重労働ではない。「……すまない。遠征中は川で汚れを軽く洗うくらいだから……そんなに気を使う大変な仕事だとは」「そうですわ」(坊ちゃま、信じている……まあ、家事など一切やったことがない、ある意味で箱入りのお坊ちゃまだからな)「よく考えれば俺が汚したタオルやシーツの汚れを落としてくれるのも彼女たちだな……何かできることがあればいいが」「それでしたら、甘い物の差し入れなどをなさってはいかがですか? 疲れたら甘い物、とても幸せですわ」「甘い物……か。俺はあまり好まないのだが、嬉しいものか?」「はい。疲れた体に甘さがじわっと広がるとまた頑張るぞって気分になれます」「そっか……君は甘い物が好きなんだな」「はい」「グレイブ、料理長を呼んでくれ」  * 「屋敷の使用人
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「旦那様、ケヴィン様が再来月こちらに来るそうです」(……ケヴィン……確か、閣下の弟様でしたよね)ケヴィン・ウィンスロープ。アレックスの弟で、いま二十三歳。領主代理としてウィンスロープ領在住。アレックスとケヴィンには妹もいる。オリヴィア・ウィンスロープ、レティーシャと同じ二十歳。彼女は婚約者の領地にある領主館に滞在し、将来の義母にあたる領主夫人から『夫人の心得』を学んでいる最中。(閣下は、とても嬉しそうだわ)レティーシャから見たアレックスの顔は、とても柔らかい。(御三方は仲がよろしいと、使用人の皆さんも言っているものね……仲のいい弟、どんな方なのかしら) 好奇心から、レティーシャはグレイブの報告が終わったところで、ケヴィンについて二人に尋ねてみた。しかし……。「ケヴィンのこと、ねえ」アレックスの声が、なぜか刺々しい。嫌々口にしているという雰囲気も、隠していない。先ほどまでケヴィンが来ることをグレイブと嬉しそうに話していたのに、このギャップにレティーシャは驚いてしまった。「ケヴィンはグロッタ侯爵家の長女と婚約し、数年後に婿入りする予定だ」「はい、存じ上げています」(なんで、そんなことを?)突然の話題に、レティーシャは首を傾げた。「ケヴィンとご令嬢の間に、変な波風は立てないでほしいんだ」(えっと……どういう意味でしょう?)なぜアレックスはレティーシャが二人の仲を邪魔すると思ったのか。レティーシャは理由が分からなかった。(あ……)でも、自分がいまラシャータであることを思い出して、理解した。(ラシャータ様なら、それをやりますわ)つまり、そういうこと。 スフィア伯爵邸から外に出たことがないため、社交場にあふれるラシャータの艶聞をレティーシャは知らなかった。それを知ったのは、ウィンスロープ公爵家に届いたラシャータ宛ての手紙だった。ウィンスロープ公爵夫人であり聖女であるラシャータ宛ての手紙は、そのほとんどが茶会や夜会の招待状だったが、その中に混じって逢瀬の誘いがあった。最初、レティーシャには手紙の意味が分からなかった。だから、レダに相談してみた。茶会や夜会への招待を断る文面をレダが一緒に考えてくれていたから、その感覚で相談してみたのだった。レダも、最初は意味が分からなかった。平民出身の彼女は、貴族男性のこう
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厨房に向かいながら、レティーシャは今後の身の振り方について悩んだ。視力が戻っていないことを除けば、アレックスの体調に問題はない。アレックスの体内には微量の瘴気が残っているが、治癒力は使わずとも浄化魔法で処置できるレベルになっている。(視力も時間の問題……すぐに完治なさるわ)レティーシャはラシャータとしてここに来た。婚姻届に書いた署名はラシャータの名前だから、アレックスの妻はラシャータである。父伯爵が考えていることは分かる。アレックスが治らなければ、分与されるアレックスの財産を持ってレティーシャはスフィア伯爵家に戻る。アレックスが治れば、レティーシャはラシャータと入れ替わって、レティーシャはスフィア伯爵家に戻る。父伯爵の筋書きはこれ。治らなかった場合はともかく、治った場合の具体的な入れ替え方については考えていないだろうなとレティーシャは思っている。レティーシャの傍には、常にレダがいる。ラシャータがこっそり忍び込んでレティーシャに入れ替わるとしても、鉄壁の要塞と言われているウィンスロープ邸にどうやって忍び込むのかがレティーシャには見当もつかない。(それに……)レティーシャは右手の肘の内側をジッと見る。眉間に皺が寄った。 先日、レティーシャは人生で初めて注射をされた。知識では知っていたが、あれほど恐ろしいものとは思わなかった。(細いとはいえ、皮膚に穴をあける針が体に入り込む感覚……慣れそうにありませんわ)注射。つまり血を採られてしまったことにレティーシャは困っている。(典医様は健康診断のためと仰っていましたから、証の鑑定はしないと思うのですが……)建国の十家の証は、血液を鑑定することで分かる。そして、レティーシャには、スフィアの証のほかに、母サフィニアから継いだフレマンの証がある。ラシャータにはない。特に理由もないから、採取されたレティーシャの血液の証が鑑定される可能性は低い。しかし、『ウィンスロープ公爵夫人』として記録される血が自分の血で大丈夫だろうかとレティーシャは思っている。 (一番問題がないのは、この結婚を無効にすることですよね)この結婚は、アレックスを助けるための緊急措置。だから結婚して半年以上たつが、レティーシャとアレックスとは床入りをしていない。それを使用人が証言できるし、床入りをしていない白
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(いっそのこと、どこか遠くへ逃げてしまえたら……)でも聖女であるレティーシャに逃げる場所などない。それくらい、聖女に対してこの国の貴族は妄信的だ。母サフィニアが死んだ理由についても、そう。由緒ある侯爵家の令嬢である身でありながら第二夫人となり、平民の第一夫人に傅く立場になったことへの屈辱だと言われているが、それを強いたことへの反省などない。(屈辱と言っているのに……聖女を欲する心はその屈辱をお母様に飲み込ませた) レティーシャの母サフィニアは、当時の社交界で三本の指に入る令嬢、通称『三花』と呼ばれるほどの存在だった。当時の貴族の結婚市場は、サフィニアが中心だった。当時サフィニアに婚約者がいなかった。侯爵令嬢となると幼いときから婚約者がいるものだが、その理由について大方の意見は「婚約者を厳選しているから」だった。ただ、ゴシップの域ではあるもののサフィニアには誰か思う相手がいたという説もある。 「奥様?」不意に声をかけられて、レティーシャはハッとした。 「あ……」目の前には料理長がいて、彼は首を傾げている。レティーシャはいつの間にか自分が厨房の入口に立っていることに気づいた。「どうかなさいましたか?」「その……喉の調子が悪くて、お茶が飲みたくて……」息が詰まる未来の想像が振り払えず、息苦しさに言葉がとぎれとぎれになる。「そんなことは侍女の誰かに言ってくだされば……」料理長は苦笑すると、優しい目をレティーシャに向けた。「少し、震えていらっしゃいますね。奥様、宜しければ体を温めるハーブを使ったお茶を飲まれてはいかがでしょう」「ええ、お願いします」「それでは、ハーブを庭から採ってまいりますので、奥様はお部屋でお待ちください」料理長はそう言ってくれたが、彼の背後は賑やかだった。(お昼の時間まであと少し、厨房はまさに戦場ですよね……) 「いいえ、ハーブは私が採ってまいりますわ」「いえ、奥様の御手を煩わせるなど……え? ちょっと?」料理長が止めるのも聞かず、レティーシャは厨房の勝手口から裏庭に出た。風が吹く。何かが喉に絡まった感じがして、レティーシャの喉からケホケホと乾いた咳が出た。(嘘から出た真ですわね)厨房の勝手口から出たところにはちょっとしたハーブの植え込みがある。レティーシャはその前でしゃがみ込み、ぐるぐ
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29

レティーシャの悲鳴はアレックスのもとにも届いた。「グレイブ!」「直ぐに確認いたします!」グレイブが風魔法を付与した笛を吹いて警報を鳴らす、ウィンスロープ邸内は一気に警戒態勢に入った。ウィンスロープ領は、男女問わず戦う猛者が多い。屋敷の使用人の採用基準も幹部職以外は「一に武力、二以下も武力」。幹部になりたい場合、彼らは磨き上げたその体力を使って必要事項を頭に叩き込む。体力馬鹿の一夜漬けを甘くみてはいけない。(目が見えないことが、こんなに焦れったいとは)部屋を出たグレイブを、アレックスは待つしかできなかった。報告を待つ時間がアレックスにはとても長く感じた。グレイブが報告に戻ってきた。時間にして三分ほどだが、アレックスには永遠に感じられた。 「倒れた?」「はい。料理長が気を失っている奥様を発見し、レダと共にお部屋にお連れしていたしました」「なぜ、そんなことに?」(何があった? 襲撃された? この屋敷が?)「倒れる姿を、屋上にいた洗濯係が見ておりました」「屋上?」「その者の報告によると、風に煽られてシーツが屋上から落ち、下を見たそうです」「そこに、彼女がいたのか」「はい。落ちた先に奥様がいらして、そこで突然倒れたそうです。不審なことも、不審人物もいなかったそうですが……」「シーツが被さってきて驚いた、ということか?」「いいえ、シーツが被さる前に倒れたそうです」洗濯係の見た通りなら、落ちてくるシーツと彼女の間には距離があったということになる。それにあの悲鳴のような声は、ただ驚いたという感じではないとアレックスは感じた。「くそっ」己の体からかつてないほど熱い魔力が噴き出そうになるのをアレックスは感じていた。今すぐにでも彼女の脅威を打ち払いたい。彼女を守りたい衝動が沸き上がる。 (父上が言っていたのはこれか)ウィンスロープの者は感情の振れが極端だ。他人にはほぼ無関心だが、愛する者は周囲がドン引きするほど盲目的に愛する。そして、愛する者の敵は徹底的に叩きのめす。特に、ウィンスロープの長である公爵家一族の粘着性は他に比べて酷い。酷く重い。王家から嫁いできた母ヒルデガルドには、「ほどほどが大事よ。ほどほどにするのよ。ほどほどにしないとフラれるわよ」と“ほどほど”で耳にタコができそうなくらい、アレックスは「ほどほどに
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30

「ソフィア、彼女と二人にしてくれないか?」ソフィアは直ぐには返事をしなかった。「ソフィア?」「坊ちゃま、不埒な真似をなさってはいけませんよ」「は?」「公爵家の皆様は愛情が暑苦しいほど過多なのですから、ご自分の適切の一割になさってくださいませ」「一割……」唖然とするアレックスとは対照的に……。「私の見立ての半分ですな。いや、女性は厳しい」グレイブは変な感心をしていた。「まったく……」なんだかんだ言いながら、グレイブとソフィアはようやく出ていった。部屋にはアレックスたちだけになる。聖女の治癒力はずっと出力全開。半年間ずっと暗かったアレックスの視界がまた明るくなる。この部屋に入ったときから、視力が回復するのをアレックスは感じていた。やがて、ものの輪郭が現れはじめる。違う波長の光をとらえてきた証拠だ。(まるで夜明けが早送りで進んでいるようだな) 「お母様……」「ごめんな、俺は君の母上ではないし、スフィアのような母性もない。母性どころか、君が治してくれたこの目で最初に見るのは君だけがいいなんて思っている我侭な男だ」顔らしき輪郭が見えてきて、手を伸ばすと濡れた。湿った『ラシャータ』の頬は冷たかった。「泣くな……君の声は心地よくて好きだ。君の泣き声も、嫌じゃないけど、君が泣いていると思うと心が痛くて嫌だ」別に女の泣き声は初めてではない。妹がいたし、自慢にならないが女を泣かせてきた過去もある。でも泣き止ませたいと思う泣き声は初めてだった。 「泣くなよ」泣き止ませたことがないせいで、ありきたりなことを繰り返すしかできない『初めて』のもどかしさ。でも、そんな情けない『初めて』さえ彼女相手あることがアレックスには嬉しかった。(重傷だ……)ぶわっと温かい空気みたいなものに包まれた瞬間、一気に視界が色づいた。「っ! ああ……ああ、そうだ。そうだ、この色だ」目に飛び込んできたのは淡くて優しいピンク色。 ピンク色を満足するまで眺めて、視野を全体を把握することにする。(確かにラシャータに見た目はよく似てい……ん? 似ているか?)ラシャータの顔をアレックスは思い出せなかったが、気にしなかった。思い出せないものは思い出せない。その気がなければなおさら無理。無理なら、無理。その辺りの諦めは、アレックスは恐ろしいほど早い。
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