LOGIN十七年前のあの日、「聖女」は死んだ。 でも「私」は生きている。 私は父伯爵に異母妹ラシャータの代わりに彼女の婚約者アレックス・ウィンスロープ公爵に嫁げと言われた。 彼は異母妹の自慢の婚約者だったが、魔物との戦いで呪われたという。 二十歳、初めての外の世界。 そこにはたくさんの「愛」があった。
View More「遅いわよ、この
父伯爵の書斎に入ると、異母妹のラシャータの怒声が飛んできた。
甲高い声にレティーシャは耳がキンッと痛む。
そしてインク壺が飛んでくる。
しかし、ラシャータは物を投げるのが下手。
だから、レティーシャによける必要はない。
レティーシャの予想通りだ。
レティーシャは動かなかったのに、ラシャータの投げたインク壺は離れた壁にぶつかって、割れた。
インク壺の中から、インクが飛び出る。
インクが壁や床に飛び散った。
毛足の長い絨毯にも、インクがしみ込んでいく。
(当たったほうが良かったかもしれない)
ガラスの壺が当たれば痛い。
でも、この飛び散ったインクの後始末をするのは、どう見ても骨が折れる。
(後始末が困るものばかりを選んで投げている気がするわ)
手元にあるからで、パッと取っているようだが、ラシャータの選ぶものは後片付けや後始末が大変なものばかり。
わざわざこれを選ぶラシャータの趣味の
レティーシャは、内心ため息を吐いた。
(今回はインクで、前回はドーナツ)
ドーナツのときは壁に丸い形の油染みができ、さらに床板の隙間に入り込んだ砂糖にアリが群がってしまい、後日もうひと騒ぎ起きてしまった。
「ラシャータ、
「はあい、お父様」
父伯爵はラシャータに向けていた優しい目から一転、冷徹な目を『それ』扱いのレティーシャに向けた。
何かしただろうかと、レティーシャは考えた。
何かをした覚えは、ない。
(いつもこんな目つきかもしれない)
レティーシャは気にしないことにした。
父伯爵の目は、実の娘に向ける目ではない。
でも、レティーシャは慣れている。
「国王陛下から御手紙をいただいた」
「はい」
なぜそんな大事な手紙を自分に見せるのか。
不思議だが、それを問うことはレティーシャに許されていない。
レティーシャに許されているのは「はい」のみ。
「ウィンスロープ公爵家に直ちに嫁ぎ、当主アレックスを治すようにとの王命だ」
「はい」
ウィンスロープ公爵家は、武家の名門。
王家の信頼も厚い。
歴代の当主は『王の槍』と呼ばれ、王国騎士団の騎士団長を務めている。
当代のアレックス・ウィンスロープ公爵も、王立騎士団の団長様だ。
(……治す)
アレックスの不調に、レティーシャは心当たりがあった。
半年前に起きた魔物の大流出で、アレックスは多くの騎士を率いて魔物の討伐に向かった。
魔物は無事に掃討されたが、作戦中にアレックスが重傷を負った。
これは、レティーシャも知っていた。
(閣下は順調に回復していると新聞にあったけれど……やはり嘘でしたのね)
アレックスはこの国の槍である。
それと同時に、この国の盾である。
アレックス・ウィンスロープの存在が他国をけん制して、武力を退けさせて、この国を守っている。
この国の安寧のために、アレックス・ウィンスロープは順調に回復していなければならない。
しかしスタンピードから半年たったいま、まだ姿を見せないアレックスに『回復』を疑う声が出てきている。
新聞の記事はコントロールできても、国民の口はコントロールできない。
(嘘なのは薄々分かっていましたけれど)
レティーシャは顔を動かさず、目線だけをラシャータに向けた。
アレックスはラシャータの婚約者だ。
神が贔屓したと言われるほどの容姿を持つアレックス。
彼と共に夜会にいき、注目を集めて羨望の眼差しを浴びたいラシャータは、いつもアレックスに夜会のエスコートを強請っていた。
しかし、アレックスからは公爵の仕事と騎士団の仕事で忙しい。
多忙を理由に毎回断られ、貴族のご令嬢たちには自慢できない。
そのフラストレーションの解消に、ラシャータはアレックスのことをレティーシャに自慢していた。
アレク様が。
アレク様と。
事実とラシャータの願望がごちゃまぜになった話を、レティーシャはたくさん聞かされていた。
でも、最近はそれがなかった。
ラシャータがアレックスに茶会や夜会のエスコートを頼んだ様子もない。
ラシャータに呼ばれて、アレックスの自慢話を聞くこともなかった。
ラシャータ自身が屋敷に籠もって出かけていないわけではない。
元気だなとレティーシャが感心してしまうくらい、ラシャータは毎日どこかに出かけている。
療養中だから、誘っていないのか。
一般的にはあり得る気遣いだが、ラシャータにはあり得ない。
断られると分かっていて誘い、「断るなら代わりに誠意をみせてほしい」と言って、お詫びの宝石やドレスを強請るのがラシャータ。
(公爵家からお詫びの品も届いていないし、手紙さえも私の知る限りはなかった)
レティーシャは、気づいた。
(なぜ伯爵様は、これを私に話しているのかしら?)
「お前、『ラシャータ』としてウィンスロープ公爵家に嫁げ」その朝は、ウィンスロープ公爵邸の目覚めは静かで、とてもゆっくりだった。 使用人たちは部屋に近づかないように厳命されていたため、二人の寝室の傍は静まり返っていた。その静けさの中で、レティーシャは目覚めたものの、夢とうつつを行ったり来たりで、時間の流れをほとんど感じていなかった。(……朝?)カーテンのすき間、窓の外から淡い光が差し込んでいた。でも、それが夜明けの光なのか。それとも、昼前の柔らかな陽光なのか。レティーシャには判断がつかず、ぼんやりした頭は答えを出す気がなかった。(眠い……)寝台の天蓋越しに揺れる光。まるで夢の続きのように誘うようで、レティーシャはそれをぼんやりと眺めていた。ふと、レティーシャは重みに気づく。そして、隣の温もりに。隣を見ると、アレックスがいた。アレックスはレティーシャの肩を抱き寄せたまま眠っており、先ほど感じた重みはそれだった。その腕の重みが、レティーシャには心地よかった。 昨夜からずっと、アレックスの温もりは途切れることなく続いていた。レティーシャはそっと身じろぎした。 すると、アレックスの腕がわずかに強くなり、抱き寄せられ、ぴたりとくっついた肌越しに、レティーシャの体の中でアレックスの声が低く響いた。「……どこへ行くんだ、レティ?」「起こしてしまいましたか?」「離れようとすれば、すぐに分かるさ」アレックスの声音は、眠気を含んでいるのに甘く、レティーシャは胸の奥をくすぐられたようだった。レティーシャは頬を染め、そっと微笑む。「少し、窓の外を見ようと思っただけです」「それなら、俺も一緒にいこう」アレックスはゆっくりと体を起こし、レティーシャを抱き寄せた。その仕草は、まるでレティーシャを一瞬でも離したくないというようだった。「アレク様っ!」そのまま、レティーシャを抱き上げて寝台を降りようとするアレックスにレティーシャは慌てる。「自分で歩けます」「……昨夜は、痛がっていたじゃないか」「それは……それで……」アレックスはハハッと声を上げて笑うと、レティーシャを抱き上げたまま窓辺に向かう。窓から見えた外の景色は、薄い霧に包まれていた。 庭園の花々は露をまとい、風が吹くたびにきらりと光る。「……不思議な光景ですね」「神様も、俺たちを祝福しているのだろう」レティーシャが
夜はすでに深く、屋敷は静まり返っていた。遠くの庭で揺れる葉の音だけが、かすかな気配として窓辺に触れている。使用人たちの足音は、もうどこにもない。暖炉の火だけが小さく揺れる、緊張に息をひそめている様な夜の時間。 レティーシャは部屋の中央で立ち尽くしていた。湯あみをすませ、どの香油をつけるかと言われて、ウィンスロープ公爵領特産の花からとれる香油にした。夜着は、立場上は義母であるローゼマリア王妃が用意してくれた夜着を用意してもらった。着替えも終わり、髪もほどいてもらった。(次に、どうしていいのか分からない)嫁ぐ淑女の嗜みとして、閨教育は受けてある。でも、夫となる男性の行為を受け入れ、身を任せることしか先生は教えてくれなかった。(教えてもらっていないから途方にくれるなんて、子どもみたい……でも、子どもじゃない)レティーシャが目を向けたのは、廊下へと続く扉とは違う扉。夫となったアレックスの部屋とをつなぐ扉。(……夫……旦那、様)アレックスが夫になったことを実感するたび、レティーシャの鼓動が一つ跳ねる。扉の向こうに、アレックスがいると思うだけで、指先が震える。 コンコン扉が静かに叩かれた。レティーシャの体が、ビクッと震えた。「レティーシャ」低く、柔らかな声。「……はい」返事はした。(扉を、開けるべきなのかしら)それなのに、レティーシャの足が動かない。「開けても?」「はい……」一瞬の間。そして、扉がゆっくり開く。「こんばんわ、俺の奥さん」アレックスが入ってきた。さっきまでの礼装ではなく、普段よりずっと軽い服に見えた。
レティーシャはアレックスの腕に抱かれながら、城のほうを振り返る。レティーシャは、胸の奥に広がる不思議な感覚を味わった。王女という立場は、レティーシャにとって実体のない仮初の立場だったけれど、レティーシャの胸に寂しさのようなものを感じた。「レティーシャ。君が王女となるときにも言ったが、レティーシャはレティーシャだ」「アレックス様……」「俺にとって君は、初めて会ったときからずっと“ピンクの目をした可愛い子”だ」アレックスが顔を下げて、腕の中のレティーシャの目に口づけを落とす。「そして今日から、ピンクの目をした可愛い妻……」アレックスが突然笑い出し、レティーシャは首を傾げた。アレックスの目が、柔らかく微笑む。「“初恋は実らない”? 馬鹿言うな、ちゃんと実ったぞ」 二人は城の門に立つ。夜の街は静かで、遠くに見える街の灯火が星空のように見えた。その光景は、まるで二人の未来を照らす道のようだった。目の前には、ウィンスロープ公爵邸の大門。高い鉄門には篝火が灯され、刻まれたウィンスロープ公爵邸家の紋章が浮かぶ。通りには騎士たちが並び、その先で門番たちが並んで立って頭を下げていた。 「歓迎してもらえているみたいです」「“みたい”ではない。誰もが心の底から歓迎している」アレックスが長い脚で通りを渡り、ウィンスロープ公爵邸の門をくぐる。「すごい……」ウィンスロープ公爵邸の広大な庭園は、レティーシャの記憶では色とりどりの花が咲いていたが今では白一色。夜露に濡れた花々が月光を受けて輝いていた。「……なんて、美しいのかしら」レティーシャが思わず呟くと、アレックスは微笑んだ。「君を迎えるために、庭師たちが心を込めて整えたんだ。 この邸は、今日から君の“家”になる」アレックスのその言葉に、レティーシャの胸は温かく満たされた。屋敷の正面玄関には、執事長のグレイブや家政婦長のソフィアを先頭に、使用人が整列して深々と頭を下げた。 レティーシャはアレックスの腕から地面に降ろされる。「おかえりなさいませ、レティーシャ様。ウィンスロープ公爵家一同、今日という日を心からお待ちしておりました」執事長のグレイブの声は落ち着いていて、いつものようにレティーシャに安心感を与えた。レティーシャは微笑み返し、丁寧に頭を下げた。「出迎え、ありがと……」
王女の婚礼を祝う宴の始まりが近づく頃、王城の外では、夜風が静かに吹き抜けていた。 昼間の喧騒が嘘のように、城下の通りは穏やかな灯火に包まれている。祝福の歌声は遠くから、微かに聞こえてくる優しい音だ。 だが、レティーシャの胸の内は、祝宴の余韻とは別の鼓動で満たされていた。今夜、レティーシャはアレックス・ウィンスロープに嫁ぐ。レティーシャの嫁入りは二度目。しかも、相手はどちらもアレックス。(でも、気持ちが違う……全然……)一回目は、ラシャータの替え玉。偽物の花嫁。(今度は、本当に妻になる)レティーシャとして、アレックスのもとに嫁ぐのだ。王家の伝統により、王女は婚礼の式典が終わると、夫となる男の家へ移る。これは王女が王籍を失って臣下となる政治的な意味があった。王城の正門前、ウィンスロープ公爵家の騎士たちが整然と並んできた。その先頭、婚礼の式典のときに比べるとマントをまとっていなかったりと綺羅びやかさが減ったが、まだ十分にキラキラしているアレックスが立っていた。レティーシャが階段の一番上に立つと、ウィンスロープ騎士団の騎士団長が黙って剣を構えると、他の騎士が続いて一斉に剣を構える。その迫力と、凛々しい雰囲気にレティーシャが息を呑む。少しだけ、怖気づく。「レティーシャ様」レティーシャの隣で、騎士のレダが優しく促すように声をかける。レティーシャが王女になったとき、レダは本人の希望とレティーシャの願いで、レティーシャの騎士として特例で近衛騎士となった。(近衛の制服もとても似合っていたけれど)レダは以前の、ウィンスロープ騎士団の制服を着ている。「レダ卿はこちらのほうがお似合いですね」「ありがとうございます」末永く仕えることをレダは誓いかけたが、婚礼の日の「末永く」の誓いは花嫁と花婿の特権だと思い口を噤んだ。「レティーシャ」「アレックス様?」いつの間に階段の上まで、とレティーシャが驚く間もなく、アレックスがレティーシャを横抱きする。「アレックス様!」「行くぞ」レティーシャを抱いたままなど思わせない軽い足取りで、アレックスはリズムよく階段を降りていく。そして、そのまま騎士たちの作った花道を歩いていく。「降ろしてください」「いいじゃないか。君はまだ、“お姫様”だからな」鼻歌を歌うかのような楽しげな顔で、アレックス