「またな」という声に、いつもなら「おやすみなさい」と答えるけれど、今夜はそう言いたくなかった。そんな私に藤嶋さんは不思議そうに首を傾げる。「陽菜?」告白のあと、「朝霧」とか「君」と呼んでいた藤嶋さんは私のことを「陽菜」と呼ぶようになった。「藤嶋さん」……私の呼び方は、告白前と後で変わらない。 変わったのは、陽菜と呼ばれるようになったことだけ。あの告白の夜から一ヶ月近くたつのに呼び名だけ。あと、私のマンションの近くにある居酒屋での食事回数が増えた、ちょっとだけ。でも、それだけ。居酒屋で食事をして、十時くらいになると「そろそろ」という感じで店を出る。駅とは反対方向だけど藤嶋さんは私をマンションの前まで送り届けてくれて、そして帰る。まるで高校生のような健全なお付き合い。いや、高校生のほうが、たぶんもう少し先に進んでいる。だって手も繋がない。もちろん、キスもしない。そういう雰囲気にならない。 会う場所が居酒屋というのが悪いのだろうか。悪い店では決してないけれど、恋人気分が盛り上がることはないアットホームな居酒屋。定時退社という働き方をお互いにしていないから待ち合わせには不向きで、仕事が終わったら店に向かうというから現地集合スタイルだった。これもよくない気がするけれど、どうすればいいかの良案はない。今日は土曜日だけれど藤嶋さんは仕事だったみたいだし、行く店もマンションから徒歩数分のところにある店だからその先にある駅で待ち合わせるよりも店に現地集合のほうが至極現実的。 十時に帰ろうというのがいけないのか。いや、私も今夜は十時に解散するつもりはなかった。でも店に入ると常連の田中さんがいた。御年七十歳のお爺ちゃんの田中さんは「年をとると遅くまで起きていられなくて」と言いながら十時に帰る。必ず十時。もともと鉄道会社で働いていたという田中さんは、体内に正確な時計があるのかピッタリ十時に席を立つ。田中さんの出没は月水金だから土曜の今日はいないはずなのになぜか田中さんがカウンターにいて、やっぱり十時ちょうどに席を立つから、私たちも今まで通り「そろそろ帰るか」という雰囲気になってしまった。 「どうした?」藤嶋さんの声が、優しい。仕事のときは暴君でその声は冷徹だけど、私と二人きりのいまは甘いと感じる。向かい合う目も、私を気
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