All Chapters of 隠された愛 ~ 「もう少し」ってあとどれくらい?: Chapter 11 - Chapter 20

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【幕間】心に棲まれる

「またな」という声に、いつもなら「おやすみなさい」と答えるけれど、今夜はそう言いたくなかった。そんな私に藤嶋さんは不思議そうに首を傾げる。「陽菜?」告白のあと、「朝霧」とか「君」と呼んでいた藤嶋さんは私のことを「陽菜」と呼ぶようになった。「藤嶋さん」……私の呼び方は、告白前と後で変わらない。 変わったのは、陽菜と呼ばれるようになったことだけ。あの告白の夜から一ヶ月近くたつのに呼び名だけ。あと、私のマンションの近くにある居酒屋での食事回数が増えた、ちょっとだけ。でも、それだけ。居酒屋で食事をして、十時くらいになると「そろそろ」という感じで店を出る。駅とは反対方向だけど藤嶋さんは私をマンションの前まで送り届けてくれて、そして帰る。まるで高校生のような健全なお付き合い。いや、高校生のほうが、たぶんもう少し先に進んでいる。だって手も繋がない。もちろん、キスもしない。そういう雰囲気にならない。 会う場所が居酒屋というのが悪いのだろうか。悪い店では決してないけれど、恋人気分が盛り上がることはないアットホームな居酒屋。定時退社という働き方をお互いにしていないから待ち合わせには不向きで、仕事が終わったら店に向かうというから現地集合スタイルだった。これもよくない気がするけれど、どうすればいいかの良案はない。今日は土曜日だけれど藤嶋さんは仕事だったみたいだし、行く店もマンションから徒歩数分のところにある店だからその先にある駅で待ち合わせるよりも店に現地集合のほうが至極現実的。 十時に帰ろうというのがいけないのか。いや、私も今夜は十時に解散するつもりはなかった。でも店に入ると常連の田中さんがいた。御年七十歳のお爺ちゃんの田中さんは「年をとると遅くまで起きていられなくて」と言いながら十時に帰る。必ず十時。もともと鉄道会社で働いていたという田中さんは、体内に正確な時計があるのかピッタリ十時に席を立つ。田中さんの出没は月水金だから土曜の今日はいないはずなのになぜか田中さんがカウンターにいて、やっぱり十時ちょうどに席を立つから、私たちも今まで通り「そろそろ帰るか」という雰囲気になってしまった。 「どうした?」藤嶋さんの声が、優しい。仕事のときは暴君でその声は冷徹だけど、私と二人きりのいまは甘いと感じる。向かい合う目も、私を気
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10(※)

いつも蒼に抱かれるときは熱くなる心が凪いでいた。何となく気づいていたとしても、蒼が消えていた事実を目の当たりに気がして心がすうっと冷めた。そんな私の心情に気づいていたのか。蒼は私を一度強く抱きしめると、抱き上げて寝室に連れていった。   *  「ん……」唇が軽く触れ合わせて始めたキスは瞬く間に呼吸もままならない濃厚なものになった。絡め合う舌の感触に唾液があふれ、二人分の唾液を音を立てて飲み込めば蒼の目が満足そうに細められた。「あっ……」その表情に私のナカが痺れて濡れた。 蒼はじれったくなるほど丁寧に私を裸にし、泣きたくなるくらい丁寧に私の体を解していった。もっと自分の欲を満たすような抱き方でよかったのに。「早……くっ……」先に音を上げたのは、昂った体を持てあました私のほうだった。顔をあげた蒼の目は欲望にぎらついていたけれど、私の反応を見る余裕があった。 蒼は私の膝裏に手をかけ、大きく左右に割り開いた。私の羞恥心を煽るような行為に、私の心が冷たいことに気づいているんだなと思った。その間に腰を据えた。蒼のそれはお腹につきそうなほど反り返っていた。興奮してくれている、それは女としての私に自信をくれた。ゴムをつけたそれの先端が体の入口に触れ、微かな水音を立てて埋まると私の体は歓喜に震えた。 「挿入れるぞ」ぐっと体を押し上げられる感覚がした瞬間、私の体が口を広げて蒼を受け入れたのを感じた。効率よく解された体はすんなりと蒼を受け入れたから、蒼は私の体の抱き方をちゃんと覚えていてくれたのだと……ホッとした。それを隠したくて、自ら脚を大きく広げて蒼を奥まで誘い込んだ。「あ……あぁ……」最奥までみっちり埋まる感触に吐息が漏れたのは久し振りだったからに違いない。 「あっあっ……あんっ、ふあっ……」私のナカが馴染むのを待って蒼が動き出すと、ナカの刺激に声が漏れた。体の奥の奥まで触れられる感覚は心地よく、蒼の動きに合わせて声があがった。「あっ、あん……」声をあげて快感を示すことで相手も自分も一層気持ちよくなる。蒼に揺さぶられて体は熱くなるのに、虚から漏れた冷えた気持ちが蒼とのセックスを冷静に分析していた。「気持ち、いい……」一時でもいいから虚がある寂しさを忘れたかった。 「陽菜?」蒼の動きがピタリと止まっ
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11

凱との仕事の楽しさは私に虚を忘れさせてくれた。凱だけでなくキャメロットのメンバーとの仕事は私に刺激をくれた。 支社長という立場だったけれど凱はよくプロジェクトの打ち合わせに参加していた。凱が参加するときはいつも黒崎さんが立ち会った。キャメロットに対して失礼があってはいけないという理由だったが、それは表向きであることは分かっていたし、その白々しさに黒崎さんも気まずそうであった。監視されることに不快感はあったが、どちらかといえば空しいだけだった。慣れれば害はない。疚しいこともなかったので蒼の好きにさせることにした。 プロジェクトが終盤に差し掛かった頃、凱の雰囲気が少し変わった。プロジェクトメンバーが「李社長は朝霧さんがお気に入りですね」というくらい凱は私の傍によくいたし、何かと私を呼んで傍にいさせようとした。何か言いたげにこちらを見ることも増え、その目はなんかこう、新しいおもちゃを見つけたようなワクワクした視線だった。一体何なのか、気にならないわけがない。凱に食事に誘われたのはプロジェクトの最終日だった。私はそれを受け入れた。凱の視線の意味を知りたかったのだけど、当然ながら蒼から凱に乗り換えたと騒ぐ人も多かった。黒崎さんには止める権利はなく、何か言いたげなその視線を私は気づかない振りをした。 誓っていうが、これは蒼への仕返しではなかった。確かに蒼のやり方、監視にはうんざりしていた。でも何とはなしに寄せられる凱からの『親愛』の理由を知りたかった。そして理由は――。「俺は君の異母兄なんだ。愛おしいヒナ、ずっと会いたかったよ」……想定外過ぎる理由だった。   *  『これを見てほしい』私が信じないことを想定していたようで(当たり前だが)、凱はその証拠をきちんと用意してきた。差し出されたのはA4サイズの封筒。送り主の東京ゲノム研究所は親子鑑定などDNAの分析を専門とする検査機関で、凱は私の髪の毛を使って勝手に検査をしたと凱は言った。平然と言っていたがプライバシーの侵害である。間違っていたら問題だったと抗議しようしたが、「早く“お兄ちゃん”と呼ばれたくて我慢できなかった」と茶目っ気たっぷりにウインクされてしまっては何も言えなかった。嬉しかったのは私も一緒だけれど、愛嬌のあるイケメンはいろいろ得だと思う。
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12

凱も私も彼が遊学先で出会った女性との子どもだったらしい。クリストファー・アシュフォードは関係を持った女性全員に「子どもができたらうちに連絡してくれ」と言って別れたらしいが、私の産みの母も凱の産みの母も彼にに連絡しなかった。その理由は連絡先が分からなかったから。『あいつ、女たちの“あなたのこと知ってるぅ”を馬鹿正直に信じて、ホテルから出るときに連絡先どころか名前すらも残さなかったらしい』『朝起きたら消えているってクズすぎない?』『朝の顔を見られたくない女って多いから不思議な話ではないだろう』……凱よ、お前もか。父親の気を引こうとして吐いた嘘を信じた結果が私たち。蓋を開けてみればお粗末な理由。凱、あなたも気をつけてね。 『アシュフォードの名前が有名なのは欧州内の話。その欧州でだって、後継ぎでもないあいつを知っているのは上流社会の一部くらいなんだぞ』世間知らずにもほどがあると凱は呆れていたが、その声音には懐かしさと思慕が混じっていた。幼い頃はさておき、ある程度成長すると現実も理解できた。だからこそ親の顔を見たいと思ったことはそれ以来なかったのだけど、あの凱があんな声で語るのだから彼から見てクリストファー・アシュフォードは悪い人ではなかったようだ。そう考えると、少しだけ彼に会ってみたかったなと思う。   *  『ヒナが見つかったのもほぼ奇跡だから』クリストファー・アシュフォードは日本での生活を楽しんでいた。それが分かったのは彼の手帳に沢山の日本の名字があったから。漢字の文化ではない彼にとって日本人や台湾人の書く文字は模様のようで楽しかったらしい。朝霧という文字のあとに東京の地名。李の文字のあとに台湾の地名。朝霧が比較的珍しい苗字だったから私を凱は見つけられたようで、佐藤や鈴木だったら無理だっただろうと凱は笑っていた。 私のことを凱は調べ、同じ建築業に携わっていると知るや否や合同プロジェクトをエサに近づいてきた。私の周りをウロウロと、最後のほうはくっついて回っていたのは検体採取のため。何とか私の髪の毛をゲットし、プロジェクト最終日の少し前から検査結果で私が妹だと分かっていたらしい。『仕事の邪魔をしてはいけないと思って、プロジェクトが終わるまでは名乗り出るのを我慢していたんだからな』それについてだが、分かるくらい態度
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13

あの夜も凱と食事に行くことを、その場所も私はちゃんと伝えていた。疚しいことは私になかった。説明できないことなど私にはなかった。「私は、何も説明しないあなたとは違う」説明できないことがあるのは、蒼のほうだ。「それは……理由があると言っているじゃないか」「理由、ね。それなら私にだってあるわ」「それは一体……いや、とにかく、李凱とレストランの個室で長時間過ごし、楽しそうにホテルを出てきたという報告を受けた」「その通りよ。間違っていない。楽しかったもの」「君は俺の妻なんだぞ」「……妻?」  あの夜はいつもより飲んでいた。余り慣れていないワインを飲んで、いつもより酔っていた。妻だと名乗らせないことへの不満――押し殺していた本音が噴き出た。「私があなたの妻なんて誰も知らない。誰もがあなたの妻は白川茉莉だと思っている。それをあなたは否定しない。私にも、否定させない。あなたの妻だと名乗らせないのに」私は、乾いた笑いをこぼした。「こういうときだけ妻って言うの?」「……陽菜」蒼に名前を呼ばれて、名前を呼ばれることすら久し振りだと気づいた。「これ以上、私の気持ちを、私の存在を無視しないでよ!」そう叫んだことまでは覚えている。   *  目が覚めると、私は寝室にいた。なにがあったのか分からず、太陽の光で明るい部屋でぼんやりとしていた。私のベッドの上でぼんやりと白い天井を見ていると扉がノックされた。返事をすると見知らぬ女性が入ってきた。警戒する私に彼女は蒼に臨時で雇われた家政婦だと自己紹介した。 ここまでの状況は彼女が説明してくれた。私が倒れたあと蒼はマンションのコンシェルジュに連絡して医師を呼んだ。往診にきてくれた医師は私の症状を「バソバガール失神」と診断した。バソバガール失神――聞き慣れない病名だった。スマホで調べてみると【強い感情やストレスが原因で血圧が急激に低下し、脳への血流が一時的に減少することで起こる失神】とあった。強い感情やストレス――思い切り、心当たりがあった。 「お食事はどうしますか? 旦那様に頼まれて会社には私のほうから、“体調不良により休む”と伝えさせていただきました。十分に休んでくださいとのことです」あの状況でも、蒼は私の傍にいてくれることはなかった。蒼が夫として会社に連絡をしてくれること
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用意しておいたスーツケースを凱が代わりに持ち、部屋を出たとき、セキュリティ会社の制服を着た男が二人現れた。「どちらに行かれるのですか?」彼らも仕事だと分かっていた。蒼か黒崎さんの指示を実行しているだけだと分かっていた。でも、苛立ちが抑えられなかった。 「どいてください。さもなければ悲鳴をあげますよ」私の言葉に相手は完全に怯んだ。警備員らしく屈強な体をした彼らは荒事には長けていたかもしれないが、女性が悲鳴をあげてそこに男がいれば、とりあえずは問答無用で男が悪者になってしまう。だから私は悲鳴をあげると言った。「悲鳴をあげる」と告げた瞬間、彼らは確かに怯んだ。そもそも自らの意思でマンションを出ようとする私を彼らが止められるわけがない。いくら蒼の指示でも彼らがそれをやれば監禁の罪に問われる。婚姻関係があってもそれは成立するのだから、愚かではない彼らは戸惑いつつも扉の前からどいて私と凱を通した。彼らは一度、凱を止めようとしたが、再び私の「悲鳴をあげる」でそれを諦めた。  マンションのエントランスホールに行くと、コンシェルジュが私の姿に安堵の表情を見せた。しかし、そのあと探るような目で凱を見た。記録から私が許可した客人と分かっていたようだが、セキュリティ会社の人間がその後を追うように私の部屋に来れば不審人物である可能性が否めなかったに違いない。説明するべきかと悩んだとき凱が私の肩を抱き寄せた。私の中で凱は「男」ではなく兄だから、肩を抱き寄せる親密な行為に嫌な感じはなかったが戸惑いはあった。 「……凱?」「しっ……騒がせて申し訳ない、連絡に行き違いがあったようだ。いつもヒナがお世話になってます」私を制した凱がそう言ってコンシェルジュに微笑みかけると、彼女は薄っすらと頬を染めた。彼女は職業意識の高い女性だったから、それで済んだが、普通なら目の色を変えて凱に飛びついただろう。そんな彼女の職業倫理は凱を感心させ、凱は「うちの受付に欲しいな」なんて言っていた。 「いってらっしゃいませ」このマンションに私と蒼が揃って帰ってきたことはない。コンシェルジュは凱を私の恋人か夫と勘違いして私を送り出した。警察を呼ばれると厄介なのは私も同じだたけど、凱の機転はありがたかったけど、あの場で咄嗟にあんな行動に出るなんて手慣れている。私は兄の常習
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15

マンションから逃げた上司の妻を追いかけてきて、そして空港。引き留めたが妻は戻らないと宣言。そして、そのタイミングで渡される封筒の中身など、よほど愚鈍な人でなければ、想像がつく。優秀な黒崎さんはすぐに中身を察した。 「もう一度……いえ、せめて話だけでも……」「何度話しても同じです。全てはあの人が決めて、私に従うことを求める」「そんなことは……」「言葉にはしていない、って? 白々しいって黒崎さんも分かりますよね? 蒼にも事情があるんだって、私だってそう思いたいです。でももう限界です。私にも譲れないときがあります」「それで……これを?」「中には退職届と、ご想像通り離婚届も入っています」「退職届は受け取りますが、もう一つのほうは……」「離婚には妻の同意が必要なんですよ。必要なときにこれがなかったら蒼も困るでしょう?」 反応に困ったのか、黒崎さんは隣にいてずっと黙っていた凱に目を向けた。「李支社長と一緒に行かれるのですか?」あれは、まるで駆け落ちみたいな表現。劇的な逃避行を想像していた黒崎さん。意外とロマンチストなのかもしれない。「私一人で行きますよ。ただ、私一人では逃げられなかったから、脱出を彼に助けてもらっただけです」黒崎さんの顔が罪悪感に変わった。黒崎さんも私を閉じ込めていたという認識はあったんだな、と思った。「どちらに行かれるのですか?」「それを黒崎さんに説明する義理はないですよね?」言葉を詰まらせた黒崎さんに私は持っていたスマホを渡した。スマホは、居場所が分かってしまう。私は蒼に居場所を知られたくなかった。「陽菜さん……」「自由になりたいんです」 これで完全に身を隠せるかなんてわからないけれど、蒼に対して縁を切る意志を伝えたかった。「お世話になりました。お元気で、とお伝えください」黒崎さんの脇を抜けて、私は台湾行きのチケットを買った。   *   あの場で台湾行きのチケットを買ったのはブラフ。私は台湾に一度入国したあとに今度はイギリス行きの便に移動する計画だった。イギリスで、生物学上の父親であるアシュフォード家で生活するように提案したのは凱だった。 台湾の台北松山空港に到着するとキャメロット台湾支社の女性社員が待機していた。とてもきれいな人だった。彼女と凱がどういうお付き合いの
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「クリスの残した財産は沢山あるから好きに使ってね。屋敷も空き部屋があちこちにあるから好きな部屋を選んで頂戴。そんなことよりも」突然の住人追加なんて、資産家のアシュフォード家の人たちにとっては『そんなこと』だった。それよりも重要なことが彼らにはあった。それは――。「四方八方、どこを見ても男ばかりのこの家に女の子が! 念願の女の孫よ!」アシュフォード家は男ばかりが生まれる家。最後に女の子が生まれたのは二百年以上前のこと。お嫁さん以外は全員男。男ばっかりのアシュフォード一族に生まれた私は念願の女の子だった。 「アシュフォードに嫁にきちゃった私に女の子の孫ができるなんて!」お祖母様はそう感激していたけれど、「嫁にきちゃった」とはインパクトのある言葉。祖父母は恋愛結婚だと聞いているけれど、あの一言で祖父は草葉の陰で泣いたに違いない。   *  「娘とファッションや恋の話をするのが夢だったの」そう言ったメアリーお祖母様。「それなのに男ばっかり生まれて。おかげで朝から晩まで畑と野菜の話ばかりなの」男だからといって畑と野菜の話ばかりするわけではないと思う。でもお祖母様は畑と野菜の話ばかりするアシュフォード一族(男)にいつも文句を言っている。畑と野菜、それはアシュフォード一族(男)の趣味。家業ではなく趣味だと彼らは言い張るが、どう見てもあれは趣味の範疇を越えている。確実に農家の領域。休日は朝から晩まで野菜作りを楽しんでいる。つまり、朝から晩まで畑で農具を使い、重い物を運んでいるからアシュフォード一族(男)はマッチョだらけ。「みんな生まれたときは小さいほうなの。だから産むのは楽だったわ。それなのに育つと漏れなくマッチョ。でも、クリスだけはそっち方面に興味をもたなかったから最期までヒョロッとしていたわ」ヒョロッと言ったが、見せてくれた写真の父は細マッチョだった。マッチョに囲まれているから、お祖母様は『ヒョロ』の基準は少しおかしい。病弱という前情報のせいで青白い幽霊のような男性を想像していたから、スポーツをやっていそうな筋肉質な体の持ち主に「本当に病弱だったのかな?」と私は首を傾げた。 『さあさあ、孫娘の御披露目よ』お祖母様は屋敷の中を案内してくれて、その間にどんどんマッチョ(アシュフォード一族の誰か)が集まってきた。皆の反
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「海、愛しているわ」スマホ画面の向こうで、薄っすらとした黒髪をした赤ん坊がぽやんとした顔をしている。一ヶ月前に産んだ息子に、私は「海」と名前をつけた。空を思わせる「蒼」とセットになるような名前。この名前にしたのは、蒼に海のことを教えないと決めた――その罪悪感のせいかもしれない。   *  妊娠していると分かったとき、私には逃げるという選択をした。結婚を隠している以上、私は妊娠した子どもを蒼の子どもと言えない可能性が高かった。今の時代でシングルマザーは珍しくないけれど、どんなに綺麗ごとを言っても周囲からあまりいい目で見られない。夫の子を妊娠しているのにそんな目で見られる。不倫の末に蒼の子を産んだ白川茉莉が表舞台で蒼の隣に子どもと共に立つのを見る。耐えられないと思った。その耐え難い思いを、生まれた子どもにも味合わせる可能性があった。我が子も自分のように隠れた存在になことは耐えられない。父親の蒼を外で「お父さん」と呼べない悲しみを味あわせるなんて耐えられないと思った。  蒼に海のことは教えないと決めても法律という面倒臭いものがある。一番の面倒は戸籍。日本の法律では、子どもを海外で産んだ場合、三ヶ月以内に戸籍に入れなければならない。期限は、刻一刻と迫っている。私は蒼と結婚しているから戸籍は一緒。「私だけの戸籍」は存在せず、仮に私が海をこっそりと戸籍に入れてもそれは蒼にも見られる。戸籍は住民票に比べれば見る機会が少ないけれど、海の存在は蒼に知られてしまう。だから離婚して私だけの戸籍にする必要があった。日本を発つときに置いていった離婚届が提出されていれば問題ないのだけど――まだ提出されていない。だから私だけの戸籍はない。あと二ヶ月もない。急がないといけない。 『ヒナ、これから離婚手続きではこっちに戻ってくるのは遅くなりそうね』「お祖母様、ご存知でしたの?」『当然よ、私の大事な孫娘とひ孫のことですもの』「どうして教えてくれなかったんです? 今夜のパーティーに行くのも止めなかったではありませんか」『自分の目で見て判断するべきだからよ』お祖母様は悪戯が成功した子どものように笑った。『どこだって社交界は嘘ばかり。自分に都合のいい嘘を作り、嘘を煽り、どんな手を使っても自分の優位に場を作ろうとするの。それは仕方がない
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18

海が生まれるとき、出産予定日の二週間前から凱はアシュフォードに滞在していた。陣痛が始まると、凱は空腹の熊のように産室となった部屋の前の廊下をウロウロしていた。海のあげた産声に、凱は両手を天に突き上げて大きな歓声をあげたという。あの大きな図体でうろうろする凱はただ邪魔ではなかったかと思ったが、伯母様によればマッチョな伯父様と従兄弟たちも落ち着きなく歩き回っていたから凱だけが邪魔ということはなかったらしい。 甥の誕生を喜ぶ凱にはアーサーも驚き、「こんな凱は初めて」と最近のアーサーは親友の変わり身に驚いている。 海が生まれてからも、凱は日本に戻らなかった。ずっとアシュフォード邸に滞在し、私と日本に来るまで海を溺愛し続けていた。あまりの可愛がりように、結婚して自分の子どもを作ればいいと言ってみたけど「海がいるのに?」と真剣にキョトンとされた。私が甥か姪、いや、アシュフォードだからきっと甥、甥を抱く日は遠そうだ。 そんな凱だから、海を日本に連れてこようと駄々をこねた。海と離れがたいのは私も同じ。まだ小さな海は母親を目で認識しておらず、その愛情は言葉でなど通じない。抱きしめて、口づけて伝えることしかできない。まだ一ヶ月の子、離れるのは苦渋の決断だった。 そんな苦渋の決断を私はしたというのに――凱はダラダラと粘った。「母子が離れ離れになったら寂しいだろう」とか「いまは生後一ヶ月でも旅はできる」とかダラダラと言ってきた。私のためって言い方が多かったけど、あれは海がいないのは寂しいと、寂しいから連れていきたいというのは凱自身の希望だった。イギリスを発つ日の朝まで、凱は海を連れていこうとダラダラと言い続けた。おかげで最後の最後まで私の気持ちはグラグラ揺れた。出産は順調だったし、経過観察も良好。母子それぞれの体調から航空会社は多少制限されてしまうけれど、それでも海と一緒に日本に来ることはできたと思う。窓の外を見れば、東京の夜景は様々な光で明るい。特に、真っ赤に輝く東京タワーは私の目には強く輝いて見える。日本の首都、東京のシンボル。これを海に見せたかったな、と胸の奥が少しだけ痛んだけれど、この先に起きる揉めごとに海を巻き込みたくない。 白川茉莉。 いくら私のことを『蒼の元カノ』と認識しているとは言え、パーティー会場で、大勢が注目し
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