「君を愛してもいない人間と長く生活を共にするのは、かえって治療の妨げになります」雨宮理央(あまみや りお)は幼い頃から、重度の『感情欠落症』を患っている。そして目の前に座る男は、彼女にとって三人目となる主治医だった。「では、先生のご提案は」「僕としての提案は一つ──別れることです」簡潔明瞭な答えだ。認めざるを得ない。瀬名崇人(せな たかひと)はこの業界でも指折りの精神科医である。まだ若いというのに、その経歴はあまりに華々しい。十八歳でM国名門大学の博士課程を修了。あの権威あるウィルソン教授に師事し、わずか二年で『Nature』や『NEJM』といったトップジャーナルに二十本以上もの論文を発表している。帰国後の予約倍率は、天文学的な数字だと言われていた。だが、何より重要なのはそのルックスだ。どう形容すればいいだろうか。たとえ毒リンゴを口元に突きつけられたとしても、彼の手によるものなら喜んで飲み込んでしまえる――そんな魔性の美貌である。特にカウンセリングの最中がいい。白くしなやかな指先が眼鏡のブリッジを軽く押し上げる仕草。金縁のレンズの奥、琥珀色の瞳が患者をじっと見据えるその眼差し。一言で表すなら『有能』。もう少し付け加えるなら『極めて有能』だ。理央はプロに徹する人間が好きだ。だからこそ、自身の病の治療を崇人に託すと決めたのだけれど──「……」さすがに即答はためらわれた。ここ最近のことを思い出してみる。婚約者の西園寺恭弥(さいおんじ きょうや)は、もう数日家に帰ってきていない。食事中もスマホの画面を見ては、締まりのない顔でニヤついて上の空だ。彼のシャツからは、理央の趣味ではない香水の匂いが漂い、襟元には見覚えのない色のルージュが付着していたこともあった。助手席に女性物のスカーフが落ちていたことだってある。……あるいは、これが『健常者』にとっての、ごく普通の人付き合いというものなのかもしれない。もっとも、理央はまともな人間ではない。実の母親にさえ、顔を合わせるたび「あんたは病気だ」と罵られる身だ。だからこそ、その『普通』が理解できなくとも、無理はない話だろう。崇人は、まるで子供をあやすような穏やかな眼差しを理央に向けている。「理央さん、君がいま『名残惜しい』という感情を抱いたこと
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