共有

第3話

作者: スイカなんて食べてない
場が、一瞬にして凍りついた。広々とした個室は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂に包まれる。

その場にいる全員の視線が、入り口に佇む理央へと突き刺さった。

恭弥は一瞬、何が起きたのか理解できずに呆気にとられたが、反射的に座席から立ち上がろうとした。その時だ。

「ガシャン」

乾いた音が響く。誰かが慌てて酒瓶を倒したらしい。その音に怯えたふりをして、沙織が震えながら恭弥の背中へと身を隠した。

「恭弥さん……雨宮さん、すごく怖い顔してる……怒ってるのかな?でも、どうしてここが分かったの?まさか、こっそり後をつけて……」

恭弥は本来、理央になんとか言い訳をするつもりだったのだ。今日は沙織の誕生日で、悪友たちが酒の勢いで軽口を叩いてしまっただけだ、気にするな、と。そして、今の会話をどこまで聞かれていたのか探りを入れようとしていた。 だが、沙織の怯えた声と言葉を聞いた瞬間、その思考はすべて低い唸りをあげるような怒りへと変わった。

「……お前、俺をつけ回してたのか?」

沙織はとっさに恭弥の背中へとしがみつくように隠れる。怯えているように見せかけながら、その瞳だけは勝ち誇ったように理央を見据え、はっきりと挑発の色を浮かべていた。

もともと野次馬根性で事の成り行きを楽しんでいた取り巻き連中は、理央の態度を見るや否や、不満を露わにし始めた。

「おいおい、まだ恭弥と結婚したわけでもないのに、束縛がキツすぎじゃねえか?」

「まったくだ。今どきストーカーまがいの尾行かよ?品がないねえ」

彼らは皆、名家に生まれ、銀の匙をくわえて育ってきた御曹司たちだ。普段から親や親族に、庶民出身でありながら実力でのし上がった『鉄の女』——理央を引き合いに出され、耳にタコができるほど説教されていた。

「いつまでも道楽息子やってないで、少しは雨宮を見習って経営を学べ。お前らの代で家を潰す気かと」

だからといって、彼らが理央を対等な存在として認めているわけではない。むしろ、コンプレックスからくる反発心は強まるばかりだった。

彼らにとって、理央などいくら優秀でも所詮は「高級な使用人」に過ぎない。たまたま恭弥という太い客を捕まえて、表面上は『将来の奥様』の座に収まっているだけで、本来自分たちのようなオーナー側の人間に指図できる立場ではないのだ。

そんな険悪な空気の中、沙織がおもむろに進み出て、か細い声で場をとりなした。「みんな、そんなふうに雨宮さんを責めないで。私は大丈夫だから……わかってるの、雨宮さんはただ、恭弥さんのことが好きすぎて心配になっちゃっただけなんだよね」

おどおどと震えるその姿は、まるでか弱い草食動物のようだ。さっき倒れた酒瓶で、実際に頭でも殴られたかのような被害者ぶりである。

その姿を見た恭弥は、苛立ちを隠そうともせず眉間をぐっと揉んだ。そして、心底愛おしそうに沙織をその腕の中に抱き寄せる。

「理央、いい加減にしてくれないか!見ろ、お前のせいで沙織がこんなに怯えてるじゃないか」

恭弥の顔を見つめながら、理央は胸の内で何かが猛烈なスピードで霧散していくのを感じていた。

生まれつきの『感情欠落症』。そのせいで、彼女は他人とまともな関係を築くことができなかった。症状が進むと、自己否定という負の感情に囚われ、やがては日常生活や仕事にさえ支障をきたすようになった。

最初にかかった精神科医はこう言った。「情熱を注げる仕事を見つけなさい。そこに没頭することで、感情のスイッチを探るのです」

その助言通り、彼女はプロの経営者となり、企業のトップにまで上り詰めた。時には巨大な同族企業の命運さえ左右するほどに。確かに、仕事での成功は彼女に「快感」をもたらした。

だが、その高揚感は一過性のものだった。祭りの後のような虚無感と、リバウンドのように押し寄せる自己否定が、すぐに彼女を飲み込んだ。

二人目の医師は、別の治療法を提案した。「恋人を作りなさい。『愛する』という行為を学ぶことが、あなたへの処方箋です」

だからこそ理央は、恭弥をターゲットに定めると、あれほど執着していた仕事をきっぱりと捨てたのだ。医師の指導に従い、「恭弥を深く愛する献身的な婚約者」という役柄に、全身全霊で没入した。

治療の効果は劇的だったと言える。

努力して作り上げた「恭弥への愛」が、心の闇を少しずつ埋めていったのだから。

「恋人役」を演じきることで得られる達成感は、かつて執行役員として何十億円もの利益を上げた時の快感を遥かに凌駕していた。

結婚にさえ、淡い期待を抱き始めていたほどだ。

……しかし今、その積み木細工のような感情が、音を立てて崩れ去ろうとしている。

丹精込めて作り上げた成果を、他人の手でぶち壊される感覚――それは不快以外の何物でもない。かつて病魔に支配されていた頃の、あの息苦しい焦燥感が蘇ってくるようだった。

理央は努めて冷静さを保ち、あくまで理性的に、事務的な口調で告げた。

「だだをこねてるんじゃないわ。これは正式な『別れ』の通達よ。早急に現状に順応してくれるかしら?」

言い捨てると、呆気に取られる友人たちを尻目に、理央は踵を返して個室を出て行った。

廊下の角を曲がったところで、彼女を探しに来た崇人と鉢合わせる。

「何かあった?」

「大したことじゃないわ」

理央は小さく息を吐き出し、淡々と答えた。「浮気の現場を押さえてきただけ」

平然を装ってはいたが、心臓はまるで正拳突きを食らったかのように、鈍く、重い痛みを訴えていた。

さすがは崇人と言うべきか。彼は非常に聡明だった。なんの感情も読み取れないはずの理央の無表情な顔を見ただけで、一瞬にして事の顛末を全て察してしまったらしい。

彼は何も言わず、ふいにその場にしゃがみ込んだ。

足の甲に、ふわりと温かな空気が触れる。

「ガラスの欠片がついてる。怪我をしたら大変だ」

言われて初めて、理央は自分の足元に目を落とした。くるぶしの辺りに、あの時飛び散った赤ワインの染みが点々と残っていたのだ。崇人はついでとばかりに、それも一緒に拭い去ってくれた。

距離が、あまりに近い。照明の影が落ちる崇人の眉梁は、息を呑むほど端正で、彫刻のように美しかった。彼の吐息が、逃げ場のない足首の皮膚にかかる。直接触れられているわけではないのに、その周囲の皮膚までが驚くほど熱を帯びていくようだった。

――近すぎる。

理央は直感的にそう思った。何かが過剰だ。

けれど、具体的に何が「やりすぎ」なのかが判然としない。

崇人はただ主治医としての親切心から、危険なガラス片を払ってくれただけだ。ワインの染みを拭う時でさえ、自分のスーツの袖口を使って、直接指が触れないよう配慮してくれている。終始、肉体的な接触は一度もなかった。

恐らく、私の考えすぎなのだろう。

頭ではそう理解しようとしたが、身体は思考より先に反応し、理央は反射的に足をすっと後ろへ引いていた。

本来なら、好意を踏みにじる失礼な動作だ。だが、崇人はまるで示し合わせたかのように、同時に身体を起こした。

彼女が拒否反応を示すタイミングを計算し尽くし、気まずくなるコンマ一秒手前で、すべてを何事もなかったかのように『正常』に戻したかのようだ。

……いや、やはり私の考えすぎかもしれない。 人と人との距離感とは、本来こういうものなのだろう。おかしいのは、「感情」が欠落している私の方なのだから。

「送るよ」

普段なら即座に反応する理央が、珍しくワンテンポ遅れてから短く答えた。「……ええ、お願い」

コンビニの前を通りかかったところで、崇人が車を停めて降りていった。

戻ってきた彼の身体には夜の冷気がまとわりついていたが、手には湯気の立つ春雨スープの容器が提げられていた。

「夕飯、まだ食べてないだろう。お腹に優しいものを少し入れておいた方がいい」

そう言うと、彼は手品のように、もう一つ別のものを取り出した。小さなショートケーキだ。

「それからこれは……今日のご褒美」

薄暗い車内で、理央の瞳が思わずわずかに開かれた。

ショートケーキなんて、いつ以来だろう。ましてや「ご褒美」をもらうなんて。記憶の蓋が、ふいに開く。

父が交通事故で亡くなり、家計のすべてが断たれたあの日から。母は物を投げつけるか、あるいは伸びた爪先で理央の額を突きながら「疫病神」と罵る以外、何もしなくなった。薬を飲むよう優しく諭し、飲み終わった後に「ご褒美」だと言ってケーキを出してくれるような人は、もう誰もいなくなっていたのだ。

「理央は学校でとってもお利口にできたから、きっとすぐ良くなるわ。はい、これは今日のご褒美よ」

懐かしい温もりが蘇りかけた時、車が信号待ちで停止し、理央はハッと我に返った。

「それと、だ。治療の補助対象だった彼と関係を絶った以上、僕の専門医としての見解を言わせてもらうと、住環境も早急に変えるべきだね」

今回ばかりは、理央も反論しなかった。

「……じゃあ、停雲通りのほうへお願いできる?」

そこは以前、彼女が自分名義で購入していた単身用のマンションがある場所だ。 長いこと足を踏み入れていないが、管理会社が定期清掃を入れているはずなので、一晩過ごすくらいなら問題ないだろう。

車のエンジンがかかった瞬間、理央のスマートフォンが短く振動した。画面を開くと、恭弥からのメッセージが表示される。

【今回の一時の衝動は許してやる。だが、ほどほどにしておけよ】

画面を見つめながら、理央は内心で首を傾げた。実際問題、患者である理央にとって、「衝動」のような極端かつ個人的な感情を抱くことは極めて困難だ。

彼女の視線は、自然とそれまでのトーク履歴へと吸い寄せられた。

そのほとんどが、彼女からの挨拶で始まり、彼女からの気遣いで終わっている。間に挟まる恭弥の返信は、一見してやる気のなさが伝わる【了解】【うん】【ああ】といった文字の羅列ばかりだ。

治療計画の一環だったとはいえ、恭弥は彼女の献身的な尽力によって、肉体的にも精神的にも多大なメリットを享受していたはずだ。

それにもかかわらず、彼は嘘をつき、裏切ることを選んだ。これはもう、単なる相性の問題ではなく、彼自身の人間性の問題だろう。

「着いたよ、理央さん」

目的地に到着すると、崇人がバックミラー越しに彼女を見た。その穏やかで真っ直ぐな眼差しには、不思議と心を鎮める力がある。

理央は深く息を吸い込み、乱れた思考を整理してから、誠実な言葉を選んだ。

「崇人先生、アドバイスをありがとう。それから……以前あなたの診断を疑ってしまったこと、改めて謝罪するわ」

すると崇人は、ふと手を伸ばしてバックミラーを指でなぞった。理央の角度からは、彼が鏡に映る彼女の頭を、親指で優しく撫でているように見えた。

「理央さん、僕たちは信頼し合う友人同士だろう?友人同士の助け合いに、感謝も謝罪もいらないんだよ」

理央はその言葉に納得し、素直に頷いた。「わかったわ。それなら……もし良ければ、近いうちにこの部屋へ招待させて」

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 今更ですが社長、婚約者は逃げました   第10話

    「どうした?まだ怒ってるのか?」恭弥も認める。確かにさっき、理央を大人しく車に乗せるため、いささか強引な手段を使ったことは否定しない。だが、彼女の傷は明らかに完治していないのだ。そんな状態で一人野放しになんてできるわけがないだろう? 万が一のことがあったらどうする?この七日間、不眠不休で彼女を探し回ったにもかかわらず、手掛かり一つ掴めなかったのだ。今日こうして偶然街で見かけなければ、あと七日探したって見つかったかどうか怪しいものだ。西園寺家といえば帝都でも一、二を争う権勢を誇る。その俺が探して見つからないなんて。病院でもそうだ。VIPフロアの監視カメラだけが不自然に故障しており、理央がどうやって脱出したのか、目撃者は一人もいなかった。もちろん調査員を使って徹底的に調べさせたが、結果はシロ。何一つ出てこなかった。あまりにも不気味だ。得体の知れない不安が、じわりと胸に広がる。「理央、お前この数日間、一体どこにいたんだ?あの晩、どうやって病院を抜け出した?」しかし、理央は頑なに口を閉ざしたままだ。無理もない。自分を十六階から飛び降りる寸前まで追い込んだ加害者の尋問に、素直に応じる人間などいないだろう。今の彼女は抵抗する気力がないだけで、決して服従しているわけではないのだ。恐らく、俺が彼女を置いて沙織の看病に行ったことが、よほど腹に据えかねているのだろう。嫉妬深い女だ。恭弥はそう結論づけた。もっとも、それは裏を返せば、理央がそれだけ俺を愛しているという証左でもある。まあ、今回の件に関しては俺にも多少の非はある。 家に帰ったら、たっぷり埋め合わせをしてやろう。しかし、別荘に足を踏み入れた瞬間、その目論見は脆くも崩れ去った。そこには、パジャマにルームシューズという出立ちで、さもこの家の女主人ですと言わんばかりに振る舞う沙織の姿があったからだ。あまつさえ、彼女が着ているそのパジャマは、恭弥のものだった。使用人たちの視線が、一斉に三人に突き刺さる。彼らは今、正妻が愛人を引き裂く修羅場か、はたまた愛人が正妻を圧倒する下克上のドラマを、固唾を飲んで待ち構えているのだ。だが、感情欠落症である理央にとって、そんな野次馬たちの視線など今さら何の意味も持たず、痛くも痒くもない。一方、気まずさを隠せない恭弥は

  • 今更ですが社長、婚約者は逃げました   第9話

    「決まってるだろ、お前を守るためだよ!」こんなこと、言われるまでもなく明白な理屈だろう?それなのに、理央は感謝するどころか、なぜこうも執拗に沙織を敵視するんだ?そもそも、今回の件で傷ついたのはあいつだけじゃない。沙織だって酷いショックを受けているんだ。毎晩悪夢にうなされては泣いて俺を叩き起こし、俺の腕の中でしか眠れないほど怯えきっているというのに。なぜ理央は、自分だけが被害者だと主張して譲らないんだ?精神的なトラウマは「傷」のうちに入らないとでも言うつもりか?あいつはいつから、こんなに冷酷で融通の利かない女に成り下がってしまったんだ?以前の理央なら、誰よりも思慮深くて、人の痛みが分かる優しい女だったはずなのに。恭弥は、少し考えてみた。そういえば、沙織が帰国してからだ。理央がことあるごとに突っかかってくるようになったのは。以前のような従順さや愛らしさはすっかり影を潜めてしまった。そう思うと、恭弥はやれやれと溜息をついた。「分かったよ。嫉妬も大概にしとけ。今回の件は水に流してやるから、さっさと帰るぞ」「離して……っ」雨に打たれたせいか、ふくらはぎの傷がズキズキと疼きだした。激痛によろめき、理央はその場に崩れ落ちそうになる。間一髪、恭弥が素早く彼女の体を抱き支えた。その様子を、道路の向かい側に停まっていた黒のメルセデス・ベンツから、静かに見つめる視線があった。窓ガラスがゆっくりと下がり、コンビニの軒下で抱き合う二人の姿が、崇人の瞳に寸分違わず映り込む。降りしきる雨の雫に共鳴するように、長く濃密な睫毛が、微かに、本当に微かに震えた。反対側の窓から、旭も首を伸ばして外を覗いた。「おいおい……お前が土砂降りの中、血相変えて飛び出していくから何事かと思えば、お迎えだったわけか。にしても、雨宮さんはあの西園寺恭弥と別れたんじゃなかったのか?まさか復縁したのか?まあ、感情欠落症とはいえ、付き合いは長かったからな。そう簡単に未練は断ち切れないのかもな。西園寺がその気になりゃ、焼け木杭に火がつくことだってあるだろうし。惜しかったな。タッチの差で、美女は他のヒーローにさらわれちまった」「誰が迎えに来たなんて言った?」旭は眉をひそめ、全身の中で口だけが異常に強情な親友をまじまじと見つめた。「迎えじゃないなら、

  • 今更ですが社長、婚約者は逃げました   第8話

    理央は、幽霊のようにあてもなく街を彷徨った。脳裏で一本の糸がピンと張り詰めているような感覚がある。緩めたいのに、意思とは裏腹にその緊張感は消えてくれない。崇人が三代目の主治医になって以来、こんな不快な感覚に襲われるのは久しぶりだった。誰かに操られ、引っ張られているような感覚。けれど、その糸の端を握っているのが誰なのか、見当もつかない。崇人のことは、信頼に足る人物だと思っていた。だが、それはあの会話を聞くまでの話だ。今となっては、彼との間に築いた信頼関係のすべてを、根底から疑い、精査し直さなければならないだろう。いつの間にか、空の色が重く沈んでいた。降り出しそうだ。そう思った途端、前触れもなく大粒の雨が激しく地面を叩き始めた。理央は逃げ込むように、近くのコンビニの軒下に身を寄せた。そこへ、一台の車がゆっくりと近づいてきて路肩に停まった。アプリで呼んだ配車サービスの車かと思い顔を上げた理央の目に飛び込んできたのは、真っ赤なランボルギーニから降り立つ恭弥の姿だった。「どこ行ってたんだ!病院で大人しくしてろって言っただろ!?お前ってやつは、いっつもそうやって人に迷惑ばっかかけて……俺がどれだけ探したと思ってるんだ!帝都中ひっくり返す勢いで走り回ったんだぞ!」矢継ぎ早に浴びせられる質問攻めに、理央は頭痛を覚えた。彼女は冷ややかな目を恭弥に向ける。社交界きってのプレイボーイとして名高い御曹司が、今は見る影もない。半身はずぶ濡れで、高級シャツの襟はよれよれ。いつも完璧にセットされている髪は鳥の巣のように乱れ、目の下にはくっきりと隈が浮かんでいる。普段なら運転手付きの送迎車で移動する彼が、運転席から降りてきた。どうやら、本当に自分の運転で帝都中を探し回っていたらしい。だが、それが何だと言うのだ?「あんた、頭おかしいんじゃない?」理央は吐き捨てるように言った。「なんだと……」「病気なら医者に行きなさいよ。私に何の用?まさか、あんたも私にスマホを叩き壊されて、病室に監禁されたいの?」理央は心底うんざりしていた。ようやく熱が下がったばかりだというのに、次から次へと他人の罠や思惑に振り回されている。そもそも、私をあの十六階から飛び降りる寸前まで追い込んだ張本人が、どの面下げて被害者ぶって説教

  • 今更ですが社長、婚約者は逃げました   第7話

    「……私、用事があるから」理央はほとんど逃げるように立ち上がろうとしたが、高熱が引いたばかりの体は思うように言うことを聞かない。膝が笑い、その拍子にバランスを崩しかける。だが幸いにも、崇人の手はしっかりと彼女の背中を支え続けていた。物音を聞きつけた看護師がドアを開けた瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、理央が崇人の腕の中に崩れ落ちる決定的瞬間だった。崇人の手は、理央の最も敏感な腰のくびれを捉えており、そこから甘く低い吐息が漏れ聞こえる。これ以上見たら別料金が発生しそうな、そんな錯覚に陥る光景だ。「わ、私、何も見てませんからっ!」看護師は瞬時に空気を読み、バタンとドアを閉めると、通りかかった同僚を捕まえて興奮気味にまくし立てた。「ねえ聞いて!中ですごいもの見ちゃった!瀬名先生が、あの美人の患者さんをベッドに押し倒してたの!」「嘘でしょ? 衆人環視の白昼堂々、まさに野獣ね!服は脱いでた?」「まだだけど、秒で脱がしそうな勢いだったわ!我慢の限界って感じで!」「えっ?秒?そんなに動きが早いの?聞かせなさいよ詳細!」勢いよく閉めすぎたせいだろう、ドアが反動で少しだけ開き、外のあけすけな会話が丸聞こえになってしまった。理央は、彼に触れられている腰と、自分の顔のどちらが熱いのか判断がつかなくなった。崇人の喉仏が、ごくりと上下する。目の前の、恥じらって紅潮した理央の顔があまりに魅力的すぎたせいだろうか。彼の理性が「礼儀正しい距離を取れ」と命じているにもかかわらず、身体は初めてその命令に逆らい、すぐに離れようとしなかった。「彼女たち、口にチャックができないタチでね。気にしないで」「……ええ、もちろん」理央は目元をひきつらせながら適当に相槌を打ち、悟られないように少しずつ身体を後ろへ引こうとする。「それに、僕はそんなに早くないよ」「うん……え、何が?」崇人は楽しげに片眉を跳ね上げた。「もちろん、君が『早い』のがお望みなら合わせるけどね」理央は「今の言葉の意味なんて理解不能」とばかりに思考を放棄し、荷物をまとめると脱兎のごとくクリニックを後にした。車に乗り込んでもなお、胸の鼓動は早鐘を打ったまま静まる気配がなかった。タクシーの運転手は、車を出す前にルームミラーをちらりと覗き込んだ。「玄関に立っ

  • 今更ですが社長、婚約者は逃げました   第6話

    理央は、夢を見ていた。そこは、どこまでも昏く、淀んだ空気が満ちる地下室だった。じっとりとした冷気が肌にまとわりつく。幼い理央は閉じ込められ、小さな体で懸命に鉄の扉に体当たりしていた。「出して……ううっ……お母さん、ひとりにしないで……!」廊下からヒールの足音が響き、次の瞬間、鉄の扉が外側から乱暴に蹴り飛ばされた。ガンッ、と耳をつんざく音が地下室に反響する。「この疫病神!よくもまあ、いけしゃあしゃあと泣けるわね?あんたが誕生日なんか祝いたがるから……あの人は、こんな夜更けにトラックを出して帰ってこなきゃならなかったのよ!」「ああ、いい気味だわ。お父さんは死んだの。あたしたち親子は、明日から野垂れ死によ!」「誕生日なんでしょう?ケーキを買ってきて欲しかったんでしょう?お父さんなら中にいるわよ。ほら、これで満足でしょう!」扉の向こうからの罵声が、唐突に途切れた。代わって嗅覚を襲ったのは、消毒液とホルマリンが入り混じった強烈な刺激臭だ。それは見えない手となって鼻腔へとなだれ込み、理央の喉を締め上げにかかる。「違う、違うの!お父さんは私が殺したんじゃない!違……っ!」小さな手で鉄の扉を何度も搔きむしる。爪が剥がれ、無数の血の跡が鉄板に刻まれていく。「出して、お願いだから!ここから出して!」けれど、扉は無慈悲なほど固く閉ざされたままだ。鼻をつく臭気は、ますますその濃度を増していく。理央は息を詰め、恐る恐る振り返った。そこには、トラックに轢かれ、原形をとどめぬ肉塊と化した父の姿があった。ドクンッ。心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走る。「はっ……!」理央は弾かれたように目を開けた。視界に飛び込んできたのは、眩しいほどの白色灯と、クリーム色の柔らかな壁。書棚には『精神分析的診断』や『バーンズの感情療法』といった専門書が整然と並んでいる。ここは……「目が覚めた?」穏やかな声と共に、崇人が白湯の入ったコップを差し出した。「私……」口を開いた瞬間、理央は自分の声が酷く枯れていることに気づいた。まるで鋭利な刃物で喉の奥を抉られたような、ひりつく痛みが走る。「高熱が三日続いて、七日間昏睡状態だったんだ。やっと熱が下がったところだよ。傷口が化膿して、炎症を起こしていたせいだろうね」崇人が淡々と説明する。理

  • 今更ですが社長、婚約者は逃げました   第5話

    シャンパンタワーは優に二メートルはある。沙織が衝突した瞬間、おびただしい数のグラスが凄まじい轟音と共に崩れ落ちた。まるで凶暴なガラスの津波が、真下にいる人間を飲み込もうとするかのようだ。「恭弥さん、助けて!」沙織が悲鳴を上げる。理央もまた、生存本能に突き動かされ、一番近くにいた恭弥へと必死に手を伸ばした。――ただ、手を引いてくれるだけでいい。そう願った瞬間、確かに彼の手がこちらへ伸びてくるのが見えた。 だが次の瞬間、その手は無情にも理央をすり抜け、背後にいた沙織を抱き寄せたのだ。意識を取り戻した時、理央は病院のベッドの上にいた。鼻をつく消毒液の臭いに、強烈な吐き気が込み上げる。父があの交通事故で亡くなった時、ホルマリンの臭いが充満する霊安室から、白い布に覆われた遺体が運び出されるのを目の当たりにして以来、彼女はこの臭いにトラウマを抱えていた。病院に一人でいることなど、到底耐えられない。 だから普段、どんなに体調が悪くても、自力で治すようにしてきたのだ。幸いなことに、母がよく口にしていた『憎まれっ子世に憚る』という言葉通り、彼女は滅多に病気をしなかったのだが。モニターが規則的な電子音を刻んでいる。理央は衝動的にシーツを跳ね除け、起き上がろうとした。「何してるんだ!」入り口から駆け込んできた恭弥が、強引に彼女をベッドへと押し戻す。その端正な顔は、まだ恐怖が抜け切らないように強張っていた「自分の怪我の状態がわかってるのか?破片があと数ミリずれてたら、失明してたんだぞ!」無理やり起き上がろうとしたせいで、理央は自分の身体がどれほどのダメージを負っているか嫌というほど痛感していた。病室から歩いて出る力さえ残っていないのだ。そこへ追い討ちをかけるような恭弥の咎めるような口調。理央の腹の底から、抑えきれない怒りが沸き上がった。「西園寺恭弥……あなた、頭おかしいんじゃないの!?」理央という人間は、常に精神が強固で安定している女だ――というのが、周囲の共通認識だった。これほどまでに感情を露わにし、取り乱す姿など記憶にない。恭弥は一瞬呆気にとられたが、すぐに何か納得したように、困ったような、それでいてどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。「……なるほど。俺が真っ先にお前を助けなかったことを怒ってるのか?」理央

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status