LOGIN「不誠実で素行不良、おまけに顔も中身も醜悪な男と長期間一緒にいることは、君の治療にとって逆効果でしかありません。ですから僕としての提案は一つ──今すぐ別れることです」 雨宮理央(あまみや りお)は、重度の『感情欠落症』を患っていた。 彼女はその治療の一環として、社交界でも有名な美貌の御曹司、西園寺恭弥(さいおんじ きょうや)との交際を選び、婚約まで交わしていたのだ。 だが最近になって、彼が離婚して帰国したばかりの「忘れられない初恋の相手」と復縁し、裏でコソコソと愛を育んでいる事実が発覚する。 どう処理すべきか、理央は担当の精神科医に淡々と相談を持ちかけた。 その助言通り、彼女が恭弥に婚約破棄を申し出ると、彼は鼻で笑ってこう言い放つ。 「理央、いい加減にしろよ?これ以上わがままを言うなら、俺にも考えがある。本当にお前のこと、捨てるぞ」 ところが──理央が別の男性と婚約したという噂が界隈を駆け巡ると、恭弥はついに焦りだした。土砂降りの雨の中、彼は充血し血走った目でその場に跪き、必死に許しを乞う。 「理央……っ、俺が悪かった、俺がクズだったんだ!頼む、なぁ、もう一度だけチャンスをくれないか」 その時だ。指ハッチン一つで財界を震撼させると噂される「影の支配者」が、突然その場に現れたかと思うと、大きな手で理央を抱きすくめ、独占欲を露わにした。しかしその声は、先ほどの威圧感とは裏腹に、まるで飼い主になつく大型犬のように甘ったるい。 「ねえ、あんなブサイクな男は見ないで?僕だけを見てよ。約束する……今夜は君が『やめて』って言ったらちゃんと止まるから。それとも、先に僕を縛っておく?何だって君の言う通りにするよ、ね」 その姿を見て、恭弥は驚愕のあまり目玉が飛び出しそうになった。 ……こ、こいつは。あの時「そんな男とは別れるべきだ」と、もっともらしい顔でカウンセリングしていたあの精神科医じゃないか!?
View More「どうした?まだ怒ってるのか?」恭弥も認める。確かにさっき、理央を大人しく車に乗せるため、いささか強引な手段を使ったことは否定しない。だが、彼女の傷は明らかに完治していないのだ。そんな状態で一人野放しになんてできるわけがないだろう? 万が一のことがあったらどうする?この七日間、不眠不休で彼女を探し回ったにもかかわらず、手掛かり一つ掴めなかったのだ。今日こうして偶然街で見かけなければ、あと七日探したって見つかったかどうか怪しいものだ。西園寺家といえば帝都でも一、二を争う権勢を誇る。その俺が探して見つからないなんて。病院でもそうだ。VIPフロアの監視カメラだけが不自然に故障しており、理央がどうやって脱出したのか、目撃者は一人もいなかった。もちろん調査員を使って徹底的に調べさせたが、結果はシロ。何一つ出てこなかった。あまりにも不気味だ。得体の知れない不安が、じわりと胸に広がる。「理央、お前この数日間、一体どこにいたんだ?あの晩、どうやって病院を抜け出した?」しかし、理央は頑なに口を閉ざしたままだ。無理もない。自分を十六階から飛び降りる寸前まで追い込んだ加害者の尋問に、素直に応じる人間などいないだろう。今の彼女は抵抗する気力がないだけで、決して服従しているわけではないのだ。恐らく、俺が彼女を置いて沙織の看病に行ったことが、よほど腹に据えかねているのだろう。嫉妬深い女だ。恭弥はそう結論づけた。もっとも、それは裏を返せば、理央がそれだけ俺を愛しているという証左でもある。まあ、今回の件に関しては俺にも多少の非はある。 家に帰ったら、たっぷり埋め合わせをしてやろう。しかし、別荘に足を踏み入れた瞬間、その目論見は脆くも崩れ去った。そこには、パジャマにルームシューズという出立ちで、さもこの家の女主人ですと言わんばかりに振る舞う沙織の姿があったからだ。あまつさえ、彼女が着ているそのパジャマは、恭弥のものだった。使用人たちの視線が、一斉に三人に突き刺さる。彼らは今、正妻が愛人を引き裂く修羅場か、はたまた愛人が正妻を圧倒する下克上のドラマを、固唾を飲んで待ち構えているのだ。だが、感情欠落症である理央にとって、そんな野次馬たちの視線など今さら何の意味も持たず、痛くも痒くもない。一方、気まずさを隠せない恭弥は
「決まってるだろ、お前を守るためだよ!」こんなこと、言われるまでもなく明白な理屈だろう?それなのに、理央は感謝するどころか、なぜこうも執拗に沙織を敵視するんだ?そもそも、今回の件で傷ついたのはあいつだけじゃない。沙織だって酷いショックを受けているんだ。毎晩悪夢にうなされては泣いて俺を叩き起こし、俺の腕の中でしか眠れないほど怯えきっているというのに。なぜ理央は、自分だけが被害者だと主張して譲らないんだ?精神的なトラウマは「傷」のうちに入らないとでも言うつもりか?あいつはいつから、こんなに冷酷で融通の利かない女に成り下がってしまったんだ?以前の理央なら、誰よりも思慮深くて、人の痛みが分かる優しい女だったはずなのに。恭弥は、少し考えてみた。そういえば、沙織が帰国してからだ。理央がことあるごとに突っかかってくるようになったのは。以前のような従順さや愛らしさはすっかり影を潜めてしまった。そう思うと、恭弥はやれやれと溜息をついた。「分かったよ。嫉妬も大概にしとけ。今回の件は水に流してやるから、さっさと帰るぞ」「離して……っ」雨に打たれたせいか、ふくらはぎの傷がズキズキと疼きだした。激痛によろめき、理央はその場に崩れ落ちそうになる。間一髪、恭弥が素早く彼女の体を抱き支えた。その様子を、道路の向かい側に停まっていた黒のメルセデス・ベンツから、静かに見つめる視線があった。窓ガラスがゆっくりと下がり、コンビニの軒下で抱き合う二人の姿が、崇人の瞳に寸分違わず映り込む。降りしきる雨の雫に共鳴するように、長く濃密な睫毛が、微かに、本当に微かに震えた。反対側の窓から、旭も首を伸ばして外を覗いた。「おいおい……お前が土砂降りの中、血相変えて飛び出していくから何事かと思えば、お迎えだったわけか。にしても、雨宮さんはあの西園寺恭弥と別れたんじゃなかったのか?まさか復縁したのか?まあ、感情欠落症とはいえ、付き合いは長かったからな。そう簡単に未練は断ち切れないのかもな。西園寺がその気になりゃ、焼け木杭に火がつくことだってあるだろうし。惜しかったな。タッチの差で、美女は他のヒーローにさらわれちまった」「誰が迎えに来たなんて言った?」旭は眉をひそめ、全身の中で口だけが異常に強情な親友をまじまじと見つめた。「迎えじゃないなら、
理央は、幽霊のようにあてもなく街を彷徨った。脳裏で一本の糸がピンと張り詰めているような感覚がある。緩めたいのに、意思とは裏腹にその緊張感は消えてくれない。崇人が三代目の主治医になって以来、こんな不快な感覚に襲われるのは久しぶりだった。誰かに操られ、引っ張られているような感覚。けれど、その糸の端を握っているのが誰なのか、見当もつかない。崇人のことは、信頼に足る人物だと思っていた。だが、それはあの会話を聞くまでの話だ。今となっては、彼との間に築いた信頼関係のすべてを、根底から疑い、精査し直さなければならないだろう。いつの間にか、空の色が重く沈んでいた。降り出しそうだ。そう思った途端、前触れもなく大粒の雨が激しく地面を叩き始めた。理央は逃げ込むように、近くのコンビニの軒下に身を寄せた。そこへ、一台の車がゆっくりと近づいてきて路肩に停まった。アプリで呼んだ配車サービスの車かと思い顔を上げた理央の目に飛び込んできたのは、真っ赤なランボルギーニから降り立つ恭弥の姿だった。「どこ行ってたんだ!病院で大人しくしてろって言っただろ!?お前ってやつは、いっつもそうやって人に迷惑ばっかかけて……俺がどれだけ探したと思ってるんだ!帝都中ひっくり返す勢いで走り回ったんだぞ!」矢継ぎ早に浴びせられる質問攻めに、理央は頭痛を覚えた。彼女は冷ややかな目を恭弥に向ける。社交界きってのプレイボーイとして名高い御曹司が、今は見る影もない。半身はずぶ濡れで、高級シャツの襟はよれよれ。いつも完璧にセットされている髪は鳥の巣のように乱れ、目の下にはくっきりと隈が浮かんでいる。普段なら運転手付きの送迎車で移動する彼が、運転席から降りてきた。どうやら、本当に自分の運転で帝都中を探し回っていたらしい。だが、それが何だと言うのだ?「あんた、頭おかしいんじゃない?」理央は吐き捨てるように言った。「なんだと……」「病気なら医者に行きなさいよ。私に何の用?まさか、あんたも私にスマホを叩き壊されて、病室に監禁されたいの?」理央は心底うんざりしていた。ようやく熱が下がったばかりだというのに、次から次へと他人の罠や思惑に振り回されている。そもそも、私をあの十六階から飛び降りる寸前まで追い込んだ張本人が、どの面下げて被害者ぶって説教
「……私、用事があるから」理央はほとんど逃げるように立ち上がろうとしたが、高熱が引いたばかりの体は思うように言うことを聞かない。膝が笑い、その拍子にバランスを崩しかける。だが幸いにも、崇人の手はしっかりと彼女の背中を支え続けていた。物音を聞きつけた看護師がドアを開けた瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、理央が崇人の腕の中に崩れ落ちる決定的瞬間だった。崇人の手は、理央の最も敏感な腰のくびれを捉えており、そこから甘く低い吐息が漏れ聞こえる。これ以上見たら別料金が発生しそうな、そんな錯覚に陥る光景だ。「わ、私、何も見てませんからっ!」看護師は瞬時に空気を読み、バタンとドアを閉めると、通りかかった同僚を捕まえて興奮気味にまくし立てた。「ねえ聞いて!中ですごいもの見ちゃった!瀬名先生が、あの美人の患者さんをベッドに押し倒してたの!」「嘘でしょ? 衆人環視の白昼堂々、まさに野獣ね!服は脱いでた?」「まだだけど、秒で脱がしそうな勢いだったわ!我慢の限界って感じで!」「えっ?秒?そんなに動きが早いの?聞かせなさいよ詳細!」勢いよく閉めすぎたせいだろう、ドアが反動で少しだけ開き、外のあけすけな会話が丸聞こえになってしまった。理央は、彼に触れられている腰と、自分の顔のどちらが熱いのか判断がつかなくなった。崇人の喉仏が、ごくりと上下する。目の前の、恥じらって紅潮した理央の顔があまりに魅力的すぎたせいだろうか。彼の理性が「礼儀正しい距離を取れ」と命じているにもかかわらず、身体は初めてその命令に逆らい、すぐに離れようとしなかった。「彼女たち、口にチャックができないタチでね。気にしないで」「……ええ、もちろん」理央は目元をひきつらせながら適当に相槌を打ち、悟られないように少しずつ身体を後ろへ引こうとする。「それに、僕はそんなに早くないよ」「うん……え、何が?」崇人は楽しげに片眉を跳ね上げた。「もちろん、君が『早い』のがお望みなら合わせるけどね」理央は「今の言葉の意味なんて理解不能」とばかりに思考を放棄し、荷物をまとめると脱兎のごとくクリニックを後にした。車に乗り込んでもなお、胸の鼓動は早鐘を打ったまま静まる気配がなかった。タクシーの運転手は、車を出す前にルームミラーをちらりと覗き込んだ。「玄関に立っ