今更ですが社長、婚約者は逃げました

今更ですが社長、婚約者は逃げました

By:  スイカなんて食べてないUpdated just now
Language: Japanese
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「不誠実で素行不良、おまけに顔も中身も醜悪な男と長期間一緒にいることは、君の治療にとって逆効果でしかありません。ですから僕としての提案は一つ──今すぐ別れることです」 雨宮理央(あまみや りお)は、重度の『感情欠落症』を患っていた。 彼女はその治療の一環として、社交界でも有名な美貌の御曹司、西園寺恭弥(さいおんじ きょうや)との交際を選び、婚約まで交わしていたのだ。 だが最近になって、彼が離婚して帰国したばかりの「忘れられない初恋の相手」と復縁し、裏でコソコソと愛を育んでいる事実が発覚する。 どう処理すべきか、理央は担当の精神科医に淡々と相談を持ちかけた。 その助言通り、彼女が恭弥に婚約破棄を申し出ると、彼は鼻で笑ってこう言い放つ。 「理央、いい加減にしろよ?これ以上わがままを言うなら、俺にも考えがある。本当にお前のこと、捨てるぞ」 ところが──理央が別の男性と婚約したという噂が界隈を駆け巡ると、恭弥はついに焦りだした。土砂降りの雨の中、彼は充血し血走った目でその場に跪き、必死に許しを乞う。 「理央……っ、俺が悪かった、俺がクズだったんだ!頼む、なぁ、もう一度だけチャンスをくれないか」 その時だ。指ハッチン一つで財界を震撼させると噂される「影の支配者」が、突然その場に現れたかと思うと、大きな手で理央を抱きすくめ、独占欲を露わにした。しかしその声は、先ほどの威圧感とは裏腹に、まるで飼い主になつく大型犬のように甘ったるい。 「ねえ、あんなブサイクな男は見ないで?僕だけを見てよ。約束する……今夜は君が『やめて』って言ったらちゃんと止まるから。それとも、先に僕を縛っておく?何だって君の言う通りにするよ、ね」 その姿を見て、恭弥は驚愕のあまり目玉が飛び出しそうになった。 ……こ、こいつは。あの時「そんな男とは別れるべきだ」と、もっともらしい顔でカウンセリングしていたあの精神科医じゃないか!?

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Chapter 1

第1話

「君を愛してもいない人間と長く生活を共にするのは、かえって治療の妨げになります」

雨宮理央(あまみや りお)は幼い頃から、重度の『感情欠落症』を患っている。

そして目の前に座る男は、彼女にとって三人目となる主治医だった。

「では、先生のご提案は」

「僕としての提案は一つ──別れることです」

簡潔明瞭な答えだ。

認めざるを得ない。瀬名崇人(せな たかひと)はこの業界でも指折りの精神科医である。

まだ若いというのに、その経歴はあまりに華々しい。

十八歳でM国名門大学の博士課程を修了。あの権威あるウィルソン教授に師事し、わずか二年で『Nature』や『NEJM』といったトップジャーナルに二十本以上もの論文を発表している。

帰国後の予約倍率は、天文学的な数字だと言われていた。

だが、何より重要なのはそのルックスだ。

どう形容すればいいだろうか。たとえ毒リンゴを口元に突きつけられたとしても、彼の手によるものなら喜んで飲み込んでしまえる――そんな魔性の美貌である。

特にカウンセリングの最中がいい。白くしなやかな指先が眼鏡のブリッジを軽く押し上げる仕草。金縁のレンズの奥、琥珀色の瞳が患者をじっと見据えるその眼差し。

一言で表すなら『有能』。

もう少し付け加えるなら『極めて有能』だ。

理央はプロに徹する人間が好きだ。だからこそ、自身の病の治療を崇人に託すと決めたのだけれど──

「……」

さすがに即答はためらわれた。

ここ最近のことを思い出してみる。婚約者の西園寺恭弥(さいおんじ きょうや)は、もう数日家に帰ってきていない。食事中もスマホの画面を見ては、締まりのない顔でニヤついて上の空だ。

彼のシャツからは、理央の趣味ではない香水の匂いが漂い、襟元には見覚えのない色のルージュが付着していたこともあった。助手席に女性物のスカーフが落ちていたことだってある。

……あるいは、これが『健常者』にとっての、ごく普通の人付き合いというものなのかもしれない。

もっとも、理央はまともな人間ではない。

実の母親にさえ、顔を合わせるたび「あんたは病気だ」と罵られる身だ。だからこそ、その『普通』が理解できなくとも、無理はない話だろう。

崇人は、まるで子供をあやすような穏やかな眼差しを理央に向けている。

「理央さん、君がいま『名残惜しい』という感情を抱いたこと、それは治療において非常に良い兆候です。ですが、医師として明言させてください。西園寺さんの行動は決して正常ではありません」

「西園寺さん、ではありません」

コツ、と。人差し指がテーブルを軽く叩き、乾いた音を立てる。

それは理央が不満を感じているサインだ。すでに婚約を済ませたのだから、呼称は正しく改めるべきである。それがルールというものだ。

「失礼しました。……『婚約者様』ですね」

崇人は流れるように訂正したが、その眼鏡の奥にある瞳には、微塵も謝罪の色など浮かんでいなかった。

「ですが、この件に関しては……」

最後まで聞くことなく、理央は手元の腕時計に視線を落とす。

そろそろ戻って夕食の支度をしなければならない時間だ。

精神科に通っていることは、誰にも秘密にしていた。

だから、買い物袋を提げて足早に帰宅した理央を見て、家政婦の松島は単にショッピングに行っていたのだと勘違いをしたようだ。

「お帰りが間に合いそうになければ、仰っていただければ私が支度いたしましたのに」

「いいえ、そういうわけにはいかないの。恭弥は胃が弱いから、他人の味付けだと食が進まないでしょう?」

言い終わる頃には、理央はすでにルームウェアに着替え、エプロンの紐を結び終えていた。

「まあ……!本当にお優しすぎますわ」

松島は嬉しそうに目を細める。

周囲の人間は皆、同じことを口にした。

恭弥が理央を口説き落とすのに費やした期間は二年。交際が確定したあの日、彼は3899機ものドローンを夜空に飛ばし、理央の名前を一晩中輝かせるという派手な演出をして見せた。

恭弥と付き合い始めてからというもの、理央はそれまで務めていた企業の執行役員を辞任し、一転して家庭に入った。料理を一から学び、彼のために洗濯をし、衣食住のすべてを完璧にサポートする日々。

かつてビジネスの世界で『鉄の女』と恐れられた彼女が、一人の男のためにエプロンをつけ、まるで牙を抜かれた猫のように従順になるとは──誰も予想だにしなかったことだ。

誰もが皆、彼女は恭弥にこれ以上なく愛され、骨抜きにされたのだと信じて疑わなかった。

彼女が恭弥を利用して、己の『病気』を治療していることなど──本人と精神科医以外、知る由もない。

松島に頼んで恭弥の会社へ弁当を届けさせた直後のことだ。来客があった。

現れたのは、百貨店の外商マネージャーだった。

マネージャーは、真紅のアイリスを象った精巧なブローチが入った箱を恭しげに差し出し、媚びるような笑みを理央に向けた。

「先日、西園寺様よりご注文いただいた品でございます。本日入荷いたしましたので、真っ先にお届けにあがりました」

理央はその輝きを淡い視線で一瞥すると、短く告げた。

「捨てておいて」

それだけ言い残し、マネージャーが呆気にとられている目の前で扉を閉ざす。

あの『真紅のアイリス』のブローチ。それは、恭弥の車の助手席で見つけたスカーフと同じ、限定コレクションのセットだ。

だが、あれは理央のものではない。

なぜなら先月、恭弥から全く同じものをプレゼントされたばかりだったからだ。

手を洗い終えた理央は、バッグを手に取ると恭弥の会社──『シンエツ・テクノロジー』へと向かった。

身に纏っているのは、いつもの「上流階級の清純可憐な婚約者」に相応しい清楚なワンピース。黒の滝のような長い髪は、耳の後ろに大人しく撫で付けられている。

全身で唯一、その装いにそぐわないものがあるとすれば──たとえ砂利の中に放り込まれても輝きを失わないであろう華やかな美貌と、意識して媚びた表情を作らなければ、恐ろしいほどに冷淡な光を宿す双眸くらいだろうか。

婚約する以前、理央はシンエツが高額報酬でヘッドハンティングした執行役員だった。しかし恭弥と結ばれて以来、会社に顔を出すことは滅多になくなっていた。

だからこそ、不意に現れた理央の姿を目にした男性アシスタントは、まるで白昼に幽霊でも見たかのように、その場で三メートルほど飛び上がりそうな勢いで仰天したのだ。

理央はすかさず彼に詰め寄り、その口を掌で塞いだ。

「声を出さないで。……言わなくても、自分がどうなるか分かってるわよね」

理央がまだ現場のトップだった頃のことだ。彼女は就任からわずか半年で、社内のコネ入社組を冷徹な手腕で一掃し、面目のためだけに使われていた巨額の広告費を全カット。サプライチェーンの川上から川下まで、すべて彼女の手で刷新された。

その期間、社員たちは昼夜を問わず残業に追われたものだ。不満を抱いた者たちが徒党を組んで社長室へ抗議に乗り込んだこともあったが、ものの五分もしないうちに全員が項垂れて部屋を出てきて、大人しく業務に戻っていった。

あの半年間は、まさに地獄のような日々だったと言えるだろう。

だが、年末のボーナス支給日を迎えた途端、「鬼の雨宮」と陰口を叩く者はいなくなった。

かつての不満分子たちは再び徒党を組んで社長室へと押しかけた──ただし今度は、謝罪のために。

「自分たちは愚かだった、どうか寛大な心で許してほしい」と懇願しに来たのだ。

結局のところ、今の世の中、社畜が残業するのはどこも同じだ。

だが、労働基準法通りに一銭の狂いもなく割増賃金を支払い、さらに約束の五倍ものボーナスを支給する経営者がどこにいるだろうか?

しかし、そんな彼らに対し、理央は視線すら上げずに退出を命じただけだった。

「勤務時間中です。個人的な感情を持ち込まないでちょうだい」

それ以来、理央の『鉄の女』としての地位は不動のものとなり、会社の業績も右肩上がりに成長した。

社員たちは彼女に対し、畏敬と恐怖の入り混じった念を抱き続けている──それは、今も変わらない。

身長180センチを超える大男のアシスタントは、涙目で激しく首を縦に振った。そして理央の命じられるまま、上がってくるエレベーターをすべて停止させる操作に走ったのだった。

社長室の扉をわずかに開き、隙間から中を窺う。──案の定、招かれざる客がいた。

見覚えのある顔だ。彼女の名は白石沙織(しらいし さおり)。聞くところによれば恭弥とは幼馴染の関係で、数年前に突然絵画を学ぶと言い出して海外へ渡り、現地で外国人と結婚・離婚を経て帰国したらしい。いつの間に戻ってきていたのやら。

今まさに、沙織は松島が届けたばかりの弁当箱を手に取り、甘ったるい声を上げていた。「ねえ恭弥、私、朝から何も食べてなくてお腹ペコペコなの。これ、もらってもいい?」

理央は恭弥の身の回りの世話を自ら引き受けているが、その代わり彼にはこう言い含めてある。「私の好意を無駄にするような真似は絶対にしないでほしい」と。

経営者としての信義則に照らし合わせれば、恭弥ほどの男ならその程度の約束は守るはずだ──そう踏んでいたのだが。

隙間から見える恭弥は、困ったような、それでいて甘やかすような眼差しを沙織に向けただけ。それは無言の肯定だった。

途端に、理央の顔色が曇る。

傍らで様子を伺っていたアシスタントは、あまりの恐ろしさに膝をガクガクと震わせていた。

「……ここ数日、ずっとこの調子?」

理央が声を潜めて尋ねる。

アシスタントは目を限界まで見開き、下唇を噛みちぎらんばかりに食いしばって、顎を小刻みに震わせるばかり。一言も発する勇気がないようだ。

だが、理央は何かに納得したように頷いた。

「なるほど。そういうことね」

いや『なるほど』って何ですか!俺、口すら開いてないんですけど!?

アシスタントは内心で絶叫したが、その時、室内から『ガシャーン!』と派手な音が響いてきた。

再び中を覗き込む。沙織が『うっかり』落とした弁当箱が床に転がり、汁気が絨毯にぶちまけられている。理央が手ずから作った蒸し菓子は、無残にもハイヒールの踵で踏み潰され、見る影もない。

「ごめんなさい……今日のスープ、こんなに熱いとは思わなくて」元凶である沙織が、大して赤くもなっていない指先を押さえ、今にも泣き出しそうな顔を作る。

床に散乱した料理の残骸を見つめ、恭弥の瞳に複雑な色が走った。だが結局、彼は真っ先に沙織の手を取り、怪我がないかを確認することを選んだのだ。

「大丈夫か?火傷はしてないか」

二人の顔が、触れ合うほどの距離に近づく。

不意に沙織が顔を上げ、どこか挑発的な表情で自らの唇を舌先で湿らせた。

シャネルの438番。

恭弥のシャツの襟元に付着していたのと、全く同じ色のルージュだ。

「ここにも飛んじゃったみたい。……すごく痛いの」

──確かに、痛々しいまでの小芝居だこと。

理央は冷ややかな目で一部始終を観察していたが、恭弥が拒む素振りを見せることは一度もなかった。

もっとも、自分の婚約者が他の女と口づけを交わす瞬間を見届けるような悪趣味な性癖は持ち合わせていない。唇が重なる寸前を見計らい、理央は静かに扉を閉じた。

廊下の隅に縮こまっているアシスタントは、もはや涙目だ。理央は出来の悪い子供を見るような目で溜息をつくと、その頭をポンポンと優しく撫でてやった。

「もういい大人なんだから。泣くならもっと声を殺して泣きなさい」

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第1話
「君を愛してもいない人間と長く生活を共にするのは、かえって治療の妨げになります」雨宮理央(あまみや りお)は幼い頃から、重度の『感情欠落症』を患っている。そして目の前に座る男は、彼女にとって三人目となる主治医だった。「では、先生のご提案は」「僕としての提案は一つ──別れることです」簡潔明瞭な答えだ。認めざるを得ない。瀬名崇人(せな たかひと)はこの業界でも指折りの精神科医である。まだ若いというのに、その経歴はあまりに華々しい。十八歳でM国名門大学の博士課程を修了。あの権威あるウィルソン教授に師事し、わずか二年で『Nature』や『NEJM』といったトップジャーナルに二十本以上もの論文を発表している。帰国後の予約倍率は、天文学的な数字だと言われていた。だが、何より重要なのはそのルックスだ。どう形容すればいいだろうか。たとえ毒リンゴを口元に突きつけられたとしても、彼の手によるものなら喜んで飲み込んでしまえる――そんな魔性の美貌である。特にカウンセリングの最中がいい。白くしなやかな指先が眼鏡のブリッジを軽く押し上げる仕草。金縁のレンズの奥、琥珀色の瞳が患者をじっと見据えるその眼差し。一言で表すなら『有能』。もう少し付け加えるなら『極めて有能』だ。理央はプロに徹する人間が好きだ。だからこそ、自身の病の治療を崇人に託すと決めたのだけれど──「……」さすがに即答はためらわれた。ここ最近のことを思い出してみる。婚約者の西園寺恭弥(さいおんじ きょうや)は、もう数日家に帰ってきていない。食事中もスマホの画面を見ては、締まりのない顔でニヤついて上の空だ。彼のシャツからは、理央の趣味ではない香水の匂いが漂い、襟元には見覚えのない色のルージュが付着していたこともあった。助手席に女性物のスカーフが落ちていたことだってある。……あるいは、これが『健常者』にとっての、ごく普通の人付き合いというものなのかもしれない。もっとも、理央はまともな人間ではない。実の母親にさえ、顔を合わせるたび「あんたは病気だ」と罵られる身だ。だからこそ、その『普通』が理解できなくとも、無理はない話だろう。崇人は、まるで子供をあやすような穏やかな眼差しを理央に向けている。「理央さん、君がいま『名残惜しい』という感情を抱いたこと
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第2話
理央は再び崇人のもとを訪れた。彼の見立てが正しかったことを認め、通常の二倍の診察料を支払うとともに、深々と頭を下げる。「先生、私の認識が甘かったです。先生の専門的な見識と判断を疑うべきではありませんでした」「……だから言ったじゃないですか」崇人は、差し出された封筒をそのまま押し戻した。「僕は君の主治医であると同時に、最も信頼できる友人でありたいと思っています。友人としての助言に、追加料金なんて必要ありませんよ」──おかしいな。理央が耳にした噂では、彼は勤務時間外であればLINEを一通返すだけで一日分の診察料を請求するほどの守銭奴……もとい、厳格なビジネスライクの権化だという話だった。もし彼が天才的な精神科医であり、かつ並外れて……その、『有能な』美貌を持っていなければ、いくら富裕層といえど、わざわざ彼に金を貢ごうなどという奇特な人間はいないはずだ。だが、どうやら噂は間違いだったらしい。崇人は有能なだけでなく、驚くほど人情に厚い人物のようだ。「とにかく、西園寺さんの行いはあまりに悪質です。僕としては、早急に別れるべきだと判断します」また『西園寺さん』だ。理央はこれまで何度も、婚約者である恭弥を他人行儀に呼ばないよう訂正してきたはずだが、崇人は一向に覚えようとしない。評価項目に一つ付け加える必要がありそうだ。『記憶力:並』、と。「……少し、急ぎすぎではありませんか?」現状を見る限り、理央には寝取られ趣味などという特殊な性癖はないため、婚約破棄は避けられない決定事項だ。しかし、物事には順序というものがある。まずは恭弥と穏便に話し合いの場を持ち、しかるべき手続きを踏んで解消するのが筋だろう。愛は消えても、ビジネスは残る。何と言っても、理央はかつてシンエツの執行役員だった身だ。この業界は広いようで狭い。無用に泥仕合を演じて遺恨を残すメリットは何もないのだから。だが、崇人はいつになく真剣な眼差しで、専門家としての威厳を全面に押し出してきた。「もし……君が主治医である僕を信頼してくださるなら。感情のもつれというものは、断ち切るときは一思いに、誰よりも迅速に処理すべきです」本来、プロの精神科医とは選択肢を提示する存在であり、最終決定は患者の意志に委ねるものだ。これほど強引に解決策を決定づけようとすること
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第3話
場が、一瞬にして凍りついた。広々とした個室は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂に包まれる。その場にいる全員の視線が、入り口に佇む理央へと突き刺さった。恭弥は一瞬、何が起きたのか理解できずに呆気にとられたが、反射的に座席から立ち上がろうとした。その時だ。「ガシャン」乾いた音が響く。誰かが慌てて酒瓶を倒したらしい。その音に怯えたふりをして、沙織が震えながら恭弥の背中へと身を隠した。「恭弥さん……雨宮さん、すごく怖い顔してる……怒ってるのかな?でも、どうしてここが分かったの?まさか、こっそり後をつけて……」恭弥は本来、理央になんとか言い訳をするつもりだったのだ。今日は沙織の誕生日で、悪友たちが酒の勢いで軽口を叩いてしまっただけだ、気にするな、と。そして、今の会話をどこまで聞かれていたのか探りを入れようとしていた。 だが、沙織の怯えた声と言葉を聞いた瞬間、その思考はすべて低い唸りをあげるような怒りへと変わった。「……お前、俺をつけ回してたのか?」沙織はとっさに恭弥の背中へとしがみつくように隠れる。怯えているように見せかけながら、その瞳だけは勝ち誇ったように理央を見据え、はっきりと挑発の色を浮かべていた。もともと野次馬根性で事の成り行きを楽しんでいた取り巻き連中は、理央の態度を見るや否や、不満を露わにし始めた。「おいおい、まだ恭弥と結婚したわけでもないのに、束縛がキツすぎじゃねえか?」「まったくだ。今どきストーカーまがいの尾行かよ?品がないねえ」彼らは皆、名家に生まれ、銀の匙をくわえて育ってきた御曹司たちだ。普段から親や親族に、庶民出身でありながら実力でのし上がった『鉄の女』——理央を引き合いに出され、耳にタコができるほど説教されていた。「いつまでも道楽息子やってないで、少しは雨宮を見習って経営を学べ。お前らの代で家を潰す気かと」だからといって、彼らが理央を対等な存在として認めているわけではない。むしろ、コンプレックスからくる反発心は強まるばかりだった。彼らにとって、理央などいくら優秀でも所詮は「高級な使用人」に過ぎない。たまたま恭弥という太い客を捕まえて、表面上は『将来の奥様』の座に収まっているだけで、本来自分たちのようなオーナー側の人間に指図できる立場ではないのだ。そんな険悪な空気の中、沙織がおもむろに
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第4話
マンションの部屋に戻り、シャワーを浴びてさっぱりしたところで、理央はスマホの画面に新しい通知が幾つか来ていることに気付いた。崇人からは、ラインガウ産のリースリング・ワインの写真が届いていた。下には一言、「引っ越し祝い」と添えられている。だが、理央の目線は自然と、写真の隅に写り込んだ手首へと注がれた。大人の男らしい力強さと、しなやかさを兼ね備えた手首。よく見ると、手首と手のひらの境目に小さな黒子がある。その輪郭は微かに熱を帯びたように上気していて、いつも冷静沈着な崇人の表情とはどうしても結びつかない色気が滲んでいた。視線を戻すと、その下には恭弥からの不在着信があった。呼び出し時間は五十九秒。婚約してからというもの、こんなことは一度もなかった。恭弥からの電話であれば、理央は必ず十秒以内で出るようにしていたからだ。彼の悪友たちは、かつて幾度となくそのことを揶揄していたものだ。「理央のあの惚れ込みようを見ろよ。棺桶に入っていても、恭弥からの電話ならゾンビみたいに蘇って出るんじゃねえか?」けれど今回ばかりは、恭弥の期待通りにはいかなかったようだ。着信から十分後、苛立ちを隠せない様子のメッセージが届いていた。【沙織が怖がってるから、ここ数日は俺がついててやることにした。お前は家で頭冷やせ。よく反省してから、沙織に謝りに来い】この文章を打ち込んでいる時の、自信満々でありながらも歯ぎしりしていそうな恭弥の顔が目に浮かぶようだ。……馬鹿げてる。理央は迷うことなくトーク履歴を削除し、ついでに恭弥をブロックリストへ放り込むと、メーラーを開いた。予想通り、彼女の復帰を嗅ぎつけた多くのヘッドハンターやかつての取引先から、オファーのメールが届いていた。金を稼ぐ能力があり、かつ部下を厳しく統率できるプロの経営者を嫌がるオーナーなどいない。だが、彼女はすぐには返信しなかった。ビジネスの現場から長く離れていたため、まずは今の情勢を見極めてから慎重に決めるべきだと判断したのだ。ちょうど二日後、春季ビジネス交流会が開催されることになっていた。あくまで様子見が目的だったため、理央はそれほど気張った格好はせず、動きやすさを重視したスモーキーグレーのリネンセットアップを選んだ。艶やかな黒髪は無造作にアップにし、陶器のように美しい素
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第5話
シャンパンタワーは優に二メートルはある。沙織が衝突した瞬間、おびただしい数のグラスが凄まじい轟音と共に崩れ落ちた。まるで凶暴なガラスの津波が、真下にいる人間を飲み込もうとするかのようだ。「恭弥さん、助けて!」沙織が悲鳴を上げる。理央もまた、生存本能に突き動かされ、一番近くにいた恭弥へと必死に手を伸ばした。――ただ、手を引いてくれるだけでいい。そう願った瞬間、確かに彼の手がこちらへ伸びてくるのが見えた。 だが次の瞬間、その手は無情にも理央をすり抜け、背後にいた沙織を抱き寄せたのだ。意識を取り戻した時、理央は病院のベッドの上にいた。鼻をつく消毒液の臭いに、強烈な吐き気が込み上げる。父があの交通事故で亡くなった時、ホルマリンの臭いが充満する霊安室から、白い布に覆われた遺体が運び出されるのを目の当たりにして以来、彼女はこの臭いにトラウマを抱えていた。病院に一人でいることなど、到底耐えられない。 だから普段、どんなに体調が悪くても、自力で治すようにしてきたのだ。幸いなことに、母がよく口にしていた『憎まれっ子世に憚る』という言葉通り、彼女は滅多に病気をしなかったのだが。モニターが規則的な電子音を刻んでいる。理央は衝動的にシーツを跳ね除け、起き上がろうとした。「何してるんだ!」入り口から駆け込んできた恭弥が、強引に彼女をベッドへと押し戻す。その端正な顔は、まだ恐怖が抜け切らないように強張っていた「自分の怪我の状態がわかってるのか?破片があと数ミリずれてたら、失明してたんだぞ!」無理やり起き上がろうとしたせいで、理央は自分の身体がどれほどのダメージを負っているか嫌というほど痛感していた。病室から歩いて出る力さえ残っていないのだ。そこへ追い討ちをかけるような恭弥の咎めるような口調。理央の腹の底から、抑えきれない怒りが沸き上がった。「西園寺恭弥……あなた、頭おかしいんじゃないの!?」理央という人間は、常に精神が強固で安定している女だ――というのが、周囲の共通認識だった。これほどまでに感情を露わにし、取り乱す姿など記憶にない。恭弥は一瞬呆気にとられたが、すぐに何か納得したように、困ったような、それでいてどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。「……なるほど。俺が真っ先にお前を助けなかったことを怒ってるのか?」理央
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第6話
理央は、夢を見ていた。そこは、どこまでも昏く、淀んだ空気が満ちる地下室だった。じっとりとした冷気が肌にまとわりつく。幼い理央は閉じ込められ、小さな体で懸命に鉄の扉に体当たりしていた。「出して……ううっ……お母さん、ひとりにしないで……!」廊下からヒールの足音が響き、次の瞬間、鉄の扉が外側から乱暴に蹴り飛ばされた。ガンッ、と耳をつんざく音が地下室に反響する。「この疫病神!よくもまあ、いけしゃあしゃあと泣けるわね?あんたが誕生日なんか祝いたがるから……あの人は、こんな夜更けにトラックを出して帰ってこなきゃならなかったのよ!」「ああ、いい気味だわ。お父さんは死んだの。あたしたち親子は、明日から野垂れ死によ!」「誕生日なんでしょう?ケーキを買ってきて欲しかったんでしょう?お父さんなら中にいるわよ。ほら、これで満足でしょう!」扉の向こうからの罵声が、唐突に途切れた。代わって嗅覚を襲ったのは、消毒液とホルマリンが入り混じった強烈な刺激臭だ。それは見えない手となって鼻腔へとなだれ込み、理央の喉を締め上げにかかる。「違う、違うの!お父さんは私が殺したんじゃない!違……っ!」小さな手で鉄の扉を何度も搔きむしる。爪が剥がれ、無数の血の跡が鉄板に刻まれていく。「出して、お願いだから!ここから出して!」けれど、扉は無慈悲なほど固く閉ざされたままだ。鼻をつく臭気は、ますますその濃度を増していく。理央は息を詰め、恐る恐る振り返った。そこには、トラックに轢かれ、原形をとどめぬ肉塊と化した父の姿があった。ドクンッ。心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走る。「はっ……!」理央は弾かれたように目を開けた。視界に飛び込んできたのは、眩しいほどの白色灯と、クリーム色の柔らかな壁。書棚には『精神分析的診断』や『バーンズの感情療法』といった専門書が整然と並んでいる。ここは……「目が覚めた?」穏やかな声と共に、崇人が白湯の入ったコップを差し出した。「私……」口を開いた瞬間、理央は自分の声が酷く枯れていることに気づいた。まるで鋭利な刃物で喉の奥を抉られたような、ひりつく痛みが走る。「高熱が三日続いて、七日間昏睡状態だったんだ。やっと熱が下がったところだよ。傷口が化膿して、炎症を起こしていたせいだろうね」崇人が淡々と説明する。理
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第7話
「……私、用事があるから」理央はほとんど逃げるように立ち上がろうとしたが、高熱が引いたばかりの体は思うように言うことを聞かない。膝が笑い、その拍子にバランスを崩しかける。だが幸いにも、崇人の手はしっかりと彼女の背中を支え続けていた。物音を聞きつけた看護師がドアを開けた瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、理央が崇人の腕の中に崩れ落ちる決定的瞬間だった。崇人の手は、理央の最も敏感な腰のくびれを捉えており、そこから甘く低い吐息が漏れ聞こえる。これ以上見たら別料金が発生しそうな、そんな錯覚に陥る光景だ。「わ、私、何も見てませんからっ!」看護師は瞬時に空気を読み、バタンとドアを閉めると、通りかかった同僚を捕まえて興奮気味にまくし立てた。「ねえ聞いて!中ですごいもの見ちゃった!瀬名先生が、あの美人の患者さんをベッドに押し倒してたの!」「嘘でしょ? 衆人環視の白昼堂々、まさに野獣ね!服は脱いでた?」「まだだけど、秒で脱がしそうな勢いだったわ!我慢の限界って感じで!」「えっ?秒?そんなに動きが早いの?聞かせなさいよ詳細!」勢いよく閉めすぎたせいだろう、ドアが反動で少しだけ開き、外のあけすけな会話が丸聞こえになってしまった。理央は、彼に触れられている腰と、自分の顔のどちらが熱いのか判断がつかなくなった。崇人の喉仏が、ごくりと上下する。目の前の、恥じらって紅潮した理央の顔があまりに魅力的すぎたせいだろうか。彼の理性が「礼儀正しい距離を取れ」と命じているにもかかわらず、身体は初めてその命令に逆らい、すぐに離れようとしなかった。「彼女たち、口にチャックができないタチでね。気にしないで」「……ええ、もちろん」理央は目元をひきつらせながら適当に相槌を打ち、悟られないように少しずつ身体を後ろへ引こうとする。「それに、僕はそんなに早くないよ」「うん……え、何が?」崇人は楽しげに片眉を跳ね上げた。「もちろん、君が『早い』のがお望みなら合わせるけどね」理央は「今の言葉の意味なんて理解不能」とばかりに思考を放棄し、荷物をまとめると脱兎のごとくクリニックを後にした。車に乗り込んでもなお、胸の鼓動は早鐘を打ったまま静まる気配がなかった。タクシーの運転手は、車を出す前にルームミラーをちらりと覗き込んだ。「玄関に立っ
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第8話
理央は、幽霊のようにあてもなく街を彷徨った。脳裏で一本の糸がピンと張り詰めているような感覚がある。緩めたいのに、意思とは裏腹にその緊張感は消えてくれない。崇人が三代目の主治医になって以来、こんな不快な感覚に襲われるのは久しぶりだった。誰かに操られ、引っ張られているような感覚。けれど、その糸の端を握っているのが誰なのか、見当もつかない。崇人のことは、信頼に足る人物だと思っていた。だが、それはあの会話を聞くまでの話だ。今となっては、彼との間に築いた信頼関係のすべてを、根底から疑い、精査し直さなければならないだろう。いつの間にか、空の色が重く沈んでいた。降り出しそうだ。そう思った途端、前触れもなく大粒の雨が激しく地面を叩き始めた。理央は逃げ込むように、近くのコンビニの軒下に身を寄せた。そこへ、一台の車がゆっくりと近づいてきて路肩に停まった。アプリで呼んだ配車サービスの車かと思い顔を上げた理央の目に飛び込んできたのは、真っ赤なランボルギーニから降り立つ恭弥の姿だった。「どこ行ってたんだ!病院で大人しくしてろって言っただろ!?お前ってやつは、いっつもそうやって人に迷惑ばっかかけて……俺がどれだけ探したと思ってるんだ!帝都中ひっくり返す勢いで走り回ったんだぞ!」矢継ぎ早に浴びせられる質問攻めに、理央は頭痛を覚えた。彼女は冷ややかな目を恭弥に向ける。社交界きってのプレイボーイとして名高い御曹司が、今は見る影もない。半身はずぶ濡れで、高級シャツの襟はよれよれ。いつも完璧にセットされている髪は鳥の巣のように乱れ、目の下にはくっきりと隈が浮かんでいる。普段なら運転手付きの送迎車で移動する彼が、運転席から降りてきた。どうやら、本当に自分の運転で帝都中を探し回っていたらしい。だが、それが何だと言うのだ?「あんた、頭おかしいんじゃない?」理央は吐き捨てるように言った。「なんだと……」「病気なら医者に行きなさいよ。私に何の用?まさか、あんたも私にスマホを叩き壊されて、病室に監禁されたいの?」理央は心底うんざりしていた。ようやく熱が下がったばかりだというのに、次から次へと他人の罠や思惑に振り回されている。そもそも、私をあの十六階から飛び降りる寸前まで追い込んだ張本人が、どの面下げて被害者ぶって説教
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第9話
「決まってるだろ、お前を守るためだよ!」こんなこと、言われるまでもなく明白な理屈だろう?それなのに、理央は感謝するどころか、なぜこうも執拗に沙織を敵視するんだ?そもそも、今回の件で傷ついたのはあいつだけじゃない。沙織だって酷いショックを受けているんだ。毎晩悪夢にうなされては泣いて俺を叩き起こし、俺の腕の中でしか眠れないほど怯えきっているというのに。なぜ理央は、自分だけが被害者だと主張して譲らないんだ?精神的なトラウマは「傷」のうちに入らないとでも言うつもりか?あいつはいつから、こんなに冷酷で融通の利かない女に成り下がってしまったんだ?以前の理央なら、誰よりも思慮深くて、人の痛みが分かる優しい女だったはずなのに。恭弥は、少し考えてみた。そういえば、沙織が帰国してからだ。理央がことあるごとに突っかかってくるようになったのは。以前のような従順さや愛らしさはすっかり影を潜めてしまった。そう思うと、恭弥はやれやれと溜息をついた。「分かったよ。嫉妬も大概にしとけ。今回の件は水に流してやるから、さっさと帰るぞ」「離して……っ」雨に打たれたせいか、ふくらはぎの傷がズキズキと疼きだした。激痛によろめき、理央はその場に崩れ落ちそうになる。間一髪、恭弥が素早く彼女の体を抱き支えた。その様子を、道路の向かい側に停まっていた黒のメルセデス・ベンツから、静かに見つめる視線があった。窓ガラスがゆっくりと下がり、コンビニの軒下で抱き合う二人の姿が、崇人の瞳に寸分違わず映り込む。降りしきる雨の雫に共鳴するように、長く濃密な睫毛が、微かに、本当に微かに震えた。反対側の窓から、旭も首を伸ばして外を覗いた。「おいおい……お前が土砂降りの中、血相変えて飛び出していくから何事かと思えば、お迎えだったわけか。にしても、雨宮さんはあの西園寺恭弥と別れたんじゃなかったのか?まさか復縁したのか?まあ、感情欠落症とはいえ、付き合いは長かったからな。そう簡単に未練は断ち切れないのかもな。西園寺がその気になりゃ、焼け木杭に火がつくことだってあるだろうし。惜しかったな。タッチの差で、美女は他のヒーローにさらわれちまった」「誰が迎えに来たなんて言った?」旭は眉をひそめ、全身の中で口だけが異常に強情な親友をまじまじと見つめた。「迎えじゃないなら、
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第10話
「どうした?まだ怒ってるのか?」恭弥も認める。確かにさっき、理央を大人しく車に乗せるため、いささか強引な手段を使ったことは否定しない。だが、彼女の傷は明らかに完治していないのだ。そんな状態で一人野放しになんてできるわけがないだろう? 万が一のことがあったらどうする?この七日間、不眠不休で彼女を探し回ったにもかかわらず、手掛かり一つ掴めなかったのだ。今日こうして偶然街で見かけなければ、あと七日探したって見つかったかどうか怪しいものだ。西園寺家といえば帝都でも一、二を争う権勢を誇る。その俺が探して見つからないなんて。病院でもそうだ。VIPフロアの監視カメラだけが不自然に故障しており、理央がどうやって脱出したのか、目撃者は一人もいなかった。もちろん調査員を使って徹底的に調べさせたが、結果はシロ。何一つ出てこなかった。あまりにも不気味だ。得体の知れない不安が、じわりと胸に広がる。「理央、お前この数日間、一体どこにいたんだ?あの晩、どうやって病院を抜け出した?」しかし、理央は頑なに口を閉ざしたままだ。無理もない。自分を十六階から飛び降りる寸前まで追い込んだ加害者の尋問に、素直に応じる人間などいないだろう。今の彼女は抵抗する気力がないだけで、決して服従しているわけではないのだ。恐らく、俺が彼女を置いて沙織の看病に行ったことが、よほど腹に据えかねているのだろう。嫉妬深い女だ。恭弥はそう結論づけた。もっとも、それは裏を返せば、理央がそれだけ俺を愛しているという証左でもある。まあ、今回の件に関しては俺にも多少の非はある。 家に帰ったら、たっぷり埋め合わせをしてやろう。しかし、別荘に足を踏み入れた瞬間、その目論見は脆くも崩れ去った。そこには、パジャマにルームシューズという出立ちで、さもこの家の女主人ですと言わんばかりに振る舞う沙織の姿があったからだ。あまつさえ、彼女が着ているそのパジャマは、恭弥のものだった。使用人たちの視線が、一斉に三人に突き刺さる。彼らは今、正妻が愛人を引き裂く修羅場か、はたまた愛人が正妻を圧倒する下克上のドラマを、固唾を飲んで待ち構えているのだ。だが、感情欠落症である理央にとって、そんな野次馬たちの視線など今さら何の意味も持たず、痛くも痒くもない。一方、気まずさを隠せない恭弥は
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