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第2話

Author: スイカなんて食べてない
理央は再び崇人のもとを訪れた。彼の見立てが正しかったことを認め、通常の二倍の診察料を支払うとともに、深々と頭を下げる。

「先生、私の認識が甘かったです。先生の専門的な見識と判断を疑うべきではありませんでした」

「……だから言ったじゃないですか」

崇人は、差し出された封筒をそのまま押し戻した。

「僕は君の主治医であると同時に、最も信頼できる友人でありたいと思っています。友人としての助言に、追加料金なんて必要ありませんよ」

──おかしいな。理央が耳にした噂では、彼は勤務時間外であればLINEを一通返すだけで一日分の診察料を請求するほどの守銭奴……もとい、厳格なビジネスライクの権化だという話だった。

もし彼が天才的な精神科医であり、かつ並外れて……その、『有能な』美貌を持っていなければ、いくら富裕層といえど、わざわざ彼に金を貢ごうなどという奇特な人間はいないはずだ。

だが、どうやら噂は間違いだったらしい。

崇人は有能なだけでなく、驚くほど人情に厚い人物のようだ。

「とにかく、西園寺さんの行いはあまりに悪質です。僕としては、早急に別れるべきだと判断します」

また『西園寺さん』だ。

理央はこれまで何度も、婚約者である恭弥を他人行儀に呼ばないよう訂正してきたはずだが、崇人は一向に覚えようとしない。

評価項目に一つ付け加える必要がありそうだ。

『記憶力:並』、と。

「……少し、急ぎすぎではありませんか?」

現状を見る限り、理央には寝取られ趣味などという特殊な性癖はないため、婚約破棄は避けられない決定事項だ。

しかし、物事には順序というものがある。まずは恭弥と穏便に話し合いの場を持ち、しかるべき手続きを踏んで解消するのが筋だろう。

愛は消えても、ビジネスは残る。何と言っても、理央はかつてシンエツの執行役員だった身だ。この業界は広いようで狭い。無用に泥仕合を演じて遺恨を残すメリットは何もないのだから。

だが、崇人はいつになく真剣な眼差しで、専門家としての威厳を全面に押し出してきた。

「もし……君が主治医である僕を信頼してくださるなら。感情のもつれというものは、断ち切るときは一思いに、誰よりも迅速に処理すべきです」

本来、プロの精神科医とは選択肢を提示する存在であり、最終決定は患者の意志に委ねるものだ。これほど強引に解決策を決定づけようとすることは、極めて稀なケースだと言えるだろう。

理央は目を細め、沈黙を守った。

それは無言の拒絶だった。

しばしの静寂のあと、崇人は口元に笑みを浮かべた。 窓から差し込む夕陽が彼の横顔を斜めに切り取り、柔らかな光の輪郭を描き出す。その表情は、患者の意思決定を何よりも尊重する、いつもの思慮深い医師のものに戻っていた。

「……もちろん、段階を踏むという判断も合理的です。先ほどは、少々配慮に欠けた提案をしてしまいました。謝罪します」

潔い態度だ。

理央としても、済んだことにいつまでも固執するつもりはない。彼をじっと射抜くようだった視線をふっと緩めると、気分を変えるように切り出した。

「分かったわ。……それより、夕食をご馳走させてちょうだい」

「喜んで」

崇人は快く頷いた。「ただ、せっかくですからお店は僕に選ばせてもらえませんか?」

彼は席を立ち、理央を玄関まで丁寧に見送った。

やがてエンジン音が遠ざかり、車のテールランプが完全に見えなくなるまで、崇人はその場を一歩も動かず、じっとその方向を見つめ続けていた。

「おいおい先生、そのままずっと突っ立ってると灯台になっちまうぞ」

奥から現れた男──周防旭(すおう あきら)が、からかうように声をかける。

旭はこのクリニックの共同経営者だ。彼が経営と事務を、崇人が診療を取り仕切っている。幼い頃からの腐れ縁で、互いのことは知り尽くしている仲だ。 だからこそ、彼には一目で分かってしまった。崇人が珍しく焦り、失敗したのだと。

「我らが天才精神科医様でも、先走っちまうことがあるんだな?どれどれ、ここ数日のカルテを拝見……うわあ、こりゃ傑作だ」

旭はカルテをパラパラとめくりながら、わざとらしいほど大げさに肩をすくめた。

「提案力はイマイチだけど、謝るのだけは超一流じゃないか、瀬名先生?」

だが、崇人の表情に大きな変化はない。彼は素早くカルテを奪い返すと、通りがかったスタッフに淡々と指示を出した。「今後、資料室への部外者の立ち入りは一切禁止だ。……いいね?」

崇人が提案したのは、かつて理央が足繁く通っていた会員制の料亭だった。

「以前から評判は伺っていて、一度来てみたいと思っていたんです。ただ、なかなか時間が合わなくて。今日は良い機会をいただきました」

この店は創作料理の味もさることながら、舌の肥えた社交界の常連客をも唸らせる名店として知られている。崇人が興味を持つのも無理はない。

理央は静かに頷いた。「ええ、ここは雰囲気も落ち着いていますし、お料理も繊細です。それにサービスも非常に行き届いていて……」

言いかけた矢先、配膳係の手元が狂い、あわや彼女の膝の上に料理をぶちまけそうになった。

「も、申し訳ございません……!」

店員は真っ青になって謝罪したが、その視線は理央ではなく、すぐ斜め向かいの──騒がしい気配がする一室へと、怯えたように向けられていた。

耳を澄ませば、微かに漏れ聞こえる男たちの下品な笑い声。

聞き覚えがある。恭弥がいつも引き連れている、あの取り巻きたちの声だ。

……なるほど。

入店早々にメニューを落としたのも、茶器の扱いが雑だったのも、そして今、極めつけの粗相をしたのも。すべては『隣の部屋の厄介な客』に気を取られていたせいというわけか。

理央はふっと冷ややかな笑みを浮かべ、凍りついた店員を見据えた。

「……西園寺恭弥は、どこの個室にいるの?」

彼女の直観は正しかった。

恭弥たちが利用している個室は、すぐ目と鼻の先にあったのだ。

理央が席を立ち、どう踏み込もうかと思案していると、不意に個室の扉が開き、千鳥足の金髪の男が出てきた。

「あぁん?テメェ、何突っ立ってんだよ。邪魔だっつーの……」

酔っ払った松永翔太(まつなが しょうた)が絡みかけた途端、視界に赤いハイヒールが入る。視線を上へとずらしていき──そして、凍りついた。

この界隈で顔の利く御曹司で、『鉄の女』こと雨宮理央を知らない者はいない。ましてや彼は恭弥を取り巻くグループの一員だ。目の前に立つ人物が、名目上の『恭弥の恋人』だと気づいた瞬間、彼は腰を抜かしそうになった。

「あ、あま……いや、理央さん!?なんでこんなとこに?いや、あの、誰に変なこと吹き込まれたか知りませんけど、恭弥さんはここにはいませんよ!?」

最後まで言い切ったものの、これなら何も言わない方がマシだった。

「ち、違うんすよ!俺が言いたいのは……」

翔太は自分のバカさ加減を脳内で罵倒しながら、必死に取り繕おうとする。「そう、中にいるのは白石沙織だけで!恭弥さんはもう理央さんと婚約してるんだし、疑惑を避けるためにも、絶対に中にいるわけないじゃないですか!」

なるほど。つまり今この瞬間、恭弥と沙織が一緒に中にいるということだ。

翔太は「またやらかした」と悟ったが、アルコールで鈍った頭はさらに墓穴を掘ろうと言葉を探し続ける。だが、もう遅い。理央の手はすでにドアノブにかかっていた。

扉がわずかに開く。

個室の中では酒宴が盛り上がりを見せていた。グラスが沙織の前に置かれるたび、恭弥が横から手を伸ばして代わりに呷る。その姿は、か弱い姫君を守る騎士そのものだ。

ここにいる連中は皆、恭弥と沙織のかつての関係を知っている。当然、文句など出るはずもなく、むしろ囃し立てるような声が飛ぶ。「ヒューッ!恭弥さんは相変わらず沙織ちゃんに甘いなぁ、泣かせるぜ!」

「違いない。二人は筋金入りの幼馴染だもんなあ。沙織ちゃんが血迷って海外で結婚なんてしなけりゃ、今頃子供が二人くらいいてもおかしくなかったんだ。雨宮理央の出る幕なんてなかったのにな?」

沙織は頬を赤らめ、潤んだ瞳で恥じらうようにたしなめた。「もう、やめてよみんな。恭弥と雨宮さんはうまくいってるんだから」

その言葉が、さらなる爆笑を誘う。

「うまくいってるなら、なんでいつまで経っても籍を入れないんだよ?あの雨宮理央だぜ?確かに顔はいいけど、中身はまるで冷血な化け物じゃないか。よく恭弥さんも賭けに乗ってあんなのを口説き落としたもんだよな。しかも完全に手懐けてるし。……でもまあ、さすがにもう飽きたんじゃないっすか?」

「そうそう!あの高嶺の花を家に囲い込んで、飯炊き女にまで堕とすなんて、最高の気分でしょう?」

恭弥は何かを思い出したように、コツコツとテーブルを指で叩いて笑った。

「……よせよ。今さら昔の賭けの話なんて、持ち出すもんじゃない」

その口ぶりは余裕に満ち、まるで自慢の戦利品を見せびらかしているかのようだった。

沙織の隣に座っていた男が、ここぞとばかりに煽り立てる。

「あんなつまんない女、もう賞味期限切れでしょう?で、ぶっちゃけいつ捨てるつもりなんです?早く捨てて沙織ちゃんと結婚しちゃえばいいのに」

恭弥が口を開こうとした、その時だった。

バン──ッ。

個室のドアが大きく開け放たれる。続いて響く、カツ、カツ、というハイヒールの足音。その鋭利な響きは、その場にいる全員の顔面に銃弾を撃ち込むかのように空気を凍らせた。

「ええ、今すぐそうしましょうか」

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