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第4話

Author: スイカなんて食べてない
マンションの部屋に戻り、シャワーを浴びてさっぱりしたところで、理央はスマホの画面に新しい通知が幾つか来ていることに気付いた。

崇人からは、ラインガウ産のリースリング・ワインの写真が届いていた。下には一言、「引っ越し祝い」と添えられている。

だが、理央の目線は自然と、写真の隅に写り込んだ手首へと注がれた。

大人の男らしい力強さと、しなやかさを兼ね備えた手首。よく見ると、手首と手のひらの境目に小さな黒子がある。その輪郭は微かに熱を帯びたように上気していて、いつも冷静沈着な崇人の表情とはどうしても結びつかない色気が滲んでいた。

視線を戻すと、その下には恭弥からの不在着信があった。呼び出し時間は五十九秒。

婚約してからというもの、こんなことは一度もなかった。

恭弥からの電話であれば、理央は必ず十秒以内で出るようにしていたからだ。

彼の悪友たちは、かつて幾度となくそのことを揶揄していたものだ。

「理央のあの惚れ込みようを見ろよ。棺桶に入っていても、恭弥からの電話ならゾンビみたいに蘇って出るんじゃねえか?」

けれど今回ばかりは、恭弥の期待通りにはいかなかったようだ。

着信から十分後、苛立ちを隠せない様子のメッセージが届いていた。

【沙織が怖がってるから、ここ数日は俺がついててやることにした。お前は家で頭冷やせ。よく反省してから、沙織に謝りに来い】

この文章を打ち込んでいる時の、自信満々でありながらも歯ぎしりしていそうな恭弥の顔が目に浮かぶようだ。

……馬鹿げてる。

理央は迷うことなくトーク履歴を削除し、ついでに恭弥をブロックリストへ放り込むと、メーラーを開いた。

予想通り、彼女の復帰を嗅ぎつけた多くのヘッドハンターやかつての取引先から、オファーのメールが届いていた。

金を稼ぐ能力があり、かつ部下を厳しく統率できるプロの経営者を嫌がるオーナーなどいない。

だが、彼女はすぐには返信しなかった。

ビジネスの現場から長く離れていたため、まずは今の情勢を見極めてから慎重に決めるべきだと判断したのだ。

ちょうど二日後、春季ビジネス交流会が開催されることになっていた。

あくまで様子見が目的だったため、理央はそれほど気張った格好はせず、動きやすさを重視したスモーキーグレーのリネンセットアップを選んだ。艶やかな黒髪は無造作にアップにし、陶器のように美しい素顔を露わにする。

その圧倒的な美貌は、どこへ行っても人々の視線を惹きつけずにはいられなかった。

「最近、雨宮さんはフリーになられたと伺いましてね」

グローバル・クレディス銀行のアジア地区責任者の男が、二歩ほど距離を詰め、赤ワインのグラスを差し出してきた。

「久しぶりに、ご一緒にゴルフでもいかがですか?ぜひお誘いしたくて」

外資系金融大手である彼の提示する条件や待遇は魅力的だ。近々、大陸間での大型提携プロジェクトが動き出すという噂もあり、将来性も申し分ない。

そこへ突然、横から手が伸びてきて、そのワイングラスを強引に奪い取った。

「ゴルフだなんて、おじ様の道楽でしょう?理央さんのような若くて美しい女性には、ジュエリーや美術品のほうが似合いますわ」

クリスティア・オークションの女性役員だ。彼女は奪ったワインを近くのテーブルにぞんざいに置くと、ボーイを呼んでシャンパンを二つ注文した。

「明日、王立アートギャラリーの特別展のプレオープンがあるの。ご一緒しませんこと?」

これまでの資本に縛られたビジネスよりも、クリスティア・オークションのような世界的オークションハウスという未知の領域に、理央は興味をそそられていた。

まさにシャンパングラスを受け取ろうとしたその時、視界の隅に馴染みの姿が映り込んだ。

まさかここで恭弥と鉢合わせるとは思ってもみなかった。

さらに予想外だったのは、彼が理央を見つけた瞬間、繋いでいた沙織の手を離し、迷わずこちらへ向かってきたことだ。

「理央!」

理央はすでにシンエツ・テクノロジーを退職しているが、世間的にはまだ恭弥の婚約者だ。これまで彼女を引き抜きたいと考える企業は山ほどあったが、実際に動いたところは少なかった。それはひとえに、この「婚約者」という立場を懸念してのことだ。

なんと言っても西園寺家は、帝都でも指折りの名家である。 仮に西園寺家がそれを許したとしても、ライバル企業の御曹司の妻に、自社の心臓部を握らせるのはリスクが高すぎる。

最近になって理央と恭弥の間に不穏な空気が流れていると聞きつけ、各社がヘッドハンティングついでに探りを入れていたわけだが……この西園寺家のプリンスが見せた、あからさまな所有権の主張を目の当たりにし、下心を持っていた人間たちは蜘蛛の子を散らすように離れていった。

今日のパーティーは無駄足だった。理央は瞬時にそう悟った。

西園寺恭弥という男がしゃしゃり出てきた時点で、これ以上ここにいても時間の無駄だ。

すぐに踵を返そうとした瞬間、恭弥が当然のように理央の手首を掴んだ。その顔には、怒りと焦りが入り混じっている。

「どうして家に帰らない?電話にも出ないで」

電話に出ないのは、単純にブロックしているからだ。

だが、「家に帰らない」という問いには引っかかりを感じた。

「……あなた、帰ったの?」理央は怪訝そうに眉を寄せる。

恭弥は、もちろん帰っていた。

実際のところ、あの「腹いせ」のメッセージを送信した後、彼は居ても立ってもいられず、猛スピードで車を飛ばして帰宅していたのだ。

玄関のドアを開ける前には、言い訳まで用意していた。

「着替えを取りに戻っただけだ」と。

しかし、その言い訳を使う機会は訪れなかった。

家には、誰一人いなかったからだ。

恭弥はそれから三晩、誰もいない家で理央を待ち続けた。その間、何度電話をかけても、返ってくるのは無情な電子音が切れる音だけ。怒りで肺が破裂しそうだった。

理央は俺に死ぬほど惚れていたはずだろう? それなのに、なぜ夜遅くなっても帰らない?電話にも出ないなんてどういうつもりだ? どこへ行った? 誰と一緒にいる? まさか、本気で婚約を破棄するつもりなのか?

そんなことがあってたまるか。

そうなれば、俺は友人たちとの『賭け』に負けることになるじゃないか。

俺が負けるなんてありえない!

頭の中は賭けのことで一杯だったが、彼は無意識のうちに、シャツの袖の下で拳を固く握りしめ、青筋を浮かべていた。だが口先では、必死に平静を装う。

「帰るわけないだろ?俺は……そう、家政婦の松島さんから聞いたんだよ!」

理央が口を開く隙も与えず、彼は一方的にまくし立てた。「あの日の席での話なんて、ただのその場のノリだってわかってるだろ。お前が一時の感情で怒るのは大目に見てやる。だがな、今すぐ俺と一緒に家に帰るんだ!」

理央は、掴まれた手首を振り払おうとした。

交際を始めた当初、恭弥とのスキンシップに慣れるまでには随分と時間がかかったし、必死になって自分に言い聞かせる必要があった。だが、一度関係を断ち切った今、彼女の脳内では「他人を寄せ付けない」という防衛本能が再び鋭敏に張り詰めている。見知らぬ他人の不用意な接触を、生理的に拒絶しているのだ。

「西園寺社長、気安く触るのはやめてくださる?」

あまりに鋭利な視線に射抜かれたせいか、恭弥の手が思わず緩む。

その隙に、ドレスの裾をつまんで沙織が小走りで駆け寄ってきた。「雨宮さん、もう恭弥さんに意地を張るのはやめてください。そんなことしてたら、恭弥さんが周りの人に笑われちゃいますよ」

口では仲裁するようなことを言いながら、その瞳の奥には明らかな煽りの色が滲んでいる。感情の機微に疎い理央でさえ見抜けるほどの、あからさまな挑発だ。

「恭弥のことが好きなんでしょう?だったら私の前で駆け引きなんてしなくていいわ。私が婚約者の座を空けたんだから、あなたの望み通りじゃないの」

沙織の表情が凍りついた。

おかしい。理央は恭弥の前では、牙を抜かれた猫のように大人しいと聞いていたのに。 なぜこんなにも容赦がない言葉を吐くのか。

理央はその隙に立ち去ろうとするが、恭弥がしつこく立ちはだかる。

「沙織は帰国したばかりだから、俺が少し目をかけてただけだ。お前が考えているような関係じゃない。

とにかく、別れるなんてダダをこねるのはやめろ」

一瞬、感情欠落症を患っているのは自分ではなく恭弥の方ではないかと疑った。そうでなければ、これほど堂々とクズな発言ができるはずがない。

かつて母に言われた、「アンタみたいな病気の人間には、何を言っても無駄ね!」という言葉の意味を、理央は今初めて理解した気がした。

「ダダをこねてるんじゃないわ。決定事項よ。婚約破棄の手続きに関しても、至急弁護士を立てて進めるつもりだから」

「……なんだと?」

恭弥の呼吸が一瞬止まる。

すかさず沙織が目を赤くして、理央の腕にすがりついた。

「雨宮さん、いくら怒ってるからって、そんなこと言っちゃダメです!早く恭弥さんに謝って。そうすれば、全部なかったことにできますから」

「離して」

「ダメですっ」

沙織は泣きながら首を振り、さらに強くしがみついてくる。

「雨宮さん、もう恭弥さんを困らせないで……お願いだから謝ってください!」

耳元でブンブンと飛び回る羽虫のような声に頭痛を覚え、理央は強く腕を振り払った。その勢いで、沙織の身体がよろめき――目の前にそびえ立つシャンパンタワーへと、真っ直ぐに突っ込んでいった。

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