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第6話

作者: スイカなんて食べてない
理央は、夢を見ていた。

そこは、どこまでも昏く、淀んだ空気が満ちる地下室だった。じっとりとした冷気が肌にまとわりつく。幼い理央は閉じ込められ、小さな体で懸命に鉄の扉に体当たりしていた。

「出して……ううっ……お母さん、ひとりにしないで……!」

廊下からヒールの足音が響き、次の瞬間、鉄の扉が外側から乱暴に蹴り飛ばされた。ガンッ、と耳をつんざく音が地下室に反響する。

「この疫病神!よくもまあ、いけしゃあしゃあと泣けるわね?あんたが誕生日なんか祝いたがるから……あの人は、こんな夜更けにトラックを出して帰ってこなきゃならなかったのよ!」

「ああ、いい気味だわ。お父さんは死んだの。あたしたち親子は、明日から野垂れ死によ!」

「誕生日なんでしょう?ケーキを買ってきて欲しかったんでしょう?お父さんなら中にいるわよ。ほら、これで満足でしょう!」

扉の向こうからの罵声が、唐突に途切れた。

代わって嗅覚を襲ったのは、消毒液とホルマリンが入り混じった強烈な刺激臭だ。それは見えない手となって鼻腔へとなだれ込み、理央の喉を締め上げにかかる。

「違う、違うの!お父さんは私が殺したんじゃない!違……っ!」

小さな手で鉄の扉を何度も搔きむしる。爪が剥がれ、無数の血の跡が鉄板に刻まれていく。

「出して、お願いだから!ここから出して!」

けれど、扉は無慈悲なほど固く閉ざされたままだ。

鼻をつく臭気は、ますますその濃度を増していく。

理央は息を詰め、恐る恐る振り返った。そこには、トラックに轢かれ、原形をとどめぬ肉塊と化した父の姿があった。

ドクンッ。心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走る。

「はっ……!」理央は弾かれたように目を開けた。

視界に飛び込んできたのは、眩しいほどの白色灯と、クリーム色の柔らかな壁。書棚には『精神分析的診断』や『バーンズの感情療法』といった専門書が整然と並んでいる。

ここは……

「目が覚めた?」穏やかな声と共に、崇人が白湯の入ったコップを差し出した。

「私……」

口を開いた瞬間、理央は自分の声が酷く枯れていることに気づいた。まるで鋭利な刃物で喉の奥を抉られたような、ひりつく痛みが走る。

「高熱が三日続いて、七日間昏睡状態だったんだ。やっと熱が下がったところだよ。傷口が化膿して、炎症を起こしていたせいだろうね」崇人が淡々と説明する。

理央はその言葉を反芻しながら、ぼんやりとした視線を部屋の中へとさまよわせた。状況がすぐには飲み込めない。

……なぜ、私は瀬名先生の診察室にいるのだろう?確かな記憶がある。私は恭弥に監禁され、スマホも取り上げられた。あの忌々しい病室に一人でいることに耐えられず、椅子で窓ガラスを叩き割って……そこから飛び降りようとしたはずだ。

たしかVIP病棟は十六階にあったはず……

十六階。もしあそこで、本当に落下していたら……

遅れてやってきた恐怖に、心臓が早鐘を打ち、呼吸が荒くなる。

「僕が、君の腕を掴んだんだ」

理央は弾かれたように顔を上げた。

そうだ、身を投げたあの一瞬、誰かが自分の名を叫んだ気がしていた。

……私を救ったのは、崇人だったのか。

胸の奥の柔らかな場所を、こつん、と何かが叩いたような気がした。それがどんな感情なのか、理央にはうまく言葉にできない。

父の死後、感情欠落症を患って以来、普通の人が当たり前に感じる「情緒」というものの輪郭が、彼女にはひどく曖昧になってしまっていたからだ。

「どうしたの?さっきの悪夢がまだ怖い?」

崇人の穏やかな声が、理央を現実へと引き戻す。

理央はふいと視線を逸らし、意識して話題を変えた。

「……どうして、私が悪夢を見ていたって分かったの?」

「うなされていたからね。『お父さん』とか『事故』とか……『私じゃない』なんてことを呟いていたよ。君はこれまで、自分のお父さんについて話したことがなかった。……お父様は交通事故で亡くなられたのかい?それも、君が関わるような事故で」

崇人の口調はいつもの診察時と何ら変わりない。けれど、なぜか無性に反発心が込み上げてくる。

「……その質問は、今の治療に必要なことですか?」

誰彼構わず、あの事故と父のことを詮索されるのが一番嫌いなのだ。これまでのカウンセリングでも、担当医には必ずそう伝えてきたはずなのに。

どうやら、この優秀な医師様は記憶力があまりよろしくないらしい。

「水が冷めちゃったね。温かいのと取り替えるよ」

一瞬、崇人の瞳に暗い翳りが差した気がしたが、瞬きする間にはいつもの穏やかな表情に戻っていた。だが、彼が立ち上がろうとした拍子に袖口が少しめくれ、どす黒いあざのような傷跡がちらりと覗く。

まだ瘡蓋になったばかりの、生々しい傷のようだ。

意識が覚醒し、霧が晴れていくにつれて、理央の脳裏に意識を失う直前の光景がフラッシュバックした。

あの時、私は椅子を投げ捨て、窓枠を跨いで身を投げ出した。両足が宙に浮き、重力が体を引いたその瞬間――誰かの手が、私の腕を死に物狂いで掴んだのだ。

「理央、掴まれ!絶対に離すな!」

その時自分がどう反応したのかは定かではない。ただ覚えているのは、何か生温かく粘つく液体が、窓際からポタ、ポタと頬に滴り落ちてきた感触だけ。

あれは、何だったのか。

窓の縁には、椅子で叩き割った鋭利なガラス片が残っていたはずだ。

その事実に思い至った瞬間、理央は衝動的に崇人の右腕に手を伸ばし、袖を捲り上げていた。

そこには、腕一本を縦断するような、長く、そして痛々しいほど深く刻まれた傷痕が露わになっていた。

「ただのかすり傷だよ。大したことない」

崇人はさも平然と、それでいて素早く腕を引っ込めた。

だが理央は見てしまった。彼が左手でカップを持とうとしているのを。

そのマグカップは、理央がいつもここで使うものだ。大きさも重さも知っている。たとえ満タンに入れたって精々三百グラム。左利きでもない彼が、わざわざ左手を使わなければ持てないほどの重さではないはずだ。

これが、かすり傷だというの?

理央の鼓動が、またしても意思に反して早鐘を打ち始める。

彼のその、大事を何でもないことのように振る舞う態度に、無性に腹が立った。

けれど、私に怒る資格なんてない。

元はと言えば、彼が怪我をしたのは私を助けるためなのだから。

怪我を隠そうとしたのも、私に罪悪感を抱かせまいとする彼なりの気遣いだろう。

それくらい単純なロジックは、私にだって分かる。

でも、なぜ?

普通、他人に救いの手を差し伸べた人間は、その代償を誇示して見返りを求めるものだ。仮に見返りを求めないにしても、わざわざ隠す必要なんてないはずだ。

なのに崇人は、頑なに隠そうとしている。

不意に、幼い頃の父の記憶が蘇った。

ある時、長距離輸送の仕事を終えた父は、荷主から「荷物の半分上が破損している」と難癖をつけられ、運送費を全額踏み倒されたことがあった。納得がいかず抗議に行った父は、逆に荷主に袋叩きにされ、派出所で示談になったものの、たった数千円の治療費を渡されただけだった。

あれは、うだるように暑い夏の日だった。それなのに、帰ってきた父は長袖のシャツに長ズボンを着込み、顔にはマスクまでしていた。嬉しくて飛びついた理央が、勢い余って父の傷口を押してしまわなければ、彼がどれほど酷い怪我を負っていたか、きっと知ることはなかっただろう。

理央は泣いて、「どうして黙っていたの?」と父を責めた。

父は優しく理央の頭を撫でて、こう言ったのだ。「お父さんはね、理央のことが大好きだからだよ。理央を悲しませたくなかったんだ」

……崇人も、同じだと言うのだろうか?

「怒ってる?」

精神科医特有の鋭敏さで、彼は理央の微細な感情の揺れを見逃さなかった。すっと視線を合わせるように身を屈め、距離を詰めてくる。「僕が怪我のことを黙っていたから、怒っているのかい?」

図星を突かれたような慌てふためきを、理央は生まれて初めて味わった。

まるで心臓を早鐘のように打ち鳴らされ、胸の奥がざわめいて仕方がない。

「僕がなぜ黙っていたか、知りたい?」

崇人との距離はさらに縮まる。互いの吐息が溶け合いそうなほどの至近距離。

耳元で響く鼓動が、自分のものなのか彼のものなのか、もう判別がつかない。

「私……」

人は言葉に詰まると、無意識に口を開けてしまうものだ。そうすることで、後退ろうとする自分の弱腰をごまかせる気がするからかもしれない。

だが、相手は人の心理を読むプロだ。そんな誤魔化しは通用しない。

温かく大きな掌が、理央の背中をふわりと支えた。男としての圧倒的な存在感と、熱い吐息が鼻先に触れる。

「好きだからだよ。

だから……君を口説かせてもらえないかな?」

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