共有

第7話

作者: スイカなんて食べてない
「……私、用事があるから」

理央はほとんど逃げるように立ち上がろうとしたが、高熱が引いたばかりの体は思うように言うことを聞かない。膝が笑い、その拍子にバランスを崩しかける。

だが幸いにも、崇人の手はしっかりと彼女の背中を支え続けていた。

物音を聞きつけた看護師がドアを開けた瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、理央が崇人の腕の中に崩れ落ちる決定的瞬間だった。

崇人の手は、理央の最も敏感な腰のくびれを捉えており、そこから甘く低い吐息が漏れ聞こえる。

これ以上見たら別料金が発生しそうな、そんな錯覚に陥る光景だ。

「わ、私、何も見てませんからっ!」

看護師は瞬時に空気を読み、バタンとドアを閉めると、通りかかった同僚を捕まえて興奮気味にまくし立てた。

「ねえ聞いて!中ですごいもの見ちゃった!瀬名先生が、あの美人の患者さんをベッドに押し倒してたの!」

「嘘でしょ? 衆人環視の白昼堂々、まさに野獣ね!服は脱いでた?」

「まだだけど、秒で脱がしそうな勢いだったわ!我慢の限界って感じで!」

「えっ?秒?そんなに動きが早いの?聞かせなさいよ詳細!」

勢いよく閉めすぎたせいだろう、ドアが反動で少しだけ開き、外のあけすけな会話が丸聞こえになってしまった。

理央は、彼に触れられている腰と、自分の顔のどちらが熱いのか判断がつかなくなった。

崇人の喉仏が、ごくりと上下する。

目の前の、恥じらって紅潮した理央の顔があまりに魅力的すぎたせいだろうか。彼の理性が「礼儀正しい距離を取れ」と命じているにもかかわらず、身体は初めてその命令に逆らい、すぐに離れようとしなかった。

「彼女たち、口にチャックができないタチでね。気にしないで」

「……ええ、もちろん」

理央は目元をひきつらせながら適当に相槌を打ち、悟られないように少しずつ身体を後ろへ引こうとする。

「それに、僕はそんなに早くないよ」

「うん……え、何が?」

崇人は楽しげに片眉を跳ね上げた。「もちろん、君が『早い』のがお望みなら合わせるけどね」

理央は「今の言葉の意味なんて理解不能」とばかりに思考を放棄し、荷物をまとめると脱兎のごとくクリニックを後にした。

車に乗り込んでもなお、胸の鼓動は早鐘を打ったまま静まる気配がなかった。

タクシーの運転手は、車を出す前にルームミラーをちらりと覗き込んだ。「玄関に立っているのは、彼氏さんかい?」

理央が振り返ると、ちょうど崇人がこちらに向かって手を振っているのが見えた。

「いやあ、いい男だねえ、お似合いだよ」

運転手はどうやらお喋り好きのようで、こてこての下町訛りで勝手に盛り上がっている。「見ているこっちまで、ニヤニヤしちまうよ」

「ところで、お二人の馴れ初めは?うちの娘なんてもういい歳なのに、テレビに出てるアイドル指差して『推しが尊い!』だの『結婚して!』だの騒ぐばかりで、ちっとも色恋沙汰がありゃしなくてね。お客さんの彼氏みたいなイケメンがいれば、あいつもその気になるんだろうけどなあ」

「でもねえ、おじさんの経験から言わせてもらうと、顔がいい男ってのは信用できないんだよ。口先だけで女の子を騙すような調子のいい奴が多いからね」

「『男の口車に乗るな』なんて昔から言うけど、あれは真理だよ」

おじさんは終始ご機嫌で喋り倒している。

そのマシンガントークに、理央は口を挟む隙もなかった。仕方なく適当な交差点で車を停めてもらい、外の空気を吸うことにした。

どうしたことだろう、胸の奥の火照りが一向に静まらない。

こんな感覚は生まれて初めてだ。

ふらりと歩いていると、果物屋の前でおかみさんが中年の客に声を張っているのが聞こえた。

「とれたてのカシスだよ!栄養たっぷりでね。お見舞いに行くんだろ?だったらこれが一番だよ!」

その言葉に、理央は吸い寄せられるように足を止めた。

「あの……腕を怪我している人にも、いいですか?」

気がつくと、理央はカシスの入った袋を提げ、再びタクシーを拾っていた。

自分から誰かにプレゼントを贈るなんて経験はほとんどない。

恭弥と付き合っていた頃も、記念日が来るたびに頭を抱えていたものだ。

幸いなことに、恭弥の方もプレゼントには無頓着だった。

だから理央は、AIがリストアップした「おすすめギフト」を適当なくじ引き感覚で選び、贈りつけていた。それで何の問題もなかったのだ。

気まずさを避けるため、理央はわざと受付を迂回し、直接崇人のオフィスへと向かった。

通い慣れた場所だ。足取りに迷いはない。

しかし、ドアノブに手をかけた瞬間、ふと躊躇いが生まれた。

さっき出て行ったばかりなのに、すぐに戻ってくるなんて、いかにも未練がましいのではないか?いっそ、ドアの外に置いておこうか。

そう思い直して手を離そうとした時――中から男の声が聞こえてきた。

「僕が本気で、雨宮理央を好きになるわけがないだろう?」

全身の血液が一瞬で凍りついたようだった。

間違いなく、崇人の声だ。

ドクン、ドクン。自分の心音が聞こえる。さっきまでの高鳴りとは違う、まるで葬送の太鼓のように重く、鈍い響き。

……彼は、嘘をついていたの?

どうして?

その答えはすぐに示された。

「お前があの事故の真相を知りたいのは分かるよ。でも、彼女のことが好きでもないのに、あんな思わせぶりなことを言う必要があるのか?」

「両親の死因に関わることなんだ、慎重にならざるを得ないだろ!」

崇人の声には、押し殺したような苦痛が滲んでいた。

「……だったら、彼女に直接聞けばいいじゃないか」

「もし、あの事故に彼女も加担していたらどうする?僕は自分の手で真相を突き止めなきゃいけないんだ。そのためなら、彼女を利用しようが傷つけようが構わない!」

そうだったのか。

だから崇人は、私が事前にNGを出していた話題――あの交通事故のこと――をしつこく聞いてきたのだ。

真相を探るための駒として私を利用するため。そのために、「好きだ」なんて甘い餌まで撒いて。

本当、ご苦労なことだわ。

気づけば、爪が掌に深く食い込んでいた。 力を緩めると、薄い皮膚が破れ、今にも血が滲み出しそうになっている。

理央は音もなくドアから手を離し、深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。だが、胸に詰まった不快な塊は消えない。

騙されるのも、利用されるのも、大嫌いだ。

廊下の角を曲がったところで、彼女は立ち止まった。

ボトッ、という鈍い音。

手にしていたカシスの袋が、ゴミ箱の中に吸い込まれていく。

理央はもう振り返らなかった。躊躇うことなくクリニックを後にする。

一方、オフィスの中では、重苦しい沈黙が続いていた。やがて、周防旭が、深く低い溜め息をついた。「おい、崇人。今言ったデタラメ……自分自身で信じてるのか?」

「……どういう意味だ?」

崇人が微かに拳を握りしめる。その動きには、彼自身すら気づいていない焦燥が滲み出ていた。

「もしお前が言う通り、彼女をただの道具だと思っているなら……どうして彼女がパーティーで怪我をしたと聞いた瞬間、ボディガードを十数人も引き連れて病院に殴り込んだんだ?お前、ずっと身分を隠していたかったんじゃないのか? それを捨ててまで?」

言い終わるが早いか、旭は崇人に歩み寄り、何の前触れもなく彼の袖を捲り上げた。

そこには、おそらく一生消えないであろう無惨な傷跡が、痛々しく刻まれている。

「なんで彼女が飛び降りようとした時、大勢いたボディガードを使わずに、とっさにお前自身が飛び出して彼女を掴んだんだ?」

分かってんのか?飛び降りようとする人間を助けるなんて、自分も一緒に引きずり込まれる可能性が高いんだぞ」

開いた窓から不意に風が吹き込み、机の上の書類がパラパラと音を立ててめくれた。

そう。

その問いかけは、理央を救い上げた直後、崇人が自分自身にも投げかけたものだった。

もしあの時、彼女を支えきれずに、二人もろとも落下していたらどうなっていた?

ここは十六階だ。

生還の可能性など万に一つもない。

けれど、後悔など微塵もなかった。

腕の中に抱きとめた彼女の、羽のように軽い身体。全身に刻まれた無数の傷。いつもは傲慢なほど自信に満ちていた唇が、今はただ痛みに耐えるように硬く結ばれ、苦悶の声を漏らしている――そんな姿を見た時、彼が思ったのはただ一つ、「もっと早く、一秒でも早く駆けつけるべきだった」という悔恨だけだった。

「崇人……」

旭は、自分の気持ちにすら気づかないこの愚かな当事者を、もう一度諭そうとした。

「落ちないよ」

言葉の意味を即座に理解できず、旭はきょとんとした。「は?何が?」

「僕は、引きずり込まれたりしないって言ったんだ」

崇人は静かにそう答えた。長く黒い睫毛がカラスの羽のように伏せられ、瞳の奥に渦巻く暗い翳りも、揺らぐ感情も、すべてを隠してしまう。

「僕が雨宮理央ごときに、道連れにされることなんて、絶対にありえない」

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 今更ですが社長、婚約者は逃げました   第10話

    「どうした?まだ怒ってるのか?」恭弥も認める。確かにさっき、理央を大人しく車に乗せるため、いささか強引な手段を使ったことは否定しない。だが、彼女の傷は明らかに完治していないのだ。そんな状態で一人野放しになんてできるわけがないだろう? 万が一のことがあったらどうする?この七日間、不眠不休で彼女を探し回ったにもかかわらず、手掛かり一つ掴めなかったのだ。今日こうして偶然街で見かけなければ、あと七日探したって見つかったかどうか怪しいものだ。西園寺家といえば帝都でも一、二を争う権勢を誇る。その俺が探して見つからないなんて。病院でもそうだ。VIPフロアの監視カメラだけが不自然に故障しており、理央がどうやって脱出したのか、目撃者は一人もいなかった。もちろん調査員を使って徹底的に調べさせたが、結果はシロ。何一つ出てこなかった。あまりにも不気味だ。得体の知れない不安が、じわりと胸に広がる。「理央、お前この数日間、一体どこにいたんだ?あの晩、どうやって病院を抜け出した?」しかし、理央は頑なに口を閉ざしたままだ。無理もない。自分を十六階から飛び降りる寸前まで追い込んだ加害者の尋問に、素直に応じる人間などいないだろう。今の彼女は抵抗する気力がないだけで、決して服従しているわけではないのだ。恐らく、俺が彼女を置いて沙織の看病に行ったことが、よほど腹に据えかねているのだろう。嫉妬深い女だ。恭弥はそう結論づけた。もっとも、それは裏を返せば、理央がそれだけ俺を愛しているという証左でもある。まあ、今回の件に関しては俺にも多少の非はある。 家に帰ったら、たっぷり埋め合わせをしてやろう。しかし、別荘に足を踏み入れた瞬間、その目論見は脆くも崩れ去った。そこには、パジャマにルームシューズという出立ちで、さもこの家の女主人ですと言わんばかりに振る舞う沙織の姿があったからだ。あまつさえ、彼女が着ているそのパジャマは、恭弥のものだった。使用人たちの視線が、一斉に三人に突き刺さる。彼らは今、正妻が愛人を引き裂く修羅場か、はたまた愛人が正妻を圧倒する下克上のドラマを、固唾を飲んで待ち構えているのだ。だが、感情欠落症である理央にとって、そんな野次馬たちの視線など今さら何の意味も持たず、痛くも痒くもない。一方、気まずさを隠せない恭弥は

  • 今更ですが社長、婚約者は逃げました   第9話

    「決まってるだろ、お前を守るためだよ!」こんなこと、言われるまでもなく明白な理屈だろう?それなのに、理央は感謝するどころか、なぜこうも執拗に沙織を敵視するんだ?そもそも、今回の件で傷ついたのはあいつだけじゃない。沙織だって酷いショックを受けているんだ。毎晩悪夢にうなされては泣いて俺を叩き起こし、俺の腕の中でしか眠れないほど怯えきっているというのに。なぜ理央は、自分だけが被害者だと主張して譲らないんだ?精神的なトラウマは「傷」のうちに入らないとでも言うつもりか?あいつはいつから、こんなに冷酷で融通の利かない女に成り下がってしまったんだ?以前の理央なら、誰よりも思慮深くて、人の痛みが分かる優しい女だったはずなのに。恭弥は、少し考えてみた。そういえば、沙織が帰国してからだ。理央がことあるごとに突っかかってくるようになったのは。以前のような従順さや愛らしさはすっかり影を潜めてしまった。そう思うと、恭弥はやれやれと溜息をついた。「分かったよ。嫉妬も大概にしとけ。今回の件は水に流してやるから、さっさと帰るぞ」「離して……っ」雨に打たれたせいか、ふくらはぎの傷がズキズキと疼きだした。激痛によろめき、理央はその場に崩れ落ちそうになる。間一髪、恭弥が素早く彼女の体を抱き支えた。その様子を、道路の向かい側に停まっていた黒のメルセデス・ベンツから、静かに見つめる視線があった。窓ガラスがゆっくりと下がり、コンビニの軒下で抱き合う二人の姿が、崇人の瞳に寸分違わず映り込む。降りしきる雨の雫に共鳴するように、長く濃密な睫毛が、微かに、本当に微かに震えた。反対側の窓から、旭も首を伸ばして外を覗いた。「おいおい……お前が土砂降りの中、血相変えて飛び出していくから何事かと思えば、お迎えだったわけか。にしても、雨宮さんはあの西園寺恭弥と別れたんじゃなかったのか?まさか復縁したのか?まあ、感情欠落症とはいえ、付き合いは長かったからな。そう簡単に未練は断ち切れないのかもな。西園寺がその気になりゃ、焼け木杭に火がつくことだってあるだろうし。惜しかったな。タッチの差で、美女は他のヒーローにさらわれちまった」「誰が迎えに来たなんて言った?」旭は眉をひそめ、全身の中で口だけが異常に強情な親友をまじまじと見つめた。「迎えじゃないなら、

  • 今更ですが社長、婚約者は逃げました   第8話

    理央は、幽霊のようにあてもなく街を彷徨った。脳裏で一本の糸がピンと張り詰めているような感覚がある。緩めたいのに、意思とは裏腹にその緊張感は消えてくれない。崇人が三代目の主治医になって以来、こんな不快な感覚に襲われるのは久しぶりだった。誰かに操られ、引っ張られているような感覚。けれど、その糸の端を握っているのが誰なのか、見当もつかない。崇人のことは、信頼に足る人物だと思っていた。だが、それはあの会話を聞くまでの話だ。今となっては、彼との間に築いた信頼関係のすべてを、根底から疑い、精査し直さなければならないだろう。いつの間にか、空の色が重く沈んでいた。降り出しそうだ。そう思った途端、前触れもなく大粒の雨が激しく地面を叩き始めた。理央は逃げ込むように、近くのコンビニの軒下に身を寄せた。そこへ、一台の車がゆっくりと近づいてきて路肩に停まった。アプリで呼んだ配車サービスの車かと思い顔を上げた理央の目に飛び込んできたのは、真っ赤なランボルギーニから降り立つ恭弥の姿だった。「どこ行ってたんだ!病院で大人しくしてろって言っただろ!?お前ってやつは、いっつもそうやって人に迷惑ばっかかけて……俺がどれだけ探したと思ってるんだ!帝都中ひっくり返す勢いで走り回ったんだぞ!」矢継ぎ早に浴びせられる質問攻めに、理央は頭痛を覚えた。彼女は冷ややかな目を恭弥に向ける。社交界きってのプレイボーイとして名高い御曹司が、今は見る影もない。半身はずぶ濡れで、高級シャツの襟はよれよれ。いつも完璧にセットされている髪は鳥の巣のように乱れ、目の下にはくっきりと隈が浮かんでいる。普段なら運転手付きの送迎車で移動する彼が、運転席から降りてきた。どうやら、本当に自分の運転で帝都中を探し回っていたらしい。だが、それが何だと言うのだ?「あんた、頭おかしいんじゃない?」理央は吐き捨てるように言った。「なんだと……」「病気なら医者に行きなさいよ。私に何の用?まさか、あんたも私にスマホを叩き壊されて、病室に監禁されたいの?」理央は心底うんざりしていた。ようやく熱が下がったばかりだというのに、次から次へと他人の罠や思惑に振り回されている。そもそも、私をあの十六階から飛び降りる寸前まで追い込んだ張本人が、どの面下げて被害者ぶって説教

  • 今更ですが社長、婚約者は逃げました   第7話

    「……私、用事があるから」理央はほとんど逃げるように立ち上がろうとしたが、高熱が引いたばかりの体は思うように言うことを聞かない。膝が笑い、その拍子にバランスを崩しかける。だが幸いにも、崇人の手はしっかりと彼女の背中を支え続けていた。物音を聞きつけた看護師がドアを開けた瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、理央が崇人の腕の中に崩れ落ちる決定的瞬間だった。崇人の手は、理央の最も敏感な腰のくびれを捉えており、そこから甘く低い吐息が漏れ聞こえる。これ以上見たら別料金が発生しそうな、そんな錯覚に陥る光景だ。「わ、私、何も見てませんからっ!」看護師は瞬時に空気を読み、バタンとドアを閉めると、通りかかった同僚を捕まえて興奮気味にまくし立てた。「ねえ聞いて!中ですごいもの見ちゃった!瀬名先生が、あの美人の患者さんをベッドに押し倒してたの!」「嘘でしょ? 衆人環視の白昼堂々、まさに野獣ね!服は脱いでた?」「まだだけど、秒で脱がしそうな勢いだったわ!我慢の限界って感じで!」「えっ?秒?そんなに動きが早いの?聞かせなさいよ詳細!」勢いよく閉めすぎたせいだろう、ドアが反動で少しだけ開き、外のあけすけな会話が丸聞こえになってしまった。理央は、彼に触れられている腰と、自分の顔のどちらが熱いのか判断がつかなくなった。崇人の喉仏が、ごくりと上下する。目の前の、恥じらって紅潮した理央の顔があまりに魅力的すぎたせいだろうか。彼の理性が「礼儀正しい距離を取れ」と命じているにもかかわらず、身体は初めてその命令に逆らい、すぐに離れようとしなかった。「彼女たち、口にチャックができないタチでね。気にしないで」「……ええ、もちろん」理央は目元をひきつらせながら適当に相槌を打ち、悟られないように少しずつ身体を後ろへ引こうとする。「それに、僕はそんなに早くないよ」「うん……え、何が?」崇人は楽しげに片眉を跳ね上げた。「もちろん、君が『早い』のがお望みなら合わせるけどね」理央は「今の言葉の意味なんて理解不能」とばかりに思考を放棄し、荷物をまとめると脱兎のごとくクリニックを後にした。車に乗り込んでもなお、胸の鼓動は早鐘を打ったまま静まる気配がなかった。タクシーの運転手は、車を出す前にルームミラーをちらりと覗き込んだ。「玄関に立っ

  • 今更ですが社長、婚約者は逃げました   第6話

    理央は、夢を見ていた。そこは、どこまでも昏く、淀んだ空気が満ちる地下室だった。じっとりとした冷気が肌にまとわりつく。幼い理央は閉じ込められ、小さな体で懸命に鉄の扉に体当たりしていた。「出して……ううっ……お母さん、ひとりにしないで……!」廊下からヒールの足音が響き、次の瞬間、鉄の扉が外側から乱暴に蹴り飛ばされた。ガンッ、と耳をつんざく音が地下室に反響する。「この疫病神!よくもまあ、いけしゃあしゃあと泣けるわね?あんたが誕生日なんか祝いたがるから……あの人は、こんな夜更けにトラックを出して帰ってこなきゃならなかったのよ!」「ああ、いい気味だわ。お父さんは死んだの。あたしたち親子は、明日から野垂れ死によ!」「誕生日なんでしょう?ケーキを買ってきて欲しかったんでしょう?お父さんなら中にいるわよ。ほら、これで満足でしょう!」扉の向こうからの罵声が、唐突に途切れた。代わって嗅覚を襲ったのは、消毒液とホルマリンが入り混じった強烈な刺激臭だ。それは見えない手となって鼻腔へとなだれ込み、理央の喉を締め上げにかかる。「違う、違うの!お父さんは私が殺したんじゃない!違……っ!」小さな手で鉄の扉を何度も搔きむしる。爪が剥がれ、無数の血の跡が鉄板に刻まれていく。「出して、お願いだから!ここから出して!」けれど、扉は無慈悲なほど固く閉ざされたままだ。鼻をつく臭気は、ますますその濃度を増していく。理央は息を詰め、恐る恐る振り返った。そこには、トラックに轢かれ、原形をとどめぬ肉塊と化した父の姿があった。ドクンッ。心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走る。「はっ……!」理央は弾かれたように目を開けた。視界に飛び込んできたのは、眩しいほどの白色灯と、クリーム色の柔らかな壁。書棚には『精神分析的診断』や『バーンズの感情療法』といった専門書が整然と並んでいる。ここは……「目が覚めた?」穏やかな声と共に、崇人が白湯の入ったコップを差し出した。「私……」口を開いた瞬間、理央は自分の声が酷く枯れていることに気づいた。まるで鋭利な刃物で喉の奥を抉られたような、ひりつく痛みが走る。「高熱が三日続いて、七日間昏睡状態だったんだ。やっと熱が下がったところだよ。傷口が化膿して、炎症を起こしていたせいだろうね」崇人が淡々と説明する。理

  • 今更ですが社長、婚約者は逃げました   第5話

    シャンパンタワーは優に二メートルはある。沙織が衝突した瞬間、おびただしい数のグラスが凄まじい轟音と共に崩れ落ちた。まるで凶暴なガラスの津波が、真下にいる人間を飲み込もうとするかのようだ。「恭弥さん、助けて!」沙織が悲鳴を上げる。理央もまた、生存本能に突き動かされ、一番近くにいた恭弥へと必死に手を伸ばした。――ただ、手を引いてくれるだけでいい。そう願った瞬間、確かに彼の手がこちらへ伸びてくるのが見えた。 だが次の瞬間、その手は無情にも理央をすり抜け、背後にいた沙織を抱き寄せたのだ。意識を取り戻した時、理央は病院のベッドの上にいた。鼻をつく消毒液の臭いに、強烈な吐き気が込み上げる。父があの交通事故で亡くなった時、ホルマリンの臭いが充満する霊安室から、白い布に覆われた遺体が運び出されるのを目の当たりにして以来、彼女はこの臭いにトラウマを抱えていた。病院に一人でいることなど、到底耐えられない。 だから普段、どんなに体調が悪くても、自力で治すようにしてきたのだ。幸いなことに、母がよく口にしていた『憎まれっ子世に憚る』という言葉通り、彼女は滅多に病気をしなかったのだが。モニターが規則的な電子音を刻んでいる。理央は衝動的にシーツを跳ね除け、起き上がろうとした。「何してるんだ!」入り口から駆け込んできた恭弥が、強引に彼女をベッドへと押し戻す。その端正な顔は、まだ恐怖が抜け切らないように強張っていた「自分の怪我の状態がわかってるのか?破片があと数ミリずれてたら、失明してたんだぞ!」無理やり起き上がろうとしたせいで、理央は自分の身体がどれほどのダメージを負っているか嫌というほど痛感していた。病室から歩いて出る力さえ残っていないのだ。そこへ追い討ちをかけるような恭弥の咎めるような口調。理央の腹の底から、抑えきれない怒りが沸き上がった。「西園寺恭弥……あなた、頭おかしいんじゃないの!?」理央という人間は、常に精神が強固で安定している女だ――というのが、周囲の共通認識だった。これほどまでに感情を露わにし、取り乱す姿など記憶にない。恭弥は一瞬呆気にとられたが、すぐに何か納得したように、困ったような、それでいてどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。「……なるほど。俺が真っ先にお前を助けなかったことを怒ってるのか?」理央

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status