All Chapters of 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした: Chapter 571 - Chapter 580

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第571話

そんな話をしていると、屋外から突然、泣き叫ぶような声が響いてきた。壁一枚隔てているだけだというのに、生々しく胸に突き刺さるその悲痛な泣き声は、聞く者の胸を締めつけるほど重苦しい。子供たちは明らかに怯え始めていた。つい先ほどまでの好奇心に満ちた表情は、一瞬にして消え去る。唯にいたっては、恐怖のあまり布団を頭からすっぽりとかぶってしまった。芽依はぎこちない手つきで布団を引っ張りながら、強がってみせる。「ふん、これのどこが怖いのよ」悠真も布団から出ていた足を慌てて引っ込めた。「そうだよ。ただの結婚式じゃん。唯はほんとに怖がりだなあ」芽依と悠真は唯より少し年上ということもあり、必死に平静を装っていた。しかし、どう聞いてもその泣き声は「祝福」とは程遠い。まるで誰かの葬列でも始まったかのような、不吉な響きだった。その時、部屋のドアがコンコン、と静かにノックされた。外の泣き声と重なり、その音はいっそう異様に響く。次の瞬間、芽依と悠真は互いに布団の端を引っ張り合い、唯とまったく同じように頭まで潜り込んでしまった。布団の中に突然二人が滑り込んできたのを感じ取った唯が、むっとした声を上げる。「怖くないんじゃなかったの?弱虫!」紬は布団の中で三匹の「芋虫」がもぞもぞと動くのを見て、思わず吹き出しそうになりながらもドアへ声をかけた。「どうぞ」千鶴が上着を肩に羽織り、ドアの隙間から顔を覗かせる。「みんなも起こされちゃいましたよね?怖がらなくて大丈夫ですよ。お隣のおばさんの娘さんが、お嫁に行くんです」「ほら、聞こえた?怖くないのよ、結婚式なんだから。顔を出しなさい。布団に潜ったままだと苦しいわよ」紬は三匹の「芋虫」をやさしくぽんぽんと叩いた。「いやだ、いやだ!すっごく怖いもん!結婚するのに泣くなんて見たことないよ、うわーん!」芽依は本気で怯えていた。紬もそれ以上無理強いはせず、掛け布団をめくってベッドから足を下ろした。「じゃあ、みんなはここにいてね。ママがちょっと見てくるから」しかし彼女が床に足をつけた瞬間、三人の子供たちは異口同音に「いやだ!」と叫び、一斉に布団を跳ねのけてベッドから飛び降りた。そして数珠つなぎのように紬の後ろへくっつき、彼女の小さなしっぽのようになった。紬は思
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第572話

紬は突然の強烈な光に、思わず目を細めた。光に目が慣れ、再び視線を向けた先に見えた女の顔は、驚くことにまったく予想もしていなかった旧知の人物だった。望美だ。彼女の背後には、番組のカメラマンやスタッフたちがぞろぞろと付き従っている。そして瞬く間に、望美は花婿と花嫁の目の前へと突進していった。望美は顔いっぱいに憤慨の色を浮かべ、叫んだ。「その女の子を離しなさい!泣いているのが見えないの?私の記憶が確かなら、この地域では今、祭りや行事は自粛中のはずよ。あなたたちがやっているのは拉致よ!」突然現れた見知らぬ集団を前に、花婿の瞳に警戒の色が走る。「……あんたたち、一体何者だ?」「私たちは、この歴山の魅力を伝えるためにロケに来ている番組チームよ!今、生配信の向こうでは、何十万人もの視聴者があなたたちの暴挙を見守っているの!早くその子を下ろしなさい!」望美は男を鋭く指差しながら、心の奥では激しい高揚に震えていた。昨日、紬の身に事件が起きたことで、地元当局は祭りや行事への自粛要請を出し、取り締まりを強化したばかりだった。まさか、その最も風当たりの強い時期に、こんな事件が起きるとは。それも自分たちが宿泊しているこの寂れた町の真ん中で。成哉が撮影に協力しなくても問題はない。スポットライトを浴びるチャンスなど、いくらでも転がっているのだから。望美は番組スタッフの中で、騒ぎにいち早く気づいた出演者だった。彼女が急いでネットで検索したところ、歴山のこの一帯に夜間に祭りを行う風習など存在しないことが分かった。これはきっと、祭りに紛れた犯罪行為に違いない。そう確信した望美は、すぐさまスタッフに指示を出し、生配信を開始させた。昨日、良かれと思って大失態を演じた自分にとって、これは絶好の汚名返上のチャンスだった。ネット上には、もともと夜更かしをしているユーザーたちが多く張り付いていた。番組が掲げたあまりにもセンセーショナルなタイトルに惹かれ、野次馬たちが次々と配信ルームへ流れ込んでくる。【うわ、真夜中なのにめちゃくちゃ不気味。何これ……お葬式?】【あれ、何の行事?お通夜みたいだし、男もガタイ良すぎて怖すぎるんだけど】【ここって歴山でしょ?昨日もひどい拉致未遂のニュースを見たばかりなのに、今夜もまたこれ?】
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第573話

【ちょ、ちょっと待って、これって我慢大会?耐えきれずに吹いたわ!】【不謹慎なコメントは消えろ!望美様は、いつだって誰よりも正義感が強いの!】しかし次の瞬間、花嫁は差し出された望美の手を、ひったくるように勢いよく払いのけた。そしてお世辞にも流暢とは言えない標準語で、涙を流しながら叫ぶ。「どきなさいよ!早くそこをどいて!」花嫁は続けて、途切れ途切れに何かをまくし立てた。だが、それはこの地方特有の方言で、望美には一言も聞き取れない。その様子を、紬はなんとも言えない複雑な表情で見つめていた。望美……あんた、一体何をやっているのかしら……「千鶴さん、花嫁は何て言っているの?」「『邪魔しないでどいて。私はこれから大好きな人のところへ嫁ぐの。アンタみたいなお節介は余計なお世話よ!』って言っています……」千鶴はすっかり状況に飲まれてしまい、うっかり花嫁の荒々しい口調のまま、そのまま通訳してしまった。花婿の顔は、すでにこれ以上ないほど不快そうに歪んでいる。「聞いたか。邪魔だから早くどいてくれ」「ふざけないで!あなたが彼女を脅しているに決まっているわ!」望美は花婿の鼻先を指差し、激しく罵った。「そんなむさくるしい見た目の男が、普通にしてこんな綺麗な奥さんを手に入れられるわけないでしょ!はっきり言いなさい、いくらで彼女を買ったの!?その金なら私が払ってあげるわ!」そう言うと、望美はポケットからスマホを取り出した。「あいにく現金はないけど、振り込みでも何でもいいわ。今すぐ指定口座に送金してあげる!だから早く彼女を下ろしなさい。苦しんでるのが見えないの!?」花婿は望美を完全に無視し、花嫁を背負ったまま、そのまま強引に人垣の間を突っ切って歩き出す。それを見た望美は、悔しそうに奥歯を噛み締めながら後を追った。「話はまだ終わってないわ!彼女を下ろしなさい!もうすぐ警察が来るわよ、そうなったらあなたたち、一人だってただじゃ済まないんだから!」【あああ、望美様カッコよすぎ!どうしてこんなに良い子なの!?スタッフ何してるの!?】するとすかさず、カメラの向こうからスタッフの声が入る。「視聴者の皆様、ご安心ください。すでに警察には通報済みです」【よしよし、それなら三秒だけ許す!】【この女の子、本当に可哀想……
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第574話

唐突に生配信が強制終了され、画面の向こうの視聴者たちも騒然となった。【望美様、まさか何かあったんじゃ……!?めちゃくちゃ心配なんだけど!誰か近くにいる人、様子を見に行ってよ!】【うわ、あの花嫁、恩を仇で返すタイプかよ!望美様があんなに助けようとしてくれたのに!最低!】【地元警察の電話番号わかる人いない!?番組スタッフ、本当は通報してないんじゃないの!?】一晩のうちに、ネット上の熱狂は爆発的に膨れ上がっていった。事態を重く見た番組チームは、急遽公式声明を発表したが、一部の過激なユーザーたちが「これは真実を隠すための揉み消しだ」と煽ったせいで、かえって火に油を注ぐ結果となってしまう。しまいには、「望美はもう死んでいるかもしれない」などという不穏な噂まで飛び交い始め、地元の観光業への打撃は計り知れないものになっていた。成哉は昨日からずっと山の麓に留まっていたが、町へ戻ってきた頃には、すでに深夜組の記者たちが町の入り口に大挙して押しかけていた。ネット上の騒動についても、移動中の車内でひと通り目を通している。だが、望美が本当に死んだなどとは、これっぽっちも思っていなかった。なぜなら、ああいう「害虫」ほど、妙にしぶとく生き残るものだと知っていたからだ。案の定、部屋へ戻ると、そこには三人のメイクアップアーティストに囲まれた望美の姿があった。「あんたたち、本当にプロなの!?下手くそなら今すぐ消えて!」望美は苛立ちを隠そうともせず、手元にあったメイクボックスを床へ叩きつけた。それは、ちょうど部屋へ入ってきた成哉の足元まで転がっていく。物音ひとつ立てずに現れた男の姿を見て、望美の瞳に一瞬だけ後ろめたさがよぎった。「……成哉、やっと帰ってきてくれたのね」紬の拉致事件が起きて以来、成哉は町へ飛び出したきり、一度も戻ってこなかったのだ。昨日、望美は半ば賭けのつもりで動いていた。まさかネットの流れが、こんな歪んだ形で自分に追い風になるとは思ってもみなかったが。番組スタッフたちは、一刻も早く表に出て声明を出してくれと泣きついてきていた。だが望美は、「体調が悪い」という理由をつけて、わざと拒み続けていた。昨日、自分が殴られていた時に、ただ黙って見ていた連中だ。今さら地元住民に巻き込まれて一緒に叩かれるなど、
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第575話

二日後。津雲での仕事はすべて無事に終了し、紬は細部に至るまで磨き上げた最終デザインを納品した。子供たちも思う存分遊び回り、大満足といった様子だった。千鶴も百枝の転校手続きを無事に終え、百枝の父親は一足先に海原の療養院へ搬送されていた。実家の片付けや諸々の手配をすべて終えた一行は、津雲から飛行機で海原へ戻ることになった。カナは千鶴と百枝を、自分の住むマンションへ連れて行くつもりらしい。会社にも近く、何かと都合がいいのだという。「ビジネス担当の子も一緒に住んでるから安心して。私たちみーんな、すっごく『お・だ・や・か』だから!」カナは意味深な笑みを浮かべて眉をピクリと動かしたものの、三秒も経たないうちに自分で吹き出してしまった。紬は苦笑しながら釘を刺す。「カナと暮らすなら、気をつけるのは体重管理くらいね」少し前、雅乃から聞いた話によれば、カナはしょっちゅう真夜中に人を連れ出しては夜食に付き合わせるらしく、ここ数日で雅乃の体重はみるみる増えてしまったのだという。千鶴は今のスタイルがちょうどカメラ映えする絶妙なラインを保っているだけに、モデルとして体型維持はかなり重要だった。千鶴は照れたように笑った。「じゃあ、ちゃんと食事のバランスに気をつけて、たくさん歩くようにします」彼女は紬たちより年下で、まだ二十歳になったばかりだった。ただ、小森家という過酷な環境の中で、無理やり早く大人にならざるを得なかっただけなのだ。こうして肩の力を抜いている時の千鶴は、やはり紬の目には、守ってあげたくなる可愛い妹分に映った。カナが千鶴と百枝を連れてマンションへ向かうのを見送り、紬も芽依と悠真を連れて自宅マンションへ帰宅した。今回の帰路では、理玖は唯と浩之を連れて、そのまま自家用車で本家へ戻ることになっている。唯は最後まで紬たちと別れるのを惜しんでいたが、結局は、一人で寂しそうにしている浩之に付き添う道を選んだのだった。紬が二人の子供を連れて家へ戻り、荷物を下ろして一息ついた頃。不意にインターホンが鳴った。「ママ、僕が行くね!」悠真が真っ先に玄関へ駆けていく。てっきり唯が戻ってきたのかと思っていたが、ドアの向こうに立っていたのは叔母の凛花だった。「凛花おばさん、どうしてここに……」悠真は戸惑ったよ
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第576話

紬は芽依の小さなオモチャを鞄に詰めていたが、凛花の言葉を耳にした瞬間、自分の聞き間違いではないかと耳を疑った。いつもなら、凛花と絵美は同じ戦線に立つ味方同士のようなものだ。絵美にいたっては、紬に二度と子供たちを会わせたくないとさえ思っている。それだけに、今日の凛花の態度はあまりにも不自然だった。紬の驚きを隠せない表情を見て、凛花は内心ひどく苛立っていた。――子供たちが目の前にいるんだから、そんなこと直接言えるわけないでしょ。この二人の怪獣は、私一人じゃ本当に手に負えないんだから!凛花は、自分に向かってこれ以上ないほど満面の笑みを向けている芽依と悠真をちらりと見た。今はこうして無邪気に笑っているが、ひとたび機嫌を損ねた時の破壊力は桁違いだ。もしこの二人が家に帰って告げ口でもしようものなら、明日から自分の会社の立ち上げ資金どころか、毎月のお小遣いまで危うくなってしまう。「ほら、いつまでもグズグズしてないで。さっさと片付けて帰るわよ」凛花は軽く咳払いをすると、どこか気まずそうに表情をこわばらせた。帰るという言葉が出た途端、二人の小さな笑顔は案の定、さっと消え去った。凛花は紬の少し寂しげな背中を見つめ、思わず言葉を付け加える。「……もうすぐ芽依と悠真の誕生日だけど、あんたは来るの?」紬は最後のオモチャを鞄にしまい終えると顔を上げ、瞳に淡い微笑みを浮かべた。だが、彼女が口を開くより先に、凛花が畳みかけるように言った。「勘違いしないでよね。別にあんたを可哀想だなんて思ったわけじゃないから。当日はおじいちゃんも海原にいらっしゃるの。最近は体調もあまり良くないみたいだし、あんたがお兄ちゃんと離婚するにしても、最後くらいはきちんと体面を保って終わらせるべきでしょ」芽依と悠真の誕生日が過ぎれば、成哉との離婚届は正式に受理されることになる。このところ崇の側から何の連絡もないのは、おそらく望美が「お腹の子供」を盾にして、新浜の本家をうまく丸め込んだからだろうと、紬はおおよその見当をつけていた。今回の誕生日会に顔を出すくらいなら、大きな問題にはならないはずだ。それに何より、悠真と芽依がこれほど名残惜しそうな目で自分を見つめているのを見てしまうと、拒絶の言葉などどうしても口にできなかった。紬は最後に二人の頭
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第577話

今回の津雲市への滞在は、紬に数多くのインスピレーションをもたらしていた。子供たちのためにデザインした冬用の衣装だけでなく、現地ならではの要素を取り入れた、華やかで個性あふれるローカルドレスのデザインにも着手していたのだ。そしてその試みは、偶然にもカナの発想と見事に重なっていた。ここ数日を過ごした歴山は、手つかずの自然が残る美しい土地だった。そこにそびえる雄大な山々、澄み切った渓流、そして豊かな生態系――そのすべてが彼女たちの心に深く刻み込まれていた。カナもまた創作意欲を大いに刺激され、この土地の風土を取り入れた自身初のドレスシリーズをデザインした。そして、その作品に『風響――山なみと風の響きが織りなす愛の調べ――』という情熱的な名を与えた。ドレスにあしらわれた山野の花々は、どれも自然の息吹を感じさせるものばかりで、絶妙なバランスで配置されている。シリーズ全体から漂う、そよ風に揺れる草原のようなみずみずしい輝きは、見る者の心を一瞬で惹きつける魅力に満ちていた。カナから提出されたデザイン画を受け取った紬も、思わず感嘆の声を上げる。「カナ、本当にすごい進歩ね!見ているだけで心がふんわり温かくなるような、素敵なドレスだわ」カナは誇らしげに腰へ手を当て、胸を張った。「わーっははは!それじゃ、このドレスが完成したら第一号は紬先輩にプレゼントです!私が無料でスポンサーしちゃいます!」「さすがカナ。太っ腹ね」紬は親指を立て、いたずらっぽくウィンクしてみせた。面白いことに、カナ自身はまだ一度もまともな恋愛を経験したことがない。それなのに、これほど温かな優しさに満ちたドレスを生み出してしまったのだ。そのインスピレーションの源を尋ねると、返ってきた答えは誰の予想も超えるものだった。「これですよ、これ!」カナは千鶴のデスクの上に置かれていた一枚の家族写真を取り上げた。写真に写る千鶴の亡き両親の衣装は、非常に手の込んだ重厚なものだった。だが、カナが目を留めたのは服そのものではない。二人の間に流れる、目には見えない温かな空気だった。ドレスそのもののデザインは写真の衣装とはまったく異なるモダンなものだが、襟元に施された四つ葉のクローバーの刺繍だけは、彼らへのオマージュとして独立したブローチへと仕立て直して
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第578話

その言葉を聞いた清彦は、舌で頬の内側を軽く押しながら、どこか挑発的な笑みを浮かべた。「君、本当に容赦ないな。頭に血が上ると、自分まで巻き添えにして貶すタイプか」雅乃は眉ひとつ動かさず、最初の打ち合わせの際に作成した詳細な要望書を画面に呼び出した。そこには、薄いピンク色のシャツの胸元に、[浮気お断り、モラハラお断り、音信不通からの突然の別れお断り]という文言が、これ以上ないほど明確にデザイン指定として組み込まれていた。清彦はそれを見るなり眉をひそめ、鼻で笑うと、再び資料をテーブルへ放り投げた。「こんな堅物みたいなシャツを着て、本気で恋人の気が変わってヨリを戻せると思ってるのか?」男が着るジャストサイズのシャツなんて窮屈で退屈極まりない。そんなことを言っていた誰かの言葉を、彼は覚えていた。そして、その誰かがピンク色を何より嫌っていたことも。このデザイン画は、まるで自分への当てつけのようだった。心の奥に刺さった棘を、さらにぐりぐりと押し込まれるような痛みが広がる。雅乃はその問いには答えず、真正面から彼を見据えた。「では、お伺いします」そして単刀直入に切り込む。「清彦さん。あなたが気に入らないのは、このデザインですか。それとも……私ですか?」二人の視線が真正面からぶつかり合う。室内の空気が、一瞬で凍りついた。その間に挟まれていた担当デザイナーは、自分の逃げ足の遅さを生まれて初めて呪った。こんな大金欲しさに、わざわざ板挟みのサンドバッグになるべきではなかったのだ。沈黙が流れる。一歩も引こうとしない雅乃を睨み続けていた清彦は、ついに苛立ちを爆発させた。「どっちもだ!一つとして俺を満足させるものがねえんだよ!」「清彦さん、何をそんなに怒っていらっしゃるんですか?」そこへ紬が応接室へ足を踏み入れ、火花を散らす二人へ視線を向けた。清彦はテーブルの上のデザイン画を指差す。「紬さん、身内のよしみで言うわけじゃないが、御社のデザイナーの実力は少し見直した方がいい。これじゃ話にならない」雅乃は鋭く清彦を睨みつけた。彼がただの腹いせで、自分を苛立たせるためだけに難癖をつけていることくらい百も承知だった。自分がディレクターとして送り出すデザイナーなら、相手が誰であろうと絶対に首
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第579話

まともに自分の気持ちを口にできないのかしらね。紬はわざと驚いたような表情を浮かべた。「本当に、もう変更しなくてよろしいのですか?」「ああ、変えない!これで決定だ。二度と変更なんてさせないからな。図面も担当も、絶対にチェンジなしだ!」清彦は強引に話をまとめると、これ以上紬から恐ろしい提案をされる前に逃げ出そうとするかのように、慌てて上着をひったくり、応接室を飛び出していった。その後ろ姿は、どう見ても敗走する兵士そのものだった。「このバージョンをベースに色味を調整して、ピンクを少し抑えめにして提案してあげて」紬は、長らく二人の板挟みになっていた若手デザイナーのレナへデザイン画を手渡した。「はいっ、承知しました!」レナは感激のあまり、今にも泣き出しそうだった。――みんな聞いて!あれだけ紆余曲折があったのに、結局通ったのは最初の案だったよ!やっと終わったー!天にも昇るような気持ちで、レナは悪夢のようだった応接室から一目散に退散した。部屋を出る際には、カナと千鶴にも嬉しそうに挨拶をしていく。見物していた二人も、それに続くようにそっとその場を後にした。「紬さん、お手を煩わせてしまって申し訳ありません」雅乃は気まずそうに視線を落とした。このところの清彦の言動は、完全に私情を仕事へ持ち込んだ嫌がらせにしか見えなかった。自分がもっと上手く立ち回れていれば、と彼女は責任を感じていたのだ。「いいのよ。清彦さんって、時々とんでもないことをするけれど、本質的には子供みたいな人だから。ただ、好きな人に素直になれなくて、つい天邪鬼になってしまうだけ。大した問題じゃないわ」紬はソファに腰を下ろし、二つのグラスに水を注いだ。雅乃は静かに頷く。「……ええ。本当に、その通りですね」紬は、二人の間に何か過去の出来事があったのだろうと察していた。だが、それは決して修復不可能なほど深刻な問題には見えなかった。もし雅乃が自分から話してくれるのなら、いつでも耳を傾けるつもりだった。けれど、彼女が自分一人で整理したいと思っているのなら、それ以上踏み込むつもりもない。「ここでの仕事はどう?少しは慣れたかしら」「ええ、とても充実しています。皆さん、本当に親切にしてくださいますし」雅乃は紬からグラスを受け取り、
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第580話

望美は心の奥で冷ややかに笑っていた。――私だって帰ってきてほしいわよ。でも、あの人が全然帰ろうとしないのよ!今の成哉なんて、私のメッセージに既読すらつけないっていうのに!だが、絵美の言葉は彼女の警戒心を強く刺激した。確かに、成哉は津雲から戻ってきて以来、明らかに様子がおかしい。紬は本当に悪運が強い。またしても無傷で救い出され、結局あの騒動も大した波乱にならないまま終わってしまった。ただ、成哉はあの事件以来、毎日のように姿をくらましている。本来なら一緒に番組収録へ参加するはずだったのに、まともにカメラの前へ立ったのは最初の二日だけだった。望美は部下に命じて四六時中監視させていたが、彼が紬のもとへ向かった形跡は見当たらない。となると、本当に別の女でもできたということなのだろうか。望美の胸には疑念が渦巻いていた。夕食の席で、成哉が今夜も帰宅しないと知った彼女は、わざわざ料理長にスープを作らせ、それをスープジャーに詰めて天野グループ本社へ向かった。会社へ到着すると、フロントの受付嬢が望美に気づき、営業用の笑顔を浮かべながら愛想よく声をかけてきた。「橋本様、いらっしゃいませ」普段の望美なら、この程度の末端スタッフなど最初から視界にも入らない。だが、成哉が連日会社に泊まり込んでいる状況で、若く瑞々しい受付嬢の顔を見せつけられると、それだけで虫の居所が悪くなった。望美は顔を引きつらせ、低く濁った声を絞り出した。「何笑ってんの?何がそんなにおかしいわけ?」「え……いえ、そのようなことは……」受付嬢の笑顔は一瞬で凍りつき、慌てて視線を落とした。望美がエレベーターへ乗り込み、その場を去った後――受付嬢は心の中で毒づく。――この人、頭おかしいんじゃないの?ただの愛人のくせに、何様のつもりなのよ。望美の苛立ちは、すでに限界へ達していた。最上階の秘書室へ到着したものの、いつもいる健一の姿はなく、見慣れない男性アシスタントが一人いるだけだった。「成哉はどこ?」「社長は……その、今は少しお休みになられています。よろしければ、あちらでお待ちいただけますか?」アシスタントは契約書の確認作業に追われていたところへ、突然背後から望美に声をかけられ、肝を冷やしていた。だが望美には、彼が視線を泳が
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