輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした のすべてのチャプター: チャプター 661 - チャプター 670

691 チャプター

第661話

そんなことを考えながら、紬は丁寧に手を洗い終え、洗面所を後にした。ところが、廊下の角を曲がったその瞬間、頑丈でありながらどこかしなやかな「肉の壁」に、正面からぶつかってしまった。「あっ――」思わず小さな悲鳴が漏れる。「大丈夫かい?」頭上から降ってきたのは、深い気遣いを含んだ低い男の声だった。紬が慌てて顔を上げると、そこには吸い込まれそうなほど深い漆黒の瞳があった。彼女の白い頬に、みるみる気まずそうな赤みが広がる。言うまでもなく、ぶつかった相手は臨也の胸板だった。紬は鼻先をそっと擦りながら言った。「ええ、大丈夫よ。臨也さん、いたんだね」臨也は、彼女の白い鼻先に浮かんだ鮮やかな赤みを見つめていた。先ほど胸に伝わった、彼女の柔らかく華奢な身体の感触が脳裏をよぎり、その漆黒の瞳はいっそう深い色を帯びる。「ああ、今日は非番なんだ」短くそう答えると、続けて尋ねた。「鼻は痛まないかい?」「大丈夫。ぶつかった瞬間は少し痛かったけれど、もう何ともないわ」紬はそう答えながら、次からはちゃんと前を見て歩こうと心の中で固く誓った。臨也はようやく安堵したように息をついた。「それなら良かった。さあ、行こう。料理が冷めてしまう」二人はそのままダイニングへ向かい、それぞれ席に着いた。紬が佳苗の左隣に腰を下ろそうとすると、佳苗はすかさず臨也の腕を引き、紬の隣へと強引に座らせた。「あなたたち、子供の頃は一緒におままごとして遊んでいた仲でしょう?大人になったからって、そんなによそよそしくする必要なんてないわ。ほら、隣同士に座って、少しは昔の親しさを取り戻しなさいな」そう言うと、佳苗は二人を隣り合わせに座らせ、自分は向かいの席へ陣取った。その視線は、まるで極上の恋愛小説でも鑑賞するかのように熱を帯びている。「ほら、見てごらんなさい。あなたたち、本当に並ぶと絵になるわねぇ。紬ちゃんは小さい頃から変わらずお人形さんみたいに綺麗だし。なのに、うちの馬鹿息子ときたら、大きくなるにつれて可愛げはなくなるし、へそ曲がりになるしで困ったものだわ」臨也はどう返すべきか分からず沈黙を守ったが、紬の隣の席だけはしっかり確保したまま、一歩たりとも退こうとはしなかった。食卓を包むあまりにも露骨な空気に気づき、紬は少し困ったよう
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第662話

佳苗は紬の柔らかな温もりを胸いっぱいに受け止めながら、切なげにひとつ息をついた。そして愛おしむように、何度も何度も紬の背中を優しく撫でる。その胸には、この子がどれほど深い孤独と、他人への不信を抱えながら生きてきたのかという痛ましいほどの理解があった。どこまでいっても、この子は運命に翻弄され続けてきた薄幸の少女なのだ。「心配しなくていいのよ、紬ちゃん。ほかのことなら大口は叩かないけれど、あなたの叔母様の件だけは、自分の家族のことだと思って責任を持って手配するわ。だから何も心配せず、全部この私に任せなさい」紬は小さく、けれどしっかりとうなずいた。佳苗が惜しみなく注いでくれる無条件の愛情を、彼女は一滴たりともこぼすまいと胸の奥深くに刻みつけていた。ふと壁の時計に目を向けると、外はすっかり夜の帳に包まれていた。紬は名残惜しそうに立ち上がり、別れを告げる。「佳苗さん、すっかり長居をしてしまいました。そろそろ失礼いたします。また近いうちに、必ずご挨拶に伺いますね」「もう帰っちゃうの?」佳苗は心底寂しそうに眉を寄せた。「せっかくゆっくりお話しできたと思ったのに、もうお別れなんて。あなた、本当に仕事が忙しすぎるわ」紬は彼女を安心させるように微笑んだ。「佳苗さん、お約束します。少しでも仕事が落ち着いたら、すぐにでもお邪魔します。その時は、あまり頻繁に来るって嫌がらないでくださいね」「そんなこと、あるわけないでしょう!」佳苗は嬉しそうに目尻を下げると、腰を上げて玄関まで見送った。「じゃあ、これ以上は引き止めないわ。また今度は、あの可愛い双子ちゃんたちも一緒に連れてきてね」紬はその温かな言葉を、静かに胸へ刻み込んだ。その時、佳苗はリビングにいた臨也へ鋭く目配せを送る。「こら、そこの意地っ張り!いつまでぼーっとしてるの。早く紬ちゃんを送っていきなさい。こんな夜遅くに、一人で帰らせるなんて絶対に許しませんからね。いい?紬ちゃんに髪の毛一本でも傷をつけたら、ただじゃ済まないわよ!」紬が慌てて「いえ、お気遣いなく……」と言いかけたが、その言葉より早く、臨也は静かに立ち上がり、彼女の隣へ歩み寄った。「分かってるよ、母さん。安心して」これ以上辞退するのも失礼だと察した紬は、素直に彼の厚意を受け入れることにした。玄
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第663話

紬は美しい瞳を大きく見開き、頭の中が真っ白になるのを感じた。まさか臨也から、こんなにも唐突に想いを打ち明けられるなど、夢にも思っていなかったのだ。二人を結ぶものといえば、幼い頃の淡い思い出くらいで、大人になって再会してからの関わりは決して多くなかった。だからこそ、このあまりにも突然の告白を前に、紬はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。――だから今日の佳苗さん、あんなに様子がおかしかったのね。すべては、自分と臨也を引き合わせるために用意された舞台だったのだと、ようやく点と点が一本の線で結ばれた。「私は……」紬が形の良い唇をわずかに開き、言葉を紡ごうとしたその瞬間だった。臨也はそれを制するように人差し指を立て、自らの唇へそっと当てた。「紬、分かっている。俺の告白が、今のお前にはあまりにも突然で、戸惑わせるものだということくらい百も承知だ。でも、お前への想いに嘘は一つもない。幼いあの日から、俺の心の一番奥には、ずっとお前がいた。そして奇跡みたいに再会してからは、俺の目はもう、お前から離れなくなってしまった。お前があの男と結婚したと知った時、どれほど胸が引き裂かれたか……何度も諦めよう、身を引こうと自分に言い聞かせた。それでも……気づけば、もうこの想いを押し殺すことができなくなっていたんだ」紬の長い睫毛が、不安げに小さく震えた。臨也がここまで感情を露わにし、これほど多くの言葉を口にする姿を見るのは初めてだった。臨也は、飢えた獣のような切実さを滲ませながら、さらに言葉を続ける。「昨日、お前が正式に離婚したと聞いた瞬間、俺は心の底から嬉しかった。ようやく俺も、後ろめたさを抱えることなく、堂々とお前の隣に立つ資格を得られたと思えたからだ。だから……頼む。一人の男として、俺をその選択肢の中に入れてくれないか」漆黒の瞳は至近距離から紬を真っ直ぐ見つめ、その表情のわずかな揺らぎすら見逃すまいとしていた。その黒い瞳の奥には、隠し切れない怯えと、祈るような期待が、危うい均衡を保ちながら共存していた。しかし、紬の口から漏れたのは、張り詰めた空気をわずかに和らげるような、小さな笑い声だった。「臨也さん。あなたまで佳苗さんと同じように、あの子供の頃のおままごとを、本気で信じていたの?」そう言うと彼女は、自分を囲
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第664話

紬は艶やかに微笑んだ。「あなたも、どうか幸せになってね」臨也はもう、それ以上未練を残そうとはしなかった。ただ最後にもう一度だけ紬の姿を瞳に焼き付けると、そのまま静かに背を向け、歩き去っていった。――ありがとう、紬。俺の人生に、お前という光が現れてくれたことを、心から感謝している。紬もまた踵を返し、階段を上っていく。だが、先ほど二人が交わしたあの抱擁を、上階から冷ややかに見下ろしていた人物がいることなど、彼女は知る由もなかった。理玖は手にしたグラスを、指先が白くなるほど強く握り締めていた。灰色の瞳は底知れぬ陰を宿し、遠ざかっていく臨也の背中を、今にも射抜かんばかりの鋭さで見据えている。その表情は、まるで墨を流したように暗く張り詰めていた。紬がエレベーターを降りた、その瞬間だった。突然、力強い腕が伸びてきて彼女の身体を引き寄せる。気づけば一瞬のうちに、聞き慣れた懐かしい胸の中へ閉じ込められていた。その体温と香りだけで、抱き締めている相手が誰なのかを悟った紬は、安堵の息を漏らす。喉元まで込み上げていた悲鳴を、そっと飲み込んだ。少し呆れたように理玖を見上げる。「何の真似?いい大人が、こんな夜更けに人を驚かせないで」理玖は冷ややかに鼻で笑うと、何も言わず紬の手首をしっかりと掴んだ。「……どうしたの?」紬が戸惑いながら尋ねても、理玖は何も答えない。ただ強い力で彼女を自室へと連れて行く。事情は分からなかったが、紬は抵抗することなく、大人しくその後に続いた。部屋へ入るなり、理玖は背後で乱暴にドアを閉め、棘を含んだ声で口を開いた。「……さっきの男は、大江臨也だったのか。わざわざここまで送ってくれたみたいだね」その一言で、紬はすべてを察した。「ええ、そうよ。でも彼との間には何もないわ。さっきのことも、幼なじみとの別れ際の抱擁、それだけよ」誤解を生みたくなかった紬は、自ら進んで事情を説明した。理玖との間に、つまらないすれ違いやわだかまりを残したくはなかったからだ。「幼なじみ、ね」理玖は忌々しげに鼻を鳴らした。「あいつが君を見る目は、初恋の相手を見るような目だったぞ」臨也という男が紬にどんな想いを抱いているのか。そんなことは、理玖には最初から分かっていた。初め
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第665話

おまけに、紬と臨也は幼なじみという深い絆で結ばれている。そう思うたびに、理玖の胸の奥で燻る嫉妬の炎は、ますます勢いを増していった。――どうして俺は……もっと早く彼女と出会えなかったんだろう。紬は小さく両手を広げ、呆れたように笑った。「もちろん、お断りしたわ。彼とは幼い頃からの縁はあるけれど、異性として見たことなんて一度もないもの。ただのお兄ちゃんみたいな存在よ」その言葉を聞いた瞬間、理玖の胸を締めつけていた緊張は、一気にほどけた。彼は張り詰めていた身体の力をそっと抜くと、わざと紬の首筋へ顔を埋め、その華奢な身体に体重を預けるようにして腰を強く抱き寄せた。紬は何度か彼の胸を押し返そうとしたが、大木のようにびくともしない。ついに諦め、溜め息交じりに受け入れることにした。顔を上げると、理玖の柔らかな髪をそっと撫で、子どもをあやすような優しい声で言う。「もう、いい加減機嫌を直して、早く休んでちょうだい。明日も朝から仕事なんでしょう?余計なことばかり考えないの」理玖はようやく小さく頷き、紬の言葉を受け入れた。だが、先ほど階下で目にした、紬と臨也が寄り添っていたあの忌々しい光景は、まだ脳裏に焼き付いて離れない。理玖は灰色の瞳でじっと紬を見つめる。まるで彼女の美しい輪郭の一つひとつを、心の奥深くへ刻み込もうとするかのような、深く執拗な眼差しだった。あまりにも熱を帯びたその視線に耐えきれず、紬は思わず目を逸らす。しかし理玖は容赦なく彼女の小さな顔を両手で包み込み、逃がそうとはしなかった。そして、独占欲を隠そうともせず、どこか尊大な響きを帯びた声で言い放つ。「これから先、君の目に映っていい男は、俺だけだ」そう言い終えると同時に、理玖は静かに顔を寄せ、紬の柔らかな唇へ自らの唇を重ねた。紬の胸には、今はただ、この拗ねた男を優しく宥めてあげたいという確かな情愛だけがあった。だからこそ、その少し強引な口づけも拒まず、静かに受け入れた。互いの吐息がゆっくりと溶け合うにつれ、理玖の胸の奥に渦巻いていた理不尽な不安は、ようやく確かな安堵へと塗り替えられていく。彼女を抱き締める腕には、さらに強く力がこもった。これほど眩しく、誰よりも優れた紬という存在を、理玖は今すぐにでも、誰の目にも触れない場所へ大切に隠
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第666話

理玖は冷え切った声音で、淡々と言い放った。「給与を上げるか、それとも減給処分にするか――お前自身で選びなさい」文人は驚異的な速さで頭を回転させ、即座に答えを出した。「社長、どうぞご安心ください!この佐々木文人、ただちに寝る間を惜しんで完璧な『愛妻獲得攻略本』を編纂し、あなた様にお届けいたします。必ずやご満足いただき、返品などという無粋な真似はさせません!」理玖は「期待しているよ」とだけ冷たく言い残し、そのまま一方的に通話を切った。スマホを見つめながら、文人は深いため息をつく。――まったく……どうして独り身のこの私が、我が主人の生涯の伴侶を迎えるという一大事のために、ここまで頭を悩ませなければならないんだ……。しかし次の瞬間、彼はベッドの上で鯉のように勢いよく跳ね起きると、両拳を固く握り締め、己を奮い立たせるようにガッツポーズを決めた。「だが、それくらい些細な問題だ!社長の永遠の幸せと、我が最愛の公式カップルのためなら、この佐々木文人、喜んで牛馬となり、粉骨砕身いたしましょう!」彼はすぐさまノートパソコンを開き、夜を徹して恋愛に関するあらゆる資料を読み漁り始めた。さらにはネットの海に散らばる数多の有識者たちの意見をまとめ上げ、理玖と紬のためだけの特製攻略本の執筆に取りかかった。あまりの興奮と使命感に、文人は一睡もしないまま朝を迎えてしまう。推しの恋を特等席で見届け、全力で応援できる――この至福を、一体誰が理解できるだろうか。社長のプロポーズさえ成就すれば、あの氷のような男の機嫌は劇的によくなる。主人の機嫌がよくなれば、この世のすべてに対して寛大になるはずだ。当然、その慈悲は腹心である自分にも惜しみなく降り注ぐに違いない。そこまで考えた途端、文人の身体には新たな活力がみなぎってきた。気づけば、窓の外の夜空は白み始めている。文人は万感の思いを込めてキーボードのエンターキーを叩き、高らかに叫んだ。「完成だ!」ふと画面の隅に表示された時計へ目をやると、時刻はすでに午前七時を回っていた。――嘘だろ……もう出勤時間じゃないか!?彼の顔は一瞬で絶望に染まり、がっくりと肩を落とす。やはりあの男は冷酷な資本家だ。昼も夜も関係なく、自分を骨の髄まで使い倒そうとするのだから。こうして文人は、
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第667話

理玖もようやく興味を引かれたようで、検索窓に「デートスポット」と文字を打ち込んでみた。すると瞬く間に、条件に合ったおすすめの場所がずらりと画面に表示された。それだけではない。各スポットには、それぞれ「どんな気分や雰囲気のときに訪れるのが最適か」まで丁寧に解説されている。理玖の灰色の瞳に、驚きと喜びの色がはっきりと浮かんだ。彼は満足げな視線を文人へ向ける。「今回は見事な働きだった。約束どおり、基本給を上げておこう」文人は心の中で快哉を叫び、すぐに礼を述べようとした。だが、それを遮るように理玖が続ける。「その酷い目元を見なさい。今日は有給扱いで帰って休むといい。その顔で大事な取引先を怖がらせられては困るからね」その一言で、文人の喜びは最高潮に達した。彼はまるで時代劇の家臣のように深々と頭を下げる。「社長、なんと慈悲深いご英断でしょう!」理玖はそんな彼を軽く一瞥すると、さっさと出て行けと言わんばかりに手をひらひらと振った。文人もそれ以上長居はせず、きちんと扉を閉めて社長室を後にした。――あの万死に値する冷酷な資本家にも、こんな良心的な一面があったとはな……まあ、理由が何であれ、休めるときに休んでおくのが一番だ。いずれ社長が無事に紬さんの心を射止め、めでたく結婚する日が来たら、披露宴ではぜひとも主賓席級の待遇を受けなければ割に合わない。そうでもしなければ、この涙ぐましい努力を見届けてきた観客たちが、あの資本家を絶対に許さないだろう。文人は鼻歌交じりで、上機嫌のまま帰路についた。一方、社長室に残った理玖は、画面に映し出された『愛妻獲得攻略本』を見つめながら、口元に深い笑みを浮かべていた。――実に見事だ。佐々木の奴も、ようやく組織にとって役立つ重要任務を果たしたというわけだ。この完璧な攻略本さえあれば、紬の心を射止めることなど、もはや難しい話ではない。読み進めるほどに、理玖の胸には確かな手応えと満足感が満ちていった。――同じ頃、海原市立病院。紬は静かに病室へ足を踏み入れた。室内を見渡しながら、穏やかな声で尋ねる。「叔母さん、お荷物はもうすべておまとめになりましたか?」椅子に腰掛けていた茜は、小さく頷いた。「ええ、紬ちゃん。でも、本当に私たち、海外へ移住する必要があるのかし
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第668話

だが、太陽だけは、そんな重苦しい大人たちの事情など露ほども気にしていなかった。彼の胸を満たしていたのは、まだ見ぬ異国で始まる新しい生活への純粋な期待と憧れだけだった。この短い間にも、気高い従姉である紬の傍で過ごしたことで、彼は彼女の生き方から実に多くのことを学んでいた。紬は、少したくましくなった太陽の肩を優しく叩く。「向こうへ行っても、しっかり勉強に励むのよ。私はあなたを信じているわ」太陽は、これまでにないほど真剣な表情で力強く頷いた。「任せてよ、紬姉ちゃん!」その瞳には、一片の迷いもない確かな決意が宿っていた。紬はそんな頼もしい義弟の姿に、心から愛おしそうな笑みを浮かべた。トランクを車へ積み終えると、紬は自らハンドルを握り、一家を乗せて空港へと向かった。車内にはどこか別れを惜しむ空気が漂い、誰も口を開かないまま静かな時間が流れていく。やがて一行はターミナルビルを抜け、搭乗ゲートの前へとたどり着いた。茜は紬の両手をそっと包み込み、乱れた髪を愛おしむように整える。その瞳の奥には、言葉では語り尽くせない思いが溢れていた。「この国を離れたら、次にいつお前に会えるか分からないわ。だから、私たちがいない間も、自分の身体を何より大切にするのよ」「叔母さん、心配しないでください。向こうへ着いてからも、こまめに連絡を取り合いましょう」紬は茜の顔を見つめた。その面影が、亡き母の霞にあまりにもよく似ていることに気づき、美しい瞳にじわりと涙が滲む。「本当は……叔母さんたちを、こんな遠い異国へ送り出したくなんてなかったの。どうか……私の身勝手を恨まないでくださいね」その言葉に、茜の胸にも張り裂けそうな切なさが込み上げた。彼女は紬をそっと抱き寄せ、細い背中を何度も何度も優しく撫でる。「何を言うの。悲しまなくていいのよ。お前の優しさは、この叔母が誰より分かっているんだから。何も説明なんていらないわ」紬は言葉を失い、折れそうなほど強く茜を抱き締め返した。それはまるで、幼い頃、最愛の母の温もりに必死にしがみついていたあの日の子どものようだった。彼女は叔母から伝わる母性と慈愛に満ちた温もりを、少しでも記憶に刻み込もうとするかのように、静かにそのぬくもりを胸いっぱいに感じていた。そんな別れの余韻に浸る二人を現実
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第669話

その言葉を聞いた瞬間、治はますます邪悪な笑みを薄く歪んだ唇に浮かべ、愉悦に満ちた、どこまでも歪んだ声で言い放った。「……なら、ちょうどいいじゃないか。この機を逃さず、あいつに俺の子を育てさせてやろう……」口元には笑みを浮かべているにもかかわらず、その顔には人間らしい生気がまるで感じられない。全身から漂う空気は陰湿で粘りつくように不快で、まるで闇に潜む毒蛇そのものだった。言葉を紡ぎながらも、その薄い唇は容赦なく望美の白い肌を這い、貪るように愛撫を続けていく。望美は細い腕を治の首へ絡ませ、耐えるように下唇を噛み締めながら、焦れた声を漏らした。「……お願いだから、目立つところに痕だけは残さないで。このあと、すぐに……あいつの看病に行かなくちゃいけないんだから」この氷のように冷酷な男の前では、彼女は成哉を「あいつ」と呼ぶしかなかった。治はその願いに言葉で応じることはなかったが、愛撫はますます傲慢さを増し、欲望の赴くままに望美を弄んでいった。通路の陰から一部始終を見ていた紬は、冷たい壁に身を寄せながら、胸の奥に激しい戦慄が走るのを感じていた。――あの二人、いつの間にあそこまで深い関係になっていたの……?そして、治の口からこぼれた「俺の子」という、あまりにも禍々しい言葉。それはまさか、自分が考えているとおりの意味なのだろうか。――その頃、病院では――艶やかな装いに身を包んだ舞絵が、高級フルーツの詰め合わせを抱え、もう片方の手には大きな花束を携えて、成哉の病室へ向かっていた。彼女は事前に入念な調査を行い、この時間帯は宿敵・望美が病院を離れていることを把握していたのだ。この絶好の機会を利用すれば、成哉の前で自分の存在を強く印象づけ、一気に好感度を高められるに違いない。そう考えると、舞絵の完璧に整えられた口元には、不敵な笑みがさらに深く浮かんだ。病室の重い扉の前に立つと、軽くノックをする。中から成哉の低く掠れた「入れ」という声が返ってきたのを確認し、彼女はしなやかな所作で扉を押し開けた。病室へ足を踏み入れると、ベッドに横たわる成哉の姿が目に飛び込んできた。頭には白い包帯が痛々しく巻かれ、その顔立ちは以前よりもひどくやつれて見える。その姿を見た舞絵は、大げさなほど瞳を潤ませながら足早にベッドサイ
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第670話

「ええ、そうですわ。以前、彼女がわざわざ特製のスープを届けに来た時も、あなた様は……」「あなた、どうしてここにいるの!?」舞絵の言葉を遮るように、鋭い女の叫び声が病室に響き渡った。振り返ると、そこには怒りで顔を歪めた望美が立っている。舞絵は面白そうに口元を吊り上げた。「あら、どうなさったのですか、橋本さん。私は会社の同僚を代表して、社長のお見舞いに伺っただけですわ。あなたこそ、どのようなお立場でこちらにいらっしゃるのかしら?」望美は表情を引きつらせると、自分が身重であることも忘れたかのように足早に歩み寄り、舞絵の腕を掴んで病室の外へ追い出そうとした。「この……!ここで何を勝手なことばかり言っているの!あなたみたいな人は歓迎されていないわ。早く出て行って!」だが、舞絵はその手を冷たく振り払うと、腕を組み、望美を頭の先から足元まで品定めするように眺めた。「あら、どうしてそんなに慌てていらっしゃるの?橋本さん、そんなに取り乱して……まさか何か後ろめたいことでもあるのかしら?一体、何をそんなに恐れているの?」その含みのある一言に、望美の全身が目に見えて震えた。彼女は息を殺しながら病床の成哉へ視線を向ける。幸い、彼は何も口を挟んでいない。それを確認すると、望美は胸の内でそっと安堵の息をついた。そして成哉へ向き直り、痛々しいほど作り込んだ笑顔を浮かべる。「成哉、この女の言うことなんて気にしないで。ただの秘書に過ぎないんだから。以前、絵美さんにも厳しく叱られたことがある女よ。今こんなふうに騒いでいるのも、私への嫉妬に決まっているわ」成哉の漆黒の瞳がわずかに揺れた。その表情はあまりにも深く、誰にも本心を読み取ることはできない。「私は嫉妬なんて――」舞絵が言い返そうとした瞬間、望美はその声をかき消すように声を張り上げた。「お見舞いならもう十分でしょう。今の成哉には静養が必要なの。もう帰ってちょうだい!」細い腕とは思えないほど強い力で舞絵を引っ張り、そのまま病室の外へと押し出していく。舞絵は望美が妊娠中であることを知っていたため、それ以上無理に抵抗することはせず、おとなしく病室を出た。だが、扉が閉まるその瞬間、成哉が二人へ向けていた、あの探るような鋭い視線だけは見逃さなかった。――なるほど、
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