輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした のすべてのチャプター: チャプター 641 - チャプター 650

691 チャプター

第641話

元々、成哉にとって最後の拠り所は、「理玖は紬とただ火遊びをしているだけだ」という確信だった。どれほど親密になろうとも、入籍という一線だけは越えない――そう高をくくっていたのだ。成哉が頑なに紬との離婚を引き延ばしていたのも、理玖の不誠実さを彼女に思い知らせ、目を覚まさせるためだった。まさか二人が、自分の知らないところでここまで踏み込んでいたとは。成哉は激しい怒りと痛みに引き裂かれそうになった。だがその一方で、胸の奥底から湧き上がるどうしようもない無力感が、まるで見えない鎖のように彼の全身を縛りつけていた。理玖は冷ややかな眼差しで彼を見下ろし、その瞳に愉悦の色を滲ませた。「それは悪かったな。紬を手に入れるためなら、俺はどんな姑息な手段だって厭わない。だが、それがどうした?結果がすべてだろう、天野さん。もし本当に彼女の幸せを願うなら、一刻も早く離婚届に判を押すことだな」「なぜお前が……!なぜお前のほうが彼女と別れようとしないんだ!」成哉は血走った目で理玖を睨みつけた。「なぜなら、彼女が今愛しているのは、この俺だからだ」理玖の揺るぎない声音が、容赦なく成哉の胸を抉る。紬が今でも自分を愛しているのか。その問いを考えることさえ、成哉にはもう恐ろしかった。ましてや口にする勇気など、今の彼には欠片も残っていない。結局、成哉は二人の子供を連れ、逃げるようにその場を後にするしかなかった。帰りの車内で、彼は正気を失ったかのようにアクセルを踏み込んだ。芽依と悠真はチャイルドシートのベルトをぎゅっと握りしめ、息を潜めたまま固まっている。――パパ、理玖さんに殴られておかしくなっちゃったのかな……どうしてこんなに飛ばしてるの?悠真は激しく吹き込む風に髪を乱されながら、頭の中までぐちゃぐちゃに混乱していた。――一方の紬は、自分がすでに理玖の口から「再婚相手」として既成事実のように扱われていることなど、露ほども知らなかった。ただ、その日の夜。彼女のスマホに、再び喜久子から電話がかかってきた。「紬!今すぐ理玖と離婚しなさい!」受話口の向こうから、鼓膜を突き破りそうな勢いの怒鳴り声が響く。紬はうんざりしたように眉をひそめ、スマホを耳から離した。――今度は何の癇癪かしら……小さくため息を
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第642話

「もしもし、こちら海原市立病院です。綾瀬紬さんでいらっしゃいますか?」受話口から聞こえてきたのは、どこか事務的で冷静な看護師の声だった。紬は息を呑み、どうにか気持ちを落ち着かせながら答える。「はい、私ですが……何かあったのでしょうか?」「天野成哉さんという方をご存じですか?それから、五歳くらいの男の子と女の子の双子のお子さんもご一緒なのですが」「ええ、知っています」その言葉を聞いた瞬間、紬の胸に嫌な予感が一気に押し寄せた。こんな時間に見知らぬ病院から連絡が来るなど、ただ事であるはずがない。――一体、何があったの?電話の向こうで、看護師は淡々と説明を続けた。「実は、その三人が乗った車が交通事故を起こしまして。通行人の方に発見され、救急搬送されたのですが、現在は当院で受け入れております。手続きの署名や付き添いが必要ですので、できるだけ早く病院までお越しいただけますか」紬の顔から、さっと血の気が引いた。――芽依と悠真が……事故に?あまりにも突然で、現実味がなかった。つい数時間前まで元気だった子供たちが、どうして交通事故に遭わなければならないのか。成哉、あなたはいったいどんな運転をしていたの……!?「分かりました!今すぐ向かいます!」紬は迷うことなく車の鍵を掴み、そのまま夜の街へ飛び出した。病院へ駆けつけた紬が病室に飛び込むと、ちょうど看護師が点滴の交換を終えたところだった。別々のベッドに横たわる芽依と悠真は、顔色こそ青白いものの、静かに眠っている。「看護師さん、この子たちの容体は……!?」「ご家族の方ですね。どうぞご安心ください。お二人とも命に別状はありません」看護師はベッドへ視線を向けながら説明した。「運転されていたお父様がスピードを出しすぎて街路樹に衝突したようで、そちらは現在、隣の集中治療室に入っておられます。お子さんたちですが、お兄ちゃんが妹さんを庇ったようで、その際に腕を骨折してしまいました。妹さんのほうは大きな外傷はなく、擦り傷がいくつかある程度です。ただ、精神的なショックがかなり大きい状態ですね」その説明を聞き、紬はようやく張り詰めていた肩の力を抜いた。不幸中の幸いと言うべきか、子供たちの命は助かったのだ。一方で、成哉がどんな状態なのかについては、
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第643話

紬がその願いを受け入れると、芽依の潤んだ瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。これまで、自分は何度もママを失望させてきた。だからこそ、本当にまた昔のように優しくしてもらえるのか、心のどこかでずっと怯えていたのだ。それなのに、ママはあの日と変わらない優しい笑顔を向けてくれた。紬が雑炊を作るため立ち上がろうとすると、芽依はまた置いていかれるのではないかという恐怖に駆られ、その手をさらに強く握りしめた。「ママ……私が悪かったの……お願いだから行かないで……」小さな手は必死で、決して離そうとしない。紬は芽依の尋常ではない怯えように違和感を覚え、そっと額に手を当てた。掌に伝わってきたのは、驚くほど高い熱だった。胸を締めつけるような愛しさと痛みが込み上げる。紬はそっと手を握り返し、芽依の身体を優しくさすって落ち着かせた。それから急いで病室を出ると、看護師から冷却シートをもらって戻ってきた。芽依の額に丁寧に貼り、呼吸が少し落ち着いたのを確認してから、雑炊を作るため一度スタジオの上にある自宅へ戻ることにした。幸い、病院から自宅まではそう遠くない。冷蔵庫には、雑炊に使えそうな新鮮な食材がいくつか残っていた。しばらくして。紬は湯気の立つスープジャーを手に、再び病室へ戻ってきた。ベッド脇のレバーを回し、芽依が少し身体を起こせるように背もたれの角度を調整する。芽依はその気配に気づいたものの、目を開けるだけの力も残っていないようだった。ぐったりと身を預けたまま、か細い声で呟く。「ママ……雑炊が食べたい……ママが作った、あの雑炊……」高熱のせいで意識が同じ場所をぐるぐると巡っているのか、彼女はうわ言のように雑炊を求め続けていた。紬は優しく声をかける。「雑炊なら持ってきたわよ。ほら、お口を開けて」その声に導かれるように、芽依は素直に小さな口を開いた。温かな雑炊が一口ずつ運ばれるたび、芽依の胸の奥に言葉にできない安堵がじんわりと広がっていく。かつての芽依にとって、母親とは「口うるさい人」の代名詞だった。毎日、自分と兄の運動量を細かく気にかけ、何を食べたかまで逐一確認してくる。大好きなケーキを食べようとすれば、いつもママに止められた。芽依にはそれが窮屈で、自由を奪われているようにしか
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第644話

芽依の痛々しい姿を見つめているうちに、紬の胸の奥にはかすかな憐れみが湧き上がった。だが彼女は、ただ静かに言った。「ええ、分かったわ」そう答えながら、そっと自分の手を引こうとする。「まずは大人しく怪我を治しなさい。身体が良くならなければ、退院だってできないわよ」芽依は慌てて紬の細長い指をぎゅっと握りしめ、決して離そうとしなかった。紬から伝わってくるわずかな距離感に気づいたのか、小さな唇を歪め、今にも泣き出しそうになる。「ママ……私、本当に悪かったと思ってるの。ごめんなさい……お願いだから、昔みたいに抱っこして一緒に寝て……お願い……」言葉の終わりに近づくほど声は細くかすれ、その瞳に溜まった涙は今にも零れ落ちそうに揺れていた。潤んだ大きな瞳で、ただひたすら紬を見つめてくる。まるで、紬が頷いてくれるまで絶対に眠らないとでも言いたげだった。こんなにも健気な眼差しを向けられては、たとえ鋼の心を持つ人間でも、とっくに折れてしまうだろう。何より、この子は自分が手塩にかけて育てた大切な娘なのだ。紬の脳裏に、懐かしい記憶が鮮やかによみがえった。まだ赤ん坊だった芽依が、ベッドの上で小さな指をしゃぶりながら、きゃっきゃと無邪気に笑っていた姿。そして、よちよち歩きを覚えた頃、不安定な足取りでこちらへ駆け寄り、自分の胸に飛び込んできては「ママ」と呼んでくれた愛らしい姿。次々とよみがえる思い出に、紬の口元には自然と柔らかな笑みが浮かんだ。彼女は芽依の瞳をまっすぐ見つめ返し、やがて観念したように小さく息を吐いた。紬は立ち上がると、自らベッドへ横になり、芽依の小さな身体をそっと腕の中へ抱き寄せた。母親ならではの、柔らかく温かなぬくもりに包まれ、芽依は一瞬きょとんと目を見開く。紬は背中を優しくぽんぽんと叩きながら、穏やかな声で言い聞かせた。「ほら、もうお休みなさい。ママがここにいるから、何も怖くないわよ」耳元で響く紬の優しく澄んだ声。吸い込む空気のすべてが、懐かしい母親の匂いだった。芽依は小さな拳を握り締め、きゅっと下唇を噛む。――ママの匂いだ……ママ、私を許してくれるのかな……芽依は一番安心できる場所を探すように身体を寄せ、すっかり気を許した様子で紬の胸元にすっぽりと収まった。今度はうな
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第645話

そのあまりにも露骨な言い回しに、凛花は返す言葉を失った。「お母さん、とにかくお兄ちゃんが目を覚ますのを待ちましょう。今はまだ、何がどうなっているのか、私たちにも分からないんだから」だが、今の絵美にそんな理屈が通じるはずもなかった。成哉は、彼女にとってたった一人の息子だ。その息子がこうも立て続けに大怪我を負っているのだから、その衝撃に心が耐えられるはずがない。凛花は、絵美が深い悲しみと動揺の渦中にいるのを見て、それ以上何も言わずに口をつぐんだ。――三日後。ようやく意識を取り戻した成哉の頭には、まだ何重にも包帯が巻かれており、どこか病み上がりの儚さを漂わせていた。成哉が目を覚ましたことに気づいた凛花は、慌ててナースコールを押し、医師を呼んだ。しかし当の成哉は、ぼんやりと周囲を見回しながら、訝しげに眉をひそめる。――ここは……病院?なぜ俺は、こんなところにいるんだ……?そう考えた途端、脳を無理やり引き裂かれるような激痛が走った。すぐそばで、絵美の取り乱した声が響く。「成哉、頭が痛いのね?大丈夫よ。今すぐ先生が来てくださるから」凛花は兄の様子をじっと見つめていたが、どうしても拭えない違和感を覚えていた。兄が自分に向ける視線は、まるで初対面の相手を見るかのように、ひどくよそよそしかったのだ。やがて医師が慌ただしく病室へ駆け込んできた。一通りの検査を終えた医師は、重い表情のまま事実を告げる。「患者さんは、一定期間の記憶を失われているようです。以前にも脳に大きな損傷を負われていたところへ、今回さらに強い衝撃を受けたことが、このような結果を招いたと考えられます」その言葉を聞いた瞬間、絵美は数歩よろめき、その場に崩れ落ちそうになった。――息子が……また記憶を失ったというの?凛花も言葉を失い、ただ呆然と息を吐くことしかできなかった。こんな奇妙な偶然が、本当にあるのだろうか。二度にわたる記憶喪失という悲劇が、ことごとく兄の身に降りかかるなんて。凛花は確かめるように、さりげなく紬に関する質問をいくつか投げかけてみた。だが成哉の反応は終始冷淡で、それどころか露骨な嫌悪感さえ滲ませていた。案の定、彼は再び、紬と積み重ねてきたすべての記憶をきれいさっぱり失っていたのだ。成哉には、母や妹がなぜそ
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第646話

絵美は一瞬言葉に詰まったものの、すぐさま待っていましたとばかりに悪意を滲ませた口調で話し始めた。「その女の名前は綾瀬紬。信じられないほど執念深くて、欲深くて、虚栄心の塊みたいな女よ。その名前を口にするだけで、今でも怒りで奥歯が震えるくらいだわ」「紬」という名前が出た途端、絵美の口からは堰を切ったように言葉があふれ出した。過去の出来事をこれでもかというほど脚色しながら、成哉へ吹き込んでいく。もちろん、その内容は事実をねじ曲げたものばかりだった。そもそも絵美は、最初から紬を嫁として認めたことなど一度もない。まして今は、望美が新しい命を宿している。絵美の紬に対する嫌悪と非難は、かつてないほど激しさを増していた。すべてを聞き終えた成哉は、こめかみをぴくりと引きつらせた。「この世に、そこまで厚かましくて底なしに欲深い女がいるのか……?そんな事態になる前に、なぜあの頃の俺を誰も止めなかったんだ」絵美はわざとらしくため息をつき、悔しそうに首を横に振った。「どれだけ警戒していたって、あの女の悪知恵には敵わなかったのよ。私たちの目を盗んで勝手に子供を産んで、その子を盾にするみたいにして天野家を脅してきたんだから」傍らでそのやり取りを聞いていた望美は、胸の内で強い優越感に浸っていた。――やっぱり、お義母さんの言葉は重みが違うわ。自分がわざわざ口を汚さなくても、紬は「手段を選ばず男を誘惑し、虚栄心のためなら何でもする恥知らずな女」という虚像として、すでに成哉の心に深く刻み込まれているのだから。「だからね、この数年で一番損をして、つらい思いをしてきたのは望美なのよ。あの泥棒猫のせいで結婚の機会を奪われて、それでもずっと日陰の身であんたのそばにいて、今だってこうして健気に看病までしてくれているんだから。成哉、私から見ても、やっぱりあんたには望美が一番お似合いよ」絵美はことあるごとに望美を持ち上げ、露骨に紬を貶めた。成哉は痛ましげな表情を浮かべる望美へ視線を向け、胸を刺すような罪悪感に駆られた。「……すまない、望美ちゃん。俺のせいで、長い間つらい思いをさせてしまったね」「いいのよ、成哉。あなたのそばにいられるなら、私のことなんてどうでもいいの……」望美はどこまでも健気で、思慮深い大人の女性を演じてみせた。その隣
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第647話

病室の前までたどり着き、扉の隙間から望美の姿を見つけた瞬間、芽依の顔色がさっと変わった。まるで寒気に襲われたかのように身をすくませ、悠真の服の裾をぎゅっと強く握りしめる。悠真は妹の怯えを察し、その小さな手をぽんぽんと叩きながら、落ち着かせるように低い声で囁いた。「大丈夫だよ、芽依ちゃん。僕たちは今日、パパのお見舞いに来たんだ。それに、パパはもう目を覚ましてるんだから、絶対に僕たちの味方をしてくれるよ」芽依は半信半疑のまま、小さく頷いた。けれど、病室の中にいる成哉の視線が、どこかいつもと違って冷たく見えることが、どうしても気になっていた。本当に、お兄ちゃんの言う通りになるのだろうか。悠真は右腕に白いギプスを巻いた痛々しい姿のまま、左手で妹の手をしっかり握り、迷うことなく成哉のベッドへ歩み寄った。当然、その視界には望美の姿も入っていたが、二人は揃って彼女を完全に無視し、挨拶ひとつしようとしなかった。悠真が「パパ」と声をかけようとした、その瞬間だった。「芽依ちゃん、悠真くん。そこに望美さんがいるのが見えないのか?なぜきちんと挨拶もできないんだ」成哉の低く怒気を含んだ声が病室に響き渡り、悠真の言葉を無理やり遮った。悠真は目を大きく見開き、信じられないという表情で成哉を見つめた。何が起きているのか理解できず、震える声で問いかける。「パパ……どうしちゃったの?パパは今、ママの心を取り戻そうって頑張ってたんじゃないの?この悪い女とはもう別れるって言ってたのは、全部僕たちを騙すための嘘だったの!?」悠真は傍らに立つ望美を小さな指でまっすぐ指差し、その幼い顔に強い拒絶と怒りを浮かべた。悠真の後ろに隠れていた芽依もまた、非難のこもった眼差しで成哉をじっと睨んでいる。まるで目の前の父親が、取り返しのつかない悪人にでもなってしまったかのようだった。子供たちのその態度を見た瞬間、成哉は身体を起こして背もたれに身を預け、眉間に怒りをみるみる集めていった。「お前たち、何を馬鹿なことを言っているんだ!パパが本当に愛しているのは望美さんだけだ。見れば分かるだろう。望美さんのお腹には今、新しい命が宿っている。それはパパと彼女の愛の結晶だ。将来、お前たちの弟か妹になる大切な子なんだぞ」望美は椅子に腰掛けたまま、愛おしそうにお腹を支え
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第648話

病室の静寂を切り裂くように、乱暴に閉められた扉がガタガタと震えていた。成哉はその扉を冷ややかな目で見据え、鼻で嗤った。「どいつもこいつも、あの母親そっくりの薄汚い性根に育ちやがって。血筋というのは恐ろしいものだな。あんな女の遺伝子を受け継げば、子供まであそこまで無教養で行儀が悪くなる。反吐が出る」その言葉を聞いた望美は、一瞬だけ口元をぴくりと引きつらせた。――この人、怒りに我を忘れて、自分まで一緒に罵っていることに気づいていないのかしら……だが望美はすぐに、いつもの淑やかな微笑みを浮かべて彼に歩み寄った。「まあ成哉、そんなに怒ってはお身体に障るわ。もうそのくらいになさって」そう言って彼の手をそっと取り、自分のまだ目立たないお腹へと導く。「ほら、触ってみて。ここには私たちの赤ちゃんがいるのよ?この子のためにも、どうか落ち着いて」その瞬間、成哉の瞳には穏やかな光が戻った。望美のお腹を見つめる眼差しには、隠しようのない慈しみが宿っている。彼は長い腕を伸ばし、望美を優しく胸へ引き寄せると、甘く、それでいて揺るぎない決意を込めた声で囁いた。「安心してくれ、望美ちゃん。俺たちの子供は、世界で一番幸せにしてみせる。約束するよ」「ええ……あなたにそう言っていただけるだけで、私は十分幸せですわ」成哉の胸に頬を寄せながら、望美の口元には冷酷な笑みがさらに深く、醜く刻まれていった。――翌日。紬のもとに、成哉が再び記憶喪失になったという知らせが届いた。先日の医師の説明は、あくまで最悪の可能性を示したものだと思っていた。まさか本当に二度目の記憶喪失を起こすとは、さすがの紬も予想していなかった。だが、その瞳に宿ったのは動揺ではなく、冷静な計算だった。――これは、神様が与えてくれた好機かもしれないわね。この混乱に乗じて、長引いていた離婚手続きを一気に進めるべきだ。これ以上、あの男や天野グループの泥沼に付き合わされるのはごめんだった。紬は迷うことなく車の鍵を掴み、病院へ向かった。病院に到着し、病室の前に立った紬は、成哉にどう切り出すべきか思案していた。今回の記憶喪失で、彼がどの時点までの記憶を失っているのか見当もつかないからだ。意を決して扉を開けると、真っ先に目に飛び込んできたのは、ベッド脇に立つ望美の
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第649話

紬はテーブルの上の協議書を手に取ると、その整った唇に皮肉めいた笑みを浮かべた。「成哉、あなたと私の間に情なんて、とっくの昔に残っていないわ。あなたの方から進んで離婚を切り出してくれたのなら、私にとっても願ってもない幸運よ」「ふん」成哉は鼻で笑った。紬のその言葉は、彼の目には未練を隠すための安っぽい駆け引き――いわゆる「押してダメなら引いてみろ」程度のものにしか映らなかった。そうでなければ、かつて彼女があらゆる手段を使って自分に取り入ろうとしたという認識と辻褄が合わない。「紬、お前の演技力には感心するよ。だが、そんな見え透いた駆け引きはもう通用しない。さっさとその協議書にサインをして、俺と望美ちゃんの幸せを邪魔するのはやめるんだな」そう言い捨てると、成哉はすぐに視線を望美へ向けた。その瞳には、先ほどまでの氷のような冷たさが嘘だったかのように、甘く深い情愛が宿っている。「望美ちゃん、この数年間、俺たちはあまりにも多くの時間を無駄にしてしまった。君にばかり辛い思いをさせて、本当にすまなかった。誓うよ。これからは今までの何倍も君を愛し、大切にする。君が負った傷は、この俺が必ず埋めてみせるから」そう言うと成哉は、枕の下から隠し持っていたもう一つの封筒を取り出し、恭しく望美へ差し出した。中身に目を通した瞬間、望美は思わず両手で口元を覆い、瞳に大粒の涙を浮かべて震えた。「成哉……これ、本当に……?本気なの……?」「もちろんだ」成哉の声に迷いはなかった。「本当はもっと前に、こうするべきだったんだ。この約束こそ君への償いだ。待たせてしまって、本当にすまない。望美ちゃん――俺と結婚して、生涯を共にしてくれないか?」「ええ……喜んで……!」望美は何度も何度も大きく頷いた。二度とない幸福が転がり込んできたことを、骨の髄まで噛み締めるように。紬はそのあまりにも馬鹿げた茶番を特等席で眺めながら、胸の内で冷ややかに笑っていた。「素晴らしいわね。あなたの脳味噌が二度と元の持ち主のところへ戻らないことを、心から願うわ。ええ、この協議書には喜んで署名させてもらう」あいにく手元に万年筆を持っていなかったため、紬は書類を持ち帰り、スタジオで押印しようと考えた。いずれにせよ、すでに成哉の署名と捺印は済んでいる。こ
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第650話

同じ頃、芽依と悠真のもとに、成哉が紬へ離婚協議書を突きつけ、離婚が成立したという衝撃的な知らせが飛び込んできた。二人は付き添いの看護師に引き留められるのも振り切り、成哉の病室へ向かって一目散に駆け出した。病室の前へたどり着いたその瞬間、扉の向こうから男女が親しげに談笑する声が漏れ聞こえてくる。芽依の胸の奥で、不吉な予感がみるみる膨れ上がっていった。彼女は悠真の手を痛いほど強く握りしめる。「お兄ちゃん……私、なんだかすごく怖いの……」「大丈夫。まだ間に合うよ。僕たちで絶対にパパを止めるんだ。パパとママが離婚しちゃうなんて、絶対に許さない!」悠真の声には、揺るぎない決意が宿っていた。今にも泣き出しそうな妹を見つめながら、悠真はママから言われた「あなたは男の子なんだから、強くならなきゃいけないのよ」という言葉を必死に思い出していた。――僕が、絶対に芽依ちゃんを守るんだ。二人は覚悟を決め、勢いよく病室の扉を押し開けた。すると、中に響いていた笑い声は、水を打ったようにぴたりと止んだ。成哉は入ってきたのが自分の子供たちだと気づくと、その整った顔に冷たい色を浮かべた。「……またお前たちか。何の用だ」その突き放すような態度に、芽依は小さな唇を歪め、今にも泣き崩れそうになった。これは、自分たちの知っているパパではない。そこには、かつて自分たちへ向けられていた無条件の愛情の欠片すら感じられなかったからだ。悠真は何度も自分を奮い立たせ、ようやく声を絞り出した。「パパ、本当にママと離婚するつもりなの?そんなの嫌だよ、絶対にダメだ!二人が離婚したら、僕と芽依ちゃんはどうすればいいの!?」芽依も涙をぽろぽろと零しながら、震える声で訴える。「パパ、お願いだからママと一緒にいて……離婚なんてしないで!私、前みたいに家族四人で暮らしたいの!こんな女なんて見たくもない!」彼女は椅子に腰掛ける望美を指差した。恐怖で身体は震えていたが、それでも大嫌いな女を真正面から睨みつける。望美は何も言い返さず、ただ薄く嘲るような笑みを隠しながら、成哉のために手際よくリンゴの皮を剥き続けていた。――さあ、最高の見世物の始まりね……案の定、次の瞬間、成哉の怒号が病室に轟いた。「大人の事情に子供が首を突っ込むな!身の程も
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