紗里は口角をわずかに上げ、堂々とした足取りで会議室へと向かっていった。……その日は日が落ちるのが遅く、退社時刻を迎えても空はまだ完全には暗くなっていなかった。薄墨を流したような夕闇が空に広がり、肌を刺す冷たい風が、雨の気配を孕んでいた。「行こうか。送っていくよ」裕司はいつものように杏奈のデスクへやって来たが、杏奈はふるふると首を横に振った。「先輩、お気遣いなく。今日は自分で帰りますから」「もうすぐ雨が降りそうだけど」裕司は窓の外へと視線を投げ、それから不思議そうに彼女を見下ろした。「今日、駐車場に君の車がなかったよね?どうやって帰るつもり?」「タクシーで帰るから大丈夫です」杏奈はとっさに嘘をついた。これから吉川家へ向かうだなんて、先輩には口が裂けても言えない。これ以上、余計な心配をかけたくなかったのだ。「そっか」裕司は短く頷き、それ以上は追及せずに踵を返した。荷物をまとめ、タクシー配車アプリを開こうとした矢先、スマホが震えた。蒼介からのメッセージだった。【会社の前にいる。降りてこい】【?】杏奈は思わず動きを止め、慌てて返信を打ち込む。【迎えに来てくれたの?】【ああ】窓際へと小走りで向かい、身を乗り出して下の通りを覗き込む。――やはりそうだ。誰もが思わず振り返るような流線型の黒い車体が、オフィスビルの前の路肩にどっしりと停まっていた。薄暗い車内には、運転席に座る男のシルエットがうっすらと見え、後部座席には、キッズ用スマホを口元に寄せ、誰かに熱心に文句を言っているような小さな人影もある。杏奈は慌ててメッセージを送った。【早く帰って!】先輩はすでにエレベーターで下へ向かっているはずだ。もし二人が鉢合わせでもしたら……そう考えると気が気ではなかった。蒼介はそれ以上返信してくることもなく、車が動く気配もない。高級SUVのカイエンが路肩に鎮座している光景に、通りがかった退勤中の人々は次々と好奇の目を向けていた。「ちょっと、もしかしてうちの社員を迎えに来た人かな?」「まさか。あんな車が買える身分なら、わざわざうちで働かないでしょ」「でも分かんないわよ。ただの社会勉強で働きに来てるお嬢様かも」「羨ましすぎる……どこのどなたか知らないけど、あんなお金持ちの旦那様に迎えに
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