All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 151 - Chapter 160

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第151話

紗里は口角をわずかに上げ、堂々とした足取りで会議室へと向かっていった。……その日は日が落ちるのが遅く、退社時刻を迎えても空はまだ完全には暗くなっていなかった。薄墨を流したような夕闇が空に広がり、肌を刺す冷たい風が、雨の気配を孕んでいた。「行こうか。送っていくよ」裕司はいつものように杏奈のデスクへやって来たが、杏奈はふるふると首を横に振った。「先輩、お気遣いなく。今日は自分で帰りますから」「もうすぐ雨が降りそうだけど」裕司は窓の外へと視線を投げ、それから不思議そうに彼女を見下ろした。「今日、駐車場に君の車がなかったよね?どうやって帰るつもり?」「タクシーで帰るから大丈夫です」杏奈はとっさに嘘をついた。これから吉川家へ向かうだなんて、先輩には口が裂けても言えない。これ以上、余計な心配をかけたくなかったのだ。「そっか」裕司は短く頷き、それ以上は追及せずに踵を返した。荷物をまとめ、タクシー配車アプリを開こうとした矢先、スマホが震えた。蒼介からのメッセージだった。【会社の前にいる。降りてこい】【?】杏奈は思わず動きを止め、慌てて返信を打ち込む。【迎えに来てくれたの?】【ああ】窓際へと小走りで向かい、身を乗り出して下の通りを覗き込む。――やはりそうだ。誰もが思わず振り返るような流線型の黒い車体が、オフィスビルの前の路肩にどっしりと停まっていた。薄暗い車内には、運転席に座る男のシルエットがうっすらと見え、後部座席には、キッズ用スマホを口元に寄せ、誰かに熱心に文句を言っているような小さな人影もある。杏奈は慌ててメッセージを送った。【早く帰って!】先輩はすでにエレベーターで下へ向かっているはずだ。もし二人が鉢合わせでもしたら……そう考えると気が気ではなかった。蒼介はそれ以上返信してくることもなく、車が動く気配もない。高級SUVのカイエンが路肩に鎮座している光景に、通りがかった退勤中の人々は次々と好奇の目を向けていた。「ちょっと、もしかしてうちの社員を迎えに来た人かな?」「まさか。あんな車が買える身分なら、わざわざうちで働かないでしょ」「でも分かんないわよ。ただの社会勉強で働きに来てるお嬢様かも」「羨ましすぎる……どこのどなたか知らないけど、あんなお金持ちの旦那様に迎えに
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第152話

「先輩……」杏奈が声をかけようとした瞬間、鋭い視線が空中で交錯した。一触即発の、ピリついた空気が漂っている。裕司は困ったように眉を下げ、苦笑交じりに口を開いた。「……後でちゃんと、説明してもらえるかな?」一方、蒼介は一言も発しなかったが、カチャリと冷たい音を立てて解錠されたドアの音が彼の意志を雄弁に物語っていた。――乗れ、と。杏奈はドアには目もくれず、まっすぐに裕司のもとへ歩み寄った。「先輩、これには事情があるんです。会社に戻ったら、きちんとすべて説明しますから」「……分かった。後で聞かせてもらうよ」裕司も、こんな路上で可愛い後輩の顔を潰すような真似はしたくなかったのだろう。渋々といった様子で頷いてくれた。「ありがとうございます」先輩が頷くのを見て、杏奈はほっと安堵の息をつく。「戻ったらすぐに連絡しますね」「うん、先に行っておいで」「先輩も、気をつけて早めに帰ってくださいね」それ以上の言葉は交わさず、二人はそれぞれの車へと乗り込み、その場を後にした。車が走り出してしばらくすると、地を這うような雷鳴が響き、大粒の雨がフロントガラスを激しく叩き始めた。息が詰まるほどシンと静まり返った車内には、ただ雨音だけが重く響いていた。後部座席では、小春がキッズ用スマホをいじりながら、紗里とのやり取りに夢中になっているようだった。一方の杏奈は、自分のスマホをぼんやりと眺めながら、頭の中で新しいジュエリーのデザインを練っていた。まるで明確な境界線が引かれているかのように、母娘の間には冷たい溝が横たわっている。互いに完全に無視し合ったままだ。運転席の蒼介は、幾度となくバックミラーへと視線を走らせていた。彼がどれほど自分を疎ましく思っているかを知らなければ、杏奈は彼が自分を見つめているのだと勘違いしてしまったかもしれない。重苦しい沈黙が、車内をゆっくりと満たしていく。やがてしびれを切らしたように、小春がわざとらしく口を開いた。「紗里ちゃん、もう本当に嫌になっちゃった。今日せっかく一緒に遊ぶ約束してたのに、帰れなんて言われるし。本当は帰りたくないのに……大嫌いな人が一緒にいるんだもん」言いながら、小春はちらりと杏奈の方へ挑発的な視線を送る。ふんっ、この前ママにきつく怒られたんだから、今度はこっちが
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第153話

「あたしが転んで死んじゃえばいいんでしょ!」小春は泣き叫んだ。「どうせママは、あたしのことなんかちっとも気にしてくれないんだから!あたしなんか死んだって……」「勝手にしなさい」杏奈の瞳は、凍てついた湖面のように静まり返っていた。母親としての最低限の責任がある以上、小春の安全を完全に無視できるわけではない。それでも、本人が本気で死にたいと喚くのなら、それを止める手立てなどない。自分の命を盾にして、相手をコントロールしようとする身勝手な脅しには、杏奈は絶対に屈するつもりはなかった。誰かの母親である前に、自分はまず「自分自身」なのだから。小春はショックで目を丸く見開いた。絶対的な「切り札」のつもりだった言葉が、ママにはこれっぽっちも効かなかったのだ。「あ、あたしに……死ねって言ったの……?」呆然と呟き、信じられないものを見るような顔で杏奈を見つめる。バックミラーに映る蒼介の目にも、かすかな驚きの色が浮かんでいた。「私がそう言ったんじゃないわ。あなた自身がそうしたいと言ったんでしょう?」杏奈は感情の乗らない声で淡々と返す。「でも、なんで止めてくれないの?」小春は涙目で眉をしかめた。「ママなんだから、絶対に止めてくれないといけないんじゃ……」――泣きながら抱きしめて、何でも言うことを聞いてくれるんじゃないの?甘えに満ちた言葉は、無情にも一蹴された。「私があなたのお母さんであることは確かよ。でもね、だからといってあなたの命を私が勝手に決める権利はないの。生きるか死ぬかは、最終的にあなたの意志なら、私はそれを止める権利なんてないもの」もちろん、本気で言っているわけではない。小春はまだ幼い未成年であり、保護者として彼女の安全を守る義務と責任が杏奈にはある。それこそが、杏奈がどれほどこの環境から逃げ出したくても、小春と繋がり続けなければならない最大の理由だった。血のつながりと保護者としての責任、決して逃れられないのだ。それでもあえて突き放すようなことを言ったのは、他でもない小春自身に気づいてほしかったからだ。「小春、何かを決める時は、よく考えてから口にしなさい。相手の気を引くための軽い気持ちで人を傷つけるような言葉を吐いたり、自分の命を粗末に扱うような真似は、決していいことじゃないわ」少しの間を置き、杏奈
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第154話

政夫は嬉しそうに返事をしながら、やはり蒼介には目もくれず、二人を促して広々とした邸宅の中へと入っていった。蒼介は気にする風でもなく、車をガレージに停め直してから、ゆっくりとした足取りで三人の後を追った。ダイニングへ向かうと、安達が、政夫の持参した高級食材で作った薬膳スープをちょうど仕上げたところだった。肉や魚のメイン料理が二品、彩り豊かな野菜料理が二品、そして特製のスープが一品――見事なまでに栄養バランスの取れた献立だ。家族が全員揃ったのを確認し、安達は恭しく一礼して笑顔で声をかけた。「大旦那様、旦那様、三浦様、お嬢様。お食事の準備が整っております。何か他にご入り用のものがございましたら、どうぞお気軽にお申し付けくださいませ」誰かが席につくよりも早く、政夫の白い眉が、険しく跳ね上がった。「……三浦様、だと?」本来であれば、「奥様」と呼ぶべきではないのか。蒼介と杏奈の夫婦仲がとっくの昔に冷え切ってこじれていることも、愚かな孫の傍らに別の女の影がちらついていることも、政夫はとうに把握していた。それでも、ここまでなったとは思ってもみなかったのだ。「奥様」と「三浦様」たった一言の呼び方の違いとはいえ、そこにある心理的な壁の差は天と地ほどもある。「いったい、どういうことだ?」政夫は安達を責めることはせず、鋭い眼光を真っ直ぐに蒼介へと向けた。蒼介は表情一つ変えず、わずかに薄い唇を開く。「……今、お聞きになった通りです」「お前という奴は……っ!」政夫は顔を紅潮させ、激しい怒りに任せて手にした杖を振り上げんばかりに握りしめた。だが、その腕を杏奈が咄嗟に両手で押さえ込んだ。「おじいちゃん、駄目です!お医者様からもきつく言われているでしょう、興奮すると血圧が上がるから気をつけて、と。それに……これは私が自ら希望したことなんです。『奥様』なんて堅苦しい言葉ですし。私は旧姓の『三浦』と呼ばれる方が、その方が、私にはしっくりくるんです」その言葉にかぶせるように、小春も甲高い声を上げた。「曾おじいちゃん、怒るならママを怒ってよ!パパを叩かないで!」全部、ママのせいだもん……っ!ママがあんなことしなきゃ、曾おじいちゃんだって、パパを叩いたりしなかったのに!蒼介のひどく無頓着な態度と、小春の口から飛び出した、大
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第155話

だが今の小春は、顔中に食べ物をつけ、服にスープを飛び散らせながら食べていても、目を向けることはなかった。杏奈はただ黙々と食事を口に運び続けた。誰の顔も見ず、誰の皿に気を配ることもない。まるで義務をこなすかのように、食べ終わったら、あとは帰るだけだ。……「本当に、あの子を行かせるつもりか」政夫は書斎の椅子に深く腰を下ろしていた。蒼介は座ることを許されず、淡々と傍らに立っている。「……ああ」蒼介は煩わしそうに口を開いた。「無理に引き止めて、どうにかなるものではないでしょう」政夫は机を強く叩いた。「お前がこの何年もの間、冷たく無関心でいたせいで、杏奈があれほど深く傷ついたんじゃないか!お前がちゃんと妻を大事にしてやっていれば、あの子が家を出ていくなんてことになったか?」いつもなら「愛していないからだ」と即答するところだが、今回ばかりは違った。蒼介は口を閉ざしたまま、何も言わなかった。その沈黙が、政夫の怒りをさらに煽る。「何か言わんか!口が利けなくなったか?杏奈にしたのと同じように、このわしをも無視する気か?」「言っておくがな、わしはあの子みたいに、お前のことをそう簡単には許さんぞ」表向きは厳しい叱責であったが、わざわざ杏奈の優しさを引き合いに出しているのは明白だった。どうやら政夫は、まだ二人の縁を諦めてはいないらしい。だが残念なことに、目の前の男には血の通った心というものが欠落していた。次に蒼介が放った言葉は、政夫の胸に残っていたわずかな望みさえも無残に砕き散らした。「それで……またまた持ち株を盾に、俺を脅すおつもりですか?」七年前なら、その手は有効だっただろう。実際、それで彼は縛られた。だが今となっては、吉川グループの絶対的な実権を握る蒼介には、政夫の持ち株を無力化させる手段などいくらでもあった。それに、仮に政夫が強硬手段に出て蒼介を動かそうとしたところで、利益を重んじるグループの株主たちが黙って見過ごすはずがなかった。その現実は、政夫自身も痛いほど理解していた。燃え上がっていた怒りが静かに引き、代わりに深い疲労の色が顔に滲む。「……はあ。もう、わしにはどうしようもない。二人の好きにするといい。ただ一つだけ言わせてくれ。杏奈は本当にいい子だ。すべてを失って後悔してから大切にしようとしても、その時
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第156話

杏奈は小さく頷き、車が夜の闇へと遠ざかっていくのをじっと見送った。その場から一歩も動けなかった。これが祖父との今生の別れになるのではないか――そんな不吉な予感が、胸に沈殿していた。「今夜は、戻ってくるのか?」突然背後から不意にかけられた声に、杏奈はハッと我に返った。振り返ると、蒼介の底知れない漆黒の瞳と、真っ向から視線がぶつかる。かつてなら彼に見つめられるだけで心がかき乱されたものだが、今の彼女の心は、凪いだ水面のように静まり返っていた。「もう行くわ」杏奈はそっけなく短く答え、すぐに踵を返そうとした。すると、彼が背中に向かって言葉を投げてくる。「どうあれ、お前は小春の母親だろう。その義務が――」「……まだ足りないとでもおっしゃるの?」杏奈は氷のように冷たい目で彼を振り返った。「この何年も、寒くないか、暑くないか、お腹が空いてないか、喉が渇いてないかって、四六時中気を配り続けてきたわ。あの子の母親として、私はやるべきことを全部やってきたつもりよ。少なくとも母親として、私は『合格』だったと思っている」少しの間を置き、杏奈はさらに強い視線で彼を真っ直ぐに射抜いた。「それに、母親である前に、私は一人の人間よ。あの子の命を大切にする責任はある。でも、私の人生のすべてがあの子のために存在しているわけじゃないわ。それから、あなたもあの子の父親でしょう。私にそんな偉そうなことを言う前に、まず自分自身が父親として合格かどうか、胸に手を当てて考えてみてください」蒼介が何かを言い返すよりも早く、杏奈はすでに背を向けて歩き出していた。夜の闇の中、淡い月明かりに照らし出された彼女の後ろ姿は、不思議なほど凛としていた。迷いのない足取りで、一度も振り返ることなく真っ直ぐに進んでいく。蒼介はその遠ざかる背中をじっと目で追いながら、瞳の奥に複雑な感情の渦を沈み込ませていた。「……変わったな」誰にともなくこぼれ落ちた低い呟きは、冷たい夜風の中に溶けて消えた。……「本当に変わりましたね、先輩!」翌朝、ルミエールの社長室。出勤したばかりで自分のデスクの椅子に落ち着く間もなく、杏奈は裕司に呼び出されていた。まさながら取調室のような重苦しい空気の中、デスク越しに鋭く問い詰められる。「昔の先輩なら、もっと可愛い後輩を大切にし
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第157話

「もう食べてきた」杏奈の即答に、那月の愛想の良い笑顔が引きつった。これで何度目だろう。ただ朝ごはんを渡して点数を稼ぎたいだけなのに、どうしてこうも上手くいかないのか。とはいえ、彼女の主な目的は朝食の差し入れなどではなかった。あっさりと、すぐに明るい声で話題を変える。「ねえ杏奈、今夜って時間ある?」「何かあるの?」杏奈は振り返り、その目にわずかに怪訝そうな表情を浮かべた。那月は絶対にろくなことを考えているはずがない。「実はちょっとね」那月は杏奈の警戒心にまったく気づかないまま、さらりと言ってのけた。「すごく楽しい場所に連れていってあげようと思って。この前のデザイン画の件、そのお礼も兼ねてね」「どんな場所?」「それは、ヒ・ミ・ツ」那月はもったいぶって意味深な笑みを浮かべた。当初は少し奮発して高価なプレゼントでも買ってご機嫌をとろうと考えていたのだが、ちょうど今夜、巷で闇パーティーが催されるという話が舞い込んできたのだ。要するに、男も女も入り乱れて、思うがままに羽目を外して享楽にふけるという類の集まりだ。何年もの間、窮屈な結婚生活で抑圧されてきた杏奈の性格からすれば、こういう刺激的な場所に連れていってやれば、きっと喜んで食いつくはずだと、那月はそう安易に高をくくっていた。それに、高いプレゼント代も浮く。まさに一石二鳥というわけだ。「……考えておくわ」杏奈は気乗りしないまま曖昧に答えたが、那月はそれを都合よく了承のサインだと受け取り、にこにこと上機嫌で自分のデスクへと戻っていった。杏奈はその能天気な後ろ姿に冷ややかな視線を送り、小さく首を振ってから、進行中のプロジェクト「モーニング・ライト・クラウン」のコンセプトワークへと再び意識を没頭させた。ジュエリー展の会場で、他の追随を許さない圧倒的な存在感を放つには、これまでになかった大胆な発想が不可欠だ。「今回こそ、あの新しい切削技術を試してみようかな」杏奈は図面を見つめながら静かに呟いた。「問題は、会社にその高度な切削に対応できる設備があるかどうかだけど……」……「あるよ」昼休み、賑やかな社員食堂。向かいの席で一緒に昼食を取っていた裕司は、彼女の質問に間髪を入れず答えた。「仮に今なくても、君が必要だと言うなら、すぐに購買部に手配させよ
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第158話

食後、オフィスに戻る道すがら、杏奈は那月から誘いを受けていたことをふと思い出し、裕司に軽く話を振ってみた。「先輩。その誘い、行った方がいいと思いますか?」「どっちでもいいんじゃないかな」裕司はあっさりと答えた。「ここは法治国家なんだから、向こうだってそう変な真似はできないさ。それに、つまらないと思ったらさっさと帰ってくればいい。今はあっちが君に頼み事がある状況なんだから、立場的には君の方が上なんだよ」「それもそうですね」杏奈も納得して頷いた。「じゃあ、少しだけ顔を出してみます」最悪、すぐに帰ればいいのだから。しばらくして、二人はエレベーターに乗り込んだ。杏奈はデザイン部のフロアで降り、裕司はそのまま最上階の社長室へと上がっていった。デザイン部にはデザイナー専用のアトリエが併設されており、制作に必要な機材が一通り揃っている。フロアに戻るなり、杏奈はすぐさまそのアトリエへ直行した。再びアトリエから出てきた時には、窓の外はすっかり暗くなっていた。「杏奈、もうっ、遅いよ!」エントランスの外で待ちくたびれていた那月が、不満げに頬を膨らませた。「何件もメッセージ送ったのに、全然見てなかったの?」制作中に乱入して怒らせたくなかったからギリギリまで我慢したものの、本音を言えばとっくにアトリエへ押しかけたかったのだ。「見てたわ」杏奈は悪びれもせず、あっさりと認めた。那月が怪訝な顔で聞き返す。「じゃあ、なんで……」「忙しかったから」あまりのにべもない返答に、那月は言葉を失った。怒らない、怒らない。この人は金のなる木なんだから、ここで機嫌を損ねたら大変だわ!「そ、それはよかった!」那月は顔を引きつらせながら、無理やり笑顔を絞り出した。「そういう仕事熱心なところが、杏奈の一番好きなところだから!」「遊びに行くんじゃないの?」杏奈は涼しげな目で彼女を見た。「まだ出ないの?」「そうだそうだ、急がないと遅れちゃう!」那月はハッとして、杏奈を自分の車に乗せると、濱海市のひっそりとした一角へと向かって車を走らせた。三十分後。車は郊外のひっそりとした、どこか隠れ家的なサロンの前に停まった。「……本当にここで合ってるの?」杏奈が疑わしげに尋ねると、那月はポンと胸を叩いて保証した。「ここは外見は地味だけど、中身
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第159話

筋トレ三ヶ月……ジムで死ぬほど鍛え上げたこの胸筋を見せつけて、ようやく掴んだチャンスだったのに、まさかのあの冷たい目線……鍛えすぎると、男にしかモテなくなるという噂は本当だったのか。ウェイターは密かにガラスに映る自分の後ろ姿をちらりと確認した。まあ、それはそれで……悪くはないかもしれないが。「ちょっと、あっちに行ってて」那月が邪魔そうにウェイターを追い払い、それから杏奈に向き直った。「杏奈、ここはパーティー兼、秘密の交流会みたいなものなの。羽目を外して遊ぶのも、人脈作りをするのも、どっちもできる特別な場所よ。今夜は純粋に楽しむために来たんだから、好みの男を一人選べば、主催者の方がすべてアレンジしてくれるよ。甘えん坊の子犬系でも、強引なオラオラ系でも、好きなタイプなら何でも対応できるって」那月は「ね、分かるでしょ?」とウィンクをして見せた。だが、杏奈の眉は不快げにひそめられたままだ。「……それだけ?他には?」もし男遊びが目的のくだらない集まりなら、今すぐ帰る。ところが、那月は杏奈の冷たい反応をまったく別の意味に誤解した。正直、抑圧されてきた杏奈がこういう場所を好むかもしれないとは思っていたけど、まさかこれほどとは。甘え系でも強引系でも物足りないとは、なかなか見込みがあるじゃない。もっと刺激の強い「裏メニュー」が必要そうね。「じゃあ、こうしましょう」那月は杏奈の肩を軽く叩き、「私に任せて」とばかりに自信満々な顔をした。「先に向こうの席に座って待ってて。主催者に直接聞いてみるから」「……分かったわ」他にも何か目的があるというなら、せっかく来たのだから少し待ってみてもいいか。そう思い直し、杏奈は小さく頷いた。那月は杏奈を薄暗い休憩スペースへと案内すると、そのまま人ごみの中へ姿を消した。パーティーの中心から少し離れたゆったりとしたソファに一人腰を下ろし、杏奈は目の前の狂騒を、他人事のように冷ややかに眺めていた。きらびやかな男女が身を寄せ合い、腹の底に響く重低音のクラブミュージックに乗って、熱を帯びた身体を揺らしている。正直、ひどく居心地が悪かった。今すぐにでもここを逃げ出したいという衝動がこみ上げてきた。だが、立ち上がるよりも先に――予想外だが、どこか納得してしまう軽薄な顔が視界に飛び込んできた。
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第160話

涼平は堪えきれずに聞いた。「お前……本当に、あの杏奈なのか?」その間抜けな問いを聞いて、杏奈は思わず冷笑しそうになった。みんなが一様に、自分は蒼介なしでは生きていけないと勝手に信じ込んでいる。彼から離れたら路頭に迷って死ぬか、狂うか、自我を保てなくなるのだと。誰一人として気づいていないのだ。自分は誰かの妻であり母である前に、まず「自分自身」なのだということに。杏奈はもう、心底疲れていた。こんな浅はかな男と言葉を交わす気力すら残っていなかった。「もう用がないなら、さっさとあっちに行って」涼平は不満げに口を閉じた。珍しく嫌味の一つも出てこなかった。それだけ、目の前の杏奈が別人のように変わってしまったのだという事実を、肌で強烈に感じ取っていたからだ。「……人ってさ、こんなに急に変わるもんかな」涼平がソファを離れ、誰にともなく呆然と呟いた。唐突にやってきて、そんな柄にもない哲学的な問いを投げかけてくる友人を前に、成海蓮(なるみ れん)はあからさまに困惑した顔をした。「……それ、俺に聞いてる?」蓮は周りを見回し、このソファには自分しかいないことを確認した。「俺が主催したパーティーに悪酔いする酒でも紛れ込んでて、お前、それをごくごく飲んじゃったんじゃないの?」「冗談言うな」涼平は蓮の隣に重く腰を下ろし、遊び人らしからぬ真剣な顔をしていた。「俺は本気で聞いてるんだよ」「こっちも本気だよ」蓮は呆れ笑いをこらえた。「そんなに気になるなら、当の本人に直接聞きに行けばいい話を、なんでわざわざ俺のところへ持ってくる?本当に変なクスリ入りのお酒でも飲んだんじゃないか?」痛いところを突かれ、涼平は押し黙った。今の杏奈の、あの態度を見れば、直接聞きに行けるわけがない。「まあいい、話してみろよ。何があった?」蓮はグラスを傾けながら、渋々聞いてやることにした。自分が主催したパーティーで客にトラブルがあれば、責任者として放っておくわけにもいかない。「あそこにいる女が見えるか?」涼平が顎で指した方向へ蓮が視線を向けた瞬間、その艶を帯びた瞳の奥がスッと鋭く細められた。涼平は友人のそんな反応には気づかないまま、杏奈のことをざっくりと説明した。地味な専業主婦から、突然別人のように冷徹な女へと変貌した経緯を――彼女の結婚生活の生
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