All Chapters of 失恋リハビリテーション: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話

近藤哲也(こんどう てつや)と私のお金は、まとめて同じ口座に入っている。2000万円貯まったら結婚しようって、約束してたのに、その中の1900万円が消えていた。哲也はこう説明した。「睦月が離婚でもめててさ、急にお金が必要になったから貸したんだ。同じ女なんだから、君も分かってくれるだろ?」ここで私が怒ったら、思いやりがない女だと思われるんだろうね。でも、やっぱり私には理解できなかった。だって、私なら彼女がいる元カレに、お金なんて絶対に借りないから。しかし、言い争っても意味がない。これまでの、数え切れないやりとりと同じだ。私は黙ってうなずいた。「わかった」哲也はほっとした顔で笑って言った。「理恵、やっと分別がつくようになったんだ。一度別れたのが、君にとっては良い薬になったみたいだな」私は、言葉を失った。平静を装っていた心に、さざ波がたつ。どうして哲也は、こんなことをあっさりと言えるんだろう。あの時の別れは、身を切られるように辛かったのに。彼は、全然こたえてなんかいなかったんだ。哲也は、私の初恋の人だった。私たちの5年間は、今となってはただの笑い話みたいだ。夕食後、哲也はいつものように「散歩」に出かけた。半年前、菅原睦月(すがわら むつき)は夫と別居して、私たちのマンションに引っ越してきた。彼女は短大を中退して、金持ちのボンボンと結婚したのだ。睦月の話によると、夫はDVで、しつこくつきまとってくるらしい。だから哲也は、彼女が一人で安全か、確かめに行っている。哲也が玄関のドアを開ける音で、私は我に返った。私がまた何か言うのを面倒に思ったのか、彼は言い訳を付け加えた。「近所の人から、不審な人物がマンションの入り口をうろついているのを見たってさ。あの男かもしれない。睦月にここを勧めたのは俺だ。彼女の安全は、俺が責任を持たないと」もう反論する気にもなれなかった。「あの不審者」は睦月の夫じゃなく、ただの泥棒で、もう捕まっている。私はどうでもいいというように頷き、わざと優しく言った。「いっそ、彼女のところに引っ越したら?」ドアを開けようとしていた哲也の手が、ぴたりと止まった。「理恵、またかよ!」哲也の声には苛立ちが滲んでいた。「少しはましになったかと
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第2話

哲也は満足そうに帰っていった。ドアが閉められる。暗闇の中、ソファに横たわる私だけが取り残された。壁の時計の秒針が、チクタクと時を刻んでいる。前に一度別れた時の孤独感が、またぶり返してきた。でも今回は、前みたいにヒステリックな寂しさを感じることはなかった。きっと、私の心は――もうすぐ、この苦しみから解放される。別れる前の記憶が、津波のように押し寄せてくる。全ては、ある深夜から始まった。睦月が哲也にメッセージを送ったのだ。【ねぇ、私、離婚するの】その時から、哲也の様子がおかしくなった。彼はインスタのプロフィール写真を、私とのツーショットから変えてしまった。昇進のかかった大事な時期だから、仕事に集中しているように見せたいんだって。私は哲也を疑うことなんてしなかった。私も仕事が忙しかったし、彼だってそうだった。だから哲也に、睦月のためにあれこれ駆け回る時間があるなんて、考えもしなかった。私たちは二人とも、ごく普通の家庭で育った。というか哲也の両親は、むしろ彼の足を引っ張るくらいだった。哲也の父親がお金を全部愛人に貢いでしまって、離婚する時、哲也の母親は1円ももらえなかったらしい。哲也の様子がおかしいのは、実は前から兆候があった。ある日の昼。哲也とご飯を食べている時、彼が不意に言った。「君もそろそろ、化粧くらい覚えたらどうだ」って。後になって、トーク履歴を見返して気づいた。あの日、睦月がうっかり、完璧にメイクした自撮り写真を彼に送っていたんだ。ある日の夜。体を重ねた後。哲也はまだ物足りなそうに、私の体を眺めて言った。「君の腰、もうちょっと細かったら最高なんだけどな」あの日、睦月はネット通販で一番小さいサイズの下着を注文して、届け先の電話番号をわざと哲也のものに間違えていた。ある日の夕方。私たちが住むマンションで、誰かの家から火が出た。炎は上の階へと燃え広がっていく。黒い煙がもうもうと立ち上り、空が真っ赤に染まった。その時の私はまだ、こんなことを考えていた――よかった、哲也は散歩に行ってる。よかった、彼は無事だ、って。黒い煙を吸い込んで、私の意識はどんどん遠のいていった。消防士に助け出された時、私は哲也が燃え盛る建物の中に飛び込もう
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第3話

「俺と彼女の間には、何もない!」そういうことなのかな……恋愛のことなんて、いつも哲也に教えてもらってばかりだった。哲也は、「誰にだって過去はある」と言っていた。もしかして、私が気にしすぎていただけなんだろうか。でも、結局彼は何度も睦月のところへ行った。私たちの記念日ですら、そうだった。睦月から「怖い」って震える声で電話があっただけで、哲也は私を置き去りにして、振り向きもせずに駆けつけていった。あの日、私が夜中の4時まで待っていると、ようやく哲也は帰ってきた。彼の髪は濡れていて、シャワーを浴びたばかりなのは明らかだった。ドアを開けた哲也は、真っ赤に泣きはらした私の目と合った。彼は一瞬だけ慌てた顔をしたが、すぐにこう言った。「もう寝てると思って、睦月の家でシャワーを浴びてきただけだ。何もなかったよ」哲也の言葉への返事は、私が投げつけたグラスだった。これまでで一番激しい言い争いが始まった。私は息を切らしながら、怒りにまかせて罵った。「あんな女、まだ離婚もしてないのに!あなたはそれでも尻尾を振って不倫しにいくわけ?本当に気持ち悪い!」パシンッ――平手打ちが、私の頬に飛んできた。頬は、みるみるうちに赤く腫れ上がった。哲也は氷のように冷たい顔で言った。「言葉遣いに気をつけて。睦月のことを悪く言うな」信じられない気持ちで、私は哲也を見つめた。目の前にいる男が、急に知らない人のように思えた。「君は俺を全く信用してくれない。こんなんじゃ、もうこれ以上は無理だ。別れよう」別れ話なんて、哲也はこんなにもあっさりと口にした。付き合っている頃は「別れる」なんて口癖のように言う私を、あんなに嫌っていたのに。その日のうちに、哲也はスーツケースを引いて出て行った。二人で暮らした部屋で、私は抜け殻のようになってしまった。食欲は全くなく、お腹が空くと、ただ機械的に食事を口に運ぶだけだった。インスタに、睦月が動画を投稿した。それは男の人が慣れない手つきで料理をしている動画だった。【うち、料理できる人が誰もいない】間違いなく哲也だった。【家事代行サービスって、どうやって連絡すればいいの?】【二人分で、味は濃いめがいいと思う。辛いものが好きなので】私も、味付けは濃い
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第4話

まるで何事もなかったかのように。不思議なことに、哲也のことを以前より愛している気がした。毎日彼の体を気遣い、かいがいしく身の回りのお世話をした。哲也が睦月にするよりも、彼に尽くした。今まで恥ずかしいと思っていたことも、積極的に受け入れるようになった。哲也はすごく喜んだ。「理恵、最初からそうしてくれてたらよかったのに」でも、だんだんと哲也はなにかがおかしいと気づき始めた。私が彼の残業を心配することも、風邪を気遣うことも、行動を探ることもなくなった。彼からの連絡が遅くても、どうでもよかった。彼にドタキャンされても、怒らなかった。それどころか、シャツについている口紅の跡さえ、見て見ぬふりをした。たった1ヶ月で、脱感作療法は効果てきめんだった。私の目には、哲也がどんどん醜く見えてきた。彼がキスをしようと顔を近づけてくると、吐き気さえ覚えた。体を重ねることも、だんだん耐え難くなっていった。そんな時、哲也は何かを察したようだ。「理恵、俺のこと愛してるか?」私は少しもためらわずに、「愛してるよ」と答えた。でも、彼はその答えに満足していないようだった。何度も何度も私に問いかけ、確かめていた。そして、ついに、ある日。私ははっきりと気づいた。もう、哲也から離れられる、と。……この数日で、私は荷物を少しずつ送り始めていた。仲の良かった大学の先輩が海外で起業して、一緒にやらないかと誘ってくれたのだ。私はその誘いを受けることにした。今回、哲也は散歩からいつもより早く帰ってきた。私は慌てて目を閉じた。哲也はそっと私の隣に横になった。彼は私を抱きしめようと手を伸ばしてきた。私は何気ないふりをして寝返りをうち、哲也から少し距離をとった。彼の手は、行き場をなくして宙で固まった。「理恵、最近疲れてるんじゃないか?」私は答えなかった。「どうして俺と喧嘩してくれないんだ?」私は、それでも黙っていた。哲也は一人で話し続けた。「どんな結婚式がいい?月見湖で式を挙げるのはどうだ?君は、前に行きたいって言ってただろ……」もう結婚式なんてない。哲也の独り言を聞きながら、私は眠りに落ちた。次の日の朝。哲也は髭を剃り、クローゼットの中で一番高いブランドの
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第5話

すぐそばを雲が流れていく。そして、下の街もどんどん小さくなっていく。私はアイマスクをつけて、目を閉じた。夢の中に、やっぱり哲也が現れた。でも今回は、彼の姿はぼんやりしていて、声もどこか遠くから聞こえるようだった。まだ青かった頃の少年と少女の出会いのシーンを、まるで映画を見ている気分だった。大学二年生の時、うちの学部は哲也の学部とスピーチ大会で対戦した。テーマは、「10年付き合った恋人が、結婚前に心変わりしたら別れるべきか?」だった。うちの学部は反対側。「別れるべきではない」という立場で戦うことになった。そして、私たちは勝った。私が壇上に立って、最後のまとめを熱く語ったんだ。「誰にだって、心が揺れる時はあります!一瞬の気の迷いで、全てを終わらせてしまうべきではありません!10年の歳月を共にした二人の間には、様々な思い出があるはずです。それを、たった一度の過ちで無にするなんて、あまりにもったいないんです!」壇上から降りると、哲也が連絡先を聞きに来た。それから何年も経って、運命はまるで私をあざ笑うかのようだった。自分の身にふりかかって初めて、その痛みがわかるなんてね。……夢の中の湖面に波紋が幾重にも広がっていく。私は、すっと立ち上がった。湖の水は、思ったより浅くて腰のあたりまでしかなかった。私は水面をかき分け、ゆっくりと岸へ上がった。不思議な夢だった。……哲也は、しきりに腕時計に目をやった。ようやく、睦月の夫が現れた。想像していたDV男とは全く違い、どこか頼りなくてお人好しそうな顔立ちをしていた。金持ちのボンボンという感じでもない。ポケットのタバコも安物だ。でも、乗ってきた車は、一昔前なら高級車だったはずだ。どうやら、事業にでも失敗したのだろう。離婚届の提出は、あっけないほどスムーズに進んだ。睦月は、手続きの間ずっと哲也の手を強く握っていた。役所の職員は、すべてを察したような顔で二人を見ていた。役所を出ると、哲也は睦月を空港まで送ると申し出た。だが予想外のことにも、睦月は首を横に振った。そして、もごもごと口ごもりながら言った。「フライトを変更したの。明日にした」哲也は深く考えず、「じゃあ、家まで送るよ」と言った。睦月は、その場から
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第6話

そんな日々の生活は、平穏でありながらも温かかった。生活費をやりくりする日々も、決して嫌ではなかった。だが、そのような生活は、哲也が睦月と完全に縁を切るつもりでいることを意味しなかった。初恋っていうのは、やっぱり特別なものだから。友達として、力になりたかっただけなんだ。睦月は泣きじゃくりながら哲也の胸に飛び込んできた。そのか細い体は、小刻みに震えていた。結局、哲也はレストランに電話して、今夜のプロポーズを明日の夜に延期することにした。彼はどうせ、まだ私に今夜プロポーズするとは言ってない、と思っているんだ。そう考えると、彼は私にメッセージを送った。【理恵、ごめん。今夜急に残業になっちゃった。ご飯は明日の夜に行かない?】哲也はメッセージを送って少し待ってみたけど、返事はなかった。これまでのやり取りをさかのぼって見て、彼はため息をついた。いつからだろう。理恵からの返信が、だんだん遅くなっていた。きっと、まだ拗ねてるんだろうな。でも、大丈夫。今日のことが終わったら、ちゃんと理恵の機嫌を取ろう。彼女がずっと夢見ていた結婚式を、プレゼントしてやろう。だから今日だけは、最後にもう一度だけ、好きにさせてほしい。これは、けじめみたいなものだ。初恋への、さよなら。青春への、さよなら。……空港の到着ゲートを出ると、私はすぐに大学の先輩・阿部樹(あべ いつき)の姿を見つけた。何年かぶりに会うから、ちょっと緊張しちゃった。でもよかった。樹は、大学の時と全然変わってなかった。親しみやすいんだけど、どこか掴みどころのない感じ。樹は笑いながら、「いやー、首を長くして待ってたよ」って言った。そして、早速本題に入った。それから、次の日、私はもう新しい会社のデスクに座っていた。3日目には、プロジェクトの内容を覚え始めた。4日目、樹が探してくれた部屋に、合間を縫ってホテルから引っ越した。5日目には、もう残業してた。……哲也のことなんて、忘れるのは簡単だった。仕事に没頭するのは、一番の薬だった。共通の友達から、どこにいるのって連絡があった。哲也が私を探しているみたい、って。その名前を聞いただけで、思わず眉をひそめてしまった。なんだか気持ち悪い。私は、そのメッセージを返
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第7話

「あいつ、浮気したの?」「うん」「で、よりを戻したいって?」「まあ、そうですね」「君は?よりを戻したいのか?」私は白目をむいて、答えるのも面倒だった。「先輩、質問が多いですわ」薄暗い光の中で、樹が私を見つめていた。イケメンにあんな風に見つめられると、さすがに恥ずかしくなる。顔が少し熱くなった。数秒後、樹が突然口を開いた。「ねぇ、俺がなんでこんなに色々聞くか、わかる?」……翌日。私は哲也と顔を合わせた。でも、彼は私に会いに来たわけじゃなかった。隣には、睦月がいた。二人は高級ブランド店から一緒に出てきた。睦月は哲也の腕に絡みつき、彼の手にはブランドの紙袋が提げられていた。もちろん、哲也が私に買ってくれたことなんて一度もないものだ。私を見つけた瞬間、睦月の表情が少し険しくなった。彼女は嫌味たっぷりに言った。「哲也、言ったでしょ。彼女はあなたを諦められないのよ。見て、ここまで追いかけてきたわ」哲也は睦月から腕を引き抜き、私の方へ歩いてきた。「理恵、誤解するな。睦月の気晴らしで付き合ってあげただけなんだ……」私はくるりと背を向けて、その場を去ろうとした。哲也が私の手を掴んだ。「一体いつまで拗ねてるつもりなんだ!言っただろ、ただ睦月の気晴らしに付き合ってるだけだって」手首がじんじんと痛んだ。私は振り返って彼を睨みつけた。目には、あからさまな嫌悪が浮かんでいた。私はクスっと笑った。「気晴らしって、2週間も必要なの?」哲也は、私の視線に何かを感じ取ったようだ。彼は視線をそらした。でも、まだ意地を張って言い返してきた。「君がずっと帰ってこなかったから、俺が彼女に付き添うことになったんじゃないか!」私が呆れて言葉を失っていると、哲也は続けた。「やっぱり君は、俺を諦めきれないんだな。わざわざここまで追いかけてきたんだ。もう仲直りしよう。今回は俺が悪かったってことにしてやるから……」哲也が言い終わる前に、誰かが私の前に立ちはだかった。樹は背が高く、威圧感があった。哲也は無意識に数歩後ずさりしたが、つまずいて転びそうになった。睦月が慌てて彼を支えた。彼女は哲也のために食って掛かろうとした。でも、樹の顔を見た瞬間、言葉を失ったようだ
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第8話

私がジムに入会したことを知った樹は、自分も試してみたいと言い出した。でも、私が行ってるのは女性専用のジムから、断るしかなかった。それに、彼の体つきを見れば普段からジムに通ってるって分かるし、わざわざ私と一緒に行く必要もないしね。会社を出たとき、哲也が近くをうろついているのを見かけた。どうやら、私を探しているみたい。ここは海外だし、人を探すなんて砂漠で針を探すようなものだ。彼は旅行で来ているだけ。何日もいられるはずはないし、すぐに帰るだろう。だから、見つかる心配はしてなかった。ただ、哲也がここまで厚かましいとは思わなかった。それから、数日もしないうちに、母から電話がかかってきた。開口一番、私を責める言葉だった。「あなたは哲也さんと何があったの?彼がこっちに来てるんだから、早く帰ってくる。いい歳して、もうすぐ結婚するっていうのに、家出ごっこなんてやめてちょうだい」電話の向こうから、哲也の声が聞こえた気がした。彼が間に入って、母に、「理恵を責めないでください。全部俺が悪いんです」なんて言ってるみたい。私は鼻で笑って言った。「お母さん、私、彼とはもう結婚できないよ」母の声が一度途切れて、それから、甲高い声を出した。「結婚できないって、どういうこと!哲也さんみたいないい男、どこにもいないのに、結婚しないなんて、一体どういうつもり?まさか、お父さんみたいな男がいいって言うんじゃないでしょ!」耳に突き刺さるような、かん高い声だった。私の記憶の中の母は、いつもこんな感じ。感情的で、がめつくて、口が悪い。一方、父は、いつも黙り込んでいるだけ。給料は家にいれるけど、本人は滅多に帰ってこなかった。若い頃の母は父の帰りを心待ちにしていて、帰ってくると腕によりをかけて好物ばかり並べていた。けれど私が大きくなるにつれ、母も諦めたように、父の帰りを願うことはなくなった。父がたまに帰ってきても、二人は同じ家に住む、ただの他人みたいだった。私はスマホを少し耳から離して、母が怒鳴り終わるのを待ってから言った。「お母さん、哲也は私たちの貯金の1900万円を、全部初恋の人にあげちゃったんだ」母の声が、ぴたりと止んだ。哲也に出会うまで、私は結婚に何の憧れも持っていなかった。哲也に出
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第9話

飛行機を降りると、樹が弁護士に会いに行くのに付き合ってくれた。そこには哲也と彼の弁護士もいた。私と樹が一緒に現れたのを見て、哲也は一瞬、顔を歪めた。話し合いの間、彼は私をずっと睨みつけていた。振込履歴は全部残っているし、もともと結婚資金として預けたお金だったから、取り返すのは難しくなかった。でも、哲也はなかなか応じようとしなかった。「睦月はもう海外に行ったんだ。連絡も取ってない。どうしてそんなに意地を張るんだ?確かに、俺が悪かったこともある。でも……」私は顔も上げずに言った。「900万円、この口座に振り込んで」哲也は私を睨みつけて言った。「本当にそれでいいのか?そんなに冷たい人間だったのか?」私は樹に言った。「あとで、一緒にご飯でも行きましょう」哲也が私を睨みつけ、大声で叫んだ。「理恵!」私と樹がその場を去ろうとした時、哲也は突然やけになった。「おい!」と彼は言った。「阿部!俺と理恵が5年も付き合ってたのは知ってるよな?この5年間で、俺たちはありとあらゆることをした。お前が今相手にしてるのは、俺のお古なんだよ!」樹が手を上げた。乱闘になりかけたところで、私は樹を引き離した。哲也は、私に腕を掴まれて動きを止められた樹を、挑発するように見つめた。「ほら、理恵が本当に好きなのは、いつだって俺なんだ……」パシンッ――彼の言葉が終わる前に、私の平手がその顔に飛んでいた。「先輩に頼むまでもないわ。自分の手で十分よ」私は深く息を吸い込んで、ゆっくりと口を開いた。「あなたと過ごした5年間を、否定したことは一度もない。恋人同士が体の関係を持つのは、当たり前のこと。別に恥ずかしいなんて思ってないわ。そんな言い方で私を貶めようとしなくてもいい。あなたのそういうところが、ますます気持ち悪い」ここまで来たら、もう隠す必要もない。「実は、最初に別れた時、もうあなたから離れるって決めてたの。そのあとよりを戻したけど、あなたとこの先やっていこうなんて一度も思わなかった」私は、みっともない姿の哲也を眺めながら、静かに言った。「あなたとあの女、実はお似合いだと思うわ」私の一言一言に、哲也の顔から血の気が引いていくのがわかった。私はもう彼の方を見ずに、樹の手を引いてその
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第10話

さっき着替えるついでに、腕立て伏せでもしたの?私はふっと笑みがこぼれた。「先輩が6年も好きだったっていう人、私の知ってる人ですか?」……哲也は、まだお金を返してこない。あんなに給料をもらっているくせに。ただ、仕事が忙しくて、そのことを気にする余裕もなかった。樹が会社の中心メンバーにストックオプションを付与してくれたので、みんなますます仕事に力が入っている。ある日。哲也の親友から電話があった。「哲也は反省してるんだ。酔っぱらって、ずっとあなたの名前を呼んでる……」この1年、私は哲也とその親友たちの電話番号を、いくつも着信拒否してきた。まさか、まだあったなんて。残業で疲れすぎていたから、私はこれをちょっとした気分転換だと思って、すぐには電話を切らなかった。相手は希望が見えたとでも思ったのか、ますます熱心に話し始めた。「あの菅原って女、俺たちも会ったことあるけど、マジであの女はクソだよ!あなたの方が全然いいって!哲也はあいつを可哀想に思ってるだけだ。恋愛感情なんてこれっぽっちもないんだよ!恋人同士の喧嘩なんてよくあることだろ。あなたたちもう長い付き合いなんだから、乗り越えられないことなんてないって。あなたがまだ哲也を好きなのは俺たちも分かってる。じゃなきゃ、結婚資金のことだって催促しないはずだよね。意地を張るのはもうやめろよ。哲也は普段の仕事で十分疲れてるんだ。早く仲直りしてやれって!」私はコーヒーを一口飲んでから、ゆっくりと口を開いた。「言いたいことは、それで全部?」相手は、まだ状況が飲み込めていないようだった。私は言葉を続けた。「哲也にお金を返してもらうのを、思い出させてくれてありがとう」それだけ言って、私は一方的に電話を切った。もう、言うべき言葉なんてなかった。あの人たちに、何を言っても無駄だ。記念日に、樹は心のこもった準備をしてくれた。L国へ旅行し、彼は私をクルージングに連れて行ってくれた。満点の星空を見上げていると、なんだか夢みたいに感じた。1年前、哲也と付き合っていた頃には、自分がこんな生活を送れるなんて想像もしていなかった。見知らぬ国で、愛する人と一緒に、この世界を肌で感じる。それに比べて、哲也との日々は、先の見えない節約生活の繰り返し
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