LOGIN近藤哲也(こんどう てつや)とよりを戻してから、彼がどこへ行こうと、もう気にならなくなった。 私たちの貯金をすべて菅原睦月(すがわら むつき)に渡すのも、好きにさせておいた。 哲也はそんな私の変化に、なにか気づいたようだった。 また私を置いて睦月に会いに行く前に、彼はこう言った。 「睦月は明日、海外へ発つ。もう二度と戻らない。 彼女が行ったら、俺たちは結婚しよう」 私は適当に返事をした。 どうせ、私もここを離れることになるんだから。
View More番外編:アレルゲンもう5日になる。井上理恵(いのうえ りえ)はまだ帰ってこない。哲也は少しイライラしていた。日に日に冷たくなっていく、理恵の顔が頭に浮かぶ。理恵の変化に気づいていなかったわけではない。だが、彼はそれを信じたくなかった。なにしろ、自分が理恵にとって初恋なのだから。理恵は、自分だけをひたむきに、強く愛してくれていた。その愛が、重いと感じたことさえあった。理恵はずっと、二人の結婚式を夢見ていた。海辺で、馬に乗って、たくさんの花に囲まれると。とてもすてきなことだ。でも、面倒なことでもある。おまけに、お金もかかる。今回、理恵はへそを曲げて家を出て、自分のことまでブロックした。さすがにやりすぎだと思った。哲也の心に、かすかな動揺が走った。理恵に会いに行きたかったけど、彼女は共通の友達の誰にも行き先を告げていなかった。それに――ドアをノックする音が響いた。やってきたのは睦月だった。この数日、彼女は毎日哲也を訪ねてきていた。離婚して落ち込んでいる女性を、むげに断るわけにもいかなかった。ドアを開けると、そこには綺麗に化粧をした睦月が立っていた。体にフィットしたスカートが、彼女のスタイルの良さを際立たせていた。哲也は思わず唾を飲み込み、断りの言葉がひとつも出てこなかった。睦月は酒を持ってきて、笑顔でこう言った。「哲也、一杯付き合ってよ。自由になれたお祝いにね」そうして酒を飲んでいるうちに、いつの間にか服を脱いでいた。その後のことは、あまりに突然のことだった。ほろ酔い状態というのは、酔ったふりをするには一番都合がいい。翌朝目を覚ました哲也は、体についた跡を見て、一瞬後悔した。まあいいか、今のこの状態で理恵に会いに行くのも気まずい。数日経って跡が消えたら、その時に理恵を迎えに行こうと決めた。そうして、彼はまたレストランの予約を先延ばしにした。これは、ただ一時の気の迷いだ。自分の気持ちは変わらない。心にいるのは、今でも理恵だけなんだから。それからの日々、哲也は睦月のそばにいながら、なんとかして理恵と連絡を取ろうとした。同時に、いつ睦月がここを離れるか、ということばかり考えていた。哲也は馬鹿じゃない。睦月が出て行きたくな
さっき着替えるついでに、腕立て伏せでもしたの?私はふっと笑みがこぼれた。「先輩が6年も好きだったっていう人、私の知ってる人ですか?」……哲也は、まだお金を返してこない。あんなに給料をもらっているくせに。ただ、仕事が忙しくて、そのことを気にする余裕もなかった。樹が会社の中心メンバーにストックオプションを付与してくれたので、みんなますます仕事に力が入っている。ある日。哲也の親友から電話があった。「哲也は反省してるんだ。酔っぱらって、ずっとあなたの名前を呼んでる……」この1年、私は哲也とその親友たちの電話番号を、いくつも着信拒否してきた。まさか、まだあったなんて。残業で疲れすぎていたから、私はこれをちょっとした気分転換だと思って、すぐには電話を切らなかった。相手は希望が見えたとでも思ったのか、ますます熱心に話し始めた。「あの菅原って女、俺たちも会ったことあるけど、マジであの女はクソだよ!あなたの方が全然いいって!哲也はあいつを可哀想に思ってるだけだ。恋愛感情なんてこれっぽっちもないんだよ!恋人同士の喧嘩なんてよくあることだろ。あなたたちもう長い付き合いなんだから、乗り越えられないことなんてないって。あなたがまだ哲也を好きなのは俺たちも分かってる。じゃなきゃ、結婚資金のことだって催促しないはずだよね。意地を張るのはもうやめろよ。哲也は普段の仕事で十分疲れてるんだ。早く仲直りしてやれって!」私はコーヒーを一口飲んでから、ゆっくりと口を開いた。「言いたいことは、それで全部?」相手は、まだ状況が飲み込めていないようだった。私は言葉を続けた。「哲也にお金を返してもらうのを、思い出させてくれてありがとう」それだけ言って、私は一方的に電話を切った。もう、言うべき言葉なんてなかった。あの人たちに、何を言っても無駄だ。記念日に、樹は心のこもった準備をしてくれた。L国へ旅行し、彼は私をクルージングに連れて行ってくれた。満点の星空を見上げていると、なんだか夢みたいに感じた。1年前、哲也と付き合っていた頃には、自分がこんな生活を送れるなんて想像もしていなかった。見知らぬ国で、愛する人と一緒に、この世界を肌で感じる。それに比べて、哲也との日々は、先の見えない節約生活の繰り返し
飛行機を降りると、樹が弁護士に会いに行くのに付き合ってくれた。そこには哲也と彼の弁護士もいた。私と樹が一緒に現れたのを見て、哲也は一瞬、顔を歪めた。話し合いの間、彼は私をずっと睨みつけていた。振込履歴は全部残っているし、もともと結婚資金として預けたお金だったから、取り返すのは難しくなかった。でも、哲也はなかなか応じようとしなかった。「睦月はもう海外に行ったんだ。連絡も取ってない。どうしてそんなに意地を張るんだ?確かに、俺が悪かったこともある。でも……」私は顔も上げずに言った。「900万円、この口座に振り込んで」哲也は私を睨みつけて言った。「本当にそれでいいのか?そんなに冷たい人間だったのか?」私は樹に言った。「あとで、一緒にご飯でも行きましょう」哲也が私を睨みつけ、大声で叫んだ。「理恵!」私と樹がその場を去ろうとした時、哲也は突然やけになった。「おい!」と彼は言った。「阿部!俺と理恵が5年も付き合ってたのは知ってるよな?この5年間で、俺たちはありとあらゆることをした。お前が今相手にしてるのは、俺のお古なんだよ!」樹が手を上げた。乱闘になりかけたところで、私は樹を引き離した。哲也は、私に腕を掴まれて動きを止められた樹を、挑発するように見つめた。「ほら、理恵が本当に好きなのは、いつだって俺なんだ……」パシンッ――彼の言葉が終わる前に、私の平手がその顔に飛んでいた。「先輩に頼むまでもないわ。自分の手で十分よ」私は深く息を吸い込んで、ゆっくりと口を開いた。「あなたと過ごした5年間を、否定したことは一度もない。恋人同士が体の関係を持つのは、当たり前のこと。別に恥ずかしいなんて思ってないわ。そんな言い方で私を貶めようとしなくてもいい。あなたのそういうところが、ますます気持ち悪い」ここまで来たら、もう隠す必要もない。「実は、最初に別れた時、もうあなたから離れるって決めてたの。そのあとよりを戻したけど、あなたとこの先やっていこうなんて一度も思わなかった」私は、みっともない姿の哲也を眺めながら、静かに言った。「あなたとあの女、実はお似合いだと思うわ」私の一言一言に、哲也の顔から血の気が引いていくのがわかった。私はもう彼の方を見ずに、樹の手を引いてその
私がジムに入会したことを知った樹は、自分も試してみたいと言い出した。でも、私が行ってるのは女性専用のジムから、断るしかなかった。それに、彼の体つきを見れば普段からジムに通ってるって分かるし、わざわざ私と一緒に行く必要もないしね。会社を出たとき、哲也が近くをうろついているのを見かけた。どうやら、私を探しているみたい。ここは海外だし、人を探すなんて砂漠で針を探すようなものだ。彼は旅行で来ているだけ。何日もいられるはずはないし、すぐに帰るだろう。だから、見つかる心配はしてなかった。ただ、哲也がここまで厚かましいとは思わなかった。それから、数日もしないうちに、母から電話がかかってきた。開口一番、私を責める言葉だった。「あなたは哲也さんと何があったの?彼がこっちに来てるんだから、早く帰ってくる。いい歳して、もうすぐ結婚するっていうのに、家出ごっこなんてやめてちょうだい」電話の向こうから、哲也の声が聞こえた気がした。彼が間に入って、母に、「理恵を責めないでください。全部俺が悪いんです」なんて言ってるみたい。私は鼻で笑って言った。「お母さん、私、彼とはもう結婚できないよ」母の声が一度途切れて、それから、甲高い声を出した。「結婚できないって、どういうこと!哲也さんみたいないい男、どこにもいないのに、結婚しないなんて、一体どういうつもり?まさか、お父さんみたいな男がいいって言うんじゃないでしょ!」耳に突き刺さるような、かん高い声だった。私の記憶の中の母は、いつもこんな感じ。感情的で、がめつくて、口が悪い。一方、父は、いつも黙り込んでいるだけ。給料は家にいれるけど、本人は滅多に帰ってこなかった。若い頃の母は父の帰りを心待ちにしていて、帰ってくると腕によりをかけて好物ばかり並べていた。けれど私が大きくなるにつれ、母も諦めたように、父の帰りを願うことはなくなった。父がたまに帰ってきても、二人は同じ家に住む、ただの他人みたいだった。私はスマホを少し耳から離して、母が怒鳴り終わるのを待ってから言った。「お母さん、哲也は私たちの貯金の1900万円を、全部初恋の人にあげちゃったんだ」母の声が、ぴたりと止んだ。哲也に出会うまで、私は結婚に何の憧れも持っていなかった。哲也に出
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