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12.句読点の位置に滲む影

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2025-12-07 10:46:05

最初のメッセージを送り合った翌朝、高橋翔希は、通勤電車の中でいつもよりスマホを握る手に力が入っているのを自覚していた。

平日朝の車内は、相変わらず人と布と匂いでいっぱいだ。スーツ同士が押し合い、吊り革の金属が小さく揺れ、どこかでイヤホンの音漏れがかすかに聞こえる。窓の外には、まだ完全に目を覚ましていない街のビル群が、灰色の空に溶けかけていた。

片手でバーを掴み、もう片方でスマホを胸の高さに持ち上げる。通知を確認する。

アプリのアイコンの横には、数字は付いていなかった。

「…まあ、そうだよな」

小さく息を吐く。

昨夜、送った「こんばんは。さっきはありがとうございます」に対する「こちらこそ。いいねありがとう」。それで会話は途切れている。

別に、続ける義務なんてどこにもない。あれで終わらせてもいいし、気が向いたときにまた話し始めてもいい。それが、このアプリの世界のはずだ。

にもかかわらず、画面の奥にもう一つの吹き出しが増えている光景を、どこか期待していた自分がい

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  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   46.たぶん大丈夫と言える夜

    翔希が目を開けたとき、最初に目に入ったのは、白い天井の小さなシミだった。マンションの古い天井板に浮いた、不規則なにじみ。薄い灰色が輪郭をぼかし、じっと見ていると、そこだけ時間が止まっているみたいに感じる。ぼんやりと焦点を合わせているうちに、枕元から、微かな寝息と、布団の擦れる音が耳に届いた。すぐ横には、うつ伏せ気味に眠っている村上の背中がある。薄いグレーのTシャツ越しに、規則正しく上下する呼吸。枕に押しつぶされた後頭部から、少し跳ねた髪がはみ出している。部屋のカーテンは、半分だけ開いていた。隙間から朝の光が斜めに差し込み、埃の粒をきらきらと浮かび上がらせている。窓の外からは、遠くの環状線を走る車の音と、近くの保育園から流れてくる子どもの声が、薄い壁越しににじんで聞こえた。ここは、新宿の古い1Kマンションの一室。すっかり見慣れてしまった部屋。けれど、朝、こうして二人でスーツに着替える前の、この一瞬だけは、いまだに少し現実味が薄い。「……七時半」枕元のスマホに手を伸ばし、画面を点ける。液晶の光に目を細めながら時刻を確認すると、会社に行くにはちょうどいい時間だ。目覚ましはとっくに止めてある。たぶん、村上が無意識に止めたのだろう。アラームの履歴が、そんな痕跡を残していた。もう一度、隣に視線を落とす。寝ている村上の横顔は、会社にいるときとは少し違う。眉間に寄りがちな皺が緩み、口元も、ほんの少しだけ開いている。頬にかかる髪の線を目でなぞっていると、胸の奥がふわりとくすぐったくなる。こんな顔を知っているのは、自分だけだと思うと、妙な優越感と同時に、怖さも生まれる。抱きしめたくなる衝動と、この瞬間を壊したくないという臆病さが、胸の中で混ざり合う。「……起きますかね」誰に聞かせるでもなく呟きながら、翔希はそっと身体を起こした。布団が擦れる音に、村上が微かに身じろぎする。肩がひとつ上下し、眠りの深さを確かめるみたいに長く息を吐いたあと、うっすらと瞼が持ち上がった。「ん……」掠れた声が漏れる。翔

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   45.二つのマグカップと小さな生活音

    古めのマンションの前に着く頃には、小雨の気配はすっかり消えていた。アスファルトに残っていた小さな水たまりも、足で踏みしめられ、車に弾かれ、だいぶ薄まっている。代わりに、マンションの外壁に染み込んだ湿り気と、どこかの部屋から漏れてくるカレーの匂いが、鼻の奥をくすぐった。翔希は、建物を見上げた。見慣れたコンクリートの肌。ところどころ黒ずんだ手すり。何度も通ったはずなのに、会社から一緒に歩いてきたせいか、少しだけ違って見える。エントランスのオートロックに番号を打ち込むのは、もう迷いがない。隣で村上がさっとキーを押し、その間に翔希は肩からバッグを掛け直す。開いたドアから、むっとした室内の空気が一気に流れ込んできて、外気と混ざった。階段を上がる音が、コツコツと一定のリズムで響く。最初の頃は、段数を数える余裕なんてなかった。今は、二階に上がるまで何段あるか、何となく感覚で分かるようになっている自分に気づき、心の中で少しだけ笑う。いつもの階で足を止め、いつものドアの前に立つ。村上がポケットから鍵を出し、慣れた動きで回す。その所作を横目で見ながら、翔希は「ああ、本当に『いつもの』なんだな」と妙に現実味を帯びた感慨を覚える。中から、きしむような小さな音を立ててドアが開いた。ふわり、と漂ってくるのは、洗剤と柔軟剤と、少しだけタバコの残り香が混ざった、村上の部屋の匂い。初めて来た日の、あの少し甘苦い印象が、今はどこか落ち着く香りになっている。「お邪魔します」口ではそう言いながら、翔希の手はもう、自分の靴の位置を決めるべき場所を知っている。玄関の端、壁から一足分空けた位置。最初の頃は遠慮して一番端に詰めて置いていたのが、今は自然と村上の革靴の隣に並ぶ形に落ち着いていた。革靴を脱ぎ、揃えて置く。その隣には、何度も見てきた村上の黒い靴。その横に自分の靴が馴染んで並んでいる光景が、胸のどこかをくすぐる。「あ、そこに掛けといて」視線を上げると、村上がジャケットを脱ぎながら顎で示したのは、玄関横のハンガーラックだった。そこにも変化がある。以前はスーツとコートでいっぱいだったラックに、今は少し隙間が作られていて、そこに翔希のジャケットが掛

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   44.消えたアイコンと、出てくる夢

    新宿駅方面に向かう大通りは、雨上がりの光をまとっていた。さっきまで降っていた小雨が止んだばかりで、街路樹の葉からは時おり雫が落ち、アスファルトの上に小さな輪を広げる。車のヘッドライトと、ビルのネオンが濡れた路面に映り込んで、色の境界線を曖昧にしていた。高橋翔希は、その光のゆらめきをぼんやりと追いながら、肩にかけたバッグの持ち手を握り直した。会社を出たときよりも、少しだけ空気が冷たくなっている気がする。スーツの襟元に入り込む湿った風が、ほてった首筋を撫でていく。隣では、村上遥人が同じ速度で歩いていた。歩幅はほとんど同じで、一歩進むたびに靴底の音が微妙にずれて重なっては、また離れていく。信号待ちで横断歩道の前に立ち止まると、周囲には同じようなスーツ姿の会社員たちが集まってきた。手には折りたたんだ傘、紙袋、コンビニの袋。それぞれの一日の終わりが、同じ赤信号の前で足並みを揃えている。翔希は、何気なく右側に立った。遥人との距離は、肩と肩がかすかに触れるか触れないかくらい。以前なら「近すぎる」と感じて半歩引いていた距離だが、今はその微妙な接触が、むしろ落ち着きをもたらしていた。赤信号の光が、二人の顔色をわずかに変える。車道を走り抜けていくタクシーのライトが、視界の端で流れていく。排気ガスと、濡れたアスファルトが混ざった匂いが、吸い込むたびに胸の奥に重くたまった。ふと、指先に柔らかいものが触れた。自分の手の甲に、誰かの指がかすかに擦れたような感覚。翔希が視線を落とすと、遥人の左手の甲が、ほんの少しだけ自分の右手に寄っていた。以前なら、反射的に引っ込めていたはずだ。血の気が引いて、周囲に誰かが見ていないかと慌ててきょろきょろしただろう。けれど、今は違かった。翔希は、わざと何でもない顔をしたまま、その指先に自分の指をそっと重ねた。人混みの中で、ごく自然な動きに見えるように、慎重に。誰かの視線があるとしたら、その程度の触れ方なら、たまたまぶつかったくらいにしか映らないだろう。重ねられた指先が、一瞬だけ緊張したように固くなり、それからゆっくりと力を抜いた。遥人の指が、わずかに握り返してくる。ポケットの中に一緒に手を突っ込んでいるわけでも、露

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   43.小雨上がりの新宿口

    夕方のチャイムは、このフロアには鳴らない。代わりに、各自のモニターの右下で、定時を知らせる小さなポップアップが静かに消えていく。高橋翔希は、それを斜めに視界に入れながら、まだ開いたままの見積書の数字をひとつひとつ確認していった。桁の打ち間違いがないか、単価が最新のものになっているか、営業の勘と、ここ一年で身についた「管理部がどこを気にするか」という感覚で、ざっと全体を見渡す。隣のデスクでは、四月に入ってきたばかりの後輩が、未だに慣れない様子でテンキーを叩いている。数字を打つ指先が、少しだけぎこちない。「ここ、単価こっちね」翔希は椅子ごとそちらへ滑り、モニターを指さした。「あ、すみません」「いや、最初っから全部できる人いないんで。単価の表、最新のやつブクマしといたほうが早いですよ」「はい…ありがとうございます」口をついて出る言葉が、気づけばすっかり「先輩」側のものになっている。半年前までは、自分も似たようなテンションで中村に助けられていたはずなのに、と翔希は小さく笑った。デスクの端に置いてあるマグカップには、もう冷めたコーヒーが半分ほど残っている。空調の乾いた風、コピー機の低い駆動音、人の話し声とマウスのクリック音が混ざった雑音。その全部が、毎日の背景として身体に染みついている。モニターのタスクバーに、チャットアプリのアイコンがひとつ瞬いた。社内用のツールだ。通知のポップアップに表示された送り主の名前を見て、翔希は意識して表情を変えないよう、背筋を伸ばした。「高橋くん、今日どんな感じ?」管理部の全体チャットに紛れて届いた、個別メッセージの一行。送り主は、村上遥人。数ヶ月前と違うのは、これが「管理部の誰か」ではなく、確実に自分の知っている誰かからのメッセージだということだ。画面越しではなく、生の声の温度を知っている相手。翔希はキーボードに指を滑らせた。「今、見積最終確認してるところです。あと十五分くらいで上がれそうです」返送したメッセージが送信済みの欄に沈んだ瞬間、すぐにまた通知が弾んだ。

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   42.選び直す朝のあとで

    それからの時間は、音を立てずに進んでいった。派手な出来事があったわけではない。ただ、気づけば、ホテルの白いシーツよりも、村上遥人の古い1Kの布団の感触のほうが、翔希の中で「いつもの夜」に近づいていた。ある平日の夜、高橋翔希は、いつもの新宿のビジネスホテルではなく、少し路地を入った先の古いマンションの前で立ち止まっていた。数週間前に初めて上がった階段。二、三本ほどペンキが剥げた手すり。雨上がりで少し湿ったコンクリートの匂いが、鼻の奥にまとわりつく。インターホンを押すと、少し間があってから、かすかに聞き慣れた声が返ってきた。「はい」「高橋です」「ああ、開けるね」ブザーの音とともにオートロックが外れ、扉が重い音を立てて開く。エレベーターのない階段を上がりながら、翔希は何度目かの、しかしまだ慣れきらない高鳴りを胸の中で確かめた。三階の廊下に出ると、薄いカーペットの匂いと、どこかの部屋から漏れるテレビの音が交じり合っていた。指定の部屋番号の前まで歩き、軽くノックする。「開いてるよ」内側からそう声がして、ドアノブを回すと、少し油の抜けた金属音がした。扉を引くと、見慣れてきたワンルームの景色が広がる。キッチンには、シンクに伏せられたマグカップが二つ。テーブルの上にはコンビニの袋と、簡単な総菜パック。部屋の中央には、布団ではなく、小さなソファとローテーブルが置かれている。その向こう側に、広げたままの洗濯物がハンガーに吊られていた。「お疲れ」キッチンの手前で、村上が片手を上げた。シャツの袖を肘までまくり、ネクタイはすでに外してテーブルの端に置いてある。眼鏡の跡が鼻の付け根にうっすら残っていた。「お疲れさまです。今日もありがとうございます」靴を脱ぎながらそう言うと、村上は小さく笑った。「そんなに改まらなくていいのに。ほら、適当に座ってて。ご飯、温めるから」「何買ってきたんですか」「たいしたものじゃないよ。コンビニの焼き魚とサラダと…あと、高橋くんが好きって言ってた唐揚げ」

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   41.先輩と後輩の仮面

    朝の通勤電車が、ビル群の隙間を縫うようにガタン、と揺れた。高橋翔希は吊革を握りしめたまま、ドアの向こうに流れる景色をぼんやりと眺めた。窓ガラスには、スーツ姿の自分の顔が薄く映っている。ネクタイはきちんと締まり、ワイシャツの襟も、いつも通りに収まっているはずなのに、その「いつも通り」がひどく他人のものに思えた。昨夜、自分は誰かを抱いていた。それも、ただの「誰か」じゃない。村上遥人という名前を、何度も喉の奥で転がしながら、相手の体温にしがみついていた。肩に噛みつくときの塩辛い汗の味も、耳元で震えた息も、まだ肌のどこかに貼り付いている気がする。そのすぐ翌朝に、こうして満員電車に押し込まれて、会社へ向かっている。このギャップに、軽い眩暈みたいなものが込み上げた。ドア横の広告には、新築マンションやブライダルフェアのポスター。笑顔のカップルの写真に「理想の未来を一緒に」と白い文字が踊っている。昨日までなら視界の端をただ通り過ぎていたはずのその言葉が、今日は妙に目に刺さった。理想の未来。自分の理想は、何だったんだっけ、と翔希は思う。二十代半ばの営業職。数字は悪くない。上司からの評価もそこそこ。いずれ結婚して、どこかの郊外に2LDKでも構えて、週末に大型スーパーでまとめ買い…そういう「普通」が、なんとなく自分の前にも用意されているのだと、どこかで信じていた。でも今、あの薄暗いホテルの部屋や、古い1Kマンションの見慣れない天井が、頭の中で強く残っている。あの場所で、村上を抱きしめていた自分と、この広告の中の「未来」を目指す自分は、同じ人間なのか、本当に、と考えると、足元がふわついた。電車が駅に滑り込み、乗客がざわ、と動き出す。人の波に押されながらホームに降り、ビルへ向かう。オフィスビルのエントランスに入ると、冷房の冷たい風がスーツの布越しに肌を撫でた。エレベーターホールには、あちこちのフロアへ向かう社員たちが集まっている。二十階のボタンのライトがぼんやりと光っていた。翔希は、その列の中に自然に混ざる。扉が開き、人がぎゅっと詰め込まれる。革靴の匂い、スーツの生地に染み付いた柔軟剤と香水の匂いが

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   11.空欄に落ちる一文字目

    部屋の明かりを一段落として、間接照明だけにしたのは、いつもの習慣だった。高橋翔希は、ベッドのヘッドボードに背中を預け、膝を軽く立てた姿勢で、スマホを両手に挟んでいた。シャワーを浴びたあとの湿った髪が首筋に触れるたび、ひやりとした感覚がする。Tシャツ一枚の肌に、エアコンの風がゆっくりとまとわりついていた。時刻は、日付が変わる少し前。壁掛けの時計は無音で、耳に届くのはエアコンの送風音と、マンションのどこか別の部屋から微かに漏れてくるテレビの音、それから、自分の呼吸だけだった。スマホの画面には、「マッチしました」の表示はもう消え、

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   10.親指ひとつぶんの距離

    金曜の夜、新宿の空気は一週間分の疲れとアルコールと油の匂いで、いつもより少し重かった。駅から会社とは逆方向に伸びる小さな路地に、赤ちょうちんが連なっている。そのうちの一軒の引き戸を、中村が勢いよく開けた。「とりあえずビールでいいっすよね、課長」「おう、そりゃそうだろ」カウンターと小上がりだけの狭い居酒屋。油で少し曇ったガラス越しに、外のネオンがにじんで見える。串焼きの煙がうっすらと漂い、醤油とタレの甘い匂いが鼻をくすぐった。高橋翔希は、カウンターの端の席に腰を下ろしながら、緩めかけたネクタイをもう一段階だけ緩

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   9.三日間の「気のせい」

    翌朝の通勤電車は、いつも通りに混んでいた。吊り革はほとんど埋まっていて、ドアの近くには人が固まり、車内の空気はスーツの布と香水と汗が混ざった匂いで少しむっとしている。それでも、昨日アプリをインストールしたときに感じたあの妙な高揚感は、今のところほとんど表面に出ていなかった。高橋翔希は、片手でバーを掴み、もう片方の手に持ったスマホの画面を一度だけ点けて、すぐにスリープに戻した。通知はいくつか来ていたが、どれも仕事用のメールやグループチャットで、昨夜のアプリからのものはなかった。その事実に、わずかな安堵と、わずかな落胆が混ざる。

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   8.顔のない写真と既視感

    インストール中の円形のバーが一周りして、ぱっと消えた。代わりに現れたのは、アプリのアイコンが少しだけ弾むような演出と、「はじめる」のボタン。ベッドの上に仰向けになったまま、それを見下ろしていた高橋翔希は、天井に一度だけ視線を逃がし、それから小さく息を吐いた。「…ここまで来たら、押すしかないか」声に出すと、エアコンの送風音に紛れて自分にしか聞こえない。Tシャツ一枚の胸元には、さっき浴びたシャワーの余韻がまだ少しだけ残っていた。髪はタオルドライだけで済ませたので、首筋に湿った毛先が触れるたび、ひやりとした感触が走る

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