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13.昼の顔と夜のハンドルネーム

مؤلف: 中岡 始
last update آخر تحديث: 2025-12-08 10:50:56

朝、エレベーターの鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらないように見えた。

ネクタイはまっすぐ、シャツの襟も崩れていない。寝癖もない。目の下のクマも、ギリギリ「働いてる社会人」レベルで収まっている。

それなのに、高橋翔希は、喉の奥に薄く緊張が貼り付いているのを感じていた。

理由は分かっている。ポケットの中のスマホだ。

昨夜も、寝る直前まで画面を見つめていた。

「仕事大変そうだけど、ちゃんと寝てね」

あの一文が、まぶたの裏に残ったまま眠りに落ちて、今もまだ脳の片隅で光っている。

営業フロアの自動ドアを抜けると、いつものざわめきが迎えてくれた。

電話のコール音と、キーボードを叩く音。誰かが笑い、誰かが小走りでコピー機に向かう。人と情報がひたすら行き交う箱の中で、翔希もいつものように自分の席に座り、PCを立ち上げる。

画面が青から白に切り替わるのを待ちながら、さりげなくスマホを引き出しの奥に滑り込ませた。そこにしまってしまえば、少なくとも午前中は手を伸ばさずに済むような気がした。

案件の進捗を確認し、クライアントからのメールに返事をし、午前十時の社内ミーティングに出る。会議室の空調は少し強すぎて、腕に鳥肌が立った。

「この部分のオプション料金、再度管理部確認してくれる?」

石田課長が資料を指しながら言う。

「はい。単価テーブル、前回から変わってないか念のため確認します」

翔希はそう答え、メモを一つ増やした。

細かい数字の違いは、あとで首を締める。昨日すでに経験したばかりのことだ。念押しできるところはしておきたい。

ミーティングが終わり、席に戻ってすぐ、管理部宛てのチャットを開いた。単価テーブルとオプション条件について確認したい旨を書き、送信する。

数分後、管理部の共通アカウントから短い返信が来た。

『詳細確認するので、今から来れますか』

文末に付いている名前の欄を見て、翔希は小さく息を呑んだ。

「村上」

心の中でそう呟き、立ち上がる。資料をタブレットに入れ、ボールペンを一本だけ胸ポ

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  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   25.「誰も愛せねぇよ」の重さ

    新宿の夜風は、生ぬるくて、やけに冷たかった。ホテルの自動ドアが背後で閉まる音を聞きながら、高橋翔希は、しばらくその場に立ち尽くしていた。ガラスに映る自分の顔は、スーツ姿の「普通の会社員」でしかない。中身は、全然普通じゃなかった。足が勝手に動き出す。駅とは逆方向のネオン街のほうへ、ふらふらと。タバコの煙と、居酒屋の油の匂いと、水っぽい香水の匂いが混ざった空気を吸い込んで、胸の奥がきしむ。『お前には関係ないだろ』村上がベッドの上で言った一言が、耳の奥で何度もリピートされていた。関係ない。そうだ。そういうはずだった。最初から、「ここ」はそういう場所で。平日夜、短時間。名前も呼ばない。仕事の話もしない。感情なし。そこに自分で足を踏み入れておいて、今さら何に傷ついているんだ、と別の自分が冷静に突っ込んでくる。それでも、胸は痛い。『俺がお前とだけ会ってるって、いつ言った?』言われて当然のことを言われた感じがして、余計に痛い。雑居ビルの壁に、キャバクラの看板やカラオケの看板がぎっしり貼られている。どの店も、夜の楽しみを派手なフォントで謳っている。翔希の足は、そのどれにも向かわない。淡々とアスファルトの上を踏みしめるだけだ。信号待ちの横断歩道で立ち止まる。隣にいるスーツ姿の男たちは、仕事帰りのテンションで笑っていた。「でさー、その課長がさ」「マジかよ、それパワハラじゃん」笑いと愚痴と、くだらない冗談と。そういうもので夜は賑わっている。自分も、本来ならその輪のどこかに混ざっているはずだった。「…遊び、なんだからな」小さく呟く。村上の言葉を、そっくりそのままなぞる。遊びなんだから。そう何度も心の中で唱えれば、そのうち本当に軽く感じられるのだろうか。信号が青に変わった。人の波に押されるように、横断歩道を渡る。『じゃあ、なんであん

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   24.「お前には関係ないだろ」の一線

    ベッドの上の空気は、まだ体温の名残りを含んでいた。薄い掛け布団の下で、高橋翔希は仰向けになり、天井のぼんやりした模様を見つめている。隣には、ほんの少し間を空けて、村上遥人が横たわっていた。照明はスタンドライト一つだけ。オレンジがかった光が、狭い部屋の隅々をやんわり照らしている。窓の向こうのネオンは、厚手のカーテンで遮られて、かすかな明るさだけが縁から漏れていた。静かだ。エアコンの低い唸りと、二人分のかすかな呼吸音だけが、この空間のすべてだった。翔希は、自分の胸の上下を意識する。呼吸は、さっきまでより落ち着いている。脈も、ようやく普通の速度に戻りつつあった。それでも、胸の奥には別の意味の荒れが残っている。今、聞かなかったら。もう二度と、聞けない気がした。この沈黙が終わって、ベッドから降りて、シャワーを浴びて、服を着て、エレベーターに乗って。それで「お疲れさま」とか「気をつけて」とか言って別れたら。自分は、ただの「遊び相手の一人」として、何も知らないまま、この人のスケジュールのどこかに薄く書き込まれたまま、やがて消えていく。自分がそういう位置にいるのは、最初から分かっていたはずだ。平日夜/短時間。感情なしの関係希望。名前聞かないで。あのプロフィール文を見たときから、ここはそういう場所だと理解していた。理解していた、はずなのに。喉の奥がきゅっと詰まる。言葉を飲み込んだままの沈黙が、部屋の中でどんどん重くなっていく。隣から、布擦れの音がした。村上が、寝返りを打ったらしい。ベッドが小さく揺れる。横目でそちらをうかがうと、村上は片腕を枕にして横向きになっていた。天井ではなく、壁の時計のほうをぼんやり見ている。横顔の輪郭が、スタンドライトの光で柔らかく縁取られる。その横顔を、ベッドの上でも、会社のデスクでも、同じくらい見てきた。どちらの顔も、好きだった。「…」喉が鳴る。

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   23.平常運転の顔でベッドに沈む

    翌朝の新宿は、やけに白く眩しかった。高橋翔希は、地下から地上に上がるエスカレーターの途中で、思わず目を細める。ビルのガラスに反射した光が、まだ完全に覚めきっていない頭をじわじわ焼くようだった。寝不足のせいだ。眠れなかったわけではない。横になって、目を閉じて、気づいたら朝だった。それでも、体のどこかに眠り損ねた疲れが残っている。二十階の営業フロアに着くと、いつも通りの喧騒が迎えてくれた。電話の音。キーボードを叩く音。プリンターの唸り。誰かの笑い声。その全部が、いつもより半音高く響いている気がする。「おはよー、高橋」斜め前の席から、中村が手を挙げた。「…おはようございます」自分でも分かるくらい、声に覇気がない。「いや、お前さ」椅子をくるりとこちらに向けた中村が、じっと顔を覗き込んでくる。「なんか顔、死んでね」「失礼すぎません?」思わず笑って返す。口角だけは、ちゃんと上がる。「いやいや、マジで。クマってほどじゃないけどさ、その…魂が半分くらいどっかいってる感じ」「魂は全部ここにあります」「ほんとぉ?」わざとらしく首を傾げられて、肩をすくめる。「ちょっと寝不足なだけですよ。動画見すぎました」「またそれ。ほどほどにしなよ。営業は顔が命なんだから」「はいはい」軽口を交わしながらも、翔希は内心で、自分の顔がどれくらい「いつも通り」からズレているのかを気にしていた。鏡を見る余裕もなく家を出てしまったせいで、今の自分の表情を知っているのは中村たちだけだ。村上がそれを見たら、どう思うだろう。…そんなことまで考えている自分が、正直きつい。*午前中のタスクをひととおり片付けた頃、社内チャットがピコンと鳴った。管理部からの一斉連絡。稟議ルートの変更について。「うわ、また変わ

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   22.「ごめん、今日は残業」と緑色の吹き出し

    約束のある日の時間は、いつもより少しだけ軽く進む。その日の高橋翔希も、朝からどこか浮き足立っていた。理由は、誰にも言っていない。営業フロアの二十階。いつも通りの朝会、いつも通りのメール整理、いつも通りのタスク確認。ディスプレイの下には、何気ない顔で置かれたスマホ。通知はオフにしている。それでも、一度約束を交わした夜は、画面の向こうにいる相手の存在を、意識から完全に消すことができなかった。『今日、いつものところで』昨日、アプリ経由で届いたメッセージ。『二十時くらいなら大丈夫』そう返したあと、時間も場所も確定している。具体的なホテル名と部屋番号が、すでにチャットの履歴に残っている。平日夜、短時間。いつものパターン。それだけのことなのに、朝から何度も頭の中でその文字列をなぞっていた。「高橋ー」斜め前の席から、中村が声をかけてくる。「この前のB社の資料、最新版どこ入ってんの」「あ、共有フォルダの二〇二四フォルダっす。『B社_第二提案』のところです」「サンキュー。お、相変わらず整理されてんね」「村上さんに叩き込まれましたから」笑いながら答え、また画面に視線を戻す。午前中の商談は無難に終わった。昼食はコンビニの冷やし麺で済ませ、午後の打ち合わせもトラブルなく消化する。仕事は仕事で、ちゃんと好きだ。案件がうまく回るのは気持ちいいし、数字が積み上がっていくのを見るのは純粋に嬉しい。それでも今日は、どこか頭の片隅に、別のスケジュールが居座っている。二十時。ホテル。白いシーツ。シャワーの音。ネクタイをほどく指先。ふと、喉の奥が乾いた気がして、小さく息を飲んだ。「…集中しろ」誰にも聞こえないくらいの小ささで自分に言い聞かせ、手元の資料に目を落とす。*夕方、十八時少し手前。デスクの右隅の時計を、何度目か分からないくらいに確認する。

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   21.通知音のたびに揺れる水面

    平日の夜が、静かに形を変えていた。高橋翔希にとって、新宿のネオンはもう「仕事帰りの通り道」ではない。時折、その光のどこかに、あのビジネスホテルのロゴを探してしまう自分がいる。平日夜。短時間。村上遥人のプロフィールに書かれたその言葉が、現実の時間軸にべったりと貼りつくようになってから、もう何度夜を重ねただろう。仕事を終え、エレベーターで一階に降りる。ビルのガラス扉を抜ける風はいつもと同じ温度なのに、ジャケットの内側のスマホは、前より少しだけ重くなった気がしていた。ポケットの中で、スマホが小さく震える。翔希は、無意識のうちに歩みを緩めた。画面を取り出し、ロックを外す。新着メールでも、同期からのLINEでもない、小さなアイコンがひとつ。あのアプリの通知だ。『今日はお疲れさま』短いその一文だけ。村上からのメッセージは、いつもこんなふうにさりげない。絵文字も顔文字もなく、句読点さえ少なめで、感情の温度が読み取りづらい。それでも、確かに自分宛だということだけは分かる。「…お疲れさまです」歩きながら、翔希は打ち返す。親指がキーをなぞる感覚が、必要以上に意識に上る。返事はすぐには来ない。その間に、改札を抜け、ホームに降りる。ステンレスの手すりの冷たさが、指先に残る。電車に乗り込んでも、ポケットの中のスマホが気になって仕方がない。つい、また取り出す。新着は…ない。画面の上部、小さな緑の丸に視線が吸い寄せられる。オンライン。今、この瞬間も、村上はアプリを開いている。「…誰と喋ってんだろ」心の中で漏れる疑問は、まだごく小さい。自分がメッセージを送っているからオンラインなのか、それとも、自分以外の誰かとやり取りをしているのか。そんなの、考えたところで分かるはずがない。そもそも、自分がそこを気にする権利なんてあるのか。眉間にうっすらと皺が寄る。

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   20.ベッドとオフィスのあいだ

    最初の「また会う?」から、もう何度目の夜になるのか、翔希には正確な回数が分からなくなっていた。平日夜。退社時間少し過ぎの新宿。ホテルのエントランスをくぐるときの、空調の匂いとガラス越しの照明は、もう見慣れた風景になりつつある。エレベーターの鏡に映る自分の顔も、「ただ仕事帰りに寄り道をする社会人」のそれだ。ネクタイを少し緩めて、指定された階のボタンを押す。今夜の部屋番号は、六〇七。二週間前は五一二、その前は四〇一。階も番号も違うのに、中身はほとんど同じ間取りだということも、もう知っている。廊下に出て、足元のカーペットの感触を確かめるように歩く。心臓の鼓動が、相変わらず少し早くなるのは、慣れではどうにもならなかった。「…」部屋の前で足を止め、深呼吸をひとつ。ノックする前に、スマホで一言だけメッセージを送る。『着きました』ほんの数秒後、カチャリと、内側からドアノブが回る音がした。少しだけ開いた隙間から、白い光と人影が覗く。「お疲れ」村上が、少しだけ緩んだネクタイ姿で立っていた。ジャケットは既に脱いでいて、シャツの袖を肘までまくっている。その腕に浮かぶ血管や、手首の細さに、視線が一瞬吸い寄せられる。「お疲れさまです」そう返すと、村上は顎で中を示した。「入って」部屋の中に入ると、前と同じような匂いがした。柔軟剤とも芳香剤ともつかない、ホテル特有の混ざった匂い。ベッドの上には、まだ誰の体温も残っていない白いシーツが、きちんと伸ばされている。村上は、鞄をテーブルに置くと、当たり前のようにバスルームのほうへ歩いていく。「先、シャワー浴びるから」「はい」これも、いつもの流れだ。一度だけ軽くシャワーを浴びてから、触れる。それは暗黙のルールというより、村上の習慣になっていた。バスルームのドアが閉まり、水の音が聞こえてくる。

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