All Chapters of 幼馴染を選ぶはずの彼の心に、私が残っている: Chapter 371 - Chapter 380

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第371話

藤崎家との繋がりをすべて断ち切る。綺麗な経歴で、政界に足を踏み入れるために。幸之助が陸を凝視した。まるで心の奥底まで見透かそうとしているようだった。「陸、お前は私と取引をする気か?」「はい」陸は迷いなく答えた。「俺が捨てるもののすべてと引き換えに、チャンスをください」「何のチャンスだ?」「五年です」陸が二文字を吐き出した。その目は、焼き入れされた鋼のようだった。「五年時間をください。五年後、俺がまだ立っていられたなら――藤崎家の発言権の半分をいただきます」懇願ではない。宣言だった。その野心が、剥き出しのまま幸之助の前に叩きつけられている。政界での権力だけでは飽き足らず、戻ってきて藤崎家の財産の分け前まで取りにくるというのだ。書斎が、静寂に沈んだ。幸之助は陸を見つめていた。全身傷だらけで、それでいて目だけが灼けるように輝く、孤独な狼のような孫を。胸の内は、何とも言い難かった。激怒、懸念、そしてこの途方もない野心に当てられたような悪寒と……ほんの僅かな期待。藤崎グループには、陸のような局面を打ち破る人間が要る。藤崎の家にも、また彼という新たな領土を切り拓く凶刃が必要なのかもしれない。「失せろ」長い沈黙の末、幸之助が疲れた手を振った。その背中が、わずかに丸くなっていた。「手続きは手配してやる。今日自分が口にした言葉を、忘れるな」陸が深く頭を下げた。額が床に打ちつけられ、こめかみの傷口が裂けた。滲み出た血が、絨毯を赤く染める。彼はもう一言も発することなく、身軽に立ち上がり、きびきびと背を向けて書斎のドアを開け、大股で出て行った。その後ろ姿は決然として、振り返ることはなかった。執事の勝也は、廊下の突き当たりでずっと控えていた。陸が出てくるのを見て、その全身から立ち昇る殺気と、こめかみの生々しい血の跡に、胸が跳ねた。慌てて目を伏せ、それ以上直視することはできなかった。足音が階段の向こうに消えてから、ようやくそっと書斎の扉を押し開ける。幸之助は依然として窓際に立ち、物寂しい背中を見せていた。床には、長年連れ添ったあの杖が――真ん中から折れて、転がっていた。勝也は息を殺し、静かに退いた。「陸さんは……」別の使用人が近寄り、おずおずと尋ねた。勝也は首を横に振り、沈痛な面持ちで答えた。「
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第372話

藤崎家で起こった一連の騒動の後、陸は完全に姿を消した。藤崎グループのすべての役職を辞し、跡形もなく去っていった。幸之助を除いて、行き先を知る者は誰もいない。湊は引き止めなかった。その後のことも一切尋ねなかった。最初から分かっていたのか、それとも、そもそも気にしていなかったのか。湊はすべての精力を、二つのことに注いでいた。藤崎グループの経営の安定と、義男の容態だ。湊が招いた海外トップクラスの脳神経外科チームはすでに到着しており、精密な合同診察と評価を経て、安藤家に希望の光を灯す見解が示された。「安藤氏は転落の際、幸運にも途中の室外機がクッションとなり、致命的な衝撃が大幅に軽減されています。加えて、先の手術が非常に的確で、血腫の除去と容態の安定に成功しています。つまり、覚醒の可能性は極めて高い。時間はかかるかもしれませんが、希望は十分にあります」専門家の言葉が、一筋の光となって、長く安藤家の上空にかかっていた暗雲を貫いた。加奈子の顔に、ようやく笑みが戻りつつあった。あの目から、完全な絶望は消えていた。毎日病室に付き添い、昏睡状態の夫にとりとめなく話しかけている。家のこと、明乃と湊のこと、明斗が会社をうまく回していること……実際のところ、明斗の行動力は凄まじかった。安藤グループの代理CEOの肩書きを背負い、オフィスにそのまま居を構えた。父親よりも冷徹で厳しいやり方で、人事制度の改訂を行なったり、経営計画の見直しを行ったり――文字通り、休む間もないほどの忙しさだった。そんな慌ただしさの中で、ようやく大晦日を迎えた。弦の塚では長年禁止されていた花火が今年は少しだけ解禁され、いくつかの湾岸の指定エリアで打ち上げが許可されていた。湊は明乃を人混みへ連れ出すことはせず、湾岸の夜景を一望できる最上階のペントハウスで過ごすことにした。窓の外では、すでにパラパラと花火が夜空に打ち上がり始め、束の間の光の華を咲かせている。明乃は分厚い絨毯の上に胡座をかき、柔らかいウールのブランケットに包まりながら、温かいコーヒーの入ったマグカップを両手で包み込んで窓の外を見つめていた。湊が最後のメールを片付けて書斎から出てきた。明乃の隣に腰を下ろすと、ブランケットごと自然に腕の中に引き寄せる。「疲れたか?」頭を下げ、顎先で明乃の頭
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第373話

湊は眠気で目も開けられない彼女の様子を見て、優しい眼差しを向けた。それ以上からかうことはせず、ただ彼女をさらに強く胸に抱きしめた。……年が明けると、毎日が早送りのボタンを押されたようにはやく過ぎていった。明斗は安藤グループの代理CEOとして多忙を極めていた。その身から発せられる冷徹なオーラはますます威圧感を増していた。湊も同様に忙しかった。藤崎グループを見ながら、義男の治療と明乃のことにも目を配らなければならない。明乃も休んではいなかった。明光法律事務所の弦の塚支店が正式に開設された。年末のあの盛大な花火イベントの勢いに加え、明乃自身の実力と、湊が裏で整えた地盤もあって、支所の立ち上がりは早かった。大小いくつかの案件を立て続けに受任し、着実に足場を固めている。年明けの仕事始まりの日。明光法律事務所弦の塚支店の入口には、どこか只事ではない空気が漂っていた。明乃がハイヒールの音を響かせて事務所に入ると、コートを脱ぐ間もなく、徹が複雑な表情で駆け寄ってきた。視線が、ちらりと応接スペースの方に流れる。「ボス、やっと戻ってきてくれたんすね」「どうしたの?」明乃が徹の視線を追って目を向け、わずかに目を見開いた。応接スペースのソファに、年末に明乃が採用したばかりの少年――大林兼光(おおばやし かねみつ)が丸くなって眠っていた。色褪せるまで洗い込んだジーンズの上下は相変わらず。髪が少し伸びたようで、顔の大半を隠している。だが、年末の落ちぶれた時とは様子が違っていた。傍らには開きっぱなしの救急箱が置かれ、手の甲には絆創膏が貼られ、口元には新しい痣がある。そして何より目を引いたのは、事務所の入口にある背丈ほどの観葉植物の陰に、どう見ても床に敷いて寝るための布団が何組か積まれていたことだ。「こいつは……」徹は声を落とし、呆れながらも驚きを隠せない様子で言った。「正月の間、一歩も出てないっす!ずっと事務所に泊まり込んでたんすよ!」明乃が眉をひそめた。「住むところ、手配しなかったの?」「しましたって!」徹が声を上げた。「ボスに言われた通り、近くにワンルーム借りて、鍵も渡したっす!なのにあいつ、全然行かなかったんすよ!」一拍置いて、さらに声を潜める。そこには怖気と興奮が入り混じっていた。「でも行かなくて正解だったっす!
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第374話

明乃が歩み寄り、そっと兼光の肩に触れた。少年は一瞬で目を覚ました。ほんの刹那の惚けた後、瞳が鋭く、警戒に満ちたものに変わった。相手が明乃だと気づくと、瞳の奥の狂暴な光は急速に鳴りを潜め、慌てたように身を起こし、怪我をした手を無意識に背後へ隠そうとした。「どうして、用意した部屋に住まなかったの?」明乃が問いかけた。兼光は目を伏せた。長い睫毛が感情を覆い隠す。声は低かった。「ここが……安全なんで」張り詰めた顎のラインと、固く握り締められた拳を見て、明乃はふと、理解した。この少年にとって、仕事と食べ物を与えてくれるこの事務所だけが、唯一「安全」と感じられる縄張りなのだ。だから本能的に、ここを守ろうとしている。「これからは事務所に住みなさい」明乃が奥の部屋を指した。「あそこの使っていない倉庫を片付けて、あなたの部屋にする。ただし条件がある。ソファで寝るのも、床に布団を敷くのも禁止ね」兼光がはっと顔を上げた。黒い瞳の奥に、信じられないという光が一瞬走り、力強く頷いた。「それと」明乃が牙の手の傷に目をやった。「次にこういうことがあったら、まず警察を通報すること。自分の身を守ることが最優先よ」兼光は唇を引き結んだ。頷きもしなければ、反論もしなかった。明乃はわかっていた。無駄な忠告だった。この子の理屈は単純だ――自分の縄張りに手を出した奴は、噛み殺す。それだけ。……この小さな一幕を片付け、明乃がオフィスの椅子に腰を下ろしたところへ、徹がバインダーを手に、険しい顔で入ってきた。「ボス、一件案件があるんすけど……ちょっとキナ臭いっす」「話してみて」「作業員たちの集団訴訟っす」徹がファイルを明乃のデスクに置いた。「元請けが『泰盛建設(たいせいけんせつ)』で、下請けの『栄利工務店(えいりこうむてん)』が自社の作業員に対して賃金を未払いにしていたせいで、作業員がストライキを起こして工期に影響が出たんすよ。元請けは巨額の賠償を求めて訴えてるんす」明乃がファイルを開き、素早く目を走らせた。「なるほどね……」「でも、1箇所引っかかるんすよ」徹がある行を指差した。「作業員たちの代表によると、他にも現場で使われてる建材に問題があるって言ってるんすよ!特に鉄筋コンクリートの規格が基準に達してないんじゃないかって」明乃の目
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第375話

明乃は深く息を吸い、湊に電話してこの件を伝えようとしたところで、内線が鳴った。受付の声が、少し緊張している。「安藤さん、霧島岳という方がお見えで、アポイントはないのですが……」明乃の眉が寄った。岳?何をしに来たの?岳との間にあったわずかな情はとうに尽きている。それに美優とのあのゴタゴタも加われば、関わりたくもない。「忙しいから時間がないと伝えて」考えるまでもなく断った。「お伝えしたんですが……」受話器の向こうの声が焦りを帯びた。「霧島様が……そのまま入ってきてしまって!」言い終わらないうちに、オフィスのドアが外から勢いよく押し開かれた。岳が入口に立っていた。黒いスーツに包まれた長身は隙がなく、眉間にはわずかな皺。全身から冷たく硬質な空気を纏っている。背後で制止しようとする人を無視して大股で入ってくると、振り返りざまにドアを閉めた。明乃の表情が一瞬で冷えた。椅子から立ち上がり、冷ややかな目で岳を見据える。「誰もあなたのことを歓迎していないから、すぐに出て行って」岳は、その事務的な態度を見て、喉が締まるような感覚を覚えた。「聞いたんだが……君の事務所が城東地区の建設現場の作業員たちの案件を引き受けたって?」明乃は眉をつり上げた。情報が回るのがずいぶん早いわね。「あなたには関係のないことだわ」「関係ある!」岳の語気が、にわかに切迫していた。「泰盛建設は……美優の叔父さんの晋助さんが裏で株を握っている会社だ!この案件の裏は深い、わざわざ泥水に足を踏み入れる必要はない!」明乃は一瞬で合点がいった。だから岳がわざわざ来たのか。泰盛建設の裏にいるのが晋助だと!?なら、亮とも繋がっているのではないか。亮はもう拘置所にいるはずだ。これ以上、どんな波風を立てられるというのか?岳は彼女が黙り込んだのを見て、自分の説得が効いたのだと勘違いした。「明乃、危険に巻き込まれてほしくないだけだ。あの作業員たちの裏にも誰かがいるかもしれない。この件は見た目ほど単純じゃない。奴らに君じゃ太刀打ちできない!」「奴ら?」明乃が、岳の言葉の中の急所を捉えた。「奴らって誰?」岳が言葉に詰まった。顔にかすかな葛藤が走る。「とぼけるな!とにかく、この案件から手を引け。君と安藤の家のためだ!」「私の父さんのためにも?
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第376話

岳を送り出した後も、明乃の胸にはまだ怒りが燻っていた。岳の言葉がハエのように耳の中でぶんぶん鳴っている。泰盛建設、晋助……やはり亮と繋がっている。父さんが病院のベッドに横たわり、安藤グループが崩壊の危機に瀕したこと。この借りは、一つ一つ確実に清算してやらなければならない。徹がノックして入ってきた。顔色が良くない。「ボス、作業員代表と連絡取れたんすけど、めちゃくちゃ怯えてて。昨日、誰かが社員寮に『お見舞い』に来たらしくて、暗に黙ってろって圧かけられたみたいっす」明乃が冷笑した。「動きが早いわね」「それと」徹がさらに声を落とした。「人に頼んで泰盛建設について詳しく調べてもらったんすけど、ペーパーカンパニーがいくつもぶら下がってて、資金がぐるぐる回って最終的に全部一つの海外口座に行き着くんす。この手口、以前安藤グループを嵌めた海外の融資元と似てるんすよ」明乃の目が鋭くなった。「口座の名義人は辿れる?」「相手の隠し方がかなり巧妙で、もう少し時間が必要っす」「急いで」明乃が指先でデスクを軽く叩いた。「あと、現場の建材サンプルをなんとかして入手して、信頼できる検査機関に回して。費用は事務所で持つわ」徹が頷いた。「了解っす、すぐ手配するっす」彼が出ていった後、明乃は椅子にもたれ、眉間を揉んだ。この案件が厳しいことは分かっていた。だが、相手の反応がここまで速いとは思わなかった。あらゆる道を、力ずくで塞ぎにきているの明らかだ。スマホを取り出し、湊に電話しようとしたが、指が発信ボタンの上で止まった。なんでもかんでも、あの人に頼るわけにはいかない。これは安藤家が乗り越えるべき壁なのだ。自分自身の力で乗り越えなければ。……同じ頃、高級マンションの一室にて。「パンッ!」美優がティーカップを叩きつけた。カップは大理石の床で砕け散り、破片が飛び、熱い紅茶がカーペットに染みを広げる。「岳!またあの女のところに行ったのね!」カップを割っても怒りは収まらない。胸の中の炎がめらめらと燃え上がり、理性を焼き尽くしていく。彼女はスマホを掴み、震える指で岳の番号を呼び出して発信した。返ってくるのは冷たい話し中の音。あまりの怒りにスマホごと投げつけそうになった。私の電話には出ないくせに!あの女のところへは
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第377話

晋助の眉間が寄った。「あのガキ、まだおとなしくしてねぇのか!」「いつおとなしかったことがあるのよ!」美優は歯を食いしばった。「ずっと明乃さんに未練タラタラなの!あの女をこれ以上いい気にさせておくわけにはいかないわ!お父さんだって死にかけてるのに、まだあちこちで男を引っかけて、藤崎家に嫁ごうなんて?ふざけないでよ!」彼女は晋助の腕を掴んだ。「お願い、助けて。誰か使って……あの女をぶちのめして!そうなっても岳はまだあの女を追いかけるかしら!湊さんだってあんな女を妻にするはずないわ!」晋助の顔色がわずかに変わった。彼は黙り込み、すぐには頷かなかった。明乃に手を出す?これはただ事ではない。明乃は今、湊が公にしている婚約者だ。手を出せば、湊の顔に泥を塗るのと同じことになる。湊という男は……晋助はあの男の容赦ない手口を思い出し、内心少したじろいだ。しかも明斗は今、安藤グループを仕切っている。相当な切れ者だ。明乃の周りにいるこの二人の男、どちらも並大抵の相手じゃない。「美優、こいつは……ちと危ねぇぞ」晋助がなだめようとした。「湊の方は...…」「湊さんがなんだって言うのよ!?」美優は甲高い声で遮った。「あいつの目には今、あの泥棒猫しか映ってないわ。亮さんだって、あいつに刑務所へ送られたのよ!あいつが私たちを気にかけてくれたことなんて一度でもあった!?明乃が本当に藤崎家に嫁いだら、私たちに平穏な日々なんて残されてると思う?姪が奴らに虐め殺されるのを黙って見ているつり!?」彼女はそう言いながら、ポロポロと大粒の涙をこぼした。「私が今、藤崎家でどんな立場に置かれているか、叔父さんも知ってるでしょう?亮さんは潰されたし、頼れる人が誰もいないのよ!岳だって私のことなんて少しも想っていない!これ以上明乃さんにまで頭を踏まれるなら――いっそ死んだ方がましだわ!」泣き崩れる美優を見て、晋助の心が揺らいだ。ためらいが一瞬にして、昔ながらの向こう見ずな凶暴さに取って代わられる。そうだ、何もビビる必要はない。晋助がこの世界で何年やってきたと思ってる。修羅場なら数え切れないほどくぐってきた。湊がいくら切れ者でも、所詮はただのビジネスマンだ。こっちを食い殺せるとでも思っているのか?証拠を残さず綺麗に片付ければ、誰がやっ
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第378話

その頃、明乃はパソコンに向かって、徹が送ってきたばかりの資料に、眉をひそめている。城東地区の建材供給業者の実態はひどく複雑だった。下請けが何層にも重なり、最終的に行き着くのは海外に登記されたペーパーカンパニー。調査は困難を極めていた。兼光はオフィスの隅の小さな椅子に静かに座り、古びた金属の水筒を黙々と磨いていた。とんでもない宝物でも扱うかのような、真剣な手つきで。時おり目を上げ、素早く明乃の方へ視線を走らせてから、またすぐに伏せる。その時、明乃のスマホが鳴った。湊からだ。「仕事終わった?」「下にいる」時計を見て、もう18時を過ぎていることに初めて気づいた。「今すぐ降りるわ」荷物をまとめ、バッグを手に取り、兼光に声をかけた。「私はもう帰るわ。あなたも早く休んでね。戸締まり忘れないで」彼は無言でうなずいた。明乃がエレベーターホールに着き、待っている間にこめかみを揉んだ。ずきずきと張っている。扉が開き、中に入って一階のボタンを押した。ドアがゆっくりと閉まるその一瞬――廊下の奥を、ぼんやりとした人影がさっと横切ったような気がした。どこか不審な動きだった。胸がざわりとした。目を凝らそうとしたが、もうドアは完全に閉じていて、階数表示の数字が下へと動き始めている。――気のせいかしら。眉間を揉みながら、最近ちょっと神経衰弱になってる、と思った。ビルを出ると、見慣れた湊の黒いベントレーが路肩に停まっていた。湊が車の横に凭れている。黒いコート姿で、すらりとした立ち姿。薄暮の街灯がその輪郭にやわらかな光の輪を落とし、横顔の線が冷たく引き締まっている。明乃の姿を見て身を起こし、自然な仕草でバッグを受け取ると、もう片方の腕で腰を引き寄せ、額に唇を落とした。「今日はどうだった?」「疲れたね」明乃が湊の胸にもたれた。「城東の案件がちょっと厄介で」「ああ、聞いたよ」湊が車のドアを開け、明乃が乗り込むのを見届けてから、自分は運転席に回った。「俺に何かできることはあるか?」「今のところは大丈夫」明乃はシートベルトを締めながら言った。「まずは自分で調べてみたいの」湊がちらりと明乃を見たが、それ以上は言わなかった。エンジンをかける。「無理だけはするな」車がスムーズに車列へと合流した。明乃は窓の外を流れて
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第379話

男が声を潜めた。「聞いた話ですが、以前告発しようとした会計士が、翌日に交通事故に遭って足を骨折し、今も病院のベッドで寝たきりだそうです」明乃の胸がドクンと沈んだ。「誰の仕業か分かっているんですか?」男は恐怖に顔を引きつらせて首を横に振った。「分かりませんし、知ろうとも思いません。安藤さんに忠告しますが、この件は根が深すぎます。どうか手を引いてください」結局、実のある証拠は何ひとつ得られないまま、男は足早に去っていった。明乃は落胆して席に残り、すっかり冷めたコーヒーをスプーンでかき混ぜていた。「安藤さん」兼光が突然、低い声で口を開いた。明乃は顔を上げて彼を見た。兼光は窓の外、道路の反対側を顎でしゃくった。「あの車、ずっとあそこに停まってます。中の奴が、俺たちを見てます」明乃が彼の視線を追うと、向かい側に目立たない黒いセダンが停まっていた。スモークフィルムが貼られており、中の様子は窺えない。彼女の心臓がトクンと跳ねた。偶然か、それとも――尾けられているのか。「出ましょう」明乃は立ち上がり、会計を済ませて店を出た。兼光がぴったりと横に付く。身体がわずかに張り詰めている。駐車場に着き、明乃がドアに手をかけようとした瞬間、兼光がすっと腕で制した。彼はしゃがみ込み、車の底部とタイヤを念入りに点検した。「どうしたの?」明乃が尋ねた。兼光は立ち上がり、微かに眉をひそめた。「なんでもないです」だが、その眼差しに宿る警戒心は微塵も薄れていなかった。帰り道、明乃はずっと落ち着かなかった。岳の警告、湊の忠告、そして先ほどの不審な黒い車……あらゆる兆候が、自分が本当に狙われていることを示していた。……晋助が運営する地下ボクシング場では。「兄貴、あの女の横にガキが一人張り付いてやがって、やりにくいんすよ。見た目は若いのに、手口がえげつなくて、勘も鋭い」顔に傷のある男が晋助に報告した。「二日ほど尾行しましたが、手出しする隙がありませんでした」晋助が目を細め、煙をくゆらせた。「湊が差し向けた人か?」「違うっぽいですね。見たことない顔で、身なりも地味で、チンピラみたいな風体なんすけど、身のこなしがそれとは全然違う」晋助は冷たく鼻を鳴らした。「誰であろうと、邪魔立てするならまとめて片付けろ。人を
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第380話

その日の午後、明乃は以前接触した作業員代表の一人から電話を受けた。相手はひどく焦った声で言った。仲間の一人が、以前現場にあった問題のある鉄筋の仕入伝票のコピーを密かに隠し持っていて、渡してもいいと言っている。だが報復が怖くて、明乃に直接手渡すことしかできない、しかも郊外にあるひどく寂れた廃工場で会いたいと要求してきたのだ。時間は夜8時。明乃の直感が、何かおかしいと告げていた。タイミングが良すぎる。決定的な証拠がなくて困っていた矢先に、向こうから都合よくやって来るだろうか?「ボス、これ罠じゃないっすか?俺が代わりに行きますよ」徹も怪しんだ。明乃は首を振った。「相手は私を名指ししてるわ。もし本当なら、この証拠は非常に重要だわ」「でも危なすぎるっすよ!」徹が反対した。「四の五の言っていられないわ」明乃の眼差しは揺るぎなかった。「城東の案件は、一刻も早く突破口を開かなければならないの。お父さんも、安藤グループも、もう待てないわ」傍らで黙っている兼光に目をやった。「怖い?」彼は顔を上げた。黒く沈んだ瞳には、何の感情も浮かんでいない。首を横に振った。その夜。空はどんよりと暗く、月は出ていなかった。明乃と兼光は車で、郊外の廃工場へ向かっている。徹は心配でたまらず、事務所の若い男性弁護士二人を連れ、もう一台の車でかなり距離を置いて後をつけている。工場は開発待ちの荒れ地の中にあった。周囲は雑草だらけで、でこぼこの細い道が一本通じているだけだ。あたりは真っ暗で、車のヘッドライトだけが闇を切り裂いていた。空気に、錆と埃の匂いが漂っている。錆だらけの正門の前に車を停め、明乃は深く息を吸って、兼光と共に車を降りた。工場の中はさらに暗かった。一寸先も見えない闇の中、遠くにかすかな光がぼんやりと見えるだけだ。「安藤さん……ですか?」暗闇の奥から、怯えたような男の声が震えながら響いた。「私です」明乃は手に持った催涙スプレーを握り直し、スマホのライトを点灯させて前方を照らした。光が届く範囲は限られていて、見えるのは散乱した廃部品と壊れた梱包箱の山だけだった。兼光は彼女よりも早く一歩前に出て彼女を庇うように立ち、鋭い視線で周囲の暗闇をスキャンした。「物は……持ってきました」その声は続いた。「取りに来
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