All Chapters of 幼馴染を選ぶはずの彼の心に、私が残っている: Chapter 481 - Chapter 490

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第481話

書類は、陸に関する最新の報告書だった。自衛隊で昇進を果たした件だ。成長の速さは目を見張るものがある。幸之助は報告書の写真をじっと見つめた。写真の陸は制服姿で、記章は冷たく硬い光を放ち、目元からはかつての傲慢で奔放な気配が消え、代わりに落ち着きと鋭さが宿っていた。ただ、あの両目だけは、人を見る時に相変わらず野性を帯びていた。まるで飼い慣らされていない狼のように。幸之助は書類を置き、眉間を揉んだ。当初、陸を自衛隊に入らせたのは、心身を鍛えさせるためであり……湊を牽制するためでもあった。湊は実力があり、心も冷たすぎる。思い通りに動かすのは難しい。でも陸は違う。荒々しくはあるが、情に厚い。大事にしているものさえ押さえておけば、言うことを聞かせられる。だが、今となっては……幸之助の目の奥に複雑な色がよぎった。陸の成長は、どうやら自分の予想を超えているようだった。それに、ここ最近のやり取りで見せる陸の態度は……幸之助は前回の電話の内容を思い出した。湊と明乃の結婚について探りを入れるように切り出した時、陸は電話の向こうで長いこと黙り込み、最後にひと言「分かった」とだけ言って、電話を切った。口調は淡々として、感情は何ひとつ読み取れなかった。だが、静かであればあるほど、かえって不安をかき立てられる。幸之助は指で机を叩きながら、思案に耽っていた。明日はもう結婚式だ。陸は……戻ってくるのだろうか?そう考えていた矢先、書斎の扉がノックされた。「入れ」太田が扉を開けて入ってきた。表情がいくぶん硬い。「旦那様、陸様が……お戻りになりました」幸之助の指が止まった。「今どこにいる?」「お仏壇がある方へ行かれました」幸之助は眉をひそめた。お仏壇?陸は何をするつもりだ?……藤崎家のお仏壇には、藤崎家の先祖代々の位牌が祀られ、湊の父・成宗の遺影も供えられていた。陸はその前に立っていた。灯りはつけず、ただ上に置かれた二つの灯明が、ほのかに揺らめいているだけだった。彼は白シャツにジーンズという姿で、髪は短く刈り込まれ、鋭い髪際と硬質な輪郭がはっきりと露わになっている。顔には表情と呼べるものがなく、ただ両目だけが恐ろしいほど沈んでいた。陸は成宗の遺影を長いこと見つ
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第482話

杖を握る幸之助の指に力がこもった。「お前、何をするつもりだ?」陸は幸之助を見ず、ただ遺影を見つめていた。「何もしないよ」彼は言った。「ただ戻ってきて見届けたかっただけだ。俺の兄貴が……どれほど華々しく、愛しい女を娶るのかをな」そう言い終えると、陸は踵を返して歩き出した。幸之助の脇を通り過ぎる時、足を一瞬止めた。「そういえば」陸は顔を傾け、幸之助に視線を向けた。その眼差しは恐ろしいほど深い。「ブレーキの件、おじいちゃんは突き止めたのか?」幸之助の瞳孔が縮んだ。陸は口の端を引きつらせ、それ以上何も言わず、大股で立ち去った。足音が遠ざかっていく。お仏壇の前には、幸之助一人だけが残された。その場に立ち尽くしたまま、彼は陸が消えた方向を見つめ、胸が激しく上下していた。長い時を経て、彼は重く息を吐き出した。瞳の奥には複雑な感情が渦巻いていた。こいつは、自分が想像していた以上に……手に負えなくなっている。……陸は実家を出ると、車も呼ばずに、道沿いをゆっくり歩いた。夜の帳は深く、街灯は薄黄色く滲んでいる。彼はタバコを取り出し、今度は火をつけた。真っ赤な火が指先で明滅する。一口吸い込み、煙が肺の中を巡ってから、ゆっくりと吐き出した。ようやく胸の奥に淀んでいた鬱屈が、少し晴れた気がした。スマホを取り出し、画面をスワイプする。ロック画面は、盗み撮りした一枚の写真だった。写真の中の女性は、法律事務所の入り口に立っていた。ベージュのトレンチコートを羽織り、髪はゆるくまとめられ、横顔の輪郭は柔らかい。明乃だった。陸は写真を長いこと見つめ、指先が無意識に画面をなぞっていた。それから、ある番号にかけた。電話はすぐにつながった。「陸か?」電話の向こうから嵐士の声が聞こえてきた。驚きと喜びが滲んでいる。「戻ってきたのか?」「ああ」陸は短く応じた。「今どこにいる?」「いつものメンツ数人と『バー・ジョンヌ』で飲んでる。来るか?」「住所を送れ」電話を切ると、陸はタクシーを拾った。……「バー・ジョンヌ」は、海都で名の知れたバーで、プライバシーがしっかりしていて、業界関係者もよく出入りしている。陸が扉を押し開けて中に入った時、嵐士たちはすでに個室で飲み始めていた。陸が入
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第483話

明乃が湊の腕の中にいた時の、あのまぶしいほど似合いすぎた光景を、自分は覚えている。陸は目を閉じ、また酒を注いだ。そんな陸を見ていると、嵐士は胸が痛んだ。「いっそ……行かないほうがいいんじゃないか?見なければ、少しは気分も楽でしょ」陸は首を横に振った。「いや、行く」陸は言った。「この目で見届けないといけないんだ」彼女が、別の男に嫁いでいく姿を。彼女が、誰かの妻になる過程を。そして、見届けて、きっぱり諦める。嵐士はため息をつき、それ以上は何も言わなかった。自分で越えなければならないものもある。他人には、どうにもできない。……翌日、結婚式当日。夜が明ける前から、明乃は支度を始めていた。メイク担当やスタイリストが実家に来ていて、彼女の周りを行き来し、慌ただしく動き回っている。加奈子と明斗はそばに付き添い、時折必要なものを渡したり、声をかけたりしていた。明乃は鏡の前に座り、丁寧にメイクを施され、ウェディングドレスを身にまとった自分を見つめて、少しぼんやりしていた。今日、自分は嫁ぐのだ。湊のもとへ。胸の鼓動が少し早い。緊張なのか、期待なのか、自分でも分からなかった。「本当にお綺麗ですよ」メイク担当が笑って褒めた。明乃は唇を引き結んで小さく笑い、何も言わなかった。スマホが小さく鳴った。湊からのLINEだった。【おはよう。もう準備しているのか?】明乃は返信した。【うん。今メイクしてもらっているの】【緊張してる?】【少しね】【大丈夫、俺がついているからな】たったそれだけの言葉なのに、心がすっと落ち着いた。明乃は深く息を吸い、胸の奥の小さな不安を押し込めた。そうだ。湊が待っている。怖がることなんて、何もない。……藤崎家のほうも、同じように慌ただしかった。湊はオーダーメイドのスーツを身につけ、鏡の前で袖口を整えていた。賢人がそばで、結婚式の流れを説明している。「家を9時に出発します。そして、10時にチャペルに到着します。10時半から、式が始まります……」湊はそれを聞いていたが、表情は特に変化はなかった。ただ、その目の奥には、かすかに柔らかなものがあった。今日、自分は明乃を妻として迎える。正式に、彼女は藤崎夫人になる。「藤崎
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第484話

5月8日、空はよく晴れていた。この結婚式は、海都中の注目を集めていた。教会は藤崎家が所有する100年の歴史を持つ建物で、赤レンガの丸天井に、色ガラス越しの朝日が長い赤いバージンロードへ降り注いでいた。両側の席は早くからゲストで埋まり、海都の重鎮たちもほとんど顔をそろえていた。明乃はスタッフの腕に手を添え、バージンロードの端に立っていた。ウェディングドレスのトレーンは3メートルほど広がり、ベールは腰のあたりまで垂れている。手には白いスズランのブーケを握っていて、指先は少し冷たかった。スタッフが顔を傾けて明乃を見た。「緊張されていますか?」「少しだけ……」明乃は小さく呟いた。「緊張しますよね。でも大丈夫です」スタッフの声は柔らかかった。「素敵な旦那様が前で待っていますからね」明乃は小さく唇を緩めた。「そうですね」その頃、湊は祭壇の前に立っていた。黒のオーダーメイドスーツを身にまとい、背筋はすっと伸びている。顔に大きな表情はない。ただその目だけは、明乃が現れた瞬間から、もう一度も離れなかった。熱を帯びた眼差しは、彼女をそのまま目に焼きつけようとしているようだった。明乃は息を吸い、加奈子の腕を少し強く握った。パイプオルガンによる「結婚行進曲」が奏でられ始めた。バージンロードは長く、明乃は一歩ずつ進んでいった。視線が両側のゲストをなぞる。すでに目を潤ませている人もいた。後ろの席では、徹が大きく手を振っていた。修は椅子の背にもたれ、気だるげに明乃へ眉をつり上げて笑っている。それから……明乃の視線が、ある場所でふと止まった。陸が後方の席に座っていた。背筋を伸ばして座るその顔に表情はなく、ただ沈みきった目だけが、じっと明乃を見つめていた。その眼差しにはあまりにも多くのものが詰まっていて、重く、胸をざわつかせた。明乃は視線を外し、バージンロードの先を見た。湊がそこに立ち、彼女へ手を差し出していた。長い指は整っていて、関節がすっと浮いていた。明乃は加奈子から手を離し、その手を湊の掌に重ねた。「藤崎湊さん……」神父が誓いの言葉を読み上げ始めた。その声は広いチャペルに響き、厳かだった。「あなたは安藤明乃さんを妻とし、順調な時も逆境にいる時も、富める時も貧しい時も、健や
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第485話

座っている明斗は顔をそむけたが、口元だけはわずかにつり上がっていた。陸は指を握りしめていた。爪が掌に食い込む程に。彼は口づけを交わす二人を瞬きもせず見つめ、目の奥が痛むほどになってから、ようやくゆっくり目を閉じた。長いキスのあと、湊はようやく明乃を離した。明乃は頬を赤くし、少し息を乱しながら、湊の腕の中にもたれていた。彼は明乃の腰を抱いたままゲストのほうを向き、口元にかすかな笑みを浮かべた。その瞬間、祝福の拍手が大きく沸き起こった。……披露宴は、藤崎家傘下のグループ企業が経営するホテルの宴会場で行われた。シャンデリアは星の川のようにきらめき、華やかに着飾った人々が行き交い、グラスが交わされていた。湊は明乃の手を引き、一卓ずつ挨拶に回った。湊は、ほとんど明乃の代わりに酒を飲んでいた。どうしても断れない時だけ、明乃にほんの少し口をつけさせた。その手はずっと彼女の腰に添えられていて、強い存在感を放っていた。明乃は湊の隣で品のいい笑みを浮かべていたが、実はもうふくらはぎが少し痛んでいた。ハイヒールで、長い時間立ちっぱなしだった。また一卓分の挨拶を終えると、湊は顔を寄せ、低い声で尋ねた。「疲れたよな?」「ううん、大丈夫」湊は眉を寄せた。「足が痛いんだろ?」明乃は否定しなかった。湊は何も言わず、彼女の腰を抱いて脇の休憩スペースへ連れていくと、ソファに座らせ、自分はその場に膝をついた。「ちょっと、何してるの?」明乃は驚き、足を引こうとした。「動くな」湊は明乃の足首を押さえたが、その手つきはとても優しかった。ハイヒールを脱がせると、やはりかかとが小さく赤く擦れていた。湊はさらに眉を寄せ、指先でそっとそこを押した。「痛むか?」「少しだけね」目の前に膝をつく彼を見て、明乃の胸がきゅっと柔らかく疼いた。周りには、まだ大勢の人が見ている。それでも湊は気にせず、そばにいるスタッフのトレーから濡れタオルを取り、明乃のかかとにそっと当てた。「少し我慢しろ。あとでフラットシューズに替える」「でも、披露宴はまだ終わってないし……」「俺が替えると言ったら替えるんだ」湊の声に反論の余地はなく、顔を上げて明乃を見た。「お前は俺の花嫁だ。俺が決める」明乃は唇を引き結んで笑い、それ以上は言い返さ
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第486話

あっという間に結婚式が終わった。新居は、湊名義で契約されている別の高級マンションの最上階にあり、眺めは抜群で、海都の夜景を一望できる。寝室には一面に薔薇の花びらが敷き詰められ、空気にはほのかなアロマの香りが漂っていた。明乃は疲れきって、体がバラバラになりそうだった。部屋に入るなり靴を蹴り脱ぎ、リビングのソファにぐったりと倒れ込んだ。あとから入ってきた湊が、後ろ手でドアに鍵をかけた。彼はネクタイを緩めると、明乃の隣に腰を下ろし、ごく自然な仕草で彼女を腕の中へ抱き寄せた。「疲れただろ?」湊は顔を寄せ、明乃の髪のてっぺんに軽く口づけた。「うん」明乃は湊にもたれかかり、目を閉じたまま、ぼんやりした声で呟いた。「笑いすぎて、顔が固まっちゃったわ」湊は低く笑い、指先で彼女のこめかみを優しく押した。「これからは、こんなに疲れることをしなくていい」「結婚式は一度きりだもの」「一度で十分だ」湊は明乃の額に軽く唇を落とした。明乃は目を開けて、すぐ間近にある湊の顔を見つめた。灯りの下、彼の瞳の奥には細かな光が揺れ、隠そうともしない独占欲と優しさが宿っていた。「湊」「なんだ?」「私たち、本当に結婚したね」湊の瞳の色がふっと深くなり、顔を寄せて明乃の唇を塞いだ。その口づけは、教会で交わした慎ましいものとはまるで違い、かすかな酒の匂いと焼けつくような欲を含んで、一気に攻め込んでくるようだった。明乃は息もできないほど口づけられ、無意識に湊の胸元のシャツをきつく握りしめていた。口づけは少しずつ下りていき、首筋へ、そして鎖骨へと落ちていった。湊がドレスのファスナーを下ろすと、布地がするりと滑り落ちた。露わになった肌が微かに冷たい空気に触れ、明乃の体に小さな震えが走った。けれど、湊の動きはそこでゆっくりになった。彼は身を起こし、明乃を見つめた。明乃の頬は上気して赤らみ、瞳は潤み、唇はわずかに腫れ、鎖骨には湊が残した淡い跡があった。綺麗だ。その眼差しはあまりに深く、あまりに熱くて、明乃は受け止めきれず、手を伸ばして湊を押した。「シャワー、浴びてくるね……」「一緒に行こう」湊は明乃の手を掴むと、横抱きにしてバスルームへ向かった。広いバスルームには、白い湯気がもうもうと立ちこめていた。湊は根気
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第487話

「俺に何の用だ?」陸は口の端をかすかに吊り上げ、横の冷蔵庫から水を二本取り出すと、その一本を湊へ放った。「少しお前と話がしたくてな」湊は受け取ったが、飲まずにキャップをひねって開け、また閉めた。二人は休憩スペースへ移動し、テーブルを挟んで腰を下ろした。空気には汗と革の混じった匂いが漂い、声にならない緊張感が満ちていた。「いつ自衛隊に戻るんだ?」先に口を開いたのは湊だった。「明日だ」湊は視線を上げて陸を見た。「わざわざ結婚式のために戻ってきたのか?」陸はキャップをひねって開けると、顔を上げて半分以上を一気に飲み干した。喉仏が上下し、水滴が顎を伝って襟元へ滑り落ちる。「当たり前だろ?」陸は水のボトルを置き、湊をまっすぐ見据えた。「兄貴の結婚式に、来ないわけがないだろ」湊は何も答えず、指先でボトルの胴を軽く叩いた。沈黙が、二人の間に広がっていく。遠くでマシンの稼働音が低く唸り、そのせいでこの一角はいっそう静かに感じられた。「お前、昨日ずいぶん気持ちよさそうに酒を飲んでたな」湊がふいに言った。陸は口の端を吊り上げた。「めでたい日だ。気持ちよく飲んで、何が悪いんだ?」「悪くはない」湊は背もたれに体を預け、腕を椅子の背に掛けた。だが、その眼差しは鋭かった。「だがな、あの時のお前の目つきは、なんか変だった」陸の顔から、笑みがゆっくりと消えていった。陸は湊をじっと見据えたまま、無意識にボトルの胴を指で撫でていた。「どこが変だったんだ?言ってみろ」「何かに執着しているようだった」その一言が響いた瞬間、空気が凍りついたようだった。水のボトルを握る陸の指に力がこもり、プラスチックのボトルが耐えきれず、音を立てて軋んだ。陸は湊を睨みつけた。その瞳の奥で何かが激しく渦巻き、そして無理やり押し殺された。「兄貴、それはどういう意味だ?」「言葉どおりの意味だ」湊は立ち上がり、窓辺へ歩いて陸に背を向けた。「終わったことは、終わったことにしておけ」「いつまでも握りしめているな。自分も、周りも傷つけるだけだ」陸も立ち上がった。「終わったこと?」陸は繰り返した。声が、少しかすれていた。「どうやって終わらせろっていうんだ?」湊は振り返り、陸を見据えた。「明乃ちゃんは今、お前の兄嫁なんだぞ」
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第488話

湊の手にこもる力は凄まじく、陸は首を締めつけられて一瞬息が詰まった。それでも首を突っ張り、一歩も引かずに睨み返した。「何だ?怖いのか?」陸は冷たく笑った。「俺に義姉さんを奪われるのが怖いのか?兄貴の器なんて、その程度だったんだな!」「俺が怖いだと?」湊は鼻で笑い、氷のような目で陸を見た。「俺が怖いのは、お前が身の程知らずで、自分だけじゃなく明乃ちゃんの人生まで壊すことだ!陸、お前は自衛隊の人間で、国を守る立場だろうが!それなのに、頭の中は一日中そんな下劣なことばかり考えてんのか?自分の兄の女にまで手を出すのか?いい加減にしろよ!」「うるせーなー!」陸は勢いよく湊の手を振りほどき、振り返りざまに拳を叩き込んだ!湊は顔を横にそらしてかわすと同時に、膝を陸の腹へ容赦なく叩き込んだ!陸は低く呻き、身をかがめて受け止める。次の瞬間、二人はもつれ合うように殴り合い始めた!型も技もなかった。そこにあるのは、男同士のむき出しの力のぶつかり合いと、感情のはけ口だけだった。拳が肉を打つ鈍い音、荒い息遣い、押し殺したような咆哮。汗と血が飛び散った。「好きで何が悪いんだ!?」陸は殴り合いながら吠えた。目は真っ赤に血走っている。「誰かを好きになるのがそんなに悪いのか!?俺だって、自分のことが抑えられないんだ!兄貴、ここで偉そうに正論を振りかざしてんじゃねぇよ!彼女を手に入れたから、そんな上からものが言えるんだろうが!」「俺が明乃ちゃんを手に入れたのは、何十年も待ち続けたからだ!」湊は陸の肩甲骨に拳を叩き込み、低く鋭い声で言った。「命を懸けるところまで行ったからだ!何をしてよくて、何をしてはいけないのか分かっているからだ!陸、お前は明乃ちゃんが好きだって?お前にその資格があるのか?お前は彼女に迷惑と危険をもたらす以外、何を与えられるんだ!?」その言葉は、陸の心のいちばん柔らかい場所へ深々と突き刺さった。彼の動きが、はっと止まった。湊はその隙を逃さず、フックを陸の顎へまともに叩き込んだ!陸の体は後ろへ大きくのけぞり、そのままリングのマットに重く叩きつけられ、鈍い音を響かせた。彼はそこに倒れたまま、激しく胸を上下させていた。視界は何度も暗くなり、口元から流れる血はいっそうひどくなっていた。湊は陸の前に立ち、見下ろしていた。湊の胸も大き
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第489話

背筋の伸びた後ろ姿に、すっきりとした肩のライン。黒いジャケットを身にまとい、髪は短く刈り込まれていた。陸だった。彼は明乃に背を向け、手すりにもたれて電話をしていた。明乃はふと足を止めたが、声をかけるつもりはなかった。結婚式の日の陸の眼差しを、彼女はまだ覚えていた。こんな時に二人きりで顔を合わせたくはなかった。明乃は踵を返して立ち去ろうとした。風が、途切れ途切れの話し声を運んできた。「……ブルーオーシャンビルの最上階……狙撃地点は確認済み……ああ、今日だ……生きては帰すな……」声は大きくなく、風に流されて少しぼやけていた。だが、そのいくつかの言葉は、明乃の耳へ容赦なく突き刺さった。ブルーオーシャンビル。狙撃。生きては帰さない。明乃の全身が一瞬で固まった。ついさっき湊から電話があり、今はブルーオーシャンビルの最上階のレストランで、ヨーロッパから来たクライアントと重要な半導体チップの輸入契約について話していると言っていた……明乃は勢いよく振り返り、陸の方へ目を向けた。彼はまだ明乃に背を向け、スマホを耳に当てていた。その横顔の輪郭は、暮れかけた空の下で、刃物で削り出したように冷たく硬かった。彼は何を話しているのかしら?誰を、生きて帰さないつもりなんだろう?恐ろしい考えが浮かび、明乃の心臓をどんどんきつく締め上げていった。まさか……そんなはずがない……彼がどれほどおかしくなっていたとしても、そんな……明乃の指先は氷のように冷たくなり、コートのポケットの中のスマホを強く握りしめた。湊に知らせなければ。今すぐ。一刻も早く。明乃は慌ててスマホを取り出し、湊の番号を探して発信した。コール音が一度、二度、三度……誰も出なかった。明乃の心臓は激しく跳ね、喉から飛び出しそうだった。彼女は電話を切り、もう一度かけ直した。それでも、つながらなかった。その頃、陸が電話を終えたらしく、スマホをしまって立ち去ろうとしていた。だが、振り返った拍子に、はっきりした澄んだ瞳と視線がぶつかった。陸の心臓が、ドクンと沈んだ。彼はほとんど反射的に電話を切り、スマホを手のひらの中で握りしめた。「義姉さん?」先に口を開いたのは陸だった。その声は、いつもよりかすれていた。
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第490話

「どうしてそんなに焦ってるんだ?」陸は笑みを浮かべたが、その瞳に温度はなかった。「冗談だよ。立派な法治国家なんだ、殺人は犯罪だろ。俺だってそこまで馬鹿じゃない」明乃は陸をじっと見据え、胸を上下させながら、指先を手のひらに食い込ませていた。「じゃあ、さっきは一体何を話していたの?」明乃の声はこわばり、さらに一歩前へ詰め寄った。「私の目を見て答えて」夕闇がテラスの外から忍び込み、陸の横顔に落ちて、その張りつめた輪郭をいっそう冷たく硬く浮かび上がらせた。「言っただろ。仕事の話だ……」陸の声は低く掠れていた。明乃がさらに問い詰めようとしたその時、スマホが突然鳴った。湊からの電話だった。明乃の心臓が大きく跳ね、ほとんど反射的に電話に出た。「湊?」「奥様、私です」電話の向こうから秘書の声が聞こえてきた。いつもどおり恭しい口調だった。「藤崎社長は現在クライアントと会議中で、スマホはマナーモードにしております。何かお伝えすることはございますか?」明乃は息を詰まらせた。「彼は……今もブルーオーシャンビルにいるの?」「はい、最上階のレストランにいらっしゃいます。会議はあと30分ほどかかる予定です」ブーーン――頭の中の一本の糸が、一瞬で限界まで張りつめた。「彼を今すぐそこから離れさせて!」明乃の声が急に跳ね上がり、自分でも気づかない震えを帯びていた。「今すぐ!すぐによ!誰かが彼を狙ってるの!急いで逃がして!」電話の向こうが、一瞬静まり返った。「奥様、落ち着いてお話しください。何があったのですか?」「説明している時間はないの!どんな理由でもいいから、今すぐ彼をブルーオーシャンビルから出して!早く!」「承知しました。すぐにそうします」電話を切ると、明乃の指先は氷のように冷たく、手のひらは冷や汗でびっしょりだった。明乃は顔を上げ、陸を見た。彼はまだそこに立っていた。手すりに背を預け、深い眼差しを重く明乃へ落としている。「聞こえたでしょ?」明乃の声は掠れていた。「湊は今、そこにいるの。まだ彼を兄貴だと思っているなら、あなたが手配した人を撤退させて」陸は何も言わなかった。彼は長いあいだ明乃を見つめていた。テラスの光は薄暗く、その瞳の奥にある感情は読み取れなかった。やがて、陸はごく小さく笑
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