All Chapters of 幼馴染を選ぶはずの彼の心に、私が残っている: Chapter 361 - Chapter 370

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第361話

低く、冷たく研ぎ澄まされた声が、かすかな呆れをにじませながら路地の入口から響いた。全員が、声のした方を振り返る。いつの間に――湊がそこに立っていた。すらりとした体に、仕立ての良い黒のロングコートを纏い、その肩には粉雪がうっすらと降りかかっている。背後には黒いスーツを着たボディーガードが数名控えており、狭い路地の出入口はあっという間に塞がれた。湊の視線がまず、素早く明乃へと走る。無事であることを確かめると、あの深い瞳の奥に張り詰めていたものが、ようやくふっと緩んだ。それから、ボロボロの陸と、地面に転がる正たちに目を移した。最後に、彼はまた陸を見た。わずかに眉をつり上げ、唇の端に笑っているのかいないのか分からない弧を描きながら、奥歯を噛み締めるようにして、一語一句、区切って言った。「あ・り・が・と・う・な」その声には、計画を台無しにされた苛立ちと呆れが、これでもかというほど滲んでいた。「……」陸は黙り込んでしまった。ここまで来れば、いくら鈍い陸でも察しがつく……――罠の中の罠。つまり自分は、余計なお世話をしたということだ……陸は唇をきゅっと引き結び、意地を張るように首を突っ張った。「ありがとうじゃねぇだろ!俺が来なかったら、このバカ、骨の髄までしゃぶられてたぞ!」明乃のことだ。「……」明乃は俯いたままだった。湊はもう陸とは取り合わなかった。大きく歩を進めると、地面でぐったりと伸びている正と、ガタガタ震えるチンピラどもに視線を落とす。その目が、すっと冷たくなった。連れてきたボディーガードたちが音もなく散開し、瞬く間に現場を制圧した。湊は明乃の前まで来ると、静かに目を伏せ、風に乱れた頬のひと筋の髪をそっと指先で払った。その仕草はひどく優しく、今この瞬間に全身から放っている冷厳な空気とはまるで別人のようだった。「怖かったか?」低く問いかけるその声は、わずかにかすれている。明乃は首を横に振り、まっすぐ湊を見上げた。その瞳は澄み切っていて、怯えた様子など微塵もない。「あなたを待ってたのよ」湊がほんの一瞬、目を見開いた。すぐに得心がいったように、その瞳の奥にかすかな笑みと感心が過ぎる。――この子は、思っていたよりもずっと賢い。そして、ずっと度胸がある。地べたに這いつくばっている正は、その
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第362話

「や、やめてください……見ないでください……」正は目に恐怖を浮かべ、掠れた声で叫んだ。湊はまるで聞こえていないかのように、正の指を掴んでロックを解除した。画面が開く。中にあったのは、一枚だけではなかった。湊の指先が止まる。彼はスマホの画像フォルダから隠しデータを呼び出し、復元ツールを素早く操作した。そして、意図的に隠蔽されていたいくつかのデータに正確に狙いを定めた。AI合成ではない。異なる角度から連写された――本物の写真だ。画素は粗く、撮影距離も遠い。だがそこには、屋上で起きたことが――とりわけ、湊と義男が対峙していた瞬間が、はっきりと記録されていた。正は、あの時本当にあの場にいたのだ!明乃が身を寄せて画面を覗き込み、息を呑んだ。心臓を見えない手で鷲掴みにされたような痛みが走り、目の前が暗くなる。父さんの転落が、ただの自殺でも事故でもないことは、とうに覚悟していた。けれど、あの場に第三者がいたという事実を突きつけられると、やはり――胸が潰れそうだった。湊の腕が、咄嗟に引き締まる。ふらついた明乃の身体を、しっかりと支えた。彼女を見なかった。視線は画面に釘付けのまま。けれどその全身から立ち昇る殺気が、一瞬で膨れ上がる。陸もまた、それらの写真を目にしていた。瞳孔がぎゅっと縮まり、勢いよく振り返って地面の正を睨みつける。その目には、隠す気もない殺意があった。「この写真、お前が撮ったのか?あの時、現場にいたんだろう?突き落としたのは、お前だな!」正は死人のような顔色で全身を震わせていた。「ち、違い……違います……私じゃありません……」「お前じゃない、だと?」湊がようやく、ゆっくりと目を上げた。正を見た。その眼差しが恐ろしいほど、静かだった。怒りはない。取り乱した様子もない。あるのはただ、底の見えない、ほとんど無感情とさえ言える氷の冷たさだけ。だが、その異常な静けさこそが、見る者の魂を凍らせるほどの恐怖を煽る。湊はゆっくりと腰を落とし、地面に崩れた正と目線を合わせた。路地の入口に残る壊れかけた街灯の光が、湊の横顔を照らす。半分は明るく、半分は影に沈み、目尻のホクロが妖しく映えて、まるで血に染まったようだった。「ひとつ、ずっと分からないことがあるんだ」湊が口を開いた。声は静かで、けれど正の全身の毛が一
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第363話

湊は、極限の苦痛に歪む正の顔を見下ろしていた。その目は、変わらず凪いでいる。「どうやらここらしいな」淡々と、まるでどうでもいい事実を確認するように呟いた。明乃は目を逸らした。湊の手段は知っている。あの穏やかな外見の裏に何があるかも。けれど、痕跡すら残さず、それでいて人を壊すほどの苦痛に追い込む尋問を目の当たりにすると、やはり心臓が縮み上がる。だが――ICUで横たわる父さんの、あの生気を失った姿を思い出した途端、その怯みは憎しみへと変わった。陸はそばに立ち、両手をポケットに突っ込んだまま、ギリッと顎をこわばらせて立っていた。彼は複雑な眼差しで湊を見つめる。この義理の兄貴は、一度牙を剥けば、文字通り相手を「生かさず殺さず」の地獄へ叩き落とせる男なのだ。湊はゆっくりと手を引いた。正は地面に崩れ落ち、池から引き揚げられた魚のように大きく喘いだ。全身は冷や汗でずぶ濡れになっていた。「これで、話す気になったか?」湊の声には、相変わらず抑揚がない。「最初からすべて話せ。一文字たりとも漏らすな」平坦な口調だが、そこには魂を凍らせるほどの絶対的な威圧感がこもっていた。正は完全に崩壊した。肉体を苛む極限の激痛と、精神を蝕む巨大な恐怖が、彼の内に残っていた最後の抵抗を木端微塵に打ち砕いたのだ。彼は鼻水と涙を撒き散らしながら、途切れ途切れに自白を始めた。「ぜ、全部亮さんなんです……あの方が私に接触してきて……あ、あなた方への復讐を手伝ってやると……私があなた方を……藤崎さんと明斗さんを憎んでいると知って……」「あの方は、私に義男さんのところへ行けと……そして、過去のあなたに関する……その、嘘の噂を吹き込めと命じたのです……まさか義男さんが、あなたを屋上に呼び出して直接問い詰めるとは思ってもみませんでした……あなたが立ち去った後、義男さんは私を平手打ちし、警察を呼ぶと言いました……」正の声は、恐怖と後悔に震えていた「わ、私はパニックになり、スマホを奪い取ろうとしました……義男さんは私を『畜生』と罵り、突き飛ばしてきて……わ、私はついカッとなって、反射的に義男さんを突き飛ばし返してしまったのです……転落させる気などありませんでした!本当に、そんなつもりはなかったのです!義男さんが勝手にバランスを崩して……」彼は号泣
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第364話

湊が明乃の手を固く握り、全身に冷気をまとって家に入ってくると、その場にいた全員の視線が瞬時に二人に釘付けになった。陸はその後ろから、両手をポケットに突っ込み、ひどく陰鬱な顔つきでついてくる。現在の藤崎家において、湊は絶対的な決定権を持つ当主であり、幸之助はすでに第一線を退いて悠々自適の身となっている。湊がひと言「話がある」と告げただけで、こうして深夜にもかかわらず全員が家に召集された。「こんな夜更けに……一体何事だ?」幸之助の瞳は濁りながらも鋭い光を放ち、しゃがれた重い声で真っ先に口を開いた。彼はすでに推測していたが、自分の耳で確かめなければならなかった。湊は無言のままわずかに顔を向けた。すると、背後に控えていた黒いスーツを着たボディーガード二人が即座に歩み寄り、幸之助の前のローテーブルへ、書類一式と一台のスマートフォンを恭しく置いた。「おじいちゃん」湊が口を開いた。低く、感情の色を消した声だった。「人も証拠も押さえた。正がすべて白状した。亮に指示されて、写真を合成し、俺たちの仲を引き裂こうとしたこと。そして――義男さんを屋上から突き落として、俺に罪を着せたこと。全部だ」「ドーーンッ!」ある程度の覚悟はしていたものの、その爆弾のような湊の言葉に、その場にいた全員が顔色を失った。「デタラメを言うな!」亮が車椅子から立ち上がろうとして、脚の傷に阻まれ、激しく座り直した。車椅子が耳障りな音を立てる。顔色が一瞬で紙のように白くなった。驚愕と怒りと恐怖で目が見開かれ、湊を指差す手が震えている。声は甲高く引き攣っていた。「湊!根も葉もない濡れ衣を着せるな!正はこだ!?奴をここへ連れてきて直接問い詰めさせろ!奴をどこへ隠した!?これは俺を陥れるための罠だ!」「問い詰める?」湊の口角が、極めて薄く冷たい弧を描いた。だがその目に笑みは全くない。「正なら今頃、警察で調書を取られているはずだ。人証も、物証も」彼はテーブルの上のスマホに視線を走らせた。「奴が自らの口で白状した録音を含め、すべて揃っている。亮が奴を買収して写真を合成させ、デマを流させた際の資金の流れも、すべてここにある」湊の指先が、そのファイルを軽く叩いた。亮の体が激しく震え、全身の血液が瞬時に凍りついた。こんなに早く、こんなに容赦なく仕掛けてくるとは思わなかった。
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第365話

狂気が一気に亮の心に込み上げてきた。亮は勢いよく車椅子を回し、リビングを見渡した。「いいだろう……上等だ!全員で結託して俺をハメたんだな!?」彼はしゃがれた声で、自暴自棄の凄みを利かせた。「湊、お前だけが潔白だと思うなよ?勝ったつもりか?」次の瞬間、ぐっと腕を上げ、人差し指を陸にまっすぐ突きつけた。声が跳ね上がり、鋭く耳を裂く。「それからお前だ!陸!この裏切り者が!何が清廉潔白だ!?湊の側に立てば、おまえの薄汚い本心が隠せるとでも思ってるのか!?」陸の頭がはね上がった。黒い瞳が一瞬で鷹のように研ぎ澄まされ、全身の殺気が爆発的に膨れ上がる。顎のラインが冷たく張り詰めていた。ポケットに突っ込んだ両手は限界まで握りしめられ、爪が掌に深く食い込んでいる。亮は陸の姿を見て、さらに胸のすくような悪辣な笑いを浮かべた。その一言一言が、猛毒を塗った短剣のように、陸の最も暴かれたくない急所を容赦なく抉っていく。「お前は兄嫁に惚れてるだろう!明乃に惚れてるんだろう!図星だろ!?お前はとっくの昔から、未来の義姉に決して抱いてはならない欲情を抱いていたんだ!俺と組んでた時、何て言った?明乃が手に入るなら何でもするって言ったのはお前だろ!今さらどのツラ下げて善人ぶってるんだ!?」「ドーン――!」陸の耳元で、世界そのものが爆発したような錯覚が起きた。あらゆる音が消えた。全身の血液が頭に上ったかと思うと、次の瞬間にはサーッと潮が引くように消え失せる。後に残ったのは、氷のような麻痺感覚と、頭まで沈み込むような途方もないパニックだけだった。自分の心臓が暴れ狂うように打つ音が、はっきり聞こえる。胸の骨を打ち据えるほど痛ましく、耳膜がガンガンと鳴り響いた。息をすることすらできなかった。錆びついたように強張った首が、少しずつ、ひどくゆっくりと、その方向へと向けた――湊のそばに立つ明乃は、わずかに目を丸くし、はっきりとした困惑と信じられないといった表情で彼を見つめていた。あの澄んだ瞳に、今この瞬間の――狼狽し、怯え切った自分の姿が映っている。目が合った瞬間、陸は全身の血が凍りつくのを感じた。ずっと心の一番奥に、慎重に、慎重に隠し続けてきた、卑しい秘密。それを、もっとも知られたくなかった人に、こんな無残なかたちで、白日の下に晒された。羞恥、恐
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第366話

「もういい」湊がようやく口を開いた。声は大きくなかったが、亮の喚き声すべてを一瞬で押し潰した。彼は陸には目もくれず、狂乱状態の亮に視線を落とした。その眼差しは、まるで死人を見るかのようだった。「悪あがきは見苦しいぞ」口調は淡々として、かすかな嘲りすら含んでいた。「罪状は、ひとつ残らず証拠が揃っている。そんな無関係なことを喚き散らしたところで、結果は何も変わらない」「無関係だと?」亮はとんでもない冗談を聞いたとでも言うように、狂ったように笑い始めた。涙が出るほど笑い、声を引き攣らせた。「ハハハハ……湊、自分を誤魔化すのも大概にしろ!薄々気づいてるくせに!お前……」「バンッ!」リビングの扉が外から押し開かれ、亮の言葉を断ち切った。警察官が数名入ってきた。先頭の一人が手帳を提示し、厳しい表情で告げる。「藤崎亮さんですね。通報を受け、確実な証拠に基づき、名誉毀損教唆、商業詐欺、および殺人事件への関与の疑いで、署までご同行いただきます」警察の登場は、氷水を頭から浴びせられたようだった。亮の最後の怒りが、一瞬にして消え去った。顔に張り付いていた狂気が凍りつき、純粋な恐怖に塗り替わった。身体の震えが止まらない。唇がわななき、何か言おうとするが、喉から漏れるのは「ひっ……ひっ……」と擦れた音だけだった。「い、いやだ……行かないぞ……父さん!母さん!助けてくれ!助けてくれよぉ!」亮は命綱にすがるような目で幸之助と千紗子を見つめ、鼻水と涙をまき散らした。先ほどの傲慢さは欠片も残っていない。彼は疲れたように目を閉じ、警察官に向かって手を振った。「連れて行け」「亮!千紗子が弾かれたように駆け寄り、亮の車椅子に死に物狂いでしがみついて泣き叫んだ。「連れて行かないで!連れて行かせないわ!彼は冤罪なの!」そして勢いよく振り返り、血走った目で湊を睨みつけた。尖った爪が、湊の顔に届きそうなほど突き出される。「湊!このろくでなし!畜生め!実の叔父さえ見逃さないのか!天罰が下るわよ!碌な死に方なんてしないわ!」湊は無表情のまま千紗子を見ていた。その目には、波紋ひとつ浮かんでいない。幸之助はそれを聞いて、こめかみの血管が脈打った。テーブルを叩きつけるように立ち上がり、千紗子を指差して一喝する。「黙れ!お前が甘やかした結果がこれだ!心は腐り
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第367話

だが、彼は警察に先に両腕を掴まれ、そのまま力ずくで引きずり出された。「母さん!母さん……助けて……」その凄絶な叫び声が、千紗子の鼓膜を掻きむしるようだった。だが、彼女は微動だにしなかった。ただ立ち尽くしたまま、息子が死んだ犬のようにリビングから引きずり出され、扉の向こうの闇に消えていくのを見ていた。彼女の口角が引きつった。笑おうとしているようでもあり、自嘲しているようでもあった。「藤崎幸之助」彼女はフルネームで呼んだ。声は大きくなかったが、そのばにいる全員の耳に鮮明に届いた。「これだけの年月も連れ添ってきて、あなたの中で私たち母子は……所詮その程度の存在だったのね」幸之助はその目と声に気圧され、とっさに言葉が出なかった。しかし、千紗子は彼の答えを待とうともせず、傍らで恐怖に顔を引きつらせる芳子の視線も完全に無視した。彼女は背筋を伸ばし、一歩一歩、階段へ向かって歩いていく。その後ろ姿は決然として、振り返ることはなかった。リビングは死んだように静まり返った。湊は無表情のままその一部始終を見ていたが、目の奥には何の波紋も起きていなかった。彼は明乃の腰に回した腕にそっと力を込め、低く言った。「帰ろう」明乃は無意識に、その場に立ち尽くしたままの陸に目をやった。唇が動きかけたが、結局何も言わず、湊に導かれるままリビングを後にした。陸の横を通り過ぎるとき、湊の足は一瞬たりとも止まらなかった。……翌日、藤崎グループ本社ビル最上階にて。陸は一睡もしていなかった。目は充血し、顎には青黒い無精髭が浮いている。彼はデスクに向かい、書類を広げていた。だが一文字たりとも頭に入ってこない。ノックの音がした。「入れ」かすれた声で応える。湊が、ドアを開けて入ってきた。きっちりとプレスされた黒いスーツ。そして、すらりとした佇まい。眉目の間にかすかな疲労の影がある以外、何の変化も見えない。まるで昨夜の実家での修羅場など、この人の上には何ひとつ痕を残さなかったかのようだ。陸の向かいの椅子に腰を下ろし、長い脚を組んだ。静かな視線が陸の顔に落ちる。「あるプロジェクトについてだが」湊が口を開いた。冷ややかな口調で、感情は読み取れない。「北欧で次世代エネルギーを開発する企業を買収した。技術的な将来性は悪くないが、統
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第368話

「兄貴」陸の声が突然背後から響いた。湊の動きがピタリと止まる。だが、振り向くことはなかった。陸はうつむいたまま、手の中の書類を見つめていた。喉仏が大きく上下する。「――あの人を、大事にしてやってくれ」その言葉が落ちた瞬間、オフィスの空気が氷点下まで下がった。湊がドアノブを握る指はギリッと力み、関節が青白く変色する。彼はゆっくりと振り返った。「お前、今何と言った?」声は高くないが、一文字一文字が陸の鼓膜に重く叩きつけられた。陸は顔を上げ、その視線を真っ向から受け止めた。一度口火を切ってしまった以上、自暴自棄の獰猛さが逆に込み上げてくる。彼は不良めいた挑発的な笑みを浮かべ、一言一言区切って繰り返した。「彼女を、大事にしてやってくれと、そう言ったんだ」「ドンッ!」その言葉への返答は、湊がドアを猛然と蹴り飛ばした轟音だった!分厚い無垢材のドアが、耐えきれずに悲鳴を上げる。次の瞬間、湊は数歩でデスクを回り込み、陸の胸ぐらを鷲掴みにして、椅子から荒々しく引きずり起こした!陸は大きく体勢を崩し、キャスター付きの椅子が後方へ滑って本棚に激突し、ガタンと大きな音を立てた。陸は抵抗しなかった。彼はただ、その陰惨な湊の顔と、瞳の奥で渦巻く狂暴な殺気を見つめ返していた。「陸」湊の声は地を這うように低い。「死にたいのか?」陸はひび割れた唇を舐めた。その瞳にも同じように、血走った狂気と自暴自棄の光が宿っている。「ああ……」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、空気を切り裂く凄まじい風切り音とともに、湊の拳が陸の顎へ容赦なく叩き込まれた!速く、そして重い。一切の手加減がない一撃。陸はくぐもった呻き声を漏らし、顔を横に弾き飛ばされた。口角が瞬時に切れ、血が滲み出し、鉄錆のような生臭い甘さが口いっぱいに広がる。彼は手の甲で口元を拭い、そこに付着した痛々しい赤を見ると、逆に低く笑い出した。彼は再び顔を戻し、みるみるうちに赤く腫れ上がっていく口角と頬骨を晒しながら、湊を見据えた。その目には、湊と同じように凶悪な殺気と反骨心が燃え滾っていた。数えきれない夜を彷徨い、もがき、引き裂かれるような思いで過ごしてきた。その苦しみを知っているのは、自分だけだ。この一発で少しでも罪悪感が軽くなるなら、むしろ望むところ
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第369話

彼はドアノブを掴んだまま、足を止めることなく、一言だけ残した。「来週の月曜、空港で待っているぞ」カチャリと軽い音を立てて、ドアが閉まった。オフィスには、陸だけが残された。彼は散乱した本棚に寄りかかり、ずるずると床に座り込んだ。こめかみの傷口から血が滲み、口元の青紫と混じり合って、見るも無残な姿だった。彼は手を上げて両目を覆った。指の隙間から微かに涙の光が瞬いたが、すぐに乱暴に拭い去られた。頭を仰け反らせ、天井の眩しいクリスタルのシャンデリアを見つめながら、自嘲するように口角を引き上げた。これでいい。これで、いいんだ。これからは、もうコソコソ隠れる必要はない。すべてが曝け出されたのなら。自分だって、正々堂々と奪い合ってやる。たとえ最後に負けたとしても、惨めに縮こまって生きるよりはずっとマシだ。これまでの人生、ずっと好き勝手に生きてきた。明乃に心惹かれてからのこの期間こそが、自分にとって最も苦しく、もがき苦しんだ時間だった……今となっては、むしろすべてを懸けて大勝負に出ることができる。……藤崎家の実家の書斎は、固く閉ざされていた。普段、陸がここへ来る時は、庭に入る前から幸之助の快活な笑い声が聞こえてきたものだ。しかし今日、家の中は恐ろしいほど静まり返り、お手伝いさんたちは息をすることすら躊躇っていた。書斎の中は、重苦しい空気で包まれていた。幸之助はいつもの肘掛け椅子には座らず、出入り口に背を向けて立ち、窓の外の深く沈んだ夜の闇を見つめていた。長年使い込んできた杖を今は限界まで強く握りしめており、手の甲に浮き出た青筋がピクピクと脈打っている。陸はその背後に跪いていた。あの目を引く金髪は黒に染め直されている。短く切り揃えられた髪の下、額にはガーゼが貼られ、口角にはまだ生々しい青痣が残っていた。背筋をピンと伸ばし、冷たい床に膝を打ち付けて鈍い音を立てたが、それ以上頭を下げることはなかった。「もう一度、言ってみろ」幸之助の声は喉の奥からすり潰すように絞り出され、極限まで抑え込まれた嵐の気配を孕んでいた。陸は顔を上げた。その眼差しからはいつもの不良めいた軽薄さが消え失せ、後には引けないという深く重い決意だけが残っていた。「政界に飛び込みます」「バンッ!」幸之助は勢い
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第370話

「関係ない、だと?」幸之助は冷笑し、一歩ずつ彼を追い詰めるように距離を詰めた。濁りながらも鋭い目が陸の顔を射抜く。「ならば答えろ。何が原因だ?あぁ?昨日の亮のあの言葉は、ただの戯言だと言うのか!?お前は本当に義理の姉に――」「違います!」陸は喉を掻き切るように叫んで遮った。首筋に青筋が浮かび上がり、声は激しい感情で歪んでいた。「俺がどれだけクズでも、越えちゃいけない一線くらい分かってます!」「一線だと?」大旦那は鼻で笑い、杖でドンと床を突いた。「おまえの一線とやらは、仕事を放り出して、魑魅魍魎の巣窟に飛び込むことか!?」「そんなことはしません」陸はその視線を真っ向から受け止め、一歩も引かなかった。「活路を見出しに行くんです」「活路?」幸之助はとてつもない冗談でも聞いたかのように笑ったが、その笑い声は氷のように冷たかった。「藤崎家の用意した道では物足りないのか!?あぁ?金も権力も握り、どれほどの人間が喉から手が出るほど欲しがっている冨を前にして、活路がないなどと抜かすか!?」「金と権力?」陸は切れた口角を引き上げ、色濃い自嘲と反抗的な笑みを浮かべた。「藤崎家の財力なら、海都の半分を買い占めることも、他人を買収することもできるでしょう。でも、本当の自由は買えますか?」彼の目が鋭く光った。「兄貴がどれだけ切れ者でも、ヒカリスバイオの将来性がどれだけ良くても、決められたルールの前では頭を下げるしかないでしょう。この前の爆破事件、黒幕は突き止められましたか?手を打てましたか?今回安藤家が見舞われた災難の裏で、暗躍していた連中の手を切り落とせましたか?」幸之助の顔色が急変し、杖を握る指先が白くこわばり、一瞬言葉を失った。陸は彼を見つめていた。その眼差しは恐ろしいほど静まり返っており、そこにはもう反抗期の少年の衝動はなく、冷酷なまでの冷静さだけがあった。「金なんてものは、俺たちみたいな人間にとって、とうの昔に一番重要なものじゃなくなっているんですよ」彼は一文字一文字、区切るように言った。「俺が欲しいのは、発言権です」発言権。ビジネス上の決定権ではない。一族内での支配権でもない。真にルールを定め、ルールを踏み潰し、あらゆる魑魅魍魎に手を出させない――絶対的な力のことだ。幸之助は激しい衝撃を受け、目の前で跪く孫を見つめた。
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