All Chapters of 再会した元カレ上司は、私の愛娘の父親でした: Chapter 1021 - Chapter 1030

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第1021話

タトゥーはかなり大きく、前腕の大半と上腕の半分を覆っていた。「痛くなかったの?」「痛かったよ。あの時は部屋いっぱいに人がいて、次々と悲鳴を上げた。死ぬほど痛かった」この大きさのタトゥーを、蓮は何日にも分けてようやく完成させた。一流の彫師の腕だったが、それでもやはり痛かった。凛は手を伸ばし、そっと触れた。「痛いのに、どうして彫ったの?」「自分がまだ生きているって、確かめたかったから」彼の答えは、意外なものだった。凛の心は震えていた。別れてから、彼女の心もまた長い間、静まらなかった。目を閉じるたびに、蓮のことや、二人で過ごした日々が次々と浮かんだ。時には心が温かくなり、時には氷の洞窟へ落ちたように冷え切った。あの頃の蓮も、彼女と同じように苦しんでいた。蓮は続けた。「最初は、君がまだ家にいたから、よく会えたし、まだそんなにつらくなかった。でも君が学校へ行ってから、しょっちゅう胸が痛むようになった」「気にしなくていい。裏社会の仲間たちと一緒に彫ったんだ。みんな入れてる」ただ、選んだ図柄がそれぞれ違うだけだった。凛は下唇を噛んだ。このろくでなし。言うべきことも、言わなくていいことも、全部一気に話しておいて、今になって気にするなと言う。どうして気にせずにいられるの?私の心は、そんなに強くないのに……蓮が当時タトゥーを彫ったのも、裏社会の仲間たちが、生ける屍のようになっていた彼を見かねたからだった。男なら男らしいことでもすれば、あの冷たい女、凛のことも頭から追い出せるかもしれない。そう思ったのだろう。凛の心が揺れないはずもなかった。たとえこの図柄が彼女とは無関係で、そこに刻まれた名前もただの偶然だったとしても、それでも凛の心には波紋が広がった。いつまで経っても、心は静まらなかった。ちょうどその時、琴子から電話がかかってきた。電話の向こうから問い詰める声が響き、蓮がいつ帰ってくるのかと尋ねている。凛は立ち上がって、二人の電話の邪魔にならないよう離れようとしたが、しかし蓮に手首をつかまれ、引き留められた。蓮は平然と言った。「帰らないって言っただろ。母さんが用意した見合いにも行かない」「蓮、あんた正気なの?私を怒らせて死なせるつもり?」「先に俺を怒らせたのは母さ
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第1022話

宗介からすれば、妻はただ蓮と意地を張り合っているだけだった。琴子が電話を終えると、彼は手にしていた新聞をめくった。老眼鏡を押し上げながら言った。「昔、俺の両親は俺たちの結婚を許していなかったけれど、それでも俺は結婚しただろう? あいつが本気で誰かを好きになったのなら、お前が邪魔したって止めるのは無理だと思うぞ」彼女は腹を立て、手にしていたクッションを夫の顔めがけて投げつけた。この老いぼれが。年を取ったせいか、言うことまで嫌味になってきた。「あんたの両親は、あの頃うちの家柄が悪いから嫌がっていただけで、私が嫌われてたわけじゃないでしょう!」それはどうだか。宗介は心の中でそう思った。――あの頃、もし九条家の当主・九条行健が商売のために琴子の両親の力を借りる必要がなかったら、俺の両親に琴子との結婚を認めるよう働きかけることもなかっただろう。とはいえ、前の世代の入り組んだ事情は、下の世代の自分が簡単に説明できるものでもない。それに宗介も長年一家の主を務めてきた身だから、今さら昔の事情を明かしては、面目を失うことになる。それに話したところで、妻の機嫌を損ねるだけだ。どうせ俺が何をしても、妻のことはどうにもできないし、息子も言うことを聞くまい。彼は言った。「好きにすればいい。俺はもう知らん」琴子はしばらく言い合ったあと、また宗介に指図をし始めた。「明日、蓮の家へ行って。凛の痕跡が残っていないか見てきてほしい」宗介は両手を上げて降参した。「明日は友達と釣りに行く約束がある。お前も蓮を探しに行くのはやめたほうがいい。あいつに腹を立たせられたところで、俺は知らんぞ」琴子は何も言えなかった。この佐原家の男たちと何を話しても時間の無駄だ。やはり梨々花に、もっと積極的に動いてもらうしかない。翌朝。凛は起きて出勤の支度をした。今日は「àl'aube」でいくつか会議があり、「アンサンブル」でも新商品の企画会議が予定されている。何人もの顧客が待っていた。凛の家は広く、蓮は昨夜、客室で寝た。凛が起きた時、蓮はちょうどドア枠にもたれながら歯を磨いていた。凛は帰宅するついでに、生活用品を大量に買ってきていたので、たいていの物は揃っていた。ただ、男物の服だけはなかった。幸い、蓮は細かい
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第1023話

隣人のほうが、ここに住んでいる年月は長かった。凛の戸惑った顔を見ると、駐車場で一緒に車を探しながら、世間話を話してくれた。「向かいに住んでる女の人、すごくいい仕事をしているから、このマンションの部屋も買えたのよ。その彼氏さんももともとは大手企業に勤めてたんだけど、何度も浮気するし、酒癖も悪いし、すぐ怒るの。それに今回が初めてじゃないわ。昨日の夜も警察が来てたでしょう?結局、少し注意されただけみたいだけど」凛は眉を寄せた。「初めてじゃないの?じゃあ、向かいの人は何か対策を取らないの?」「どう対策するの?自分で買った家だから、売って引っ越すわけにもいかないし。この辺の相場が一番高いときに買ったから、今の値段で売ったら、何千万の損になる。そんなの、誰だって手放せないわ。それに、あの男ときたら、ちょっと普通じゃないから。向かいの人は地元の人じゃないし、頼れる人もいないんじゃない?」凛はもうびくびくしている。「管理会社は何もしてくれないの?」「どうすればいいの?あの男もこのマンションの一階に部屋を持ってるから、住人なのよ。管理会社だって見て見ぬふりするしかないでしょう。それに、あくまで男女間のトラブルだし」隣人は自分の車を見つけると、凛に手を振って車に乗り込んだ。凛は頭が痛くなった。こういう厄介ごとは、どうにも苦手だった。紗月の家に行って数日泊めてもらおうか、それとも真理の家に転がり込もうか、そんなことまで考え始めていた。けれど、紗月はいま、朔と一緒に暮らしている。真理の家には子どもがいる。どちらへ行っても、邪魔になるだけだ。だからといって、急に一軒家を買うわけにもいかない。考えるだけで面倒だった。いきなり後から、男の声がした。「だったら、俺の家に住めば?」物思いに深く沈み、周囲の気配さえ忘れていた凛は、突然耳に届いた声に驚いて、細い肩を小さく震わせた。「まだ帰らないの?」「俺、どこに帰るんだ?」凛はしばらく黙った。そう言えば昨夜、二人は蓮の車で帰ってきたのだ。だから凛は、駐車場をいくらうろついていても、自分の車を見つけられなかった。やがて自分の駐車スペースの前に足を止めると、目の前に泊まっている車を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。「私の車じゃあないわ」確かに違う
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第1024話

そのとき、助手から凛のもとへ電話がかかってきた。今日の会議で約束していた取引先が、すでに到着しているという。凛を急かす電話だった。「すぐ行くから、二分だけ待って」会議に遅れそうになり、凛は蓮を見て、早く車を降りなければならない。ドアを開けるよう促した。ところが、彼は涼しい顔したまま、ロックを解除しょうとしない。これでは降りられない。焦る凛をよそに、蓮は余裕たっぷりの表情で彼女を見つめると、不意に手を伸ばした。「口紅、ついてる。それより、夜、俺を迎えに来てくれる?」どうやら今の蓮は、こうして凛に甘え、わざと困らせることも、すっかり味を占めてしまったようだっだ。昨日、少し駄々をこねてみたら、おもいのほかうまくいったらしい。凛は仕方なく、渋々答えた。「迎えに行くから、ここで降ろしてくれる?」「いい子だ」ようやくドアが開く。蓮は、彼女が車を飛び降りるようにして駆け出し、ビルへ向かっていく姿を、黙って見送った。マーメイドスカートが風をはらみ、裾がひらひらと舞う。その姿は、まるで一羽美しい蝶が羽ばたいているようだった。そしてその蝶は、彼の心へそっと舞い降りた。凛の姿が見えなくなってから、蓮はようやく車を発進させた。向かった先は、九条グループだった。湊は、自分のソファに悠々と座っている男を見るなり、手にしていた書類を投げつけた。蓮は片手で難なく受け止めた。「朝から俺のところへ来て、社員のプライバシーを調べろって?」「プライバシーってほどでもないだろ。そちらの社員が、自分の身の安全を守れないような目に遭ってるんだ。グループのトップなら、少しくらい気にかけてもいいんじゃないか?」湊は呆れたような顔で彼を見つめた。「俺が暇に見えるか?凛のことが心配なら、自分であいつの家の前に張り込め。俺まで巻き込むな」もしその社員の家が凛の向かいでなければ、蓮はそこまで事情を知ることはなかっただろう。まして、名前すら知らない社員を調べろなど、ここで堂々と言えるはずもない。そもそも、これは社員のプライベートな問題だ。本人が話さなければ、会社が勝手に調べるわけにはいかない。湊から見れば、蓮は明らかに別の目的があってここへ来ている。蓮はソファの上にあったルービックキューブを弄っている。4×4のキュ
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第1025話

健太は頭が痛かった。だが、本人が目の前にいる以上、無視するわけにもいかない。何より凛の安全に関わることだ。遥が気にかけている以上、もし何か起きれば、遥はもちろん、社長まで心配することになる。グループの社員である以上、社員の安全を気にかけること自体、規定に反するわけではない。しばらく考えた末、健太は社員名簿をもとに、凛の向かいに住んでいる女性社員を探し出した。秘書室へ呼ばれた彼女は、どこか落ち着かない様子だった。最近、仕事の調子が思わしくなかったこともあり、上司から何か苦情でも入って、秘書室の責任者である健太に呼び出されたのだろうと思ったらしい。健太はパソコンに表示された住所を指した。「ここに住んでいるの?」「はい。でも、ここ数日は帰っていません」健太は頷いた。「心配しなくていい。今日は、会社があなたの身の安全を気にかけていることを伝えるために呼んだ。もし自分では解決できないことがあれば、遠慮なく話してほしい。会社としてできる限り力になる」「え?」健太は説明した。「あなたの元恋人が昨夜、あなたの家で騒いで、向かいの家のドアを叩いたんだろう。向かいは『àl'aube』の相沢社長の家だ。S2グループの佐原社長もそこにいた。相沢社長の安全や心身の休息にも、少ながらず影響が出ていた。だからこそ、佐原社長は今日、わざわざここまで足を運び、あなたに何か助けが必要なのか、会社として確認してほしいと話してきた」健太の態度はあくまで事務的だった。けれど、その言葉にははっきりとした気遣いが滲んでいた。彼は知っている。この女性社員は九条グループで何年も働き、仕事にも真面目で、着実に実績を積み、今では部署のリーダーまで務めている。会社が手を差し伸べるだけの理由はあった。彼女が黙り込んでいるのを見て、健太はこういう話は女性にとって言い出しにくいものだと察した。しかも、会社の上司にこんな恥ずかしい事情を知られてしまったのだ。「重く考えなくてもいい。相沢社長からも、もし助けが必要なら、会社に相談してもいいし、直接、住んでいるところの向かいにある相沢社長の家を訪ねてもいいって言われてる」「ありがとうございます。もし可能なら、少し助けていただきたいです」女性社員は何度もためらった末、健太の気遣う視線に背中を押さ
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第1026話

凛は宝石に囲まれ、悠然と腰を下ろしていた。その姿はまるで、全てを手中に収まる女王のようだった。千春は少し居心地が悪かった。九条グループで何年も働き、上層部と接する機会も多かった。それでも、凛のように普段はスマートフォンの画面越しでしか見たことのない人物と、こうして向かい合うのは初めてだった。凛は笑った。「そんなに緊張しなくていいよ。私も昔は九条グループで働いていたから。そう考えたら、私たちも元同僚みたいなものでしょう」千春もつられて笑った。申し訳なさそうに言う。「昨日のこと、本当にすみませんでした。私が家にいなければ大丈夫だと思っていたんですが、まさかあの人がそこまで理性を失うとは思わなくて。もう弁護士にも依頼して、対応しています。チャットグループで言っていたことも、昨夜、家の前の監視カメラに映っていたものも、私の安全を脅かした証拠になります。訴えるつもりです」凛は頷いた。「きちんと対処できるなら、それが一番。でも、ちょっと気になるんだけど、どうして、そんな男と付き合ったの?」千春は見た目では冷静で穏やかな女性だ。このマンションが買えるくらいだから、仕事もできるのだろうし、地道に努力してきた人だと思う。凛には、どうしても昨夜騒ぎを起こした男と彼女を結びつけられなかった。千春は苦笑いをした。「付き合っていたころは、あんなにひどくなかったんです。彼はうまく隠していたのかもしれないし、私が彼にはまって、見分けられなかったのかもしれません。最初は、本当に優しかったです。何から何まで気を配ってくれて。私の実家は普通の家庭で、両親も地方の小さな町で公務員をして定年を迎えた人だから、東都で頑張っている私を助けることもできませんでした」千春は少し間を置いた。「彼の家族は、私のことをあまり気に入ってなくて、家柄が釣り合わないって思ったらしいです。それに、こんなに若くして九条グループで働けたのも、女性だから得をしただけだと言っていました」話を聞いただけで、その裏にあるものを凛には理解できた。「女性だから得をした」という言葉の正体は、結局のところ、表に出せない何かがあったのではないか。相手の家族は、そんな噂を作り、千春を貶めたのだ。凛は静かに頷いた。「分かるよ。私も、似たような経験がある」
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第1027話

蓮は凛の前に立っていた。表情は真剣だった。その瞳には、ためらいさえ浮かんでいる。凛と千春は、気が合い、話も弾んだ。年齢も近いし、性格の相性も悪くない。凛にとって、千春の第一印象はかなりよかった。もしかして、自分も心のどこかで、千春の言葉に納得しているのだろう。凛は髪をまとめていた。こめかみから落ちた一筋の髪を残しながら、目の前の箱を一つずつ開け、選んだ商品を一か所にまとめた。足を組んで座り、シャツのボタンをいくつか外している。帰ってきたばっかりで、少し暑かったせいだ。凛は目を細めるように笑い、指先で髪を弄りながら蓮を見た。「もし、私もそう思ってるって言ったら?」「君は、別れようとしてるの?」凛は顔に笑みが現れた。まるで、すべての選択を彼に委ねたようだ。彼女にも、かつて憎しみはあった。別れたばかりのころ、蓮は母親に逆らえず、母親のしたことを黙って許していたと思った。もし彼と結婚したら、あんな家庭に入ることになれば、自分が幸せになれるはずがない。相沢家といえば、身をもって知った前例だ。結婚とは、自分で新しい家族を選ぶみたいなものだ。だったら、自分を大切にして、愛情が溢れていなくてもいい。少なくとも互いを尊重し合える家庭を選びたい。あのころの凛は、本当にそう思っていた。良い元恋人とは、自分の人生からきれいに消えてくれる人なのだと。けれど今、二人の間にあった誤解は、少しずつほどけている。今日、仕事が終わってから蓮を迎えに行った。そのとき、彼の顔に浮かんだ驚きと喜びを確かめた。その瞬間、凛はふと思った。一度くらい、勇気を出してみてもいい。一度くらい、何も考えずに身を任せてもいい。もう一度、愛してみよう。これを最後に、二人に未来があるとは限らない。少なくとも心に後悔だけは残したくなかった。蓮は、じっと彼女を見つめていた。凛は問いを彼に投げ返し、自分はただ微笑んでいる。もし彼が今ここで背を向けて去ったとしても、それを受け入れる。そんな顔だった。蓮は彼女の前に座った。「分かってるくせに」分かっているはずだ。たとえ凛がかつて自分を嫌っていたとしても、今の自分がここを去るはずなどないと。ようやく、厚かましさを総動員して手に入れた機会だ。簡単に手放すものか。千春の元
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第1028話

ドアを開けると、琴子が立っていた。蓮は彼女を見た瞬間、顔から笑みが消えた。琴子の目は赤く腫れている。「やっぱりここにいたのね!この女に何を吹き込まれたの?今すぐ私と帰りなさい!」琴子がどうやって凛の住所を知ったのかは分からない。だが、ドアを叩いて、そこに息子が立っているのを見た。しかも裸足だった。そして凛はソファに座ったまま、挨拶すらせず、少し笑みを浮かべて琴子を見ている。服も乱れている。大切な息子が、こんなところで凛に好き勝手されている。そう思った瞬間、琴子の中で怒りが一気に燃え上がった。彼女は蓮の手首をつかんで言った。「今すぐ帰るの!」蓮は動こうとしなかった。琴子は力を込めるが、びくともしなかった。怒鳴りつけようとしたそのとき、蓮の沈んだ顔が目に入った。生まれてから今まで、琴子はこんな表情の息子を見たことがなかった。まるで、母親を見る目ではなく、仇敵を睨みつけるような眼差しだった。その視線にさらされた瞬間、琴子の中で燃えていた怒りが消えた。代わりに、とんでもない寒さが押し寄せてきた。「あんた、この女のために母親を捨てるつもりなの?」蓮はここで騒ぎを起こしたくなかった。昨日の春子の元彼の件ですでに大きな騒ぎになっている。凛まで、こんなくだらない騒動に巻き込みたくなかった。ここで揉めれば、収拾がつかなくなる。それだけではない。建物中に声が響けば、恥をさらすことになる。蓮はゆっくりと振り返り、凜へと視線を向けた。「俺、先に行ってくる。全部片づいたら、また戻るから」凛は頷いた。顔を上げることもなく、淡々と言った。「玄関のゴミ、出しといてね。まだご飯食べてないよね、ちゃんと食べてよ」いつもと変わらない口調だった。そこに立っている琴子のこと、まるで気にしていない。それがかえって、蓮の心の中にあった不安をほんのり和らげた。彼は「分かった」と答えて、琴子を連れて部屋を出て、ドアを閉めた。琴子は目を大きく開いた。「何ですって?まだあの女のところへ戻るつもり?絶対に許さないから!」蓮は何も答えなかった。母親を連れて階下へ降り、ゴミを捨てると、そのまま車を走らせて海辺へ向かった。その日の風は強かった。冷たい風が琴子の頬を刺し、スカートの裾を激
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第1029話

蓮は琴子を脅かすために言っているわけではなかった。ずっと前から、心の中で決めていた。しかし、琴子は頑固だった。長い年月をかけて凝り固まった考えが、たった一言では変わるはずがない。玉希も浩介も、結局のところ、琴子の行いを黙認し、甘やかしてきたのだ。今では二人とも結婚し、子どももいる。それに、琴子は継母だから、二人とも、もうすべて過去のことで、人生は次のページへ進めるものだ。けれど、蓮はそうはいかなかった。心に隔たりがまだ残っている。何度も忘れようとしたが、けれど、できなかった。眠れない夜が続き、酒の力を借りてようやく眠っても、夢の中にいるのはいつも凛だった。もしかすると、琴子の言うとおりなのかもしれない。自分は道を踏み外し、恋に狂っているのかもしれない。それでも、もう後戻りするつもりはなかった。琴子は胸が締めつけられて、怒りも恐怖も入り混じり、本当に息子が海へ飛び込むのではないかと怯えた。「駄目!お前は私が産んだ子よ。自分の命を粗末にすることは許さない!」蓮は静かに言った。「じゃあ、この命を母さんに返す。どうして母さんが凛を嫌うのか、俺には分からない。でも、分かる必要もない。母さんが凛を嫌うのと同じだけ、俺も母さんが連れてきた女たちが嫌いだ。理由なんていらない。説明する必要もない」以前の蓮は、何度も琴子を説得しようとした。けれど、何の意味もなかった。琴子は聞く耳を持たなかった。蓮自身も、自分の考えが少し偏っていることはわかっていた。たぶん、それも母親から受け継いだものなのだろう。海風に吹かれて、蓮の髪が乱れて、顔に張りついた。「母さん、寒いだろ。先に帰って」「帰るって、帰れるもの?お願いだから怖がらせないで。母さんと一緒に帰ろう。これからはもうお見合いを勧めない。いいでしょう?それに、凛のことも、もう何も言わないから」蓮は小さく笑った。心は驚くほど静かだった。冷たい海風が吹き付け、身体を震わせる。そして、心の底まで少しずつ冷えていく。すべては考え抜いて、決めていたことだから、決して衝動的ではない。「母さん。子どものころ、俺は積み木が大好きだった。でも母さんは好きじゃないって言って、捨てただろ。それから、俺にはパズルをやらせた。あの
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第1030話

蓮が海へ飛び込んだとたんに、海岸に琴子の叫び声が響いた。周囲にいた人々もその瞬間を目撃し、声を上げる。「誰か、助けて!」蓮にも、その声が聞こえていた。泳ぎは得意だった。琴子もそれを知っている。ただ、今はきっと忘れている。幼いころ、蓮はよく祖父に連れられて泳ぎに行った。海で泳いだこともある。だから、海に包まれる感覚は、彼にとって決して未体験のものではなかった。砂浜から響いてくる琴子の呼び声が聞こえる。血を吐くくらいの、悲しい声だった。自分が間違っていたと、何度も叫んでいる。蓮自身も、自分のやり方が偏っていることは分かっていた。それでも、ほかに方法がなかった。母親が頑ななら、自分も同じくらい頑なだった。彼は反対側の海岸から上がって、そして数日後に家へ戻るつもりだった。数日があれば、琴子も冷静になれる。そして自分自身も、考える時間を持てると、蓮が考えた。……「何ですって?蓮が海に飛び込んだ?それで、見つかったの?」九条家で瑛太を抱いてあやしていた真由美は、その話を聞いた瞬間、ソファから飛び上がりそうになった。電話の向こうでは、琴子が泣きじゃくっている。「まだ見つかってないの!真由美さん、お願い。蓮が昔から湊君と仲がよかったでしょう。どうか助けてください!」「落ち着いて。すぐ湊に連絡するから」真由美は菊に頼んで湊へ電話をかけさせ、事情を簡単に説明した。菊は小声で言った。「若旦那は、もう手配済みだそうです」そう言いながら、真由美に手で合図を送る。その意味は、湊があまりに落ち着いているということだった。どうやら、まだ何か事情があるらしい。真由美も少し安心した。琴子がまだ電話の向こうで待っていることを思い出し、伝えた。「湊が人を手配してるから、そんなに慌てないで。いったい何があったの?」「蓮が俺の命を母さんに返すって。主人までずっと私が蓮を追い詰めたって言うの。私、本当に間違ってた。ただ、私は凛が嫌いだったの。だって、あの人、主人の前の妻とよく似っているのよ」真由美は思わずため息をついた。「凛とご主人の元奥さんなんて、似てるのは目の下のほくろくらいでしょう?」似ているどころか、まったく別人だった。琴子自身も、自分が凛へ怒りをぶつけていたこ
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