All Chapters of 再会した元カレ上司は、私の愛娘の父親でした: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

その瞬間、遥は初めて知ったのだ。母は父を愛しており、そして自分のことも深く愛してくれていたのだと。もしかすると、大学時代に彼女が恋愛に夢中になったのも、あのような温かな愛に包まれていた両親を見て育ったからかもしれない。湊のことを思い出す。遥は口の中の鮭を噛むのも忘れ、そのままうっかり飲み込んでしまった。水を何口か飲み、もう食事を進める気にはなれなかった。家を出る前にすでに食事は済ませていたので、単に久美子の病院食がどんなものか見てみたかっただけなのだ。数口食べてみたが、味も悪くなかった。「あの洋館は、お父さんとお母さんと結婚した時の家だ。売りたいなら売ってもいいわよ、私に異論はないから」久美子は微笑んだ。「そうね、そうしましょう。私が退院してから詳しく話すわ。家を売ったお金は、陽くんと結衣で半分ずつ分けることにするから」お弁当の蓋を閉めながら、遥は何気なく言った。「翔太お兄ちゃんの新しい奥さんも妊娠したみたいよ」久美子は手を振った。「私の娘をいじめた人間に、一円たりとも渡すつもりはないわ。この久美子は、そこまでお人好しじゃないのよ」陽に半分渡すというのは、翔太がこれまで遥に良くしてくれたからだ。それに加えて、陽は今、征一郎たちに育てられているわけではないから、あの子が真っ直ぐに育ってくれることを願ってのことだった。久美子はその恩を忘れず、同時に受けた仕打ちもしっかりと心に刻んでいる。あかりの子供に金を分けるなど、絶対にあり得ない。遥は目を伏せ、心の中に温かいものが流れ込んでくるのを感じた。「ええ、分かったわ。お母さんの言う通りにする」久美子は食事を続けた。だが心の中では、あの古い洋館の中を探せば、夫が生前残した何らかの資料が見つかるかもしれないと考えていた。ここ数日ベッドに横たわっている間、彼女はずっと昔の夢を見ていた。ある日、正男が亡くなる直前、あの洋館について何度も彼女に何かを伝えようとしていた夢を見た。当時、久美子自身も体調を崩しており、そのことをすっかり忘れてしまっていたのだ。もしかすると、今回あの家に戻れば、何か見つかるかもしれない。……「兄貴、調べてみたんやけど……遥さんの実家の会社が倒産したのは、事故が原因だったらしい。作業員の一
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第202話

胸の中に溜まった濁った空気を吐き出そうとしたが。何度深呼吸しても、どうにもならなかった。彼はスマホを脇に置き、眉をきつくひそめて健を見た。「立花家の会社は、今どうなっている?」「資産は凍結されたままで、遺族側はずっと訴えを取り下げていない。当時この件で損害を被った取引先がいくつかあって、遥さんはその借金をずっと返済し続けているはずだ」健は湊の顔色をチラリと窺い、恐る恐る言葉を続けた。「その取引先のうちの一社が、九条グループの系列会社なんや……」湊から発せられる空気がどんどん冷たくなっていくのを感じながら、健は覚悟を決めて最後まで言い切った。「うちのグループからの発注額はかなり大きかったから、当時受けた影響も小さくなかった、だから……」健はゴクリと唾を飲み込んだ。「つまり、兄貴が……実質的に、遥さんの今の最大の債権者ってことや」遥が取引先の企業に返済し続けていた借金の一部は、九条グループの傘下企業に支払われていた。つまり、間接的に湊の元へ振り込まれていたのだ。湊は身をかがめて床に落ちた万年筆を拾い上げたが、その手は小刻みに震えていた。彼の脳裏に、再会してから見た彼女の、切り詰めた生活を送る姿が次々とフラッシュバックした。自分の服を買うのも惜しみ、結衣の服も楓のお下がりばかりだ。タクシーに乗るのももったいないと、少しでも節約するために遠く離れた郊外のボロアパートに住んでいた。デリバリーを頼む時でさえ、いくつものアプリを比較して、数十円でも安いところを探していた。彼女がいつ、あんな惨めな思いをしたことがあっただろうか。以前の彼は、遥があの無能な元夫のせいで、あんなひどい生活に耐えているのだと思っていた。彼に助けを求めることもなく、あんな暮らしを選んでいることに腹を立てていた。彼に向かって手を振ってくれさえすれば、彼はすぐにでも彼女の元へ駆けつけたのに。だが、彼女が背負っていたその数々の苦労の大部分が、あろうことか彼のせいだったなんて。湊は両手で顔を覆い、強く擦った。手を離した時、その目の奥は真っ赤に充血していた。健はビクビクしながらその様子を見ていた。遥という人が、兄貴にとってこれほど特別な存在だったのか健は口を開いた。「兄貴、俺から子会社の方に連絡して、こ
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第203話

彼は、すべてを結衣に残すつもりだ。彼ら二人の娘に。遥は彼が与えるものを何一つ受け取らないだろうが、結衣が彼の財産をすべて受け継ぐことを止めることはないはずだ。彼が持っているものすべてを結衣に譲る。それは当然のことだ。ただ、遥には唯一の後見人になってもらう。……一週間、雨が降り続いていた。久美子が退院して初めて、遥が新しく借りたマンションにやってきた。中に入ると、あちこちを見回す。その顔には満足そうな色が浮かんでいた。だが、家賃の額を聞いて久美子は少し警戒した。「そんなに安いの?この辺りなら、どう考えても三十万円以上はするはずでしょ?」このマンションは都心のど真ん中にある。これだけの広さの部屋なら、家賃は少なく見積もっても三十万円以上は下らないはずだ。遥はストローを噛みながら水を飲んだ。「大家さんがお金には困ってなくて、ただ部屋を綺麗に使ってくれる住人を探してたんだって」「いくらお金に困ってないからって、タダ同然で貸す人がどこにいるのよ。見てごらんなさい、この冷蔵庫、新品じゃない。それに安物には見えないわ」久美子はベランダにある乾燥機を指差した。「数年前、おばあちゃんに同じメーカーの乾燥機を買ってあげたけど、ベランダにあるのほど高級なモデルじゃなかったわ。それでも当時、三十五万円はしたのよ」遥も、言われてみれば確かにおかしいと思い始めた。スマホを取り出し、同じ型番の冷蔵庫の値段を検索してみる。画面に表示された数字の桁を、遥は三回数え直してようやく理解した。百万円以上する冷蔵庫だ。それに、あの日不動産屋は大家さんが迷うことなく、すぐに新しい冷蔵庫を注文してくれましたと言っていた。以前は冷蔵庫がなかったということは、この部屋には誰も住んでいなかったということだ。誰も住んでいない空き部屋なら、そのまま空けておけばいいだけで、わざわざ破格の安値で貸し出す必要はない。ましてや、こんな高価な冷蔵庫を買い与えるなんて。遥は不動産屋のLINEを開いた。メッセージを送る。【そういえば、前に大家さんの連絡先を教えてもらうのを忘れていました。もしよろしければ教えていただけますか?いろいろ便利なので】前回の家賃は、不動産屋に直接支払っていたのだ。三十分経って
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第204話

また一つ、メッセージの通知音が鳴った。【本当は、悠真たちに頼もうと思っていたんだ。だが今は、そんな真似はしたくない】遥はベッドに仰向けになり、スマホの画面を見つめていた。結衣は彼女の隣にうつ伏せになり、遥の髪の毛で遊びながら、キャッキャと声を立てて喜んでいる。遥が返信しないでいると、湊からさらにメッセージが届いた。【今お前が住んでいる部屋も、隣の部屋も、上の階もすべて俺のものだ。権利書も、水道光熱費の契約も、全部俺の名義になっている。どのみち、遅かれ早かれお前も気づくだろう。ここに住んでいれば、お前たちも安全だ】遥のまつ毛が揺れた。湊が、私に弁明している?昔付き合っていた頃、彼がこんなに長々と弁明してくれたことなど一度もなかった。いつも不機嫌そうに、適当な言葉で誤魔化すだけだったのに。もし昔の彼が、自分のやる事なす事すべてをこんなに丁寧に説明してくれていたら、遥はきっと天にも昇る気持ちになっていただろう。だが今の彼女は、あまりにも冷静だった。もう騙そうとしなかったのは、結局のところ、どうせ光熱費の支払いの時に、いずれバレてしまうと分かっていただけだろう。おそらく、今の彼女があの頃のように簡単には騙されなくなったというのもあるのだろう。遥は口角を引き上げて笑おうとしたが、どうしても笑えなかった。もし、この部屋の持ち主が湊だと知ったのがもっと前だったなら、遥はきっと悩みすぎて夜も眠れなかったに違いない。だが今は違う。久美子が実家の洋館を売却することに決めたのだ。そのお金が入れば、新しいマンションを買うことだって十分にできる。遥はスマホのキーボードをタップした。そして、三ヶ月分の家賃をまとめて彼に送金した。すぐに湊から返信が来た。【?】遥がわざわざ彼と線を引こうとしていることに腹を立てているのか、それとも彼女の冷淡な態度が気に入らないのかは分からない。昔の遥なら、その【?】の裏にある彼の感情を必死に読み解こうとしただろう。だが今はもう違う。彼がどう思おうと、もう知ったことではない。【結衣ちゃんが俺の家に住むのは、当然のことだ】送金は受け取り拒否され、戻ってきた。遥は冷静に【分かりました】とだけ返し、スマホをしまった。そろそろ寝かしつけようとしたそ
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第205話

【ビデオ通話、できますか?】この一文を送信した直後、相手からビデオ通話の着信が入った。通話に出ると、画面にはドアップになった結衣の顔が映し出された。そのあまりの可愛らしさに、見ている側の心までとろけそうになる。湊の顔を見た途端、結衣はパッと顔をほころばせ、礼儀正しく挨拶をした。「湊おじさん、こんばんは!」湊の声も、無意識のうちに優しく甘い響きに変わっていた。「結衣ちゃん、こんばんは」遥は画面をちらりと見やり、一人でベッドから降りないように、転ばないようにと結衣に言い含めた。そして部屋を出て、向かいにある小さな部屋へと向かった。そこで、先ほど起きた出来事を久美子に告げる。久美子も驚きを隠せなかった。「宏和(こうわ)産業がすごい決断力だね。わざわざ夜中に公印を押して財務に振り込ませるなんて、随分と手間をかけたものだわ」「もしかしたら、事前に社内で手続きは進んでいて、今日ようやく承認が下りたってことなのかしら?」「その可能性もあるわね。どちらにせよ、素晴らしい知らせだわ」母娘でしばらく話し込んでいると、久美子が大きなあくびをした。すっかり疲れている様子だ。遥は久美子の部屋を出て、そっとドアを閉めた。自分と結衣の寝室に戻る。結衣は大きなダブルベッドの端っこのごく小さなスペースで丸まり、すでに寝息を立てていた。ほっぺたはほんのり赤く染まり、口元からは一滴のよだれが垂れている。遥はそれを見てクスッと笑い、身をかがめて結衣の額に触れてみた。汗をかいていないことを確認し、彼女を隣の小さなベビーベッドへと移した。結衣を寝かせた後、遥はその小さなベッドをじっと見つめた。このマンションは、湊の所有物だ。壁も綺麗で、家電もすべて新品。床には傷一つなく、人が住んでいた痕跡は微塵も感じられなかった。ということは、このベビーベッドも湊が新しく買い揃えたものなのだろう。ベッドの脚には、麻の葉の模様が不器用に彫り込まれていた。結衣がベッドの上に置きっぱなしにしていたスマホは、クッションに立てかけられており、ビデオ通話はまだ繋がったままだった。遥が視線を向けると、画面越しの湊と目が合った。彼はどうやら、ずっとこちらを見つめていたようだ。遥はスマホを手に取った。湊の顔が目の
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第206話

翌朝。遥が目を覚ますと、枕の端が濡れていた。昨夜のあの夢のせいで、彼女は少し放心状態だった。呆然としたまま起き上がり、洗面へ向かう。ダイニングでは、久美子がすでに朝食の準備を終え、結衣の髪を結ってやっていた。「遥、先にご飯を食べなさい。結衣は後で私が幼稚園に送っていくから」久美子は今日、あの古い洋館の整理に行く予定だった。遥は水を一口飲んだ。「仕事休んで、一緒に行こうか?」「何言ってるの、私を子供扱いしないでよ。道に迷うわけでも、字が読めないわけでもないんだから」結衣が顔を上げ、久美子を見た。真剣な顔で言う。「おばあちゃん、結衣は道も分かるし、お字も読めるよ!」久美子は結衣の小さな顔を両手で包み込み、何度もキスをした。「あらあら、うちの結衣は本当に天才ねえ」遥は腕をさすり、鳥肌を鎮めた。久美子がそんな猫なで声を出すなんて、生まれてこの方聞いたことがない。遥にそんな声で話しかけることは、一度だってなかったのに。孫への溺愛ぶりには、本当に恐れ入る。家族三人で朝食を済ませ、エレベーターに乗り込む。ドアが閉まりかけたその時、隙間からスッと手が差し込まれ、エレベーターのドアが再び開いた。湊がドアの前に立っていた。パリッとしたスーツ姿で、エレベーターに乗り込んでくる。遥のまぶたがピクリと跳ねる。 そういえば彼が言っていた。隣も、上の階も彼の持ち家だと。それなら、彼がここに住んでいても何ら不思議ではない。結衣は嬉しそうに久美子の腕の中から身を乗り出し、湊に抱っこをねだった。「湊おじさん!」久美子は慌てて謝った。「すみませんね、結衣、他人に抱っこをねだっちゃダメでしょ?」湊は微笑み、手を伸ばして結衣を抱き取った。「いえ、構いませんよ。俺が抱きますから」久美子もそれを見て、ホッと安堵の息を吐いた。「湊さんも、このマンションにお住まいなんですか?」「俺は隣の部屋に住んでます。でも、こちらへ来るのはたまにですよ」後半の言葉は、遥の方をちらりと見ながら言った。どうやら彼女に向けた言葉らしい。久美子の前ということもあり、遥は湊に向かって軽く会釈をした。「社長、おはようございます」「おはよう。お母さんも、おはようございます」久美子の
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第207話

久美子は手を伸ばし、遥の背中をポンポンと優しく叩いた。「分かった、分かったわ。あなたの言う通りにするわよ。結婚しなくたって、私たち二人で立派に結衣を育てられるわ」手術を受けてからというもの、久美子の性格は以前よりもずっと穏やかになっていた。遥は頷いた。「新しい相手を探すのはいいとしても、あの人だけは絶対に考えられないわ」エレベーターの鏡には、氷のように冷え切った湊の顔が映し出されていた。その瞳の奥には光がなく暗く沈んでいるのに、口角だけが軽く、どこか不自然に上がっている。結衣には、大人たちの会話の意味は分からない。けれど、湊の心の揺らぎを敏感に感じ取っていた。彼女は小さな手を伸ばし、湊の無理作った作り笑いをぐいっと下に引き下げた。そして、大人びた口調で、それでいて甘ったるい声で言った。「湊おじさん、ママが言ってたよ。悲しい時は、無理して笑わなくていいんだって」湊は一瞬、ハッとした。そして、今度は心からの笑みを浮かべた。「結衣のママは、とてもいいことを教えてくれたね」結衣の無邪気な言葉が続く。「でしょ、結衣もそう思う!結衣のママにおじさんのことも教えてもらったら?そしたら、おじさんも結衣みたいにいい子になれるよ!」久美子はたまらず、吹き出してしまった。この子ったら、本当に。湊もつられて笑い、エレベーターを降りた。結衣を久美子に渡し、それから遥の方を振り返った。「俺が車を出すから、ついでに送っていくよ」ここで「地下鉄で行くから」と断るのは、かえって不自然だし、意地を張っているようで大人気ない。遥は軽く頷いた。「ありがとうございます、社長。ちょうど仕事のことで少しお話ししたいこともありましたし」久美子は歯痒い思いでいっぱいだった。せっかくのチャンスなのに、この子は仕事の話をするつもり!?まあいいわ、この子の心はもうすっかり恋愛から離れてしまっているのね。こればかりは、無理強いしても仕方がない。車に乗り込むと、ひときわ目を引くラングラーが朝の車の波へと合流していった。湊がハンドルを切りながら口を開く。「話ってなんだ?」遥は、「カゼ」のイラストの件について話した。「カゼ先生に連絡を取ったんですが、提示された報酬額が彼女の相場と合わ
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第208話

「結衣が遊園地に行きたいって言うから、ちょっとした取引をしたんだ」湊は微かな笑みを浮かべたまま言った。「約束した英単語を全部覚えられたら、連れて行ってやるってな。でも結衣が言うには、ママの教え方が一番上手だから、俺のやり方は多分間違ってるってさ。だから、行くかどうかはお前が判断してもらう」遥も結衣との日常生活の中で、こういう条件付きの「取引」を交渉材料として使うことがよくあった。彼女は頷いた。「それはいいわね。いつ行くか決まったら教えて。私は邪魔しないようにするから」湊は苦笑いをした。「どうしても俺と線を引かないと気が済まないのか?」エレベーターの中でもそうだった。彼女は彼と横に並んで立つことすら嫌がった。まるで全く赤の他人のようだった。二人の間には、残酷なほど綺麗に境界線が引かれている。まるでもう、二人の間には何一つ残されていないかのように。信号待ちで車が停まった時、街路樹の影が遥の顔に落ちた。彼女は淡々と言った。「逆に、社長は私たちに境界線が必要ないとお思いですか?」湊は無意識にタバコの箱に手を伸ばそうとしたが、遥が同乗していることを思い出し、結局手を止めた。ハンドルを握る指の関節が、白く浮かび上がっている。これよりずっと前は。彼女の態度は、決してこんなふうではなかったのに。今の彼女は冷淡なだけでなく、言葉の端々に棘がある。まるでハリネズミのように、彼が望んだ通り、ついにその鋭い針を彼に向けて逆立てるようになったのだ。車が再び走り出し、九条グループの本社近くにあるコンビニの前で停まった。彼女は、湊の車から降りるところを社内の誰にも見られたくないのだ。これが、遥が最初から明確に引いていた「境界線」だった。遥はドアを開けようとしたが、ロックがかかっていて開かないことに気づいた。湊はしばらく彼女を見つめていた。そして、ロックを解除した。二人の間には、もう言葉は交わされなかった。車内で交わした言葉の数は、タクシー運転手と客の会話よりも少なかったかもしれない。湊は車内に座ったまま、遥のしなやかな後ろ姿が交差点の角を曲がって見えなくなるまで見送った。数分後、彼のスマホに遥の出勤打刻の通知が届いた。スマホを指先でくるりと回す。彼はチャ
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第209話

綾乃の顔からスッと笑みが消え、その瞳が微かに泳いだ。彼女が連絡を取ったイラストレーターは、実は彼女の友人だったのだ。九条グループが提示した報酬額はかなり高額だったため、後で三割のキックバックをもらう約束になっていた。だから、カゼに連絡を取った際には、本来の予算の半額の値段を提示して交渉していたのだ。綾乃は恐る恐る口を開いた。「社長、わざわざそんなことしなくても……カゼ先生の態度はかなり悪かったですし、ご覧になったら社長も不愉快になられると思います。こんな些細なこと、社長がご心配なさるには及びませんわ」湊の態度が、氷のように冷え切った。「健太、内容をまとめて俺に送れ。それからカゼにも連絡して、向こうからもやり取りの内容を送ってもらってこい」「承知いたしました、社長」社内チャートの履歴だけではなく、カゼ本人からもやり取りの内容をもらって、二つを照らし合わせるよう指示されたのだ。その言葉の裏にある意味は綾乃が提出する情報に細工をするのではないかと疑っているということだ!綾乃の心に浮かんでいた甘い妄想など、一瞬にして吹き飛んだ。湊に見下ろされるその視線が、自分の腹の底まで全て見透かしているように感じられた。「社長、そこまでされる必要は……」湊は不機嫌そうに声を荒げた。「お前が俺に指図する気か?出て行け。もうお前に用はない」綾乃の額に冷や汗がにじんだが、まだそこまで焦ってはいなかった。最悪の場合、「金額を間違えて伝えてしまった」と言い張ればいい。ミスの一つくらい、大目に見てもらえるだろう。……午後、楓はスマホをいじりながら言った。「遥ちゃん、今週末に会社主催の海水浴ツアーがあるんだけど、家族同伴OKなんだって。行く?」毎年この時期になると、九条グループは会社負担で近隣都市への日帰りや一泊旅行を企画するのだ。楓と美咲は、すでに子供を連れて行く計画を立てていた。そして、遥も結衣を連れて行かないかと誘ってきたのだ。「結衣ちゃん、まだ海見たことないんでしょ?」遥は軽く笑った。「結衣が生まれた病院は海から近かったのですよ。妊娠中によく散歩に行ってたから、あの子も海を見たことがあるようなものです」「それとこれとは違うでしょ!一緒に連れて行きなよ。旦那さんも誘って
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第210話

幼稚園にはすぐに到着した。悠斗は湊の姿を見るなり、自分も一緒に帰って結衣の看病をすると騒ぎ立てた。湊は呆れたように言った。「お前が来たら、お前の世話までしなきゃならなくなるだろう。おとなしくここでママのお迎えを待ってろ」悠斗は不満げに口を尖らせたが、それ以上は逆らえなかった。遥がサインを済ませると、湊はすでに高熱でぐったりとしている結衣を抱き上げ、気が気でない様子の遥を伴って車に乗り込んだ。道中、遥は火のように熱い結衣の体を抱きしめ、ポロポロと涙をこぼしていた。湊は運転しながら、赤信号の合間を縫って何人かの小児科医に電話をかけた。「周防(すおう)先生、すぐに向かいますので、お願いできますか」周防教授は東都でも有名な小児科医で、普段は一般の診察は行っていない。だが九条家とは旧知の仲であり、すぐに連絡がついた。周防教授は承諾した。「病院の近くにいるから、すぐにそっちへ向かおう」湊の手のひらには、冷や汗が滲んでいた。それでも、車は安定したスピードで一気に病院へと向かった。到着すると、ちょうど入り口で周防教授と鉢合わせた。診察室に入り、周防教授は丁寧に診察を行った。「入院の手続きをしてきなさい。数日ここで様子を見る必要がある。食中毒だね。嘔吐はしたかな?」湊はすぐに入院手続きへと向かった。遥は頷いた。「幼稚園で何度か吐いたと先生が言っていました。ひどいですか?」周防教授は結衣のお腹を軽く押しながら、首を横に振った。「胃洗浄をせずに済んだだけでも不幸中の幸いだよ。まだ小さいんだから、親もしっかり見ていてあげないと。脱水症状を起こしているから、数日点滴を打つ必要がある。しっかり看病してあげなさい」入院届を手に湊が戻ってきた。周防教授がそれを見ると、個室の病室だったが、何も言わなかった。病室で点滴を打ち始めると、結衣の体温も徐々に下がっていった。遥はホッと胸を撫で下ろした。周防教授は結衣の額に触れ、もう大丈夫だと告げた。その一方で、血相を変えて心配する湊の様子を眺め、彼の視線が遥と結衣の間を行き来しているのを見て、周防教授はからかうように口を開いた。「そんなに慌てて、まさか、君の娘さんかい?」冗談のつもりだったが、思いがけず湊が頷いたのだ。「
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