All Chapters of 再会した元カレ上司は、私の愛娘の父親でした: Chapter 911 - Chapter 920

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第911話

その愛らしいその顔には、誇らしげな笑みが浮かんでいた。だが彼女は、自分が今回出張のために来ていること、そして足元に履いているのが歩き慣れたスニーカーではなく、細いヒールのパンプスであることを完全に忘れていたのだ。急いでついて行こうとしたため足元が疎かになり、ヒールがズルッと滑り、彼女の体はそのまま大きく後ろへ仰け反り、倒れそうになった。朔は慌てて手を伸ばし、紗月の腰を抱き寄せて自分の胸元へと引き戻した。だがその反動で二人とも後ろに倒れ込み、道端のベンチに一緒に倒れ込んでしまった。朔がベンチに座る形になり、紗月はそのまま彼の膝の上に落ちた。二人は至近距離で顔を見合わせた。紗月がまだ状況を飲み込めずに呆然としていると、朔が小さく「ふっ」と吹き出す音が聞こえ、彼女の顔は一瞬にして真っ赤に染まった。朔は手を伸ばし、紗月の足首にそっと触れて優しい声で尋ねた。「捻ってはいないかい?」「だ、大丈夫です……」彼の手のひらはとても温かかった。朔が紗月の足首を軽く揉みほぐすと、驚くほど華奢だった。先ほど抱き止めた時も腰に回した手がやけに細く感じられたが、彼女が昼寝から目覚めた際にうっかり目にしてしまった、あの見事なプロポーションとのギャップと言ったらなかった。朔の少し低くくぐもった声には、隠しきれない笑いが含まれていた。「どうやら、この坂を少し見くびっていたようだね」「スニーカーを履いてこなかったのを、すっかり忘れていて……」原因は自分にあると分かっているだけに、紗月の声はみるみるうちに小さくなっていった。「もう大丈夫ですから。ありがとうございます」彼女は恥ずかしくてすぐに立ち上がろうとしたが、朔は彼女の腰を押さえて離さなかった。彼の手の甲が紗月の頬をそっと撫でる。彼女は逃げようとはしなかった。この時間帯、公園にやって来る観光客は少なく、そのほとんどは照明の明るい屋内の植物園エリアで写真撮影に夢中になっている。二人が座っているベンチの周辺の灯りは、藤棚から垂れ下がる花が、眩いばかりに美しく咲き誇っていた。甘く爽やかな藤の香りが漂っていた。朔はわずかに顔を傾け、紗月の唇にそっとキスをした。ほんの一瞬の触れ合いだけで、すぐに唇を離した。「さあ、行こう」彼の声は少し掠れており、紗月を見つめ
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第912話

メディアの矢継ぎ早の質問に対しても、茜は遥に関わる質問にのみ反論し、他は意に介さなかった。彼女は淡々と言った。「私は芸能界に復帰するつもりはありません。あそこの世界は、私には合わないと分かったからです。今回のプロモーションを通じて、一人でも多くの方が動物保護の活動に関心を持ってくださることを願っています。この地球は、決して人類だけのものではありませんから」そう言い残すと、彼女はボディガードに守られながら、病院を後にした。九条家の本邸では、遥がルームランナーの上でゆっくりとしたウォーキングを続けていた。傍らにいる久美子が付き添いながら、テレビで流れている茜のインタビュー映像を見て、感心したように息をついた。「この子、すごくしっかりした良い顔つきになったわね。はやり、いい子だ」遥は腰に手を当てながら、クスッと笑った。「私の目に狂いはないわ」遥がどうしても茜をアンバサダーに起用したいと主張した際、社内では反対する声も少なくなかった。茜の過去の悪質なスキャンダルは、ブランドの長期的なイメージ戦略においてマイナスになると危惧する者もいたのだ。だが、今回のテーマに関して言えば、茜こそが一番の適任者だと遥は確信していた。彼女は今、自由な生命力が溢れている。テレビの中で人形のように笑っていた美しい女優時代に比べ、現在の茜は、自分の人生における本当の居場所と生きる意味をようやく見つけ出したように見えた。遥は、彼女の成長を心から喜んでいた。広告を見た敏は、何度も茜に連絡を取り、あの大きなスクリーンに映える美しい顔を無駄にせず、芸能界に戻るよう説得しようとした。だが、茜はそれをキッパリと断った。彼女は肺水腫の治療が終わり次第、再びサバンナへと戻り、自分が愛してやまない動物保護の活動に身を投じる決意を固めていたのだ。妊娠中の遥は、厳格な体重管理を行っていた。専属の栄養士が作成した彼女のメニューを初めて見た時、久美子は思わず眉をひそめたほどだ。まるで、ダイエット中の人が食べるご飯だ。遥はもともと細身なのに、まさか妊娠してまでダイエットまがいの食事を強いられるとは思っていなかった。久美子が栄養科に直接尋ねに行き、今の時代の妊娠指導はこうやって体重をコントロールするのが、母体にとっても赤ちゃんにと
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第913話

「もし他の家なら、この名前を見たら、きっと大喜びするわよ」久美子もつられて笑った。「そうね、私も嬉しいのよ。でもね、結衣の名前は湊さんも遥も変えるつもりはないみたいだし、二人目の子はせめて湊さんの姓を名乗らせた方がいいんじゃないかと思って」久美子は予想もしていなかったのだ。名前までは決まっていたのに、戸籍に登録するその名前が、九条の姓ではなく、立花の姓になるとは。もちろん、彼女自身は嬉しかった。だが同時に、九条家に対してひどく申し訳ないとも感じていた。九条家はこれまで、遥と結衣に対してこれ以上ないほどによくしてくれているのだから。真由美は声を上げた。「私が言いたかったのはね、将来結衣ちゃんが結婚して子供を産んだら、その時は絶対に九条の姓を名乗らせるわよ。だってあの子がようやく産んでくれた子なんだから。湊がどれほど素晴らしい夫であろうと、出産の苦痛だけは肩代わりできないわ。しかもあの時、遥さん一人で結衣ちゃんを産んでくれたのよ」真由美には、世間によくあるような姑のプライドなど微塵もなかった。彼女が心から願っているのは、遥と湊がいつまでも幸せに暮らしてくれることだけなのだ。真由美は微笑んだ。彼女の美貌は歳を重ねても衰えることなく、今なお気品を漂わせていた。「遥さんがわざわざ我が家に嫁いでくれて、命がけで新しい命を授けてくれた。もしあなたがどうしても気にするなら、いっそ湊にも立花の姓を名乗らせましょうか?」真由美は心が広く、言葉も極めてストレートだ。要するに、どうであれすべては子供たちの問題なのだ。実は真由美自身も最初は少し異議を唱えたかったり、釈然としないものを抱えていたりしたのだが、修の一言ですんなり考えを改めさせられたのだ。「もし孫が十八になった時、お前の旧姓である大久保を名乗りたいと言い出したら?」真由美はそれを聞いてハッとした。「そんな素晴らしいことがあり得るの?」そこで彼女は悟ったのだ。彼女が本当に気にしていたのは子供が何という姓を名乗るかではなく、どの姓を名乗れば自分との繋がりが深くなるかということだ。それが分かってしまえば、九条家が今後何人子供を増やそうと、真由美にとっては知ったことではなかった。どうせ結衣がいるのだから。将来、結衣の子供は絶対に
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第914話

蝉時雨が絶え間なく響いている。その音が、晴の苛立ちをさらに募らせていた。彼女は大きく膨らんできた自分のお腹を見つめ、そっと手を当てながら独り言を呟いた。「この子が生まれさえすれば、清春はもう私を見捨てられないはず……」彼女はまだ、子供を切り札にして清春を繋ぎ止められるという甘い夢を見ていた。この数ヶ月間、清春は彼女が子供を産むことに対して特に反対していなかった。それどころか、妊婦健診に行くためのお金まで渡してくれていたのだ。ただ一つ、晴を連れて役所へ行き、正式に婚姻届を提出することにだけは、決して触れようとしなかった。清春が帰宅したのを見て、晴は腰に手を当て、大きくなったお腹をことさらに強調しながら、出迎えるように歩み寄った。「清春、お帰りなさい……」清春は彼女をチラリと一瞥した。晴の顔立ちはもともと悪くない。妊娠してもやつれるどころか、むしろ肌は白く透き通り、ほんのりと赤みを帯びて血色が良くなっているように見えた。しかし、清春の胸には激しい苛立ちが渦巻くばかりだった。彼は冷ややかな視線を晴のお腹に向けた。自分の子供がそこに宿っている。清春にとって、晴がこの子供を産むかどうかなんて、実はどうでもよかった。だが、彼女がそうしてすり寄ってくるのを見るだけで、得体の知れない苛立ちがこみ上げてきた。清春は眉をひそめた。「本当に産むつもりなのか?」晴は彼の腕に抱きつき、甘えるように揺すった。「だって、私たちの子でしょ?堕ろすなんて可哀想だもの……それに、こっそり見てもらったら、男の子だって言われたのよ!」清春は内心の鬱屈を隠しきれず、晴の手を乱暴に振り払い、適当に相槌を打った。「お前と結婚するつもりはない。産みたいなら勝手に産めばいいさ。だが、自分の選択には自分で責任を持てよ」晴は悔しそうに下唇を噛んだ。責任?どうやって責任を持てと言うの?自分一人生きていくのすらやっとだというのに、こんな手のかかる赤ん坊をどうやって養っていけというのか?「清春……それってどういう意味?まさか、私たちのことを見捨てるつもりなの?」清春は氷のような冷たい眼差しで彼女を見つめた。「私が産めと言ったわけじゃない。お前が勝手に産むと言い張ったんだ。それが私と何の関係がある?」「で
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第915話

男のねっとりとした視線に、晴は背筋がゾワッとするのを感じた。彼女には、清春が連れてきたこの見知らぬ男が、どうしても気持ち悪くてならなかった。彼女の体を這い回るそのべたつくような眼差しに、全身に鳥肌が立つほどだった。清春は彼女の腕を引き寄せ、自分の隣に座らせた。そして男を紹介した。「こちらは私の友人である黒田さんだ」晴はおとなしく頭を下げて挨拶した。黒田はいやらしい笑い声を漏らすと、手を伸ばして晴の手の甲を撫で回した。晴が思わず手を引こうとすると、清春が彼女の背中を強く押し出し、黒田の方へ突き飛ばしたのだ。晴は目を見開き、信じられないように清春を見た。彼の目的を完全に察してしまったのだ。清春は極めて平然と言い放った。「いい子にしてろ。私の家でタダ飯食って暮らしてるんだから、少しは恩を返したらどうだ?」「でも、私……」「お前が身ごもっていなければ、黒田さんだってお前を相手になんてしないんだよ」晴は血の気が引き、全身の力が抜けていくのを感じた。手足の震えが止まらなかった。清春の氷のような視線に晒されて、晴は必死で恐怖を心の奥に押し込み、仕方なく黒田の隣に座った。清春はそれでようやく満足げな顔をした。食事が終わった後、黒田は晴を寝室へ連れ込もうとした。晴は黒田の腕を引っ張り、猫撫で声を出した。「少し、外で買い物がしたいの。すぐ下のお店だから」そして、黒田に小遣いをねだった。何を買いたいのかと聞かれ、晴は適当にいくつかの商品の名前をでっち上げた。そして黒田の腕に抱きつきながら、清春の方を見て言った。「代わりに買ってきてくれないか?」清春がそんな雑用を引き受けるわけがない。彼は晴の身分証明書を取り上げ、冷たく警告した。「変な真似はするなよ」「変な真似なんてしないわよ。どうせ誰も私を気にかけてくれないんだから」その点については、清春も十分承知していた。清春は彼女のスマホを返し、わずかばかりのお金を送金して、さっさと戻ってくるよう急かした。晴は素直に従い、名残惜しそうに黒田にすり寄り、全く抵抗する意志がないように見せかけた。清春もすっかり油断した。家を一歩出た瞬間、晴はすぐさまタクシーを拾い、車に飛び乗るなり震える声で叫んだ。「お……お願い……
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第916話

晴は泣きじゃくりながら、清春にいかにひどい目に遭わされたかを、必死に訴えた。凛はアシスタントに水を持ってこさせ、晴に飲ませた。床にへたり込んでいる彼女の姿を見て、輝が「追い出すに忍びない」と言った理由もようやく分かった。今の晴の姿は、あまりにも無惨だった。片足は裸足で、もう片方の足にはサイズの合わないスリッパを履いている。足首にはいくつも引っ掻き傷があり、胸元の服には料理中にこぼしたであろう汚れがベットリとこびりついていた。生地の薄いTシャツの下からは、ぽっこりと膨らんだお腹が異様なまでに目立っている。過去の因縁はともかく、目の前にいる晴は今、埃にまみれた、絶望の底に沈んだ一人の哀れな女性に過ぎなかった。凛は急かすことをしなかった。スマホでアシスタントに連絡し、自分の社用カードを使って、晴のために妊婦向けの食事を手配させた。「とりあえず立ちなさい。清春と喧嘩でもしたの?」晴は、ついに耐えきれずに泣き崩れた。「清春が……あの男が私にどれほどひどいことをしようとしているか、お姉ちゃん知らないからよ!なんであんなことを……」彼女は歯を食いしばり、今日自分の身に起きたことのすべてをぶちまけた。話を聞いている凛でさえ、そのあまりの常軌を逸した所業に絶句した。あの男は狂っているのか?朔は耳を疑った。自分の弟が、いくらなんでもそんな真似をするはずがない。彼の胸に、言いようのない怒りが込み上げてきた。「君、自分の言っている言葉の重みが分かっているのか? 弟がそんなことをできるはずがない!」晴は、目の前に立っている男が誰なのかなど気にも留めなかった。「私が嘘をついているとでも言いたいの!?妊娠もしてない、ほかの男のところに差し出されたわけでもないあんたに、私の何が分かるって言うのよ!ここでいい人ぶらないでよ!」朔は深く息を吸い込んだ。こめかみに手を当て、強く揉みほぐす。その時、紗月が契約書のコピーを終えてオフィスに戻ってきた。彼女の手には、凛のアシスタントが手配した食事が持たされている。凛は顎でしゃくり、紗月にそれを晴に渡すよう合図した。「まずは食べなさい。食べ終わったら、送り返すよ」「嫌よ、私は戻らない!お願いだから、あんなところに送り返さないで!」凛は紗月と
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第917話

朔にとって、弟がこれほどまでに冷酷で荒々しい声を出しているのを聞くのは、今日が初めてのことだった。晴は心臓が縮み上がるような恐怖を必死に抑え込み、震える声で言った。「清春、私怖いよ……だってお腹にはあなたの子がいるのに!黒田さんにそんなことされたら……この子に何かされちゃうんじゃないかって、心配にならないの……?」それを聞いて、凛は小さく口角を上げて笑った。晴は、救いようのない馬鹿というわけではないらしい。少なくともこういう時には、上手く清春の言葉を引き出そうと頭が働くのだから。清春は、晴のそばに兄の朔がいることなど知る由もない。「何度も言ったはずだ!その子供を産んでいいなんて一言も言ってない!お前が勝手に産むと決めたんだから、その代償もお前自身で払え!黒田さんに目をかけてもらえるだけ、お前にとってはありがたい話だろうが!黒田さんは最近、ツキがないらしいからな。お前のお腹の子供を使って『厄落とし』をするつもりなんだよ」晴は声を詰まらせた。「でも、この子もあなたの子どもなのに……」清春は氷のように冷たい声で、まるで他人事のように晴のお腹の命の行く末を告げた。「私にはこれから先、いくらでも子供ができる。お前みたいな女に、私の子供を産ませるわけがないだろう!」晴は声を上げて泣き崩れた。朔の手が伸び、そのまま通話終了のボタンを押した。彼は、これ以上先を聞く気にはなれなかった。清春のたった数言の言葉が、朔の全身の血液を凍りつかせ、全身を麻痺させていた。この瞬間になって初めて、これまでずっと共に支え合って生きてきたはずの弟の「真の姿」を目の当たりにしたのだ。妊婦を使った「厄落とし」、それは海外の裏社会では時折耳にするおぞましい噂だった。朔も聞いたことがあった。悪徳商人が自らの身に降りかかった悪運を、妊婦のお腹の赤ん坊に押し付けるという、おぞましい儀式のようなものだ。昔、その話を聞いた時、朔は心底軽蔑し、一生そんなおぞましい出来事に関わることなど絶対にないだろうと思っていた。だが、そんな他人の不幸として片付けていた悪夢が、皮肉にも他ならぬ実の弟によってまさに行われようとしていた。あまりのショックに、これ以上清春の言葉を聞く勇気すら失ってしまったのだ。清春はいったいどこで
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第918話

晴は哀しげな視線を凛に向けた。「お姉ちゃん、私の言うことなんて信じてくれないって分かってる。でも……」その後の言葉を、晴はどうしても口に出すことができなかった。子供の頃からずっと、彼女は表でも裏でも、凛からありとあらゆるものを奪ってきたのだ。そして、自分が酷いことをしているという自覚すら、一度も持ったことがなかった。だが今は違う。身近な人に見捨てられ、利用され、裏切られることの痛みと恐怖が、これほどまでに残酷なものだと、彼女にようやく思い知らせたのだ。自分が間違っていたことに気づいた時には、すでに手遅れだった。彼女は両手で顔を覆い隠した。凛に対して「ごめんなさい」と謝りたかった。だが同時に、自分はすでに十分すぎるほどの罰を受けたとも感じていた。凛は晴を一瞥したが、彼女の泣き言をまともに受け取るつもりはなかった。晴が本当に懺悔しているかどうかなど、凛には全く関係がない。過去に起きたことは消えないし、相沢家の連中を許すつもりも毛頭ない。凛はデスクのメモ帳を手に取り、冷淡な口調で言い放った。「お金は振り込むわ。その代わり、ちゃんと借用書を書いて」「うん。絶対に、絶対に返すから」中絶の手術にどれだけの費用がかかるのか、凛もはっきりとは分かっていなかった。金額に迷っていると、朔が歩み寄ってきた。「私が出そう」「藤堂さんには関係のないことですよ」朔は首を横に振り、絞り出すような声で言った。「清春がああなってしまったのは、私の教育が至らなかったせいだ。彼女の手術費用も、その後の栄養費も、すべて私が払う」朔は晴にスマホのQRコードを提示させ、すぐに数十万円を振り込んだ。「これで足りるか?」「足ります、十分です……あなたって一体……」朔の顔を見た瞬間、晴の瞳が恐怖に大きく見開かれた。この顔をよく見れば、清春とよく似ている。今の彼女は、清春に関わるすべてに対して、心の底から恐怖を抱いていたのだ。朔は落ち着いた声で言った。「清春は私の弟だ。私のせいだ。この数年間、あいつへの気遣いや教育を疎かにしてしまったのだ……」もし以前の晴なら、朔のようなエリートの男を前にすれば、間違いなく自分から色目を使ってすり寄っていただろう。だが今の彼女は、この世界のすべての男から遠ざ
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第919話

凛は今日、深いモスグリーンのワンピースに身を包んでいた。その装いが彼女の透き通るような肌を引き立て、首元のパールが一際眩しく輝いていた。圧倒的な魅力と成熟、そして頂点に立つ女だけが纏う覇気。そんな凛の姿に、晴は一瞬、目を奪われた。彼女の目頭がツンと熱くなり、得体の知れない涙が込み上げ、視界を歪ませた。耐えきれず、晴は逃げるようにして「àl'aube」を後にした。彼女が去った後、凛は手元の書類処理を終わらせ、ようやく顔を上げ、ソファで抜け殻のように座り込んでいる朔を見つめた。そして、穏やかな声で言った。「この前、藤堂清春が紗月のスマホにスパイウェアを仕掛けましたよ。藤堂さんもお時間があれば、一度ご自身のスマホを確認しておいた方がいいかもしれませんよ」朔がハッとして顔を上げた。ずっと彼を見つめていた紗月に視線を移した。紗月は唇を引き結び、瞳の奥に微かな動揺を滲ませていた。紗月も凛も、根拠のない憶測で他人を傷つけるような軽はずみな真似をする人間ではないと、朔にも分かっていた。朔は喉が干からびるのを感じた。「麟龍」の機密情報を自宅に持ち帰るような真似はしていないし、自分の個人用スマホに保存することもない。だが、ここ最近……清春は確かに、頻繁に自分を訪ねてきていた。何度か、家に泊めてやったことすらある。そしてその間、あいつは確かに書斎に何度も入っていた。それを思い出した瞬間、脳裏をかすめた無数の断片と疑念が、黒い津波のように彼の意識を飲み込んだ。あまりの衝撃に、彼はしばらく息をすることもできなかった。朔は立ち上がり、凛が用意していた契約書にサインした。「……忠告に感謝します。私はこれで失礼します」契約書を二部に分け、一部を凛に渡し、もう一部を自ら受け取った 。足元をふらつかせながら去っていく朔の背中を見て、紗月はたまらなく不安になった。凛が顎でしゃくった。「追いかけなさいよ。あんな状態で運転できると思う?彼を送ってあげて」紗月は急いでオフィスを飛び出し、廊下で朔に追いついた。そのまま彼の後ろに続き、エレベーターに乗り込んだ。朔は最初、隣に紗月がいることすら気づいていなかった。腕を引かれて振り返ると、心配で今にも泣き出しそうな紗月の瞳と目が合った。「紗月。
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第920話

道中。朔はずっと押し黙っていた。だた、助手席に深くもたれかかり、窓の外を流れる景色をただぼんやりと見つめていた。「àl’aube」の現在のオフィスは、東都の中心部に位置しており、周辺には幼稚園や学校が多い。この時間帯、子供をお迎えに来た保護者たちがごった返している。学校から飛び出してきた小さな子供たちが、それぞれ親の胸の中へと飛び込んでいく。その愛らしい光景に、朔の口元にも微かな笑みがこぼれた。ふと、結衣と悠斗の顔が思い浮かんだのだ。一人は静かで細身、一人は活発で丸っこい。それでも、二人の間には強い絆があることがはっきりと見て取れる。なんとも微笑ましい二人だ。紗月は前を向いたまま尋ねた。「会社に戻りますか?」「いや、家でいい。今の私じゃ、とても仕事なんて手につかないから」朔は身を乗り出し、紗月のスマホを手に取った。ナビアプリを開き、自宅の住所を入力した 。「ここからそれほど遠くないけど、構わないか?」「あなたの車を運転してるんですから。何も問題ありませんよ」会社から抜け出してきたのは、朔を送るためだ。目的地が彼の家だろうと会社だろうと、大した問題ではない。彼は湊に電話をかけ、数時間の有給休暇を申し出た。電話の向こうの湊は、明らかに不機嫌そうだった。「たかが数時間だろ。その程度なら自分で調整しろ、わざわざ俺を煩わせるな」「それに報告しておかなければならないことがございます」電話の向こうで少し間があり、衣擦れの音が聞こえた。湊が傍らにいる遥に低く囁きかける声が聞こえた。ひどく優しい声だ。「ちょっと仕事の話をしてくるよ。少し待っててくれ」「仕事に優先して、私のことなんて気にしないで」湊が遥にキスを落として、それからドアを開け、廊下に出た。再び聞こえた湊の声は、氷のように冷たかった。完全に部下に対する容赦のない『社長』の態度だった。部外者に妻との甘い時間を邪魔されたことへの不機嫌さがありありと滲んでいた。「さっさと言え」朔は道中、清春の変化に打ちのめされていたわけではない。この件をどうやって湊に報告するべきか、冷静に考えを巡らせていたのだ。全部報告し終えると、朔はようやく深く息を吐き出すことができた。湊は少し考え込んだ。「会社の
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