All Chapters of 再会した元カレ上司は、私の愛娘の父親でした: Chapter 931 - Chapter 940

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第931話

近いうちに時間をみつけて、シロを避妊手術に連れて行くよう、管理人のおじさんに話をつけておかないと。陽菜は小躍りしながら家へと向かい、道中ずっと、子犬に何を買ってあげようかと紗月に楽しげに相談していた。紗月は頭が痛くなった。だが、陽菜がここまで喜んでいるのを見ると、彼女自身もつられて笑顔になってしまった。田舎の山奥から出てきて以来、陽菜が心から楽しそうにするのは、遥のオフィスで猫を撫でている時くらいで、それ以外の時はいつも、どこか能天気で、ケロッとした顔をしていた。親友の美雪が転校した時も、陽菜はただ「あっそう」と呟いただけだった。紗月が尋ねても、「平気だよ。これで勉強する時間が増えるから」と答えた。美雪が経験したすべてのことについて、陽菜は一切聞こうとしなかった。それは他人のプライバシーだから、自分は興味がないのだと。紗月はいつも思っていた。陽菜はここで生活していて、心の底からは楽しんでいないのではないかと。もしかすると彼女も、かつての紗月と同じように、いつか自分たちの生活を豊かにしてやるんだと、ずっと意地を張って生きているのだろう。だが今、子犬を飼うと決まってからの陽菜の顔には、はっきりとした生気が溢れていた。紗月はたまらず釘を刺した。「もし部屋の中が臭くなったら、容赦しないからね」「分かってる!絶対にちゃんとお世話するから!」朔がスマホを取り出しながら言った。「じゃあ、子犬用のドッグフードと、シロの栄養をつけるための缶詰をいくつか注文しておこう」陽菜の目がキラキラと輝いた。 思わずテンションが上がり、「お義兄さん、ありがとう!」と叫んでしまった。朔は口元に笑みを浮かべ、隣で呆れ顔をしている紗月をちらりと見た。 彼女はため息まじりに言った。「あまり甘やかしてはダメですよ」「たかがドッグフードくらいで、甘やかすうちには入らないよ。それに……」朔は言葉を切り、陽菜に視線を向けた。「さっき陽菜ちゃん、英語のスピーキングを練習したいって言ってたね?今夜は少し時間があるから、私が付き合うよ」「やった!ありがとう、お義兄ちゃん!」この呼び方にも、すっかり慣れてきたようだ。紗月は諦めたように陽菜を一瞥した。三人が楽しげに部屋に入ると、陽菜と朔はすぐにリビングで
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第932話

最初こそ少し戸惑いもしたが、落ち着いて考え直してみれば、紗月には恐れる理由など一つもなかった。朔との付き合いも堂々としたものであり、誰かを脅かすような真似は一切していないのだから。嫌がらせのメッセージを受けた時、また過去の悪夢にとりつかれているのだと思った。だが冷静さを取り戻した今、自分位怯える必要なんかないと、紗月は分っていた。もう一度電話をかけてみたが、相手はすでに電源を切っていた。紗月はその番号を真理に転送し、名義人を調べてほしいと頼んだ。やがて真理から電話がかかってきた。「またメッセージが来たの?誠に見せたら、その番号はおそらくネットで適当に買った匿名の使い捨てSIMだろうって言ってたわ」「そうですね……調べられるなら調べてください。ダメならそれでいいですから」「で、どうするつもり?誠の言う通り、警察に通報しても意味はないかもしれないけど……」実質的な被害を受けていない以上、警察に通報しても記録に残されるだけで、「気をつけてください」と言われて終わりだろう。紗月は淡々と言った。「とりあえず、電話番号を変えようと思ってるんです」番号さえ変えてしまえば、相手もしばらく自分に連絡できないはずだ現在、個人情報の漏洩は日常茶飯事だ。相手が一体どこから自分の電話番号を手に入れたのかなど、深く追求する気も起きなかった。もし番号を変えてもなお接触してくるようなら、その時また別の手を考えればいい。真理は、紗月のこのあっさりとした合理的な対処法に呆れたように笑い声を漏らした。紗月は片手にカットフルーツの皿を持ち、もう片方の手でスマホを耳に当てたままキッチンから出た。朔は陽菜と、ヨーロッパのオペラについて英語で語り合っていた。真理が電話越しに「あれ?」と声を上げた。「家なの?どうして男の人の声がするの?その英語の発音、すっごく上手じゃない。なんかセクシーなんだけど」紗月は少しも動揺せずに嘘をついた。「陽菜のために雇った、英語の家庭教師よ」「あのレベルの発音なら、授業料も相当高いでしょうね?」真理もかつて、いくつかの海外案件のために、発音の癖まで現地のネイティブに合わせるよう、プロの講師をつけて猛特訓した時期があった。当然、その費用も目の玉が飛び出るほど高額だった。電話越しに聞こ
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第933話

朔はまだ陽菜とオペラの話を続けている。彼の発音は確かに耳に心地よかった。それが終わると、朔は陽菜のタブレットを手に取り、いくつかオンライン英会話の講座を検索してダウンロードを始めた。その最中に、QRコードで支払いをする画面が表示された。朔は何の迷いもなくスマホでコードをスキャンし、あっさりと決済を済ませてしまった。陽菜は瞬きをし、その画面に表示された金額に言葉を失った。さらに朔の決済スピードの速さにも度肝を抜かれ、彼を止める隙すら与えられなかった。朔は余裕のある顔で言った。「私も以前、この先生のレッスンを受けていたんだ。後で向こうから連絡が来ると思うよ。毎日三十分のレッスンだけど、ついていけそうかい?」「えっ……」と陽菜は声を漏らした。そこで彼女はようやく気づいた。朔が先ほどまでしていた一見無駄話のような会話が、実は彼女の知識量や会話力を測るための「テスト」だったのだと。彼女のレベルを見極め、どのコースを申し込むべきか判断するためにやったのだ。陽菜の目がまた瞬きをした。「できるけど……でも……」いくらなんでも高すぎる。朔はタブレットを彼女に返し、にっこりと笑って言った。「君のためになるならそれでいい。さあ、宿題をやりなさい」陽菜の宿題は塾の自習室ですでに終わらせており、家に帰ってからは自由に勉強できる時間だった。しかし、朔が唇に人差し指を当て、軽く笑いかけているのを見た。紗月に黙っているようにという合図だった。紗月はまだ真理と電話中で、二人のやり取りには気付いていなかった。陽菜は少し迷ったが、タブレットを抱きかかえて自分の部屋へと戻っていった。紗月が電話を切った。「あなたたち、さっき何を話してたの?」「『オペラ座の怪人』の話だよ。ちょうど陽菜ちゃんが、学校で見せられたって言うからね。もちろん、学校用に編集された版だけどね」ノーカット版は、この前、二人が佐山市の劇場で一緒に鑑賞したものだ。紗月はあの日のオペラを思い出した。内容自体は特別なものではなかったのに、後になって思い返すと、なぜかあの夜の雰囲気が無駄に艶かしく、色々な妄想をかき立てるものだったように思えてしまう。朔が立ち上がった。「君の部屋はどっち?」紗月が答えるより早く、朔は明か
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第934話

「家庭教師」というのは、紗月がとっさに口をついた嘘だった。何しろ、今はもう夜の十時だ。真理に朔がまだ自分の家にいると知られたら、あれこれと詮索されるに決まっている。説明できないわけではないが、本人の目の前で説明するのは気まずすぎる。だから、適当な嘘をでっち上げたのだ。しかし、今になって朔本人に突っ込まれ、紗月はどう説明すればいいか分からなくなってしまった。「陽菜の家庭教師をしてくれるって、そう言ったんじゃなかったですか?」「私は『彼氏っていう肩書き』も欲しいとも言ったけど。紗月さんは人の話を半分しか聞かないのかな?」紗月は目の前の朔を見つめ、言葉を濁した。朔は彼女のベッドに座り、長い脚を伸ばしている。その足先は壁に届きそうだった。紗月はこの時初めて、自分が買ったこの家が本当に狭いことを実感した。でなければ、彼がその長い脚を突っ張るだけで、自分の逃げ場が完全に塞がれてしまうはずがないのだから。紗月は彼の肩を押し返した。「もう帰った方がいいですよ」これ以上遅くなったら、終電に間に合わなくなってしまう。朔の手が、彼女の細い腰をきゅっと掴んだ。薄い夏服を越しに、彼の指先が熱い体温を伴って、彼女の腰を優しく撫でているのがはっきりと分かった。それが、かすかな震えを引き起こした。「家庭教師は、用が済んだらすぐに追い出されるのか?紗月は本当に薄情だな」彼は低い声で畿西府の方言を囁いた。紗月は大体の意味は分かるが、とても言えなかった。「めっちゃキスしたいよ、ハニー」と朔は方言でそう言ったのだ。彼は畿西府で数年仕事をしてきたため、現地の方言を流暢に話すことができる。低く掠れたその声には、ひどく特別な色気が帯びていた。紗月の耳の根元がカッと熱くなった。しかし朔は、そんな彼女を真っ直ぐに見つめていた。その視線に耐えかねて、紗月の胸の鼓動が高鳴った。出会ったばかりの頃、紗月は朔のことを底知れない男だと思っていた。普段は礼儀正しくも、どこか人を寄せ付けない雰囲気を纏っていたからだ。あの頃は、彼をしっかりと境界線を引く、冷酷な氷のような存在だと感じていた。だが今になってよく分かった。彼が氷なわけがない。間違いなく、燃え盛る烈火だ。こうして見つめられるだけで、彼女の全
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第935話

紗月の口角が上がった。すると、立て続けに朔からもう一通メッセージが届いた。彼の自撮り写真だった。シャワーを浴びた直後なのだろう。上半身は裸で、胸板や腹筋にはまだ水滴が光っている。喉仏から腹筋のあたりまでがあらわになっており、首元にあるネックレスもバッチリと写り込んでいた。ジュエリー業界の人間は、日頃からアクセサリーを身に着けていることが多い。そのネックレスは、「アンサンブル」と「麟龍」がコラボした新作のペンダントだった。朔にとてもよく似合っていた。しかし今、そのペンダントは、彼の引き締まった胸筋のちょうど間に挟まっていた。その光景は、息を呑むほどに色気が漂っている。紗月はそれを見つめ、再びカッと顔が熱くなるのを感じた。朔からさらにメッセージが届いた。【会いたいよ】帰ったばかりなのに、もう会いたいと言い、おまけにこんな写真まで送ってくる。紗月の頭の中はカッと熱くなった。彼女はスマホを手に取り、返信した。【じゃあ、シャワーでも浴びて頭を冷やしてきなさい】送信ボタンを押すなり、スマホを放り投げた。それ以上画面を見つめていたら、心臓が爆発しそうだった。メッセージを受け取った朔は、ちょうどバスルームにいた。返信を見て、眉を跳ね上げて低く笑い声を漏らした。彼の家にいた時は、あれほど私を焦らしておきながら、今になってシャワーを浴びて頭を冷やしろだと?「まったく、この小悪魔……」……紗月が仕事を終え、寝る準備をしようとした時のことだった。陽菜が寝室のドアをノックし、ドアの前でためらいながら立っていた。その顔には、隠しきれない困惑の色が浮かんでいる。「どうしたの?」陽菜は口をモゴモゴさせながら、手にしていたタブレットを紗月に差し出した。「朔さんが申し込んでくれたコースなんだけど、彼がもうお金を払っちゃったの」紗月はタブレットに表示されたカリキュラムに目を通しながら、スマホでその講座の詳細を調べてみた。非常にきちんとした講座で、講師陣も名だたるプロばかりだ。値段が高いこと以外、何の問題もない。大体のスケジュールを確認し、紗月は尋ねた。「どのコースを買ったの?」陽菜は小さな声で答えた。「……一番高いの」一番高いコースは、たった三十分のレッ
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第936話

紗月は少し考えた後、陽菜のレッスン代に相当する額を、そのまま彼に送金した。その金額は、紗月にとって決して安いものではなかった。彼女の二ヶ月分の給料が丸ごと吹き飛ぶ額だ。一方、朔にとっては大した額ではない。たとえ彼に貯金がなかったとしても、「麟龍」の責任者である彼の収入は、この程度の金額など痛くも痒くもないはずだ。しかし紗月は、もし自分がこれほどの大金を一度に使わせたままでいたら、これからずっと心に引っかかって悩むことになると思った。朔のように、何でもないことのように振る舞うことはできない。このお金は彼女にとってプレッシャーを生み出していたのだ。もし同等な価値の贈り物をお返しできなければ、それは「お返し」とはいえないと考えていた。彼女が送金すると、すぐに朔からビデオ通話がかかってきた。紗月は心臓が跳ね上がるのを感じながら、通話ボタンをタップした。朔はちょうどシャワーを浴び終えたところだった。バスルームからゆったりと歩き出し、スマホを手に持っている。紗月の目に、彼のシャープな顎のラインがはっきりと映し出された。彼は上着を着ていない。スマホのカメラレンズには薄く水蒸気が張っており、画面越しに見える光景もどこか霞んでいた。普段の朔は、実のところ少し威圧感がある。彼は長い間トップの地位にいて、西府にいた頃はジュエリー界のトップ資本家たちと渡り合い、財閥相手の駆け引きでも決して遅れをとらなかった。紗月は彼と一緒にいると、時折、上司と会議をしているような錯覚に陥ることがあった。彼が次の瞬間にでも、仕事に関する質問を投げかけてくるのではないか、と。それが紗月をいつも緊張させていた。しかし今、画面越しに見る朔は、あの近寄りがたいオーラがすっかり薄れ、端正な顔立ちがまるで彫刻のように美しい。彼の顔にはまだ水滴が残っており、歩くとその雫が首筋を伝って滑り落ちていく。紗月はその水滴を見ながら、妙なことを考えた。彼はキッチンへ行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して数口飲んだ。そして、口を開く。「私のこと、見くびってる?」その声は、あまり機嫌が良さそうではなかった。朔はからかうような冗談めかした態度を取っていたが、内心では微かに不満を抱いていた。彼は紗月の性格を知っている
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第937話

清春はドアの外に立ち、バスタオル一枚しか巻いていない朔を見て、思わず部屋の中を覗き込もうとした。もし今、紗月がまだここにいたら……朔は彼の姿を認めるなり、顔から笑みを消した。そして通話口の向こうにいる紗月に向かって言った。「一旦切る。金は受け取っておけ。じゃないと本当に怒るぞ」紗月には清春の姿は見えていない。彼女は小声で呟いた。「怒ったって怖くなんてないもん……」彼が直属の上司というわけでもない。怒られたからといって仕事の邪魔をされるわけでも、今の学業に影響するわけでもない。今の朔が怒ったふりを見せても、まるで威嚇になっていないのだ。清春がかすれた声で尋ねた。「兄さん……紗月さんとビデオ通話してたの?」「ああ」朔はそっけない声で通話を切り、「入れよ」と促した。「こんな時間にどうしたんだ?」朔は部屋に戻ると、スマホを操作し、紗月が送り返してきたその金をそのまま押し戻した。清春は彼の後ろについて入り、部屋のドアを閉めた。彼は気まずそうに苦笑いを浮かべた。「ゼミの課題がが今夜締切でさ、図書館に長居してたら寮の門限に間に合わなくなっちゃったんだ。だから兄さんのところに泊めてもらおうと思って」普段の朔なら、「水臭いこと言うな、ここは自分の家だと思って使えばいい」と言っていただろう。しかし今夜の彼の反応は、ひどく冷淡だった。「なぜ自分のマンションに帰らなかったんだい?」清春は、朔の顔に浮かんだ冷たい表情を察知し、胸が締め付けられた。最近自分が朔を不機嫌にさせるようなことをしただろうか、と思い巡らせる。もしかして、あの女のせいか?あの女が兄さん何か適当なことでも吹き込んだのか?そう考えた瞬間、清春の瞳の奥に、言い知れぬ深みが宿った。しかし表面上は笑って言った。「兄さんに会いたかったんだよ。最近、何か機嫌悪くない?」「少しな。会社でトラブルがあったんだ。一部の幹部の手から機密データが漏洩した。コア部門ではないが、私の管理不行き届きであることには変わりないからな」朔はテーブルの上に残っていた水を手に取り、一気に飲み干した。伏せた彼の目は、清春の顔に一瞬だけ走った動揺を見逃さなかった。「どうしてそんなことが?『麟龍』のセキュリティレベルはかなり
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第938話

翌朝。朔が起きた時、すでに清春の姿はなかった。ダイニングテーブルには朝食が置かれ、一枚のメモが残されていた。【学校に行くね。ちゃんと朝ごはん食べてから出社して】メモの最後には、笑顔のマークが添えられていた。子供の頃と同じだった。当時、両親が残してくれた遺族年金はあったものの、朔は少しでも生活の足しにするため、朝早くから夜遅くまで外でアルバイトを掛け持ちしていた。体の弱かった清春は、自然と家事の一部を担うようになった。毎朝、彼は朔が通勤の道すがら食べられるよう、朝食を用意してくれた。あの頃、わずかなお金を切り詰めて生活していても、決して苦しいとは思わなかった。現在、清春の体調はすっかり良くなり、朔も会社の泥沼から抜け出し、すべてが順調な方向へ進んでいるはずだった。朔はスマホに保存したあの動画を思い出した。目の前の朝食を見つめるうち、彼の顔が微かに引きつった。彼はその朝食を手に取り、ゴミ箱に捨てようとしたが、少し迷った末に結局は椅子に座り直した。包み紙を破り、肉まんを一口かじた。包み紙のロゴを見れば、彼が住むマンションのすぐ前にある店で買ったものだと一目で知れた。朔は食べ終えると、手についた油を拭き取った。そしてスマホを取り出し、湊に電話をかけた。湊の冷ややかな声が響いた。「こんな時間に掛けてきたからには、よっぽどな大事件なんだろうな?」朔はふっと笑った。「いくら奥さんの出産が近いからって、社長も少しピリピリしすぎじゃないか?」「お前には嫁がいないから分かんねえんだよ」湊は容赦なく皮肉を放った。朔は言葉に詰まった。「……」まったく、痛いところを突かれた。「グループ本社に報告すべきか迷っている件があってな。だから先に伝えておこうと思った。後でスマホに動画を送るから、確認してくれ」「ああ、切るぞ」それだけ言うと、電話の向こうから遥の優しい声が聞こえてきた。「誰からの電話?」湊は顔色一つ変えずに答えた。「お前の休息の邪魔をする電話は、全部迷惑電話だ」向こうはためらうことなく通話を切った。朔の耳には無機質なツーッツーッという切断音だけが残された。朔は手を伸ばし、こめかみを揉んだ。昨夜、清春が書斎でコソコソと漁っている姿を見た時よ
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第939話

湊は、一見すると血も涙もない男に見える。だが本当は、誰よりも情に厚い奴なのだ。だが、心のどこかでは、やはりあいつが実の弟なのだと思ってしまう。身内を内部告発して切り捨てるということは、口で言うほど簡単なことではない。朔自身も、どうすべきか答えを出せずにいた。湊は、そんな彼に代わって決断を下してくれたのだ。【お前が迷うのも無理はない。これによる実害が出ていない以上、この件はここで終わりだ。とっとと出社して仕事しろ】朔はスマホの画面を見つめた。しばらくして、分かったとだけ返信した。数年前、湊の噂を聞いた時のことを思い出した。彼は若くして九条家の後継者の座に就き、九条グループの規模を何百倍にも拡大した。その手腕と底知れなさは決して侮れない、と。西府でも、多くの者が彼のことを老成しており、前途は計り知れないが、人間味というものが全くないと評していた。処理すべき事態に対しては迅速で容赦なく、どんな結果にも躊躇しないと。当時の朔が抱いていた湊の印象も、学生時代に偶然顔を合わせた程度でしかなかったが、西府での評価と一致していた。だが、こっちへ戻ってきてから朔は感じていたのだ。おそらく湊のそばに遥がいるからだろう。今の彼は、トゲがすっかり抜け落ちたかのように、穏やかで優しくなっていた。朔はタバコに火をつけ、目を細めた。スマホに保存してある、清春との唯一のツーショット写真を見つめた。じっくりと眺めた後、朔はその写真を、連絡先に入っている探偵に送信した。清春が裏で一体何をしてきたのか、すべて調査してほしいと依頼した。たとえこの一件を不問に付すとしても、自分が手塩にかけて育てた弟が、今、一体どんなバケモノになってしまったのかを、自分の目で確かめておかなければ気が済まなかったのだ。……病院の廊下で、遥は湊の腕に掴まりながらゆっくりと歩いていた。彼女の出産予定日はまさにこの数日の間だった。しかし、お腹の子は一向に動く気配がなく、少しでも早くこの世界に出てきたいという気配が全くなかった。湊は彼女の大きなお腹を見つめ、焦りを隠せなかった。「苦しいか?医者に頼んで、近いうちに手術の予定を入れようか?」遥は首を振った。「結衣は早産だったから、今回はできるだけ正産期まで待って
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第940話

真由美が後でどう思うかなんて、どうでもいい。一番重要なのは、遥が機嫌良く過ごせるかどうかだ。湊は手元の仕事の多くをストップさせ、遥に付き添うことだけに専念していた。母親が妊娠から出産に至るまでの長い道のりで、どれほど辛い思いをするかを、彼はこの目でしっかりと見てきたのだ。遥は手を伸ばし、湊の柔らかい髪を撫でた。「産後ケアセンターより、やっぱり自分の家の方が落ち着くかもしれないわ」確かにそうだ。以前流産した時、遥は無理やり家で休養させられたが、その時のケアは完璧だった。しかし今回は少し状況が違う。湊は、これからひっきりなしにお見舞いにやって来る人たちが、彼女の休息の邪魔になるのを避けたかったのだ。「じゃあ、とりあえず数日泊まってみて、気に入らなかったら家に帰ろう」遥は少しためらった。「数日泊まってすぐ帰るなんてことになったら、キャンセル料がたくさん取られるんじゃない?」以前、楓からいくつか産後ケアセンターを勧められたことがあったが、その多くが一ヶ月満了せずにキャンセルする場合、サービス料の一部が返金されないと言われていたからだ。湊はあっさりと答えた。「そんなの、気にするな」数百万円の産後ケア費用など、湊にとっては痛くも痒くもない。その時、スマホが震え、ブーっという着信音と共にテーブルの上を滑るように動いた。湊は立ち上がり、スマホを手に取った。画面の着信表示をひと目見て、彼の顔色があからさまに険しくなった。それでも、彼はスマホを遥に手渡した。潤からの電話だった。遥も着信表示を見て、少し戸惑った。彼が海外へ行ってから今まで、国内とは一切連絡を絶っていたはずだ。それが今、突然電話をかけてきた。しかも湊を飛び越えて直接遥に連絡してくるとは。湊は不機嫌を隠そうともせず、眉をひそめていた。「あいつ、一体何をするつもりだ」「気に入らないなら、無視すればいいじゃない?」湊は鼻を鳴らした。彼がスマホを奪い返し、応答ボタンを押してスピーカー通話に切り替えた。スピーカー越しに潤の声が響いてきた。どこか海辺にいるのか、背後でヒューヒューと吹き荒れる潮風の音が聞こえた。「義姉さん、そろそろ出産ですよね?おめでとうございます。今回電話したのは、茜が病気になってし
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