All Chapters of 月給80万円の偽装花嫁: Chapter 111 - Chapter 120

137 Chapters

第110話

【蓮side】2月17日、深夜11時。俺は、柊吾と会社に残っていた。誰もいないオフィス。非常灯の微かな光が、俺たちの影を長く引き延ばしている。「蓮、ここだ」柊吾が社長室の壁に掲げられた絵画を外すと、重厚な金庫が姿を現した。ダイヤルを回す音が、静寂を切り裂くように響く。カチリ──。金庫が開いた。俺は、17年間の執念が詰まった封筒をその奥へ置いた。立花誠の日記、謝罪の手紙、契約書、録音データ。父の無実を証明する、すべての証拠を。「これで、橋本も手出しはできない」柊吾が金庫を閉じ、絵画を元に戻した。窓の外には、東京の夜景が星屑のように瞬いている。「決戦は、明後日だ……」「ああ。蓮、今夜は少しでも休め。明日は、最後の詰めだ」親友の言葉に頷き、俺たちは静まり返ったビルを後にした。◇【咲希side】2月18日、午後7時。ペントハウスのキッチンに、出汁の香りがふわりと漂う。今夜は、緊張で食欲が落ちているであろう蓮さんのために、胃に優しい湯豆腐と、蓮さんが好きな具沢山の豚汁を用意した。昨夜は、深夜まで会社にいた蓮さん。今日も朝早くから出かけて、ずっと準備をしているはずだ。玄関のドアが開く音がした。振り向くと、蓮さんが立っていた。「おかえりなさい、蓮さん」「……ただいま」スーツ姿の蓮さんは、いつになく疲弊しているように見えた。「お疲れさまです。温かい飲み物を淹れますね」ソファに身を沈めた蓮さんの隣に座り、私はハーブティーを差し出した。蓮さんは一口飲み、小さく息を吐く。「明日の準備は、すべて終わらせたよ」カップを持つ蓮さんの指先が、かすかに震えている。私はその手を、自分の両手でそっと包み込む。
Read more

第111話

2月19日、午前6時。私は早起きして、朝食の準備を整えた。今朝はエネルギーを補給できるよう、ふっくらと炊き上げた白米と、だし巻き卵、それに消化の良い白身魚の蒸し物を用意した。リビングに行くと、蓮さんが既にスーツに身を包んでいた。けれど、ネクタイはまだ締めておらず、ソファに座ってスマホの画面を見つめていた。「蓮さん、おはようございます」私が声をかけると、蓮さんは顔を上げた。「おはよう、咲希」「まだ、あのメッセージのことを?」私が尋ねると、蓮さんは頷いた。3日前に届いた、あの謎のメッセージ。『証拠の公開は、氷室グループの敵を目覚めさせる。覚悟はできているか?氷室蓮』送信元は、不明。「誰が送ってきたのか、結局分からないままだ」蓮さんの声が、低く響いた。「橋本常務か、それとも別の誰かか……」私は蓮さんの隣に座った。「蓮さん」蓮さんが私を見る。「どんな敵が待っていても、私は蓮さんのそばにいます」その言葉に、蓮さんの表情が少し和らいだ。「ありがとう、咲希」蓮さんはスマホをポケットにしまった。「もう、怯むつもりはない。今日、すべてに決着をつける」その目には、揺るぎない決意が宿っていた。◇午前7時。朝食の時間。二人で向かい合う食卓で、蓮さんは一口ずつ、噛み締めるように食べていた。昨夜よりも、その瞳には鋭い光が戻っている。ゆっくりだけど全て平らげてくれた彼に、安堵した。◇午前9時。玄関に立った彼のネクタイが、少し曲がっていることに気づいた。「蓮さん、待ってください」私は蓮さんの前に立ち、そっとネクタイに手を伸ばした。「ネクタイ、少し歪んでいますよ。じっとしててくださいね」蓮さんは驚いた顔をして、動きを
Read more

第112話

【蓮side】重役会議室の扉を開けた瞬間、重苦しい空気が流れ込んできた。長方形のテーブルを囲み、氷室グループの幹部たちが既に着席していた。橋本常務──灰色のスーツを着た60代の男が、険しい顔でこちらを睨んでいる。隣の田村専務は丸い体格で、不安そうに資料を握りしめていた。そして、最奥の席。氷室グループ会長である、祖父・氷室厳造が、背筋を伸ばして座っていた。その鋭い眼光が、静かに俺を捉える。全員の視線が、俺に集まった。咲希は会議室の隅、壁際の椅子に腰を下ろした。その存在だけで、心強かった。俺はプロジェクターの前に立った。「本日は、お集まりいただきありがとうございます」自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。「17年前の不正取引事件について、新たな証拠が見つかりました」単刀直入に告げると、橋本常務の顔がわずかに強張った。田村専務は、目を逸らす。俺は資料の束を手に取り、一人一人に配り始めた。橋本常務の前に来た時、彼の手が波打つように震えていた。資料を受け取る指先から、汗が滲んでいる。全員に行き渡ったところで、俺はプロジェクターを操作した。スクリーンに、契約書の画像が映し出される。古びた紙に、細かい文字がびっしりと書かれている。橋本常務が、その画像を見た瞬間、顔が蒼白になった。田村専務も、資料を握る手に力が入らない様子だ。「これが、当時の経営陣が海外企業と交わした、秘密契約書です」俺の言葉に、会議室が水を打ったように静まり返った。「架空取引による粉飾決算、裏金の受け渡し──すべて、ここに記されています」祖父は動じることなく、冷静に資料を眺めている。既に内容を知っているからだ。すると、他の重役たちが騒然となった。「バカな……そんな証拠が、どこに……」橋本常務の声がかすれた。
Read more

第113話

祖父の激しい怒りに、会議室の空気が凍りつく。祖父は──椅子からゆっくりと立ち上がると、崩れ落ちそうな橋本常務を、冷徹な目で見据えた。「橋本」これまでの人生で聞いたことがないほど、氷のように冷たい声だった。「17年前、お前は私の息子を脅迫した」橋本常務が、蒼白になった。「違うんです、私は……」「会社を守るため、とでも言うつもりか?」祖父の言葉が、空気を震わせた。「違うな。貴様は、自分の保身のために息子を犠牲にしたんだ」橋本常務は何も言えず、ただ俯いた。その肩は小さく震え、かつての傲慢な影はどこにもなかった。祖父の厳しい言葉の横で、咲希が祈るように胸元で手を握り合わせているのが見えた。その瞳には、勝利への確信と、俺への深い慈愛が宿っている。それだけで、俺の背筋はさらに伸びた。祖父は、田村専務にも視線を向ける。「田村、お前もだ」田村専務が、身を強張らせた。「私は……っ」祖父が手を上げ、遮った。「言い訳は聞かない」祖父の声が静かに、居並ぶ重役を圧倒した。「二人とも、即刻辞任しろ!」会議室が、静まり返った。「いや……辞任だけでは済まない」祖父の目が、さらに鋭くなる。「警察に突き出す。覚悟しておけ」「会長……」橋本常務が、か細い声で呼びかけた。「もう、何も言うな」祖父の言葉が、遮る。田村専務が、突然立ち上がった。そして──深々と頭を下げた。「申し訳、ございませんでした……!」掠れた声が響く。「私たちは……隆一郎氏を、追い詰めました。すべて……すべて、私たちの罪です&hellip
Read more

第114話

【蓮side】2月20日、午前8時。ペントハウスのリビングは、戦場に向かう直前の静寂に包まれていた。今日、午後2時の記者会見に向け、俺は最終確認をしていた。テーブルには、17年間の執念を凝縮した資料が山をなしている。契約書のコピー、立花誠の日記の抜粋、録音データの文字起こし。すべて、記者たちに配布する予定だ。「蓮さん、朝ごはんできましたよ」咲希の声に顔を上げると、キッチンから立ち上る味噌汁の香りが鼻をくすぐった。「ああ……」返事をしてテーブルに向かうものの、極限の緊張状態にある俺の胃は、食べ物を受け付けることを拒んでいた。「さあ、蓮さん。食べてください」差し出されたのは、ご飯、焼き魚、卵焼き。いつものシンプルな朝食。「今日は、長い一日になります。一口でもいいですから」俺は彼女の気遣いを無駄にしないよう、無理やり胃に流し込んだ。最初は砂を噛むようだったが、温かい出汁が喉を通るたび、強張っていた腹の底がゆっくりと解けていく。「……美味いな」「良かったです」咲希の微笑みが、どんな特効薬よりも俺に力を与えてくれた。朝食を終えた後、俺は黒のスーツに袖を通し、身支度を整えた。鏡の中の自分を見つめる。今日、すべてが決まる。◇午後2時。氷室グループ本社の大会議室は、沢山の記者たちでひしめき合っていた。軽く100人以上。後方には、テレビカメラが何台も待機している。俺が会議室の扉を開けた瞬間、無数のフラッシュが炸裂した。「氷室社長、一言!」「17年前の隠蔽は、事実ですか!?」投げかけられる言葉は、刃のように鋭い。俺は隣に立つ咲希のジャケットの裾が、一瞬だけ俺の袖に触れたのを感じた。その微かな体温が、俺をこの場に繋ぎ止める。俺は壇上に立ち、
Read more

第115話

控室に戻ると、俺はソファに深く座り込んだ。膝に置いた自分の手を見ると、指先に力が入らない。武者震いか、それとも17年分の緊張が解けた反動か。喉はからからに乾き、心臓の音だけが耳の奥でうるさく鳴り響いていた。「お疲れ様でした。お水、飲みますか?」咲希が静かに歩み寄り、冷えたミネラルウォーターを差し出してくれる。「ああ……悪いな」結露したペットボトルの冷たさが、熱を持った俺の掌に心地よかった。一口飲むと、ようやく現実に戻ってこられた気がした。「本当にお疲れ様でした、蓮さん」「……やっと、終わった」俺は隣に座った咲希の手を取り、自分の額をその手の甲に預けた。「父の声を、あんな公衆の面前で流すのは……本当は怖かった。死者に鞭打つような真似をしていないか。父は本当にこれを望んでいたのかと」咲希の指が、俺の髪を優しく撫でた。「隆一郎様は、きっと喜んでいらっしゃいます。蓮さんが、誰よりもお父様の尊厳を守ろうとしたことを、一番近くで見ていたはずですから」彼女の言葉は、どんな論理的な説明よりも深く、俺の心に沁み渡った。「君がいてくれて、本当に良かった」そう言うと、咲希は柔らかく微笑んだ。その時、扉がノックされた。「氷室様、テレビをつけてもよろしいでしょうか」柊吾の声だった。「ああ」テレビがつけられた。画面には、ニュース速報が流れている。『速報:氷室隆一郎氏、無実だった!息子・蓮氏が17年越しに真相を解明』アナウンサーが、興奮した声で語る。画面には、さっきの記者会見の映像。ネットでも、大きな話題になっているらしい。SNSのコメントが、画面に映し出される。『感動した。息子の愛が父を救った』『氷室蓮、見直した』『でも、会社としては
Read more

第116話

【蓮side】翌朝、2月21日。俺は早くに目覚めた。外はまだ薄暗い。スマホを見ると、メールが大量に届いている。投資家からの問い合わせ、取引先からの連絡、メディアからの取材依頼。そして、株価速報のアラート。氷室グループの株価、前日終値から更に下落。累計で15%のマイナス。やはり……。現実は、甘くはなかった。予想していたことだ。それでも、実際に数字を目にすると、胸の奥に重い石が落ちたような感覚がした。社員たちの間には、得体の知れない不安が蔓延しているに違いない。俺は、ベッドから起き上がった。氷室グループの社長として、まだやらなければいけないことがある。◇午前7時。リビングに行くと、咲希が既に朝食の準備をしていた。「おはようございます、蓮さん」「おはよう」俺はテーブルに座り、咲希が淹れてくれたコーヒーを一口飲んだ。苦みが、眠りかけていた思考を呼び覚ます。「今日は、社員集会があるんだ」「はい」咲希が頷く。「全社員に、今後の方針を伝える」俺は窓の外を見た。朝日が、東京の街を照らし始めている。「株価は下がった。けれど、俺は諦めない」咲希は、静かに俺の手を取った。「蓮さんなら、できます」その言葉の重さに、喉の奥が熱くなった。「……ありがとう」◇午前10時。氷室グループ本社、大ホール。全社員を集めた、緊急集会。500人以上の社員が、ホールに集まっていた。「株価、15%も下がったって」「橋本常務、本当に逮捕されるらしいよ」「会社、大丈夫なのかな」ざわざわとした空気が、会場に漂う。最前列には若手社員、中列には中堅、後方にはベテラン社員。皆、一様に不安の色を顔に
Read more

第117話

【咲希side】2月21日、夜。ペントハウスのリビングで、私はソファに座っていた。テレビの画面には、さっきまで元同僚の顔が映っていた。『森川さんは、本当に優秀な方でした』その言葉が、まだ耳の奥に残っている。蓮さんがテレビを消し、静寂がリビングを満たした。窓の外には、東京の夜景が広がっている。無数の光が、星のようにきらめいていた。蓮さんの視線を感じて、顔を上げた。「咲希」蓮さんが静かに問いかける。「あの失態……本当に、君のミスだったのか?」その質問に、胸の奥が軋んだ。ずっと、隠してきたこと。誰にも言えなかったこと。だけど、蓮さんには嘘をつきたくない。しばらく黙り込んだが、喉の奥が締め付けられるように苦しくて、私は小さく首を横に振った。「……いいえ」震える声。「あれは……本当は私のミスじゃ、ありません」その瞬間、涙がぶわっと溢れた。止めようとしても、止まらない。蓮さんは何も言わず、私を抱きしめてくれた。その腕の中で、私はようやく泣くことができた。ずっと、我慢していた涙。ずっと、飲み込んでいた悔しさ。すべてが、ダムのように溢れ出した。「話してくれ。全部」蓮さんの声が、優しく耳元で響く。私は頷いた。蓮さんから離れて涙を拭うと、意を決して話し始めた。◇「あれは……昨年11月のことでした」蓮さんは黙って、私の話を聞いてくれている。「VIPのお客様が、8歳のお嬢様を連れていらっしゃいました。某国の財務大臣のご家族で……レイラちゃんという、利発で可愛らしい女の子でした」あの日のことが、静かに蘇ってくる。豪華なロビー。緊張した空気。そして──レイラちゃんの笑顔。「チェックインの際、お母様から重要な情報をいただきました。レイラちゃんには、命に関わるほどの重度のナ
Read more

第118話

「咲希……」蓮さんが、私をぎゅっと抱きしめた。「翌日、ロッカーの荷物を片付けている時……母から電話がかかってきました。実家の旅館の屋根が、修繕が必要だと。200万円近くかかると」私を抱きしめる蓮さんの腕に、力がこもる。「私の通帳には、32万円しかありませんでした。どう計算しても、2ヶ月が限界だった」涙が、止まらない。「転職活動をしましたが……ホテル業界内に、もう噂が広まっていました。『グランシエル東京で起きたVIP事故。国際問題になりかけた失態。責任を取って退職した森川咲希』と」声が揺れる。「面接に行っても、私の名前を告げた瞬間に相手の顔色が変わるのが分かりました。信頼していた業界の知り合いたちも、次々と連絡が途絶えていった」あの日々を思い出すだけで、胸が鈍く痛む。「どこの会社からも、返事は来ませんでした。そんな時……あの広告を見つけたんです」私は蓮さんを見上げた。「『住み込み家政婦急募、月給80万円』……蓮さんの、求人広告」蓮さんが、静かに微笑んだ。「溺れる者が掴む藁だと思いました。でも……掴まずにはいられなかった」私は蓮さんの頬に手を添えた。「そして……蓮さんに出会いました」蓮さんは、私の頬にそっとキスをした。「ありがとう。話してくれて」目の奥が、じんと熱くなった。「今まで、ずっと一人で抱えてきたんだな。でも、もう大丈夫だ」泣きながら語る私の言葉を、蓮さんは一つも漏らさず、深い慈しみとともに受け止めてくれた。あの日、冷たい会議室で退職届にサインした時から、私の時計は止まったままだった。誰にも言えず、たった一人で背負い続けてきた記憶。けれど、蓮さんのそばにいると、その記憶が少しずつ、静かに
Read more

第119話

翌日、2月22日。蓮さんは、朝から書斎に籠もっていた。ホテル・グランシエル東京に連絡を入れているようだ。低く、落ち着いた声が、リビングまで聞こえてくる。「総支配人とお話したい。森川咲希の件について」しばらくして、蓮さんが書斎から出てきた。「24日、午後2時。ホテルで会うことになった」私の胸が、ぎゅっと縮んだ。「私も……行くんですよね?」「ああ。君がいないと、意味がない」蓮さんが私を真っ直ぐ見る。「俺が必ず守る」その言葉に、少し勇気が湧いた。けれど、不安もある。5年間働いた場所。そして、すべてを失った場所。もう一度、あそこに行くのかと思うと、足の裏が地面に張り付くような感覚がした。蓮さんは、私の様子を見て静かに言った。「咲希、君は何も悪くない。堂々としていればいい」「……はい」私はこくりと頷いた。◇2月24日、午後1時30分。私は鏡の前に立っていた。ネイビーのワンピースに、首元には蓮さんがクリスマスにくれた、雪の結晶のネックレス。きちんとした格好をしたつもりだけれど、髪を整える手が小刻みに動いている。「咲希、準備はいいか?」蓮さんの呼びかけに、私は振り返った。黒のスーツを着た蓮さんが、扉のそばに立っている。「はい……」蓮さんは私のそばに来て、肩に手を置いた。「深呼吸。俺がそばにいる」私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。「行こう」「はい」私たちは、ペントハウスを出た。◇車が、ホテル・グランシエル東京の前に停まった。エントランスから見える豪華なロビーには、シャンデリアがきらめいている。私が5年間、心を込めて
Read more
PREV
1
...
91011121314
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status