All Chapters of 月給80万円の偽装花嫁: Chapter 121 - Chapter 130

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第120話

「本当に……本当に、ごめんなさい!」田中くんの声が、会議室に響いた。床に額がつくほど、深く頭を下げている。その肩が、激しく上下していた。私は、何も言えなかった。3ヶ月ぶりに見る田中くんは、あの日よりも少しだけ大人びて見えた。でも、今は子供のように泣いている。「田中くん……」私が声をかけると、田中くんは顔を上げた。目が、涙で真っ赤に腫れていた。「あの事故……僕のミスでした」田中くんが、かすれた声で続ける。「咲希さんが、伝達メモを何部も作ってくれて、口頭でも確認してくれていたのに……」田中くんは、自分の顔を両手で覆った。「僕が……僕が甘く考えていたんです」総支配人が、静かに促した。「田中シェフ、続けなさい」「はい……」田中くんは涙を拭い、もう一度私の方を向いた。「あの日、僕は特製ソースにヘーゼルナッツペーストを加えました。アレンジのつもりで」震える声。「伝達メモは……見ていました。『ナッツ類厳禁』と書いてあったのに……」田中くんの拳が、きつく握られた。「『少しなら大丈夫だろう』『ソースに混ぜれば分からないだろう』と……そう思ってしまったんです」会議室が、しんと静まり返った。「レイラちゃんが倒れた時、目の前が真っ白になって。怖くなって……言えませんでした」田中くんは、再び床に手をついた。「咲希さんが、全部かぶってくれて……」肩が、小刻みに揺れている。「僕、ずっと苦しかったんです。咲希さんが犠牲になって、自分だけ料理人を続けていることが」
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第121話

「お気持ちは嬉しいですが……お断りします」私の言葉に、総支配人と人事部長が息を呑んだ。人事部長が思わず身を乗り出す。「森川さん、本当によろしいんですか?」かつての私なら、泣いて喜んでこの手を取っていただろう。でも今は、蓮さんと歩む新しい未来がある。その決意は、揺るぎないものだった。「私には今、守りたい未来があります」私は、蓮さんを真っ直ぐ見つめた。彼が静かに頷いてくれる。「その未来のために、私にできることをしたいんです」私は、総支配人に向き直った。「ここで学んだおもてなしの心は、これからも大切にします」私は微笑んだ。「いつか……実家の旅館を立て直すのが、夢なんです。両親が心を込めて守ってきた場所を、私も支えたい」言葉に力がこもる。「父が体調を崩してから、母が一人で旅館を切り盛りしています。私にも、できることがあるはずなんです」総支配人の表情が、柔らかくなった。「だから……今の私の居場所は、もうここではありません」しばらく、静寂が流れた。やがて──総支配人が、穏やかに微笑んだ。「……そうですか」総支配人が私に手を差し出した。「お幸せに、森川さん。いえ……」総支配人の視線が、蓮さんへと向く。「氷室社長の婚約者会見、拝見しました。お二人の幸せを、心からお祈りしています」私は総支配人の手を、しっかりと取った。「ありがとうございます」人事部長も、目を細めた。「あなたのご実家の旅館、いつか必ず伺います」「ぜひ。お待ちしています」田中くんが、私のそばにやって来た。「咲希さん、本当に……本当にありがとうございました」真剣な眼
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第122話

『結婚式の日取りを決めよう』その言葉が、夕暮れの空気の中に落ちた。『咲希さんと、早く家族になってほしい』厳造様の声は、電話越しでも温かかった。蓮さんが、私の方を向く。その瞳に、柔らかな光が宿っていた。「分かりました。咲希と相談して、決めます」『うむ。楽しみにしているぞ』電話が切れた。春の夕風が、二人の間を静かに吹き抜けた。「咲希」「はい」「結婚式の前に……君のご両親に、ちゃんと挨拶に行きたい」真剣な眼差しだった。迷いが、欠片もない。「正式に、結婚の承諾をいただきたいんだ。来週末、山梨に行こう」私は頷いた。「はい……」お父さん、お母さん──蓮さんが、挨拶に来てくれるよ。嬉しさと、じわりとした不安が、胸の中で混ざり合う。お父さんは、蓮さんを認めてくれるだろうか。そして、お父さんの体調は……。「心配するな」私の表情を読んだのか、蓮さんが静かに言った。「誠心誠意、伝えるから」その声の確かさに、ほっと息が抜けた。「はい……!」◇その夜、私はペントハウスのソファに座り、スマホを握りしめた。母への電話。手に、じんわりと汗が滲む。コール音が鳴る。一度、二度──。『もしもし、咲希?』母の声が聞こえた瞬間、肩の力が少し抜けた。「もしもし、お母さん。あのね……来週の土曜日、蓮さんと一緒に帰るね」『え?本当に?』母の声が、はずんだ。「うん。蓮さんが、お父さんとお母さんに挨拶したいって」電話の向こうで、母が静かに息を呑んだ。『そう……分かったわ。お父さんにも伝えておくね』「お願い。あの……お父さんの体調は、どう?」私が尋ねると、母は少し間を置いた。『最近は、落ち着いてるわ。薬もちゃんと飲ん
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第123話

3月7日、土曜日の朝。助手席で、私は膝の上でそっと手を握りしめていた。車窓の向こうには、東京の高層ビル群が次第に遠ざかり、やがて緑豊かな山々の風景へと変わっていく。懐かしい景色。そして今日は、蓮さんが私の両親に挨拶をする日。助手席の窓を少し開けると、土と草の匂いが混じった冷たい空気が流れ込んできた。「……良い匂いだな。空気が澄んでいる」蓮さんがそう言って表情をわずかに緩めたけれど、ハンドルを握る指先が白くなっているのを、私は見逃さなかった。「咲希、緊張しているか?」信号待ちの間、蓮さんが私の方を向いた。「はい……すごく」正直に答えると、蓮さんは優しく微笑んだ。「俺もだ」その言葉に、肩の力が少し抜けた。完璧に見える蓮さんでも、緊張することがある。「でも、ちゃんと伝えたい。君のご両親に、結婚を認めてもらいたい」蓮さんの手が、私の手の甲にそっと重なった。「心配しないで。きっと、父も母も喜んでくれます」そう言いながらも、心の中では不安が渦巻いていた。父は厳格な人だ。娘を任せる相手として、蓮さんをどう見るだろうか。車は高速道路を降り、見慣れた田舎道へと入っていく。道の両脇には、春の訪れを告げる梅の花が咲き始めていた。「もうすぐです」私が言うと、蓮さんは頷いた。その横顔が、かすかに引き締まっていた。◇午前11時。車が「森川荘」の古い門をくぐった。高級外車が、年季の入った木造旅館の前に停まる。そのあまりのミスマッチさに、私は今さらながら、蓮さんが本当に「私の日常」に入ってこようとしている現実を突きつけられた。玄関の扉が開き、両親が出てきた。母は割烹着姿で、父はいつもの作務衣を着ていた。体調が優れない日が続いているはずなのに、今日は背筋をまっすぐ伸ばして立っている。きっとこの日のために、気力を振り
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第124話

【蓮side】庭に出ると、冷たい風が頬を撫でた。白梅の香りが、ふわりと漂っている。鳥のさえずりが、静かな空気の中に溶けていた。俺は、森川さんの後ろを歩いた。背筋を伸ばし、一歩一歩、慎重に。ここで失敗したら、咲希との未来はない。喉が、じわりと渇いた。森川さんが立ち止まり、俺の方を向いた。娘を嫁に出す父親の目だ。穏やかだが、どこか厳しい。「蓮さん」「はい」「君は……咲希のことを、本当に愛しているのか?」「はい。咲希さんは、僕の人生を変えてくれました」俺は、視線を逸らさなかった。「彼女と出会う前の僕は……生きる意味を見失っていました。両親を早くに失い、孤独の中で生きてきた。でも、咲希さんが来てくれてから、すべてが変わりました」俺の拳が、自然と握られた。「彼女の笑顔が、僕に生きる理由をくれました。彼女の優しさが、凍っていた僕の心を溶かしてくれました」森川さんの表情が、わずかに動いた。「咲希さんを、一生幸せにします。何があっても、必ず守ります」しばらく、沈黙が流れた。風が、梅の枝を揺らしている。俺の心臓が、早鐘を打っていた。やはり、断られるだろうか。それとも……。「蓮さん」森川さんが、ようやく口を開いた。「……正直に言うと、迷っている」その言葉に、俺の背筋が凍りつく。足元の砂利を踏む音が、やけに大きく響いた。「君は、氷室グループの社長だ。持っている力も、見ている世界も、我々とはあまりに違いすぎる」森川さんが低く告げる。「咲希は、ただの旅館の娘だ。身分が違いすぎるだろう。あの子が、君の世界で幸せになれるのか……」その問いは、痛いほど鋭かった。「森川さん」俺は、逃げ場のないほど真っ直ぐに森川さんの目を見つめた。「僕にとって、咲希さんは身分や肩書きで選んだ相手ではありません」
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第125話

「実は、あの会見の……咲希さんが僕の婚約者になった翌日には、全額返済させていただきました」森川さんが、息を呑んだ。「なんだと?」「咲希さんが僕の婚約者になった以上、借金なんて残しておけませんでした」俺は森川さんを見つめる。「これから家族になる以上、森川さんご夫婦のご負担を少しでも軽くしたかった。咲希がいつでも笑顔で帰ってこられる場所を、守りたかったんです」「しかし、そんな大金を……」森川さんの言葉が、震えていた。「僕にとって、咲希さんは何よりも大切な人です。だから、咲希さんが大切にしている場所も、咲希さんのご両親も、僕にとって大切なんです。それだけのことです」長い沈黙が流れた。庭の梅が、風に揺れている。やがて──森川さんの目から、静かに涙が溢れた。「蓮さん……本当に……ありがとう」震える手で、俺の手を握った。「娘を……よろしく頼む」「はい。必ず、幸せにします」森川さんは、深く息を吐いた。「……こうして話してみて、君の本気がよく伝わったよ」◇【咲希side】応接間では、母と私の二人きりになっていた。時間が、とても長く感じられた。「咲希、顔が青いわよ」「そう……かな」私は苦笑した。「お父さんはね、ずっと気にしてたの」母が静かに言った。「あなたが苦しんでいた時、何もしてあげられなかったって」母の目が、遠くなる。「だけど、蓮さんが守ってくれた。……きっと、ちゃんと伝わってるわよ」「……そうだといいな」母は、私の肩をそっと叩いた。「大丈夫。お父さんを信じなさい」◇どれくらい経っただろう。庭から、父と蓮さんが戻ってきた。父の表情は、思ったより穏やかだった。「咲希」父が私を呼ぶ。
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第126話

夜、客室で。使い込まれた畳の香りと、どこか懐かしい実家の匂いに包まれながら、蓮さんと私は並んで布団に入っていた。慣れ親しんだ実家の天井なのに、隣に蓮さんがいるだけで、まるで別の場所に迷い込んだような不思議な感覚だった。「あの……蓮さん。今日は、ありがとうございました」私が囁くと、蓮さんは寝返りを打って私の方を向いた。「何が?」「両親に、ちゃんと向き合ってくれて。……お酒まで、一緒に飲んでくれて」蓮さんは布団の中で、私の指を一本ずつ絡めるように握った。「当然のことだ。君を大切に育ててくれた人たちなんだから」窓の外、大きな満月が輝いている。その青白い光が、障子越しに部屋を優しく照らしていた。「咲希」「はい?」「お父さんには、旅館の借金を完済したことも伝えた。……君には、後で話そうと思っていたんだが」「……実は、なんとなく予感していました。蓮さんなら、そうするって」私がそう言うと、蓮さんは目を見開いた。「驚かないのか?」「もちろん驚きましたよ。でも……蓮さんは、いつも言葉より先に、私の守りたいものを守ってくれるから」蓮さんは愛おしそうに目を細め、私の手を自分の唇に寄せた。「君の大切な場所は、俺の大切な場所でもある。君の重荷は、すべて俺が半分背負う。それだけのことだ」視界が、じんわりと潤む。「蓮さん、ありがとうございます……」「礼を言うのは俺の方だ。君と家族になれること、本当に嬉しい」「私も、です」蓮さんの腕が私の腰に回され、ぐい、と強く抱き寄せられた。布団越しでも伝わる逞しい体温と、かすかに残るお酒の香りに、鼓動が跳ね上がる。蓮さんが私の顎にそっと指先を添え、顔を上向かせた。「咲希……」吸い込まれそうな熱を孕んだ瞳に見つめられ、唇が重なる。最初は、壊れ物に触れるような柔らかい愛撫。けれど、一度唇が離れそうになる
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第127話

3月10日、火曜日。実家への挨拶を終えてから、数日が経っていた。今日は、親友の萌花と一緒に、ウェディングドレスを選びに来ている。「咲希、絶対素敵なドレス見つけようね!」萌花は、朝から張り切っていた。私たちが訪れたのは、青山にある有名なドレスショップ。白を基調とした店内には、無数のドレスが並んでいる。シンプルなもの、豪華なもの、個性的なもの──どれも美しくて、目移りしてしまう。「いらっしゃいませ」ドレスコーディネーターの女性が、優雅に私たちを迎えてくれた。「この度はご結婚、誠におめでとうございます」「ありがとうございます」私が答えると、コーディネーターは微笑んだ。「それでは、まずはお好みのスタイルを教えていただけますか?」「えっと……」私が萌花の方を向くと、萌花が目を輝かせた。「咲希は細身だから、Aラインが絶対似合うと思う!」萌花の言葉に、コーディネーターも頷いた。「そうですね。でも、せっかくですから、いくつか試着してみましょう。着てみて初めて分かることが、たくさんありますから」こうして、私のドレス選びが始まった。◇最初に試着したのは、シンプルなAラインのドレス。試着室で着替えを手伝ってもらい、鏡の前に立つ。「わあ……」思わず声が漏れた。真っ白なドレスが、私を別人のように見せていた。「咲希、出ておいで!」萌花の呼びかけにカーテンを開けると、彼女が口元を押さえた。「本当に綺麗だよ、咲希」コーディネーターも微笑んでいる。「お似合いです。でも、もう少し他のドレスも見てみましょう」次に試着したのは、マーメイドライン。体のラインにぴったりと沿うデザインで、裾だけが広がっている。鏡の前に立つと、少し恥ずかしくなった。体のラインが強調されすぎている気がして。萌花も首を横に振った。
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第128話

「ウェディングプランナーの資格、本気で取ろうと思う」私は驚いて、目を見開いた。「本気なの?」「うん」萌花は力強く頷いた。「さっき、コーディネーターさんが話してくれたこと……ずっと頭から離れなくて」萌花が、紅茶のカップを両手で包む。「一針一針縫われたレースに、作り手の想いが込められてる。それを花嫁さんに届ける仕事って……すごく素敵だと思ったの」萌花の言葉が、熱を帯びている。「咲希の結婚式の準備を一緒にしてて、気づいたんだ。誰かの大切な日のために準備する仕事がしたいって」私は萌花の手を取った。「萌花なら、絶対素敵なプランナーになれるよ」萌花が照れくさそうに微笑んだ。「ありがとう、咲希。……あなたが幸せそうで、私も嬉しくて。ずっと、咲希の幸せを願っていたから」「私こそ、萌花がいてくれて良かった」二人で、しばらく顔を見合わせて笑い合った。◇3月15日、日曜日。今日は蓮さんがタキシードを選ぶ日だった。私と神崎さんが同行している。「氷室社長、こちらがおすすめのタキシードです」紳士服店のスタッフが、黒いタキシードを持ってきた。蓮さんは試着室に入り、しばらくして出てきた。黒のタキシード姿の蓮さんが、立っている。その姿を目の当たりにした瞬間、息が止まった。いつものスーツとはまた違う。より洗練されて、より格式高く見える。「かっこいい……」思わず声が漏れた。蓮さんが私の方を向いて、少し照れくさそうに微笑んだ。「そうか?」神崎さんも頷いている。「完璧です、氷室様」こんなに素敵な人を、私が独占してもいいんだろうか。そんなことを思いながら、私はぼんやりと蓮さんを見つめていた。蓮さんは鏡の前で自分の姿を確認し、静かに言った。「咲希との結婚式……ちゃんとした姿で迎えたいから
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第129話

蓮さんが扉を開けると、厳造様が立っていた。「蓮、咲希さん、邪魔するぞ」「祖父上、どうぞ」厳造様がリビングに入ってこられ、私は立ち上がった。「お茶をお持ちします」「いや、気にしなくていい」厳造様が手を上げて、私を制した。「少しだけ、話がある」厳造様は、ソファに座った。蓮さんと私も、向かいのソファに腰をおろす。厳造様の表情は、穏やかだった。でも、その目の奥に、何か深いものが宿っているように見えた。「咲希さん、ありがとう」突然の言葉に、私は目を丸くした。「え……?私は何も……」「お前さんは、蓮を変えてくれた。そして……この老いぼれに、家族の温もりを思い出させてくれた」厳造様の声が、わずかに震えた。「隆一郎を失って以来、私の中で何かが止まっていた。蓮も心を閉ざして、ただ仕事だけを続けていた。あの子が一度も笑わずに歳を取っていくのを、指をくわえて見ていることしかできなかった」厳造様は、慈しむような目で蓮さんを見た。「だが、今はどうだ。やっと、家族が増える。隆一郎も、きっと空の上で安堵しているだろう」私の目から、熱いものがこぼれた。厳造様がこれほどまでに蓮さんを、そして私のことを想ってくださっていたなんて。「私こそ、皆さんと家族にしていただいて……本当にありがとうございます」厳造様は静かに頷いた。「4月12日、楽しみにしているぞ」「はい」私は力強く頷いた。厳造様は満足そうに微笑むと、足取り軽くペントハウスを後にされた。扉が閉まった後、しばらく静寂が続いた。蓮さんが、遠くを見つめている。「……祖父が、あんなに話すのは珍しい」「そうなんですか?」「ああ。感情を表に出さない人だから」蓮さんは静かにソファに深く座り直した。何かを思い出しているような、静かな目をしていた。「……そういえば」
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