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灯火の番 のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

32 チャプター

第四話 ⑤

 しかしそんな穏やかな沈黙は、突然巻き上がった爆炎で一瞬で散ってしまった。 煤ですらない、単純な爆発の炎。 俺はとっさに先生を背後に隠して、脇差しを抜く。 しかし爆炎の余波とこびりつくような煙の匂いは届きはするものの、煤も夜住の気配も、届かない。 本当にただの、爆発だ。 でも、なんで?「先生っ」「行こう」 俺と先生は、躊躇もせずに刀を下げたまま爆発源まで走る。 先生が宙に飛ぶ分だけ距離の違う疾走は、しかしほぼ同時に顔を歪めながら、止まる。 血の匂いと、悲鳴。 爆発によって倒壊した建物から逃れようする人々は刀持ちなんかじゃなく、ただの一般市民だ。「かあちゃん! おかあちゃん!」「痛い、いたいよぉっ」「なに、なにがあったの!」「ここに夫が居るの! だれかぁ!」 市民たちの悲鳴が渦巻き、炎の熱が髪を泳がせる。 夜住の仕業じゃない。 夜住は、こんな風に派手に攻撃をしないし、熱なんか奴らの天敵だ。 ということはただのガス爆発か何かか? それとも……それとも? 俺は、血と悲鳴と瓦礫の熱の前で、呆然と立ち尽くしていた。 俺は──こんなの、知らないんだ。 状況は「酷い」の一言だった。 あちこちで燃え上がる炎は、怪我をしてボロボロな市民たちの服や髪を無慈悲に煽る。 散る火花は、俺が刀術で発するものとは違って服に穴をあけ、触れるとチリチリと熱い。 俺は、頬に当たった火花が残したかすかな痛みに触れた。 火傷。 今まで一度も、負ったことのない傷。「み、明神様! 帳様っ!」 泣きながら助けを求める子供。 赤子を抱いたまま呆然と座り込む母親。 伏したままピクリとも動かない老人。 瓦礫を必死にどかそうとする父親。  そんな光景に呆然としていた俺は、「明神」と呼ばれてやっと我に返った。
last update最終更新日 : 2026-01-01
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第四話 ⑥

「わかった。お前達は出来るだけ散って和穗を探してくれ。連絡係だけじゃなく、御神苗の刀持ちを集めてもいい」「は、はいっ」「緊急時だ。ハルは俺たちに合流するように伝言してくれ」「今すぐ命が危ない人は僕の所につれてきていいけど、できれば神風に協力を求めて、そちらに運んでね。市民もだよ」 先生はそっと刀持ちに近付くと、彼の腕に触れた。 ほんの少しの、青い光。 しかし刀持ちは驚いた顔をして己の腕に触れて、じわりと表情から緊張を抜いてまた何度も頷いた。 まるで寒さを忘れたかのように敬礼をして、急いで来た道を戻っていく。 今では持つ者も数少ない、治癒の力だ。 先生はあまりこの力を人に見せたり使おうとはしないから、俺も久し振りに見た気がする。「お侍様……お侍さま、どうか、どうかお助け下さい……息子が、息子が……」「あぁ、大丈夫だ……手伝おう。御子息はどこに?」「ありがとうございます、ありがとうございます」 俺たちのやり取りを聞いていたのか、今までは刀を佩いた俺たちを遠巻きにしていた市民の一人が、よろよろと近付いてきた。 歳の頃はもう、源一郎様よりも上だろう老婆だ。 服はボロボロで、覗く腕は枯れ枝のように細い。 彼女の息子というのであれば、歳の頃は俺よりも上だろうか──「ありがトウ……アリガ、とう……ござ、ま……」 よろめく老婆を支えようと、手を伸ばす。 ブツブツと何か言っている内容は、炎の渦巻く音でよく聞こえなくて。 「ソウくんっ!! いけないっ!!」 伸ばした手が老婆を支えたか支えないかの、僅かな瞬間。 先生が、鋭く声を発して──俺は、老婆の顔面がどろりと液状化するように崩れて目玉が落ちていくのを、何も出来ずに見つめていた。 刀を抜いたのは、ただの反射だった。
last update最終更新日 : 2026-01-03
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第四話 ⑦

「……っハァ」 震える息を吐き出すと、普段なら温度差で頬にぬるく絡む白い息が薄く、ほんの一瞬だけ浮いて、すぐに消える。 老婆の血液の鉄臭さと首筋から溢れてくる吐瀉物混じりの汚液の匂いに、吐き気がした。 寒さのせいではなく、歯の根が合わなくて顎が痛んだ。 あれは、夜住じゃなかった? 俺が見たあの溶けた老婆の顔は、幻覚だったのか?  俺は……俺が、あの老婆を──市民を、殺したのか? パチパチと焼ける瓦礫。 人々のうめき声。 助けを求める叫び。 それらが遠くで聞こえるのみになり、俺の周囲は水を打ったように静寂に満ちた。  刀主であるはずの俺が、守るべき市民を、殺した──その事実が、帝都の喧騒を消し去っていた。「宗一郎っ! 前を見なさいっ!」「ハッ」 乱れ始めた呼吸が、押し戻されるように喉に戻る。 背中を叩く先生の叱咤は直接俺に触れていなくても止まっていた呼気を取り戻させ、滲んだ視界を明瞭にする。 途端、新たな悲鳴が上がった。 倒れ伏した老婆の肉体。 俺が切断した首の断面から、黒いモヤが立ち上り始めていたのだ。 切断面から流れ落ちていた血液は徐々に黒へと変化していき、地面に染み込むはずだった液体は煤として風に泳ぎ始める。『ひひっ! ひひっ、ひひぁあぁひひひっ!!』 首が、笑った。 肉体も肺もないのにゴロゴロとその場で転がり始めた首は、肉体の方と同じように黒いモヤを吐き出し始める。 笑い声は痰が絡んだようにゼロゼロと気味悪く、転がる拍子に抜けた毛が小石に絡んで土に残った。  その姿にゾッとして、刀を握る手にぬるっとした汗が滲む。 こんなものは──こんな存在は、今まで見たことがなかった。 夜住に変化していく存在は、何度だって見たことがある。 けれど、そういう者は死を間際にしているからか、悪あがきはしてもこんな風に楽しげに自傷しながら転が
last update最終更新日 : 2026-01-05
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第四話 ⑧

 勢いの良さで散った赤い血液に、「は?」と思わず声が出てしまう。 俺を襲おうとした煤を断ち切ったのがハルであるというのは、流石にパッと見で分かっている。 でも、だが、小麦のような髪を真っ赤に染めている液体に、頭が麻痺した。「何ぼさっとしてんの、お前」「いや、いやお前、血……っ!」「ハルくんどうしたのっ」「ちょっとヘマしました。救援が必要です」 袖口で顔面をグイグイ拭っても、ハルの頭からの血は止まらない。 頭からの出血は見た目よりも派手だとは聞くが、それでも随分な出血だ。 よく見れば頭部からではなく、羽織もズボンも、穴があいて血が滲んでいる。  呆然としながらも、頭から足先までじっくりと見ていた俺は、ハルの足元で蠢く影に気付いた。 あの夜住が、ハルの敷いた境界を越えようとしている。 刀を握り直し、強く地面を踏んで火花を散らす。 火花の栄養源は、今は必要ない。 周囲にはたくさんの炎も、火花も散っている。 俺がわざわざ空気に体温を馴染ませなくても、勝手に術式が火を食うだろう。 なにもない場所から火花や炎を散らす明神の術式は体温を奪うが、ここまで炎が上がっている場所なら話は別だ。 いつもなら術式を編むたびに肺の奥が凍るような感覚があるが、今夜は違う。 周囲に溢れる業火が、俺の火種の代わりに酸素を貪ってくれる。 俺は、刀を逆手に持ち直して切っ先を思い切り、地面を這う夜住に突き刺した。 おぞましい声は悲鳴か、怒りの咆哮か──それとも、笑い声か。 先程の老婆の声を思い出して腹の奥が気持ち悪くなるが、「夜住である」と判断出来れば話は別だ。 俺の刀は、夜住を倒すためにある。 頭の中で何度も己に言い聞かせながら、地面に突き刺した切っ先をさらに深く、夜住に埋め込んだ。「……こっちにおいで、ハルくん。治してあげる」「俺より、和穗が」「和穗ちゃんの所にも行くよ。でも、君が倒れてもい
last update最終更新日 : 2026-01-07
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第五話 混乱、動乱

 情けない。 こんなことで動揺して、思考が停止していた。 頬を包む先生の両手の熱が、身体に浸透して脳に冷静さを取り戻させているかのようだ。 俺は深く息を吸い込んで、煙い空気を長く、吐き出す。 数回咳き込んだのは、やっと周囲が燃えていることを身体が受け入れ始めたからだろうか。 ゲホゲホと咳き込む子供の声が聞こえてきたのも、あるのだろう。 俺は幾度か目を開閉して、ゆっくりと目の前の真っ白な男を見た。 赤い炎すらも色をつけることのできない、真っ白な先生。 夜住の煤も、ハルの血液も付着していない。 まっさらなままの、俺の番。 ……美しくて、恐ろしい。 これだけの地獄に浸かりながら、先生だけが世界の汚れを拒絶しているようで。「……すみません。大丈夫です」「よしよし、行こっか。ここに居る人は刀持ちと白服に任せれば大丈夫」「こっちです、先生。お願いします」 にっこりと笑顔になった先生も、ハルも、俺がちんたらしていることを咎めもしない。 いつの間にか周囲に居た刀持ちたちも、先生の言葉を聞いてやっと動き出したようだった。 視界の端でそれを見つつ、俺も刀を鞘に納めてハルの背中を追う。 背後で老婆を食って爆ぜた炎が、一瞬、巨大な瞳の形を成した気がした。 ……逃げるように視線を外して背を向け、俺はハルの背中を追った。 歩みを止めれば──その炎を直視してしまえば、今度こそ心まで凍りついてしまいそうだったから。 ザクザクと霜を蹴る音を立てて走れば、爆炎の喧騒は徐々に遠ざかっていく。 炎がチラつく範囲では霜も溶けてしまって、足元がぬかるんでひどく、冷えた。 霜がある範囲のほうが足元が汚れも冷えもしないのが、なんだか皮肉だ。  全員の足元がぐちゃぐちゃになった頃に、ようやっと整備された地面に戻って走るのが楽になる。 ハルの案内で辿り着いたのは、明神の領域か
last update最終更新日 : 2026-01-09
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第五話 ②

「和穗! 何をしてるんだ!」 返事はない。 和穗は俺だけに狙いを定めて、無言で刀の切っ先を天に向ける。 ギラリと月の光と遠くの爆炎の色を弾く切っ先は、不気味なほどに神々しい。 和穗は本気だ。 本気で、俺を殺そうとしている。 俺はぎこちなく刀を構えながら、後方のハルと先生をチラリと見た。 呆然としていた2人が己の刀を抜いて、俺に近付こうとしてピタリと足を止める。 紫色の薄い膜のような、モヤ。 それが、まるで結界のように俺と和穗だけの空間を、残酷に切り取っていた。「なんだこれ……! 宗一郎、和穗!」 モヤを拳で叩きながら、ハルが悲痛な声で叫ぶ。 先生も、銀色の刀を手にしながら、苦々しく眉を寄せていた。 結界が、拒絶している? 俺は、モヤの向こうで叫ぶ2人の灯守から視線を外して、和穗を真正面から、見た。 彼女は上段で大太刀を構えながら、ジリと足先に力を入れて俺を見つめている。 あんな長い大太刀を上段で構えられる刀主なんて、和穗と霧子さんくらいのものだ。 俺は、振り落とされた一撃を受けることも出来ずただ、回避することしか出来ない。 今まで何度も、和穗や霧子さんには稽古用の木刀をへし折られているのだ。 真剣といえど、無事で済むとは思えない。「やめろ、和穗っ!」 防戦一方。和穗の剣筋は、いつも以上に鋭く、殺意に満ちていた。 けれど、時折。 その赤の瞳がぐっと細められて苦痛に歪むのを、俺は見逃さなかった。 これは、和穗の意思でやっていることじゃない。 それがはっきりと分かる、そんな表情だった。  苦痛に満ちた表情なのに、和穗の口元は不自然に笑っている。 吐き出す白い息に交じる声も、いつもの明るい声ではなく、いびつな笑い声だった。 その声は、さっきの老婆のよう。 俺は、身体中が内側から冷え切るような恐怖を覚えて、数回たたらを踏んだ。 僅か
last update最終更新日 : 2026-01-11
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第五話 ③

 ひとつ、呼吸をする。 火花がバチバチと橙から白へと色を変えながら散って、肺の奥が焼けるような熱がこぼれ落ちた。 周囲の炎をすべて喰らい、俺の刀が白銀に輝く。 体温が下がっていき、両手に持った刀の柄に皮膚が張り付くのがわかる。  嫌だ。 和穗を狙うことに、彼女を斬ることに、心の奥の子どもが泣き叫ぶ。 けれど、やらなければいけないと、その子どもを大人の俺が叩き潰した。 夜住になる前に。 全ては、それだけだ。 彼女が夜住になって死ぬなんて、俺には耐えられない。 今彼女を斬ることよりも、夜住になってしまうことの方がずっと、ずっと──  俺は、歯軋りをしながら太刀を握った。 身体が冷えて歯の根がガチガチと音をたてて、歯を食いしばるのも痛かった。 脇差しは投げ捨てて、防御は捨てる。 和穗の力の前では、脇差しで防御した所で叩き折られてしまうだけだろう。 だから……攻撃を受ける前に、和穗を倒す。  狙うは、首だ。 一撃で、苦しませずに。 横薙ぎに大太刀を振るったせいで和穗の切っ先が僅かに泳いでいる隙に。 彼女から沸き立つ紫色のモヤのようなものが、まだ煤ではないうちに。  横一閃。 防御をしようとした和穗が大太刀を持ち上げる前に、強く一歩を踏み込んで刀を振るった。 俺の刀が和穗の防御を突き破り、その肉に迫る。 火花が散り、発火し、灯守の灯火を受けずとも一瞬だけ切っ先が赤みを帯びる。  だが──断ち切る直前、彼女と目が合った。 紫の霧の奥で、和穗の赤い目が微かに、寂しそうに微笑んだ気がしたのだ。 いつもの、和穗の笑顔。 元気いっぱいに振る舞っている彼女が、時折見せる憂いの表情。 俺の剣筋が、わずかに震えた。 ドッ  生々しく鈍い、嫌な音が響く。 首を捉えるはずだった刃は、その少し下──彼女
last update最終更新日 : 2026-01-13
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第六話 古書

 和穗は即座に、神風家に運び込まれた。 俺が切断してしまった腕は、あの場で帳先生が応急処置をして、何とか彼女の肉体とは繋がっている。 夜住との戦いにおいて、刀持ちが四肢を失うことはよくあることだ。 けれど、それは大体にして凍結した部位が折れて落ちたもの。 今回みたいに、刀によって切断されたものとは、違う。 俺は、神風さんと先生の手によって彼女の身体にぐるぐる巻きつけられていく長い呪符を呆然と見ていた。 包帯に墨で術力の封じ込められた呪符は、神風家が作っている特別なものであると聞いている。 ただ、俺が見たのはこれが初めてで、本来であれば見ない方が良かったものだろう。「あの、御神苗様の腕は今、帳様と直紹様が接合されています。無事に、くっつくとは……思い、ます」 何も出来ない俺は早々に治療部屋から追い出されて、廊下に立ち尽くしていた。 戸を閉めても治療室の中はバタバタと騒がしく、何もしていない俺がいても邪魔だったんだろう。 隔てられた向こうから、和穗のうめき声と、肉を焼いて接合するようなジウジウという嫌な音が漏れ聞こえてくる。 その音に俺の右手の指先が、和穗を斬った瞬間の振動を思い出して小さく跳ねた。 そんな俺を気遣ってか、追って部屋を出てきた日向子がおそるおそるに励ましてくれた。 彼女だって確信はないのだろう。 己の赤い袴を小さな手で握ったり開いたりしながら、顔は俯き気味だ。「……動きは」「う、動くかは……予後に、よるかと……」「……だよな」 やっぱりぼんやりと聞いた俺に、日向子は嘘をつかなかった。 もし無事にくっついたとしても、元通りに動くとは限らない。 俺は、それほどのことをしてしまったんだ。 人間に化けて近付いてくる夜住のような〝何か〟──それを恐れてしまったのが、最大の敗因だ。
last update最終更新日 : 2026-01-15
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第六話 ②

 しかし、日向子の手はまだ震えていて、ゴシゴシと袴で手を拭ってから着物の袖から木の板のような鍵を取り出した。 袴で何度も手を拭う彼女の仕草は、まるで自分の臆病さを拭い去ろうとしているようにも見えた。 彼女も怖いのだ。 それでも、彼女は俺を一人きりにさせない道を選んでくれた。 神風の家紋の彫られた、灯守の力を感じる鍵。 差し出された木の鍵は、幾星霜を経て黒ずみ、鉄のように冷たい色をたたえている。 そっと手を差し出した指先から微かな風の唸りが聞こえた気がして、俺は思わず息を呑んだ。 俺は、鍵を見てからゆっくりと日向子を見る。「代々の灯守に預けられていた鍵だそうです。直紹様が預けて下さった……これは、きっと、明神様と開けるべき扉だと、思うんですっ」 彼女の声は、俺のものよりもはっきりと力強い。  日向子が案内してくれた神風の書庫は、封庫と呼ばれる「当主と灯守のみに入室を許される」という場所だった。 確かに俺は明神の次期当主だが、神風の当主ではない。 それでもいいのかと日向子を伺うと、日向子は一切の問題を覚えていないようだった。 振り返りもせずに廊下を真っ直ぐ進んでいく日向子の背後を、背を丸めた大男がついていく。 その様子は少しばかり奇怪だろうと思って、出来るだけ真っ直ぐ背筋を伸ばした。 封庫は、渡り廊下を通った先の、別邸にあった。 いつの間にかチラついていたのか、渡り廊下には雪が積もり始めている。 夜明けか。 夜中治療室の前に引っ付いていたのかとぼんやりと思って、それだけの時間目覚めない和穗に歯噛みする。 神風さんも、帳先生も、つきっきりだ。 俺がやらかしたことの後始末を、俺以外の人がしている。 ハル──ハルは、どうしただろう。 和穗の流す血溜まりを見て俺と同じように動けなくなっていた、もう一人の幼馴染み。 そういえば昨夜から、俺はハルの姿を見ていない。 彼もまた
last update最終更新日 : 2026-01-17
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第六話 ③

「お、おぉ……」 ゴゴ、と重い音をたてて、扉が勝手に開いていく。 機械仕掛けなのか、それとも何らかの術式が組まれているのか。 俺にはその辺はサッパリだが、一歩足を踏み入れれば感じる墨と紙の匂いに、胸が落ち着いた。 鼻腔をくすぐる古い墨の匂いが、手にこびりついて離れなかった鉄臭い血の記憶を、一時だけ遠ざけてくれた気がする。 何より、踊り場はあんなにも湿気ていて寒かったのに、封庫の中はほのかにあたたかく、湿気を感じない。 立ち止まっているというのに前髪がわずかに撫でられて、どこかからあたたかい風が吹いているような気がする。  これが、神の風を司ると言われている神風の封庫か。 明神家の封庫にすらろくすっぽ足を運んだことのない俺は、妙に緊張をして胸元に手を当てた。 かじかんでいた指先が、あたたかく包まれているような、そんなあたたかさだ。「えーっと……直紹様が仰っていたのは……」「神風さんは、何を見てこいって言っていたんだ?」「明神様たちが見た、擬態する夜住について、です。何百年か前の書物に、そのような記載があったような記憶がある、と」「……もしかしてあの人、ここにある本全部覚えてるのか?」「当主の勤めだって、仰ってましたっ」 それが本当に当主の役目なんだとしたら、俺は当主になれないかもしれない。 俺は、この帝都でも有り得ない、蝋燭の火だけで照らされているだだっ広い封庫の入口でうんざりとしてしまった。  封庫の中は本当に広くって、半地下だからもしかしたら別邸そのものよりも広いんじゃないかと思えた。 その中に、所狭しと書棚が詰め込まれていて、広さのわりに圧迫感が強い。 奥へと進んでいくと書棚の形が変わっていくのを、不思議な心地で見る。 書棚の形が変わったのは、保管されている書物の形が変わったからだ。 近場の書棚には普通に本がおさめら
last update最終更新日 : 2026-01-19
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