でもどういうわけか、翔吾の心に苛立ちは生じなかった。 実加の歯に衣着せぬ物言いが、不思議と心地よいリズムとして耳に届いている。「ぶーぶー! はやい!」 後部座席から、理玖の明るい声が上がった。 チャイルドシートに固定された小さな体を揺らし、窓の外を流れる景色を短い指で指差している。 秋の山々、風に揺れるススキの穂、時折すれ違う軽トラックの音と振動。 理玖にとって、そのすべてが新鮮なエンターテインメントなのだろう。「ほら、理玖も速いのがいいって言ってんじゃんか。もっと、ちょっとはスピード出せって」 実加が後ろを振り返りながら笑う。「幼児の体感速度と実際の物理的な速度は異なります。視覚情報の処理能力が未発達なため、風景の流れが早く感じられるだけです」 翔吾がそう返すと、実加は呆れたように大きなため息をついた。「ほんっと、可愛くねえ男。理玖、メガネは頭が固いから駄目だなー」「だめだなー!」 理玖が母親の言葉を真似て、無邪気に笑う。 その声に釣られるように、実加が声を上げて笑い出した。「あははっ! ほら、理玖にも言われてるぞ、メガネ」 翔吾はルームミラー越しに、後部座席の理玖と、それを見て笑う実加の横顔を捉えた。 実加の目元は柔らかくゆるんで、口元には屈託のない笑みが浮かんでいる。(……悪くない) 翔吾はハンドルを握る力を、ほんの少しだけ緩めた。 張り詰めていた肩の筋肉から、余計な力が抜けていくのがわかる。 実加の乱暴な言葉遣いは、自分への気安さの表れだ。彼女は、翔吾という人間を飾らずに受け入れてくれている。 理玖の存在が、この狭い車内に温かな空気をもたらしていた。 論理や数式では絶対に導き出せない、まるで本物の家族旅行のような一体感。 自分がこの空間の一部として存在しているという事実が、翔吾の胸の奥をじんわりと満たしていく。 社員寮を出て一人暮らしを始めてからずっと抱えて
最終更新日 : 2026-07-17 続きを読む