All Chapters of 月が来なかった、あの夜のこと: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

菫は、まだ媚びるような笑みを浮かべていた。でも、悠斗に命で償えと言われ、顔がさっと青ざめた。彼女は目の前の男に、そんなひどいことはしないで、と泣きついて頼み込んだ。しかし、悠斗はまったく動じなかった。彼は菫の手首をひっつかむと、彼女を車に放り込んだ。そして車は、病院へと猛スピードで走り出した。病院の前に着いたとたん、菫は悠斗の目的を悟った。彼女は必死に暴れて、やめてと叫んだ。「悠斗、私が悪かったわ。この子を堕ろさないで、お願い、やめて――」彼女の言葉は最後まで続かなかった。手足は拘束バンドで縛られ、頭上の無影灯がパッと灯る。眩しさに、思わず目を細めた。頭の上から、悠斗の冷たい声が降ってきた。「お前と、この腹の中の出来損ない、生き残れるのは一人だけだ」菫は信じられないという目で彼を見つめ、杏に会わせて、と泣き叫んだ。「悠斗、あなたみたいな酷いことする人、いつか絶対バチが当たるんだから!」菫は憎しみのこもった目で悠斗を睨みつけ、ふと冷笑を浮かべた。「彼女を殺したのが誰なのか、本当はあなたが一番よく分かってるはずよ!」もうどうにもならないと悟ったのか、菫は言いたいことをすべてぶちまけた。目に涙を浮かべながらも、その唇は嘲るように歪んでいた。「最初に誘惑に負けて、酔った勢いで私と関係を持ったのはあなた。それで止められなくなって、何度も私を妊娠させた。私はただ彼女に事実を教えただけなのに、何の罪があるっていうの?私を迎え入れたのはあなたよ。宝石が野菜みたいに簡単に買えるって教えてくれたのも、あなたの兄弟やご両親、友達に私を紹介したのも。だから、昔は手の届かない場所だったのに、私でも頑張れば手が届くって思っちゃったのよ!私の野心を育てたのはあなた。子を孕ませて、あの女を挑発する切り札をくれたのも、あなたよ。彼女を本当に死なせたのは、二人の女の間で揺れ動いてた、あなたじゃない!」悠斗は激しい怒りで瞳を細め、菫を睨みつけた。そのあまりに冷たい眼差しに、菫は彼を刺激したことを後悔しはじめた。しかし、悠斗は不意に自嘲気味に笑った。「お前の言う通りだ。俺にも責任がある。罪は償う。でも、まずお前を始末しないと、遥の気が済まないんだ」彼は菫を冷ややかに一目見るとと、背を向けて手術室を出ていった。そして、何の感
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第12話

遥が交通事故で亡くなったというニュースは、またたく間にネットで話題になった。彼女と悠斗の完璧なカップルを惜しむ声があがるなか、ある暴露があった。遥が昔ファンに絵を教えていたアカウントが特定され、菫がそこに残したコメントのスクショが拡散されたのだ。ネットの人たちは、あの写真の男性が悠斗だとすぐに気づいた。彼の「愛妻家」というイメージは一夜にして崩れ、スキャンダルはSNSであっという間に炎上した。大勢のファンが北条グループの本社に押し寄せ、悠斗の辞任を要求した。グループの商品はすべて不買運動の対象になり、取引先も次々と契約解除を発表した。北条グループの株価は、一夜にして暴落した。それと同時に、事情を知る人たちが次々と声を上げ始めた。菫の大学の先輩が、彼女の学歴は嘘だと証言した。美大に1年通っただけで中退したから、卒業なんてしていないはずだと。デザイン界のある大物も声をあげた。菫が最近受賞した作品は、自分の愛弟子である遥の作風にそっくりだという。そして、弟子の作品を盗んで賞をだまし取ったと彼女を非難した。不動産業者によれば、5年前に北条という男性が数十億円の別荘を購入したらしい。家の名義は、菫の名前だったそうだ。菫は必死に言い訳を繰り返した。SNSで何度も自殺をほのめかすパフォーマンスをして、デマを流した人には報いを受けさせると騒ぎ立てた。しかし結局、大学側は菫が卒業生ではないと公式に発表した。さらにコンクールの運営は彼女の受賞資格を取り消した。不動産業者の令嬢は、家の売買契約書をネットに公開した。そこにはっきりと菫の名前が書かれていた。そして「訴えるならどうぞ、お金ならいくらでもあるから」と菫を挑発した。別荘地の住民たちは夜のうちに別荘を囲い込み、菫と彼女の子供たちを追い出した。菫は子供を連れて実家に避難しようとした。でも、​家の前には汚物が撒かれ、両親にはネット民から24時間嫌がらせの電話がかかってきた。父親はショックで入院し、母親は家族のグループで【うちにはもう、あんな恥知らずな娘はいない】と絶縁を宣言した。このすべては、もう遥とは関係のないことだった。あの日、事故で意識を失ったあと、彼女の魂は宙をさまよっていた。もうすぐこの世界から離れて、現実に戻るのだと思っていた。ところが、システムから時空システム
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第13話

その後、瑠夏は大事な客に花を届けにいく途中、車が故障してしまった。しかも、ちょうど大雨警報が発表されて……雨の中で困っていた彼女は、また弘樹に出会った。何度か会ううちに二人はだんだん親しくなって、弘樹は瑠夏に好意を寄せるようになった。でも、彼こそが結ばれるべき相手だと分かっていても、瑠夏はどうしても一歩踏み出す勇気が出なかった。だって、昔は命がけで自分を愛してくれた悠斗でさえ、浮気したんだから。また新しい恋を始めて、今度こそうまくいくっていう保証なんて、どこにもないじゃない?その後、弘樹は何度も瑠夏に告白した。断られても諦めずに、友達としてそばにいて、根気よく少しずつ彼女との距離を縮めていった。「前に、この金色の野生のデイジーを探してるって言ってたよね。ちょうど友達の研究室にあったから、ついでに持ってきたんだ」この金色のデイジーは、大学の農学部が開発したばかりの新品種。そんなに簡単に手に入るはずがない。どう考えても、わざわざ頼み込んで自分のために手に入れてくれたんだろう。瑠夏の胸が少し温かくなった。彼女は花束を受け取ると、弘樹にお礼を言った。でも、研究所からこの町までは車で何時間もかかる。彼の顔色を見ると少し青白い。きっと、まだ何も食べていないんだ。弘樹は胃が悪くて、一度痛みだすと本当にひどいことになる。瑠夏は以前にも見たことがあった。整った顔が真っ青になって、額に汗をびっしょり浮かべながらも、平気なふりをしていたのを。彼女はおそるおそる切り出した。「これから家に帰ってごはんを作るんだけど、よかったら……うちで食べない?」その言葉に、弘樹はぱっと目を輝かせ、すぐに頷いた。二人はスーパーで食材を買い、夕日に照らされた海辺の小道を肩を並べて歩いた。途中、知り合いに会うと、二人はからかわれた。「今日は彼氏と一緒にお買い物?」なんて。瑠夏が顔を赤らめて否定しようとした、ちょうどその時、弘樹が堂々と答えた。「彼氏じゃない。でも、そう呼ばれるように今、頑張っているところなんだ」小さな町だから、噂はあっという間に広まる。自分を困らせないために、彼はここまで身を屈めるとは。弘樹のその気遣いに、瑠夏の心は揺れた。でも、彼女は何も言わなかった。家に帰る途中、二人が角を曲がったところで、たくさんのドリンクを持った
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第14話

夜遅く、瑠夏は珍しく弘樹をゲストルームに泊めることにした。そして二人は、部屋のドアの前で「おやすみ」と言葉を交わした。瑠夏は自分の部屋に戻ると、スマホでニュースを見始めた。ふと北条グループに関するニュースが流れてきて、スクロールしていた指がぴたりと止まった。#北条グループの社長・北条悠斗氏が病気で辞任。家業はすべて、従兄の北条浩(ほうじょう ひろし)氏が引き継ぐことに。このニュースを見て、瑠夏は一瞬ぼうっとしてしまった。あのスキャンダルが報じられた当初、ネットには悠斗と菫への罵声が飛び交い、遺影を加工して死を呪う人まで現れた。北条グループ傘下の事業は軒並み停止し、海外店舗まで襲撃された。たった半年で株価は暴落し、一大グループはあっという間に規模を縮小したのだ。あれほど自分を深く傷つけた男だから、悠斗の落ちぶれた姿を見れば、せいせいするだろうと瑠夏は思っていた。でも、今の彼女の心はまったく動かなかった。まるで、どこかの知らない人のニュースを見ているかのようだった。指先でスワイプしてそのニュースを消すと、瑠夏は静かにスマホを眺め続けた。やがて、まぶたが重くなり、彼女は眠りに落ちていった。翌朝、瑠夏が目を覚まして寝室を出ると、ランニング帰りの弘樹がいた。彼はジャージ姿で、テーブルにずらりと朝食を並べて、「おいで」と声をかけた。弘樹の額に一筋かかった濡れた髪、少しだけ乱れた息づかい。いつもの完璧な教授の姿とはまったく違い、メガネを外した顔は少年のように若々しかった。テーブルに並んだお惣菜の数々を見て、瑠夏は驚いて目を見開いた。こんなにたくさん、8人いても食べきれないかも。弘樹は、甘いコーンスープをよそいながら、優しく言った。「君が何が好きかわからなかったから、とりあえず全部ちょっとずつ買ってきたんだよ」でも、この町にこんなお惣菜を出すお店なんて、あったっけ?瑠夏が不思議に思いながら朝食を食べ終えると、弘樹はもう新しいスーツに着替えていた。それはいつも彼が着ている、さりげない高級ブランドのスーツだった。弘樹のスーツは昨夜クリーニングに出したはずだし、荷物も持ってきていなかった。それなのに、このスーツはどこから出てきたの?瑠夏は思わず聞いてしまった。しばらく黙り込んでいた弘樹だったが、やがて顔を上げると
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第15話

翌日、瑠夏は弘樹と腕を組んで、パーティー会場の入り口に姿を見せた。彼女は上品な薄紫のロングドレスに髪を結いあげ、弘樹の隣に立っている。その笑顔はぱっと目を引くほど美しかった。小さなパーティーだと思っていたのに、目の前にはまばゆい照明がきらめき、入り口には高級車がずらりと並んでいた。運転手たちが主人のためにドアを開けると、きらびやかに着飾った男女が次々と会場に入っていく。その中には、悠斗と仲のいい友人も何人かいた。以前、北条家で経験したいろいろなことが、瑠夏の心に深い傷を残していた。だから、悠斗に関わる人や出来事は、すべてが不快だった。彼女の顔色が良くないのに気づいて、弘樹は小声でたずねた。「どうしたの?気分でも悪い?」瑠夏は小さくうなずくと、顔をしかめて言った。「帰りたい……」言い終わる前に、後ろからさわやかな声が聞こえてきた。「おじさん」瑠夏が声のした方を見ると、そこにいたのは悠斗とよく似た顔立ちの男性だった。その顔を見て、彼女は一瞬ぼうぜんとした。顔立ちは少し似ているけれど、まとっている雰囲気はまったくちがった。その男性は弘樹の前に歩み寄ると、にこやかに瑠夏へ会釈した。その態度はとても紳士的だ。「この方がおじさんがいつも話していた石川さんでしょう。本当におきれいな方ですね」弘樹は軽く咳ばらいをして、余計なことを言うな、と目で合図した。「浩、今日は君が主役なんだ。さあ、中に入って話そう」浩?瑠夏は、昨夜スマホで見たニュースを思い出した。この人が、悠斗に代わって北条グループの新社長になった浩なのだろう。ということは、プライドの高い悠斗が今夜のパーティーに来るはずがない。そう思うと、瑠夏の気持ちは少しだけ落ち着いた。弘樹と浩が会場に姿を見せると、その場にいた全員の視線が一気に集まった。客たちはさっと道を開けて、二人がそばを通ると丁寧にあいさつをした。「北条さん、こんばんは」「北条社長、おめでとうございます」「遠藤先生、お噂はかねがね」二人のあいだを歩く瑠夏にも、自然とみんなの視線が集まる。多くの人が、彼女はいったい何者なんだろうと興味津々だった。「あの人、何者かしら。北条社長と遠藤先生と一緒に入ってくるなんて」「ほんとよね。遠藤先生が女性を連れているの、初めて見たわ
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第16話

菫は乱暴に突き飛ばされた。立ち上がった弘樹の顔は、ぞっとするほど冷たい。彼女に触れられた肩をぱんぱんと払うと、低い声で言った。「君が何者かなんてどうでもいいです。すこしは自分を大事にしてください。俺にパートナーがいることは、ここにいる皆さんはご存じのはずです。それでも追いかけてきて、誘惑するなんて、自分を安売りしたいのですか?それとも、俺が女性の趣味が悪いとでも思ったんですか?どんな人でもいいわけではありません。浩の顔に免じて、今回は見逃してあげます。でも、もし次があったら、このことを公にして、君が表二度と舞台に立てなくなるまで恥をかかせますから!」弘樹は眉をひそめ、目に嫌悪感をにじませた。「さっさと、出ていきなさい」菫は目を赤くし、憤りをにじませた顔で鼻で笑った。「遠藤先生、私を拒否すれば、あなたの評判が守られるとでも思っているんですか?」彼女は突然ドレスの裾を引き裂くと、髪をぐしゃぐしゃにかき乱した。そして、わざと乱れた格好のまま立ち上がると、勝ち誇ったような挑発的な視線を向けた。「今すぐ私を受け入れるか、それとも外で騒いであなたの評判を台無しにするか、選んでください、遠藤先生!」「君は……」弘樹はこれほど厚かましい人間を見たことがなく、怒りで胸が激しく上下し、顔が青ざめた。その時、すっと一人の人影が現れた。現れた瑠夏は、優雅に弘樹の腕を組むと、菫に冷たい笑みを向けた。「小林さん、自分の評判を落としてまで、私の彼氏を陥れたいの?」「彼氏」という言葉を聞いた瞬間、弘樹の怒りに満ちた表情がふっと和らいだ。信じられない、というように瑠夏を見ると、彼の目がきらりと輝いた。瑠夏は菫を見ながら、ふっと鼻で笑った。「あら、うっかりしてた。あなたってもう、とっくにみんなの嫌われ者じゃない。あなたの言うことなんて、誰も信じるわけないでしょ?私があなたなら、今のうちにおとなしく立ち去るわね。でなければ、訴えることになるから。名誉毀損に脅迫、慰謝料はかなり高額になるわよ。今のあなたに、そんなお金、払えるのかしら?もしあなたが捕まったら、誰も面倒を見てくれないあなたの隠し子はどうするの?」瑠夏の一言一句が、菫の最後のプライドを剥ぎ取っていく。彼女は顔を赤くしたり青くしたりしながら、悔しそうに瑠夏を鋭く睨みつけ、みじ
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第17話

聞き覚えのあるその声に、瑠夏は背筋がぞっとするのを感じた。会場のざわめきに、周りの人たちは声がしたほうに振り向いた。そこに立っていた悠斗は、弘樹の連れの女性をじっと見つめていた。そして、信じられないという顔で震える手を伸ばし、怒鳴った。「遥、こいつは誰だ!どうして他の男と一緒にいるんだ?!」瑠夏は彼を無視すると、弘樹の腕を引いてささやいた。「ちょっと気分が悪いから、もう帰ろう」「わかった」二人が腕を組んでその場を去ろうとしたとき、悠斗が突然駆け寄り、弘樹に殴りかかった。次の瞬間、弘樹は鮮やかな動きで、いとも簡単に彼の動きを封じた。いつもは穏やかなその瞳が、今は冷たく厳しい色をしていた。「何を発狂している?よく見ろ。彼女は石川瑠夏、俺の婚約者だ」悠斗は瑠夏を見て、一瞬、戸惑いの表情を見せた。でも、彼女の頭にある青いダイヤの蝶の髪飾りに気づくと、確信に満ちた口調になった。「彼女こそ、俺の遥だ!夢で会ったんだ!」その馬鹿げた言葉に、周りの人たちはどっと笑った。誰もが、悠斗は妻を亡くしてからおかしくなってしまったのだと思った。ただ瑠夏だけは、心臓がどきりとして、警戒のまなざしを向けた。弘樹は腕の力を強めると、低い声で警告した。「悠斗、これ以上たわごとを言うなら、容赦しないぞ」悠斗は痛みで顔を真っ赤にした。でも、その目は瑠夏の顔から離れず、深い闇が沈んでいた。「たわごとじゃない。遥のS国銀行の口座は毎月誰かが動かしている。つい最近も、3日前にサザビーズ・オークションであるものを――」彼が言い終わる前に、その顔に重い拳がめり込んだ。それは容赦ない一撃だった。悠斗は口の端から血を流し、数秒呆然とした後、殺気だった顔で弘樹をにらみつけた。周りの人たちも、この光景に息をのんだ。叔父である遠藤教授が、連れの女性のために、人前で自分の甥を殴ったのだから。探るような視線が、いくつか瑠夏に向けられた。悠斗は口元の血をぬぐい、冷たい目で弘樹をにらみつけた。「あなたから手を出したんだからな」悠斗が弘樹に殴りかかろうとした瞬間、数人のボディーガードが彼を羽交い締めにした。そして、騒ぎを聞きつけてやってきた浩が、にこやかな顔で現れると、怒りに満ちた従弟の顔を軽くたたいた。「悠斗、まあ落ち着
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第18話

数ヶ月後、弘樹は新特許の発表会で浩に会い、その後の話を聞いた。菫は悠斗の心をつなぎとめるため、なんと整形して遥の顔になったらしい。でも悠斗に見抜かれると、似てないからだと思い込み、何度も手術を繰り返したそうだ。今ではもう顔がめちゃくちゃで、見る影もないそうだ。彼女が何度も養育費をせびりに来たらしい。でも杏は、子供たちが成長するにつれて、どんどん悠斗に似ていないと感じ、こっそりDNA鑑定をしたそうだ。そしたら、本当は二人とも彼の子じゃなかったことがわかった。驚いたことにその子たちは、菫が体外受精でつくった子で、父親は精子提供のボランティアだったそうだ。杏は怒りのあまり、出入り禁止を言い渡した。今後、菫が再び家に上がることも、これ以上1円もやることも許さない、と。追い詰められて逆上した菫は、カッとなって刃物で杏に襲いかかり、十数カ所も刺した。杏は、今も集中治療室で治療を受けているそうだ。家がこんな大騒ぎになったせいで、澪の婚約者にも愛想を尽かされてね。名家の恥だと言って、その日のうちに婚約を破棄されたそうだ。彼女はショックが大きすぎて、失語症になってしまった。今では、文字を打たないと人と会話ができないらしい。悠斗は街中で菫の行方を捜したそうだ。そしてボロボロの安宿で菫を見つけだしたとき、彼女は恐怖のあまり4階から飛び降りた。足の骨は粉砕骨折で、これからの人生、車椅子が手放せないらしい。この事件は大きなスキャンダルになってしまった。浩が大金を使って、ようやくマスコミを黙らせたんだ。浩は疲れたように眉間をもみ、ため息をついた。「もうすぐ悠斗を療養施設に送るんだ。何もなければ、あいつは残りの人生をずっとそこで過ごすことになるだろう」時間がたてば、悠斗の存在なんて誰も覚えちゃいないだろう。浩のやり方は手際がいい。だがその手口は、相手が異変に気づいたときには、すでに身動きが取れなくなっているような、冷酷なものだった。ただ、叔父である弘樹とは仲が良く、何でも包み隠さず話してくれた。弘樹は、この話を瑠夏にはしなかった。週末、二人は児童養護施設へ行って、子供たちに文房具や絵本をプレゼントした。庭の子どもたちが集まってきて、にこにこしながら二人を見つめている。「瑠夏さん、この人は彼氏なの?」瑠夏はきょとんとして、頬を
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第19話

瑠夏はわけがわからず弘樹を見つめた。なんだか今日の彼は少し様子がおかしい気がする。「ここには友達がたくさんいるのに、どうして急に引っ越さなきゃいけないの?」弘樹は少し黙ったあと、悠斗のことはまだ話さないでおこうと決めた。そして、わざと明るく笑ってみせる。「わかった。引っ越したくないなら、まだしばらくはこの町に住んでいよう」自分なら瑠夏を守れる、と彼は思った。花屋にはまだ束ねるべき花がたくさんあった。弘樹も見よう見まねで手伝い、二人は楽しそうに笑いあう。そんな和やかな雰囲気のなか、花屋の外をさっと人影がよぎった。弘樹は、キャップを目深にかぶり黒い服に身を包んだ男に、冷たい視線を向けた。深夜、外では木々の影がゆらめいている。悠斗は、明かりのついた窓をじっと見つめ、なかなかその場を離れられずにいた。数時間前、弘樹と瑠夏が手をつないでマンションに入っていくのを、彼はこの目で見た。もうすぐ夜11時になるというのに、あの男はまだ出てこない。激しい嫉妬と不安で、悠斗の目は充血していた。足元の石を拾い上げ、手の中で重さを確かめるように弄ぶ。瑠夏は、本当に遥なのだろうか?周りの人間はみんな、遥はもう死んだと言う。生きていると頑なに信じているのは、自分だけだった。この手で彼女を葬ったというのに、それでも死んだという事実を受け入れられなかった。もし瑠夏に出会わず、彼女と遥の間にあんなにたくさんの共通点を見つけなければ、時が経つにつれて、あの女を忘れられたのかもしれない。でも、こんなに偶然が重なるものだろうか?先日、児童養護施設で瑠夏が子供たちに絵を教えていたけど、その絵のタッチも色使いも遥と瓜二つだった。あのS国銀行の口座の持ち主が落札したダイヤの髪飾りも、ちょうど瑠夏がつけていた。ここ数日の様々な出来事が、悠斗の確信を強めていく。瑠夏こそが、遥なのだと。喜びが胸から張り裂けそうで、自分の遥がまだ生きていると、世界中に叫びたいほどだった。彼女が許してくれて、もう一度やり直せる可能性があるなら、どんな代償だって払うつもりだ。悠斗がその石を投げつけようとした、ちょうどその時。目の前に大きな人影が立ちはだかった。逆光のなか、浩は腕時計を外すと、彼の顔面に拳を叩き込んだ。「いつまで狂った真似を続ける気だ?!
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第20話

3ヶ月後、瑠夏は引っ越すことになった。どうしてかって言うと、ちょっと恥ずかしい話なんだけど。小雨が降る夜、彼女は弘樹と酔っぱらい、その勢いでとうとう一線を越えてしまったのだ。それから数日、瑠夏はお店に閉じこもっていた。気だるい腰をさすりながら、友達に片っ端から連絡。【お花はタダにするから注文して!】とお願いしまくった。一度味を占めてからというもの、欲求が抑えきれない様子の弘樹。彼のいる家に、どうしても帰りたくなかったのだ。何日もそんなことをしていると、弘樹が目を真っ赤にして店に押しかけてきた。噂好きな近所たちが注目する中で、「もう俺に飽きたの?なんでずっと避けるんだ」と訊いてきた。瑠夏は顔を赤らめ、彼の手を引いて家に帰った。その夜、ベッドが壊れてしまった。二人は床に布団を敷いてなんとか一晩を過ごし、次の日の朝早く、家具店へベッドを選びに行った。いろいろ見たけれど、すぐ買える大きなベッドには気に入るものがなかった。そこで弘樹が、先に自分の家に住まないかと提案した。オーダーメイドのベッドが届いたら、またこの町に戻ればいいと。瑠夏はきっぱりと断った。しかし、二人がベッドを買いに行ったという話は、その日のうちに町中に広まってしまった。おかげで、どこへ行ってもからかわれる羽目になった。彼女はそんな好奇の目に耐えられなくなって、弘樹の提案を受け入れるしかなかった。一時的に彼の家に住むことにしたのだ。引っ越しのトラックが、豪華な別荘の前で止まった。瑠夏は信じられないといった目で弘樹を見た。「これがあなたの言ってた、小さなマンション?」目の前の建物は、まるで国立博物館のような広さだった。北条家の屋敷と比べても10倍は広いだろう。門の前では、使用人や警備員が整列し、揃って挨拶した。「奥様、お帰りなさいませ!」弘樹は彼女の手をとり、その整った顔が少し照れたように伏せて、そう言った。「瑠夏、一生そばにいるとは約束できない。明日のことさえ、誰にもわからないから。でも、これだけは約束する。俺の心臓が動いている限り、全力で君を愛し続ける」彼は甘い言葉をささやくような男ではない。二人が付き合い始めてから、こんなにきちんとした告白は初めてだった。瑠夏は感動で胸がいっぱいになり、目に涙を浮かべてうなずいた。次の日、弘樹は全財
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