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第11話

瞬く間に数日が過ぎ、鷹宮家の食事会はもう目前に迫っていた。真帆は丁度新しい案件を受け、出張を理由として身をかわすつもりだった。準備は万端だった……はずなのに。搭乗ゲートへ向かう直前、背後から呼び止められた。「奥様。恐れ入りますが、食事会が終わるまで星嶺市を離れるなとの仰せです」先頭に立つ護衛は、物腰こそ丁寧だが有無を言わせぬ口調でそう言った。真帆はキャリーケースの取っ手を、ぎゅっと握りしめた。結局、彼らは寸分の隙も与えず、真帆をそのまま邸宅へと送り戻した。家の中には、波も龍司もいない。おそらく、湊の体調がまだ万全ではないのだろう。そう察した真帆は、むしろそのほうが静かでいいと安堵した。そのとき、和恵が上品な化粧箱を抱えてやって来た。「奥さま、こちらは旦那様からです。今朝一番で、お届けするよう仰せつかっておりました」真帆は特に疑わなかった。龍司は「埋め合わせをする」と言っていたし、金銭面で渋ったこともない。蓋を開けると、そこには手の込んだ重厚なドレスが入っていた。生地も仕立ても一級品で、一目で高価なものだとわかる。以前なら、真帆はすぐにでも試着していただろう。けれど今の真帆はただ小さく笑い、和恵に「しまっておいて」と頼んだだけで、そしてそのまま寝室へ戻った。食事会当日、龍司はようやく邸宅へ戻ってきた。ただ、その傍らには波と湊の姿もあった。車を降りたとき、真帆は言い知れぬ違和感を覚えた。自分が龍司の車椅子を押し、その横に波が寄り添い、彼女の手には湊が引かれている。この三人の姿こそ、まるで仲睦まじい家族そのものだ。それに対して自分は、この身にまとった高価なドレスがなければ、ただの「付き添いの使用人」のようだと真帆は思った。龍司の祖母は湊の姿に目を細め、波と楽しげに言葉を交わしている。真帆はわざわざ割って入る気にもなれず、周囲を見渡した。恐れる人がいないことを確認すると、彼女は密かに胸を撫で下ろした。そっと後方に下がると、使用人たちの手伝いに回り、できるだけ存在感を消した。だが、逃げきれるはずもなかった。西園寺家の人間が到着すると、鷹宮家夫人自らが出迎えに出たのだ。鷹宮家の若奥様である以上、真帆が姿を見せないわけにはいかない。門前に、黒塗りの高級車がゆっくりと停車
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第12話

「……柊さん」その呼び方は、二人の間にはっきりと一線を引いていた。あれから五年……丸五年もの歳月が流れたのだ。千日を優に超える月日を経て、まさかこんな形で彼と再会することになるとは、夢にも思っていなかった。一方は、西園寺家の当主としてこの場に立ち。一方は、鷹宮家に嫁いだ妻として席に着く。鷹宮家は「食事会」と称していたが、料理も設えも、完全に晩餐会そのものだった。この会をどれほど重く見ているかが、嫌でも伝わってくる。食事の最中、龍司の祖母はついに主賓席を一雄に譲った。何回か酒を交わしたあと、彼女はにこやかに口火を切り、話題を両家のビジネスへと誘導しようとした。「一雄さんは本当にお若いのに立派ねえ。この歳で西園寺家を率いるなんて。それに比べて、うちの孫たちは……とても表に出せるものじゃないわ」西園寺家を率いる……その言葉が胸に突き刺さり、真帆の箸がわずかに止まった。心臓を、ぎゅっと掴まれたような感覚。彼は……本当に、西園寺家の当主になったのか。五年前の記憶が、冷たい嵐のように彼女に押し寄せた。彼がいかなる手段で当主に上り詰めたのか、真帆には知る由もない。あの頃の一雄は、西園寺家では名もない存在だった。継承権どころか、姓すら西園寺を名乗れず、母方の姓のまま。西園寺家の当主が重い病に倒れ、「家族を集めろ」と言われなければ、外で育てられた私生児である彼が本家の門をくぐることさえ叶わなかったはずだ。だが経緯はどうあれ、今の彼がこれほどの威光を放っているのなら、悲願を成就させたと言えるのだろう……五年という時間は、あまりにも多くのものを変えていた。龍司の祖母は食事のあいだ、ことあるごとに一雄へ視線を送っていた。卓を囲む人々は、それぞれ腹に一物を抱えている様子だが、誰もが気になっていたのは、先ほど一雄がわざわざ真帆に声をかけたことだった。そしてついに、敏子が皆の代弁をした。「一雄……真帆さんとは、以前からお知り合いなの?」「ああ」一雄は隠す素振りも見せず、周囲の視線を堂々と受け止めた。それだけでは飽き足らないとでも言うように、さらに言葉を継いだ。「親しい仲だ」そして、逃げ場を断つように真帆を見た。「……そうでしょう?柊さん」真帆は全身がびくりと震える。かつて彼と過ごした日
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第13話

「……ええ。着心地は良いです……」一雄が何を言いたいのか、真帆には分からなかった。頭の中は真っ白で、ただ流されるままに受け答えをしている。どこかで、男が低く笑った気がした。その場の空気が、微妙に張りつめた。龍司は使用人に合図をし、一雄のグラスに酒を注がせた。穏やかな笑みの裏に、探るような視線を浮かべた。「……叔父さんと真帆は、どういうきっかけで知り合ったんですか?」その瞬間、真帆は言葉を失った。胸の鼓動が激しく跳ね上がり、一雄が何か余計なことを口にしないかと気が気ではない。あの過去は、決して人前に晒されるようなものじゃない。だが、一雄は少しも動じることなく、ゆっくりと視線を上げ、手にしていたカトラリーを置いた。「……ずいぶん、気にかけているようだね」「真帆は俺の妻です。夫婦ですし、気にかけるのは当然でしょう」龍司はそう言って、自然な仕草で真帆の手を包み込み、そして見せつけるように指と指を絡めた。「俺だけじゃありません。鷹宮家の皆が、真帆を大切に思っています」「……愛情深い夫婦、ね」二人が手を繋ぐ様子を見て、一雄は胸に苛立ちが走る。鼻で笑い、冷ややかに言い放った。「では、君はご存じかな。君のその愛しの妻が……」ガシャン。熱いスープの椀が床に落ち、中身が飛び散った。真帆のドレスの裾が、一気に濡れた。龍司が慌てて紙ナプキンを差し出した。「大丈夫か?火傷してないか?医者を呼ぼうか?」「……だ、大丈夫」真帆は俯き、汚れた裾を拭いた。誰も気づいてはいないが、彼女の背中はすでに冷や汗でびっしょりだった。「着替えた方がいいな」龍司は使用人を呼んだ。「濡れたままだと気持ち悪いだろう。二階の客室に、替えの服がある」真帆は一刻も早くこの場を離れたかった。その言葉を聞くなり、差し出された逃げ道にすがるように立ち上がった。そのまま使用人に付き添われ、席を外した。平静を装ってはいたが、足取りのぎこちなさは隠せなかった。客室に入った瞬間、膝が崩れそうになった。扉を閉め、ようやく大きく息を吐いた、次の瞬間。ガチャ、と扉が勢いよく押し開かれた。反応する暇もなく、誰かに手首を掴まれ、強く引き寄せられ、背中がドンと扉に叩きつけられた。「……そんなに怖いか?」男の低く艶のある声が、耳
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第14話

彼の言葉に、あまりにも鋭く胸を抉られるような思いをした。真帆は全身の骨が軋むような痛みに襲われ、思わず息を詰めた。一度深く息を吸い込み、顔を上げると、はっきりと言い切った。「……それは私が、望んだことよ」その言葉に、一雄の目が瞬時に赤く染まり、腰を掴む手に更に力がこもった。「……今、なんて言った?」「生きようと死のうと、私は鷹宮家の人間よ。私は、龍司を愛してる。だから……私は、鷹宮家に嫁いだ。たとえ彼が歩けなくても、一生そばにいるって決め……」彼女は意地を張りすぎた。怯えをほんの一欠片も見せなかったことで、彼の逆鱗に触れた。一雄は、感情のままに真帆を抱き寄せ、歯列をこじ開けるように口づけた。噛み、絡め、まるで罰を与えるように。最初は怒りに駆られた衝動だったが、気づけば彼の方が夢中になっていた。真帆は息ができなくなり、必死に彼の肩に爪を立て、思いきり身を突き離してようやく、一雄ははっと我に返った。荒い呼吸のまま距離を取るが、抑えきれない熱がその瞳に渦巻いていた。「……もし今の姿を、真実の愛のご主人が見たら、それでも、君を選ぶと思うか?」パシン……乾いた音が響く。真帆は迷いなく手を振り抜き、赤くなった唇を力強く拭った。痺れる頬を押さえながら、一雄はふっと笑った。「結婚すると、強くなるものだな。兄にまで、手を上げるとは」その一言が、十数年前の記憶を無理やり呼び起こした。一瞬、意識が遠のいた。古傷をえぐられたような痛みが、胸いっぱいに広がった。涙をこらえながら、真帆は冷ややかに笑った。「……兄と呼ばれる資格が、今のあなたにあるの?栄華のために私を捨てたくせに、今度は私の人生まで壊そうとする人に」一言一句、突き刺すように続けた。「私の兄なんて、名乗らないで」一雄の瞳が揺れ、掴んでいた手がわずかに緩んで、瞳の奥に一瞬の狼狽が走った。「……真帆。あの時は……」言いかけた言葉は、廊下を通る足音に遮られた。真帆はハッとし、彼が一瞬意識を逸らした隙に、その場を抜け出した。だが、階段の踊り場に出たところで、運悪く上がってきた波と鉢合わせしてしまった。真帆は表面上こそ平静を装っていたが、内心では動揺を隠せなかった。波は人の好さそうな笑みを浮かべて近づいてきた。「着替えは済んだ?龍
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第15話

その頃、龍司は湊の食事を手伝っていたが、警官の呼びかけを聞くや否や、湊を使用人に預け、車椅子を操作して前に出た。「警察の皆さん。彼女に、いったい何のご用件でしょうか」鷹宮家は星嶺市でも指折りの名家だ。警官も龍司の顔を知っており、軽く会釈をすると、すぐに公的な口調へ戻った。「江口波さんは、他人に犯罪行為を唆し、金銭を支払って実行させた疑いがあります。これからその件で身柄を拘束し、事情聴取を行う必要があります」場の空気に、雷が落ちたような衝撃が広がった。警官の言葉が終わると同時に、人々は一斉にざわめき立ち、ひそひそと声を潜め始めた。龍司の祖母は眉をひそめ、厳しい眼差しを波に向ける。「波……これは、どういうことなの?」もともと動揺していた波は、その鋭い視線を見ると否定の言葉を反射的に吐き出した。「ち、違います!私じゃありません、何もしてません!」彼女はボロボロと涙をこぼしながら、よろめく足取りで龍司の前へとすがりついた。「龍司、お願い……おばあさまも、信じてください。本当に、私じゃないんです……!」波は泣きじゃくり、必死に助けを求めるため、龍司の胸にもためらいがよぎり、思わず彼女を庇うように、背中へ引き寄せた。「妹が委託殺人などという重大な罪に問われる以上、相応の証拠があるはずですよね。被害者は誰で、誰が、彼女を告発したのですか?」「私よ」階段の方から静かだが芯の通った声が響いた。ゆっくりと姿を現したのは、真帆だった。その足取りは落ち着いていて、だがその一歩一歩には、龍司の胸を踏みしめるような重みがある。「証拠は揃っています。証人の供述も含め、告発は合法で正当なものです」「真帆?」龍司は信じられないという表情を浮かべ、言葉を失った。だが真帆は顔色一つ変えなかった。背後では、若い親族たちの声が小さく飛び交っていた。「家宴の最中に警察を呼ぶなんて……」「でも、義姉さんが正しいと思うけどな。江口波が入り浸ってたのも事実だし、俺が義姉さんの立場ならとっくに追い出してるよ……」「これは……荒れるな」真帆は一切気に留めず、警官の前に立った。「法に則って、然るべき対応をお願いします」「承知しました」警官はうなずき、背後に合図を送ると、二人の警官が、波のもとへ進み出る。「江
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第16話

真帆は、言い返さず、言われた通り、そのまま庭へ出て跪いた。だが、反省するつもりなどは一切ない。そもそもすべての発端は波だった。あの少年の母親が抱えていた憎しみにつけ込み、金を渡して真帆を襲わせた。龍司の祖母がどれほど波を溺愛しているか、龍司がどれほど彼女を庇うか、真帆は嫌というほど分かっている。もし裏で通報していれば、きっと大事にはならずに揉み消され、小さく処理されて終わりなのだろう。それに今の真帆には、波がしばらく身動きの取れない状態を作る必要があった。たとえ最終的に罪に問えなくてもいい。ただ、波が拘束されている間、龍司の意識がそちらに向いてくれさえすれば。そうすれば、水面下で進めている離婚計画への障害が減るはずだ……......会場では、龍司の祖母が荒れに荒れていて、散らかった食器を前に、速効性のある心臓の薬を立て続けに二錠、口に放り込んだ。それでも怒りは収まらず、今度は茶杯を二つ床に叩きつけた。「よく見なさい!これが、龍司の選んだいいお嫁さんよ!」龍司もまた、普段は波風を立てない真帆がここまで踏み込んだことに驚いていた。そこへ、「龍司パパ、ママ……」と泣き叫ぶ湊の声が響いた。その声によって、胸の内に溜まった苛立ちがさらに募る。「……連れて行け」龍司は使用人に目配せし、湊を別室で休ませるよう指示した。龍司の祖母は杖をつき、冷え切った声で言い放った。「龍司。どう考えているかは知らないが、今日の件は、必ずきれいに片づけなさい」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、パチ、パチ、パチと乾いた拍手の音が、二階から降ってきた。一同が顔を上げると、そこには、いつの間にか手すりにもたれて立つ一雄の姿があった。彼の口元に微かな笑みを浮かべていた。「いやあ……思っていた以上に、面白い晩餐ですね」長い脚を気だるげに運び、階段を下りてくる。「鷹宮家にはご家庭の事情があるようですし、私はこれで失礼しましょう」「一雄……」敏子が呼び止めようとしたが、彼は軽く手のひらを上げて制した。「鷹宮夫人。西園寺さんと呼んでいただきたい。私と鷹宮家は、そこまで親しい間柄ではないのでね」「……っ」敏子は、言葉を失った。一雄と自分は共に西園寺家の血が流れている。世間的には、「姉弟」と見られてもおかし
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第17話

「家の内情か……」一雄は、小さく笑った。「さっき君は鷹宮家と西園寺家は姻戚で、身内同士だと言ったが……身内であるなら、私が少し気にかけるのも筋というものだろう」彼は階段を降り、一歩ずつ龍司の前まで来ると、わざと腰をかがめた。距離はかなり近くなると、圧迫感が容赦なく押し寄せる。一雄は声を低くし、龍司にしか聞こえない声で言った。「どうやら……君の愛妻家という肩書きは嘘のようだな」そう言い残し、一雄は一刻も留まることなく、大股でその場を後にした。鷹宮家の本邸は古風な楼閣造りで、名工の極彩色彫刻が施され、重厚な風格を放っている。中庭の地面は、ほとんどが花崗岩が敷き詰められている。その石畳は冷たく、そして無慈悲なほどに硬い。真冬の空気のなか、真帆が身につけているのは薄い礼服一枚だけだ。風が吹くたび、青々とした柏の枝を揺らす。肌を刺すような寒さに、彼女の体は小さく震えた。その頃、一雄は執事に案内され、鷹宮家本邸を去ろうとしていた。彼は最初から最後まで、中庭の方を一度も振り返らなかった。だが、一雄の後ろを歩く秘書の高瀬直哉(たかせ なおや)は、どうにも気が収まらない様子だった。「……一雄さん、本当に……真帆さんを放っておいてよろしいんですか?」彼はぶつぶつと呟いた。「この寒さですし……あの老婆がいつまで真帆さんを跪かせるつもりか分かりませんが、万が一……」「万が一、何だ」一雄の冷たい声が、言葉を遮った。「自分から苦労を選んだんだ。余計な心配をするな」「ですが……」「放っておけ」門を出たその瞬間、氷のように冷たい言葉を吐き出した。「一度くらい、痛い目を見ればいい」直哉はそれ以上何も言わず、ただ黙々と主人の背中を追った。主がそう言うなら、従うしかないのだ。......騒動の余波で、鷹宮家の人間たちはすっかり食事する気を失い、次々と帰っていった。本邸の中は、再び静寂に包まれた。敏子は龍司の祖母を支え、寝室まで付き添って休ませた。その途中ふと窓の外に目をやると、中庭で真帆がひとり跪いている姿が見えた。華奢な背中が、寒風の中で一層痛々しく見えた。敏子はしばらくその姿を眺めてから、龍司の祖母のそばに腰を下ろし、宥めるように口を開いた。「お義母さん……外は冷えます
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第18話

鷹宮家の本邸から少し離れた場所で、直哉は運転席に身を預け、退屈そうに時間を潰していた。ときおりバックミラー越しに、後部座席に座る一雄を盗み見た。その心と裏腹な態度に内心でツッコミを入れつつ、門の様子に目を配っていた。視界の端に見慣れた車椅子が映った瞬間、彼は弾かれたように背筋を伸ばした。「一雄さん、龍司さんが出てきました!」目を細めて相手を確認しようとしたが、すぐに違和感を覚えた。「……あれ?真帆さんが一緒じゃない?」後部座席からは反応がないのを見て、聞こえていないのかと思い、直哉はもう一度言った。「一雄さん、真帆さん……出てきていません」夜の帳に包まれた車内で、一雄は目を閉じたままシートに深く身を沈めていたが、肯定とも否定ともつかぬ声を低く漏らした。「……ああ」ああ?ああってどういう意味だ?直哉は気まずそうに鼻をこすり、判断に迷った。気にかけているというなら、鶴の一声で彼女を連れ出すことなど造作もないはずだ。かといって気にしていないというなら、門を出た後に車を出させることもなく、こんな目立たない物陰に車を止めさせている理由がわからない。一雄の心中を測りかね、かといって独断で動くわけにもいかない。直哉は恐る恐る探りを入れた。「……まだ待ちますか?」一雄の眉が、わずかに動いた。「急いでいるのか?」「え?」「早く帰りたいのか?」「......」直哉は思わず空を見上げた。付き合いの長い側近として、一雄と真帆の過去を知らないわけではない。だが、口を挟める話でもない。結局何も言えず、ただ黙って待ち続けた。深夜になっても、真帆の姿は現れなかった。直哉ははたまらずぼやいた。「……あの鷹宮家のご老夫人、さすがに厳しすぎませんか。もう一時間ですよ……」ぼやいた直哉の声は、闇に吸い込まれた。後部座席からは、指先で座席の肘掛けを叩く音が微かに聞こえる。規則性のないその音が、一雄の内心を物語っていた。やがて、一雄が低い声で命じた。「江口波について調べろ。明日までにだ」「……承知しました」直哉はすぐにスマホを取り出し、指示を飛ばした。進捗を報告しようと振り返った瞬間、「車を出せ」と冷え切った声が響いた。「……真帆さん、待たないんですか?」「待ちたいのか?」「..
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第19話

「この中庭を、膝をついて一周すれば本日の罰はそれで終わりにする、とのことです」「なお、夜間で視界も悪いため、奥様が誤ってお怪我をなさらぬよう、安全のために護衛を二名手配させております」呆然から一瞬で愕然へと変わり、真帆は思わず小さく笑ってしまった。どんなに愚鈍な人間でもわかる。敏子の「とりなし」などというのは、より陰湿な方法で彼女を苦しめるための口実に過ぎない。鷹宮家の中庭は広大で、普通に歩いて回っても一時間はかかる。それを、膝で歩けというのか。ちらりと視線を上げると、左右に二人の護衛が微動だにせず立っている。安全のためなどと尤もらしい理屈を並べているが、要するに途中でサボらないよう監視するためだろう。敷地が広いぶん、監視カメラの死角もある。そこを封じるための、人間の目があれば、数歩立ち上がって休むことすら許されない。真帆は冷え切った花崗岩とコンクリートの上を、膝を擦りつけながら進み始めた。薄手のドレスは何の保護にもならず、むしろ細かな装飾が膝に食い込み、痛みは増すばかりだった。数歩進むごとに、身体がよろける。転びかけるたび、護衛の視線が鋭く突き刺さった。立ち上がろうものなら、すぐさま罰を与える——そんな気配が、ひしひしと伝わってきた。そして、追い打ちをかけるように、雪が降り出した。正隆は途中まで同行していたが、雪に気づくと静かに室内へ戻っていった。護衛たちは任務優先で、雪だろうが、嵐だろうが任務を遂行しなければならない。苦しむのは、真帆だけだ。膝をつき、一歩、また一歩。這うようにして門をくぐる頃には、まつ毛にまで薄く霜が降りていた。身体の芯まで完全に冷え切っている。護衛たちは、任務が終わったとばかりに、振り返ることもなく中へ戻っていった。最後に声をかけてくれたのは、門番人だった。立ち上がろうとするが、うまく力が入らない真帆の様子を見て、厚手のコートを持ってきて彼女に差し出した。「奥様……その……お帰りはどうなさいますか」鷹宮家は山の中腹にある。車がなければ、下山することさえ困難だ。真帆は、言葉に詰まった。今日は龍司と一緒に来たが、彼は波の件ですでに本邸を去っている。「今回の大奥様のなさりようは、さすがに……」門番は言いよどみ、それ以上踏み込むのをためらうよう
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第20話

車が止まった気配に、真帆はゆっくりと目を開けた。「……すみません、奥様……その……大奥様からお電話がありまして……これ以上お送りできないと……」運転席から聞こえる門番人の声は、どこか歯切れが悪かった。彼は困ったように、申し訳なさそうに続けた。「もう麓も近いですし、少し歩けば、すぐにタクシーも捕まると思いますので……坊ちゃんがいらっしゃれば……きっとこんな罰、見過ごしませんよ。奥様がこんな目に遭わされていることを知ったら、どれほど胸を痛めることか……」胸を痛める?真帆は、心の中でそっと首を振った。もし龍司がここにいたとしても、彼はきっと自業自得だと思うだけだ。何しろ自分は、彼が何より大切にしている波に手を出したのだから……門番人は言葉を濁しながら車を降り、ドアを開けた。「奥様……どうか責めないでください。私は……ただの雇われですから……」その視線には、確かな労わりがある。まるで、自分の孫娘でも見るような目だ。鷹宮家に、心のある人間は多くない。鷹宮家夫人に疎まれている自分に対して、石を投げないだけでもマシなほうで、ましてや手を差し伸べてくれる者など皆無に等しい。この門番人は例外だ。真帆は彼を困らせたくないし、自分のせいで、仕事を失わせるわけにもいかない。差し出された腕を借り、ゆっくりと車を降りた。「この道をまっすぐ下りれば、十分もせずに大きな道に出ます。どうか、お気をつけて……」門番人は心配そうに念を押した。だが、彼が支えていた手を離した瞬間、膝から力が抜け、真帆の身体がふらりと前に倒れた。「奥様!」門番人が慌てて手を伸ばすしたその刹那——眩しいほどのヘッドライトが、二人を照らし出した。門番人は思わず目を細めて見ると、車のドアが開き、長身の男が降り立った。車のドアが閉まる鈍い音が響き、男のロングコートが風に煽られてバサバサと音を立てた。「……あなたは……」門番人が声をかけるより早く、その男は屈み込み、真帆を抱き上げた。力強い腕にきつく抱きしめられ、懐かしい清冽な香りが冬の風と共に鼻孔をくすぐる。真帆は無意識に眉を寄せ、かすれた声で呟いた。「……おにい、ちゃん……」その一言で、男は全身の血が凍りついたかのようにぴたりと止まった。後から降りてきた秘書もその呟きを聞
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