Home / 恋愛 / 再婚先は偏執大物 / Chapter 51 - Chapter 60

All Chapters of 再婚先は偏執大物: Chapter 51 - Chapter 60

100 Chapters

第51話

真帆が目を覚ますと、病院特有の消毒液の匂いが鼻腔いっぱいに広がった。まるで高級ホテルのスイートルームのような病室で、必要なものはすべて揃っており、ひと目で相当な金がかかっていると分かった。「起きたか」澄んでいながら低く落ち着いた声が耳元で響いた。「どこか具合は悪くないか」真帆は視線を動かし、声の主を探した。一雄が病床のすぐ脇に腰掛けており、目の下にはうっすらと隈が浮かんでいた。気のせいかもしれないが、彼の眼底にほんの一瞬、心配の色が見えた気がした。だが、あまりにも一瞬だったため、真帆は一雄の気持ちがわからなかった。首を振ろうとして、ふと何かを思い出した。真帆ははっとして布団を跳ね上げ、慌てて自分の身体を見下ろした。「見るな。何もされてない」彼女の考えを察したのか、一雄の口元がわずかに緩んだが、すぐにいつもの調子に戻った。「医者の話じゃ、薬が抜ければ問題ないそうだ。安心しろ」あまりにもストレートに言われ、真帆の頬はじわりと熱くなった。布団の端をぎゅっと掴み、視線を逸らして横になり直す。そして小さな声で言った。「ありがとう……」一雄は一瞬、動きを止めた。慣れない言葉を向けられ、整っているはずのネクタイを意味もなく整えた。「何があったか覚えているか?」さりげなく話題を変え、「なぜ誘拐されたのか、向こうは何か言っていたか」と質問した。これは大事な話だ。真帆もすぐに気持ちを切り替え、ことの詳細を思い出そうとした。「ええと……」必死に思い出そうとするが、頭の中は真っ白だった。どれだけ考えても輪郭の曖昧な映像しか浮かばず、無理に思い出そうとするほど像が重なり合って、かえって見えなくなる。ようやく記憶の断片を掴み、こめかみを押さえながら言った。「たしか人がたくさんいて、私たちと同じような人もいて、それから黒人の人も……」「黒人?」一雄の表情が引き締まる。「本当なのか?」事件後、直哉に命じて現場は完全に処理させたが、誘拐犯は全員、純粋なアジア系の男だった。黒人など、いなかったはずだ。当初は金目当てかと思ったが、発見時、真帆の貴重品類はすべて無事で、強盗にしては不自然すぎた。しかも犯人たちはただのチンピラ崩れで、オークション会場の正面での犯行など不可能だ。誰かの後ろ盾がある場
Read more

第52話

似顔絵師は慣れた様子で立ち上がり、軽く会釈して言った。「一雄さん、いったん持ち帰って作業をします」「急げ、できたらすぐに見せろ」一雄は頷き、直哉に目配せして彼を送り出させた。真帆はまつ毛を伏せ気味にして呟いた。「私……説明が、足りなかったかな」「気にしなくていい」彼女が申し訳なさそうな顔をしたのを見て、一雄は何か言ってやろうとしたが言葉が見つからず、結局ぶっきらぼうに続けた。「具合が悪いなら少し寝ろ、無理する必要はない」真帆はようやく気を緩めた。頭がひどく痛み、薬の残りがまだ抜け切っていないような感覚があった。そのまま眠りに落ち、目を覚ましたのは翌日の午後だった。病室のドアが開くと同時に、ほのかな食事の香りが風に乗って鼻へと流れ込んでくる。「やっと起きたか、よく寝たな」一雄はドアノブに手をかけたまま立っており、その背後には相変わらず直哉がぴったりと付き従っていた。中へ入ると、慣れた足取りで病床へ向う。真帆の前にベッドサイドテーブルを立ててから付き添い用の椅子に腰を下ろした。「食べ物を持ってきた、少し食え」その言葉と同時に、直哉が白い弁当箱を二つテーブルに置いた。「真帆さん、ぜひ食べてみてください」そう言って、直哉は期待に満ちた顔で蓋を開けて見せた。まるで芸術品のように美しい料理が現れ、湯気とともに香りが立ち上る。その匂いが脳裏に届いた瞬間、真帆は動きを止めた。彼女は昔からあまり食に興味がなかった。どんな料理でも二、三口で飽きてしまう癖があった。人からは、他人は食べるために生きているのに、彼女は生きるために仕方なく食べているだけだと言われたこともある。その後、一雄と出会った。彼は真帆より六歳年上だ。彼が成人した頃、真帆はまだ十二歳の少女だった。一雄は、精神病院から彼女を引き取り、養ってくれた。真帆があまり食べないことと知ると、彼は彼女のために飲食店で働き始めた。そして、厨房で見様見真似で料理を覚えた。当時の二人は貧しかったが、一雄はいつも工夫を凝らして彼女に料理を作っていた。目の前に並んだ料理は、かつて真帆がいちばん好きだったものばかりだった。だが今回、真帆は箸を取らなかった。しばらく待っても動かないのを見て、一雄の整った眉がわずかに寄る。「どうした
Read more

第53話

二人の間に漂っていた微妙な空気を、スマホの着信音が断ち切った。一雄は画面を一瞥し、唇の端にぞっとするような弧を描いた。直哉はもちろん、真帆でさえ、背骨を伝って冷気が脳髄まで駆け上がるのを感じた。「どうしたの?」真帆が探るように尋ねる。「何でもない」一雄は表情を引き締めて立ち上がり、「ゆっくり食べろ」とだけ言った。そのまま視線を直哉に向けると、直哉は即座に察し、足を運んで一緒に病室を出た。次の瞬間、一雄は画像を直哉に転送し、冷たい声で命じた。「武臣に伝えろ、地の底を掘り返してでも、この男を必ず見つけ出せ、と」直哉はすぐにスマホを取り出して操作し、短く頷いた。そのとき、脇から小さな笑い声が聞こえた。振り向くと、景吾が壁にもたれ、気怠げな笑みを浮かべている。「武臣まで動かすなんて、今回は相当なものだな、こちらの女性は……お前にとって、かなり特別らしい」一雄は西園寺家の中で生きてきた。一歩踏み違えれば奈落に落ちる立場だ。心から信頼できる人間は多くない。だが側近たちは皆知っていた。武臣という男は、一雄にとっての鋭利な刀だ。表に出せない仕事の多くは、すべて武臣が引き受けてきた。刀は抜かれれば必ず血を浴びてから鞘に収まる。一雄は直哉に視線を送った。直哉は小さく頷き、景吾の横を通り過ぎる際、無言の圧を残してその場を離れた。景吾は軽く笑い「部下がどんどん頼もしくなってるようだな。直哉は温和なタイプだと思ってたのに……」と続けた。彼は感心したように舌を鳴らした。「さっきの目、次の瞬間にでも俺を消しに来そうなほど怖かったぞ」一雄は冷ややかな視線を投げるだけで、冗談に取り合わない。「俺が何を一番嫌うか、お前は知っているはずだ」「もちろん」景吾は眉を上げ、「星ヶ丘の西園寺一雄は、悪人を嫌い、悪を憎む、だろ?」と返した。「でもここまでやるのは、正義感だけとは思えないな」肩を軽く叩きながら、意味深に笑う。「一雄、お前、いつからそんな聖人みたいになった?」一雄は身をかわし、冷たい声で言った。「彼女のためであろうとなかろうと、あの男は生かしておけない」「強がるなよ」景吾は明らかに信じていない様子だった。「忠告しとくけど、星ヶ丘の連中は甘くないし、それに……」言い終わる前に、針のように鋭い視
Read more

第54話

相手の答えを聞き終えると、彼は低い声で言った。「次は、そんなに衝動的に動くな。今回の件を調べている人間がいるし、彼女はここの病院へ運ばれている。これからどう始末をつけるつもりだ」「今さら俺にどうするか聞くのか?」景吾は鼻で笑い、内心では「肝心なところでいつも足を引っ張りやがる」と冷ややかに思った。しばらく沈黙したのち、氷のように冷たい声で短く言い切った。「駒を切り捨てろ」……二日連続、真帆は一雄の姿を見なかった。病室に出入りするのは、時折薬を替えに来る看護師だけで、それ以外に誰かが訪ねてくることはなかった。翌朝、病室のドアを開けたのは看護師ではなく、数日姿を見せていなかった龍司だった。浩一は同伴しておらず、龍司は自分で車椅子を操作して入ってきた。あの日、波を案じていたときと同じように、瞳には切迫した焦りがあふれていた。「真帆、君が誘拐されたと聞いた。一体何があったんだ?怪我はしていないか?ひどい目に遭わされなかったか?」矢継ぎ早に投げかけられる質問に、彼の姿を見た瞬間に一度真っ白になった真帆の頭は、ますます思考が追いつかなくなる。少し間を置いてから、真帆は静かに首を振った。「詳しいことは……私もよく分からなくて」それは決して嘘ではなかった。真帆にとって、誘拐されたあとの記憶は本当に曖昧だ。覚えているのは、誘拐される直前、龍司と一緒にオークションへ出席していたこと。そして彼が波と一緒に帰り、ひとり取り残された自分に付け入る隙が生まれたことだけだった。恨んでいないのかと問われれば……答えはもちろん恨んでいる。だが彼に対する不満はあまりにも多く、いちいち思い返すのも嫌になるほどだった。落としたまつ毛の下にすべての感情をしまい込み、再び彼と目を合わせたときには、表情はすでにいつもの穏やかなものに戻っていた。「ところで、どうして私が病院にいるって分かったの?スマホは壊されてしまって、まだ連絡もできていなかったのに……」龍司は一瞬言葉を詰まらせ、視線がわずかに揺れた。「家の者から君が入院していると知って、それで心配して……」ふと思い出したように、彼は問いを重ねる。「真帆、警察には届け出たのか?君を助けたのは誰だったんだ?」警察……薬の影響が残る頭には、その発想はすぐには浮かばなか
Read more

第55話

龍司は、彼女が拒む余地を最初から断ち切っていた。以前なら、真帆はきっと、龍司が気を利かせているから、何から何まで自分のことを考えてくれているのだと思っただろう。だが、これだけの出来事を経た今、彼女にはそれが、彼女を縛るための「優しい刃」にすぎないことがはっきりと分かっていた。一見、傷つけてないように見えて、実際には一瞬たりとも彼女の急所から離れていない。それでも、彼女は拒まなかった。理由は、病院でこれ以上彼と押し問答をしたくなかったから。それに、万が一一雄が戻ってきたら、龍司に疑念を抱かせかねないと思ったからだ。真帆は退院し、邸宅に戻った。和恵が万全の準備を整えて待ってくれていた。不思議なことに、波と湊の姿が見当たらない。彼女の様子に気づいたのか、龍司は穏やかな声で説明した。「おばあちゃんが湊に会いたがってさ、波に頼んで、しばらく向こうで過ごさせることにしたんだ」彼は真帆の手を引いてリビングへ入る。「そのほうがいいだろ?小林さんも君の世話に専念できるし、君もゆっくり休める」真帆は何も言わなかった。ただ、かつて自分の居場所だった寝室に足を踏み入れた瞬間、懐かしさと同時に、どこかよそよそしさを覚えた。ほどなくして、和恵が盆を手に寝室の扉を叩いた。「奥さま、旦那さまの言いつけで、栄養のあるスープをお作りしました」真帆は振り返り、唇をわずかに緩める。「そこに置いてください」和恵は頷き、寝室の小さなテーブルに器を並べた。真帆が箸を取る気配がないのを見て、一瞬迷った末、探るように口を開いた。「奥さま、今回は……もうお出かけにならないのですよね?」「え?」真帆が一瞬理解できずにいると、和恵は小さくため息をついた。「奥さまがいらっしゃらない間、この家がどれほど荒れたか、ご存じありませんでしょう。波様はともかく、あの坊ちゃんが……もう家中を引っ掻き回して」和恵は止まらぬ調子で愚痴をこぼし、真帆が相槌を打たないのに気づくと、気まずそうに笑った。「その……奥さま、決して悪口を言いたいわけではなくて、ただ……」ただ、あの波という人が、あまりにも鼻につくのだ。龍司の前では大人しく従順なのに、ひとたび姿が見えなくなると威張り散らす。目の前にいる、正真正銘の奥さまには到底及ばないというのに。和恵は
Read more

第56話

一瞬、真帆は自分が夢を見ているのではないかと思った。でなければ、龍司の父であり、海外で事業拡大に奔走しているはずの鷹宮信蔵(たかみや しんぞう)が、ここにいるはずがない。鷹宮家の前当主であるこの人物は、もう何年も海外から戻っていない。龍司の祖父が亡くなったときでさえ、真帆は顔を合わせていなかった。和恵は廊下で異変に気づくと、すぐに書斎へ向かって龍司を呼びに行った。車椅子が廊下の床を進むたび、規則正しい音が響く。書斎は防音で外の音が聞こえない。和恵の話を聞いた時点では、龍司も半信半疑だった。だが寝室に足を踏み入れ、この大人の数を目にした瞬間、眉をひそめて車椅子を操作し、真帆の前に出た。「おばあちゃん、母さん、どうして急に来たんだ」事情が飲み込めないまま、信蔵へ視線を向ける。「父さんまで、どうして海外から戻ってきたんだ?」「全部、龍司が家に迎え入れたこの嫁のせいだよ!」龍司の祖母は杖で床を強く突きながら、誰よりも先に声を上げた。「波、あの写真を出して、龍司に見せなさい!」「写真?」龍司は眉を寄せた。「何の写真だ?」「それは……」波は言いよどみ、あえて口をつぐんだ。「誰にも見せてはいけないもの」だと思わせる態度を取る。「おばあさま、でも……」「出しなさい!」龍司の祖母に睨まれると、表向きはためらうふりを続けながらも、内心ではほくそ笑み、バッグに手を伸ばした。波が写真を取り出した瞬間、龍司の祖母はそれを奪い取り、真帆に向かって投げつけた。「見なさい、これがあんたのやったことだよ!」写真には、廃工場で縛られ、衣服の乱れた真帆と、卑しい目つきで彼女に手を伸ばす複数の男たちが写っていた。龍司の瞳孔が縮み、すぐにそれが、真帆が誘拐されたときの光景だと理解する。胸の奥から得体の知れない怒りが湧き上がり、珍しく目尻が赤く染まった。「おばあちゃん、この写真はどこから手に入れた?」「龍司、その写真は誰かが匿名でおばあさまに送ってきたものなの」波は龍司の反応を見て、彼が真帆を恨んでいるのだと早合点し、龍司の祖母よりも先に説明に割り込んだ。「でも出どころは問題じゃないわ、大事なのは、この写真に写っていることが……」煽ろうとした言葉は最後まで続かず、龍司の刃のような視線に射抜かれ、波は言葉を失
Read more

第57話

「おばあちゃん!」なぜだか分からないが、真帆が身内からここまで糾弾される様子を見て、龍司の胸は何かに掴まれたように鈍く痛んだ。「おばあちゃん、まずは落ち着いて。こんな写真は全部偽物だ。真帆がそんなことをするはずが……」「黙りなさい!」龍司の祖母は鋭く遮った。「もう人に調べさせたよ。真帆は確かに数日前に誘拐されている!」彼女は歯がゆさを抑えきれない様子で続けた。「龍司、女が誘拐されて、身代金も要求されず殺されもせずに戻ってくるなんてこと、潔白のまま生きて帰れた例などはない!真帆、鷹宮家があんたに弁明の機会を与えなかったなんて言わせないよ。一度だけ聞く。この写真の内容は本当なのかい?」真帆はすぐには答えなかった。自分を囲む人々の顔をゆっくりと見渡し、最後にベッドの上に散らばった、目を背けたくなる写真へ視線を落とした。本当か、嘘か。正直、彼女自身もはっきりとは分からなかった。一雄は、薬を打たれた後に救い出されたのだと言った。その薬には記憶を錯乱させる作用があり、誘拐中の細部はほとんど覚えていないとも言っていた。同時に、彼は「何もされずに」助け出されたとも言った。真帆はそれを信じている。けれど、目の前の人々が信じるとは限らない。しばしの沈黙の後、真帆はゆっくりと目を上げた。「本当だったらどうなりますか?嘘だったらどうなりますか?」逆に問い返され、龍司の祖母は怒りで声を荒らげた。「もし本当なら、鷹宮家はこんな女を次期当主夫人として迎えるわけにはいかない!」「おばあちゃん!」龍司は思わず声を上げた。「真帆は……」「龍司……」敏子はさりげなく視線を巡らせ、そっと龍司の車椅子の取っ手に手を添えた。諭すような口調の裏に、逃げ場のない圧が滲む。「お母さんもあなたの気持ちは分かるけれど、こうなった以上、真帆さんは本当に……」敏子はため息をつき、困り果てたように信蔵へ視線を向け、一家の主としての判断を待つ。信蔵は本来、この騒動に関わりたくないと思っていた。だが、実母が怒りで震え、途方に暮れる妻の様子を見て、心が揺れたのだ。しばし黙考したのち、一歩前に出る。「真帆さん、母さんを恨まないでくれ、この件はそれほど重大なんだ」他の者と違い、信蔵の声には責めや嫌悪はなく、むしろ落ち着かせる響きがあ
Read more

第58話

真帆の胸中を知らない龍司は、彼女が自分のせいで家族全体を敵に回すことを案じているのだと思い込み、安心させるように穏やかな笑みを向けた。「もういい!」龍司の祖母は怒りに任せて杖で床を何度も叩きつけた。「まったく、龍司はこんな化け狐にすっかり心を奪われてしまって!」杖で不肖な孫を叩こうとしたものの、車椅子に座り、動かない両脚が目に入った瞬間、怒りと悲しさが入り混じり、どうしても手を振り下ろせなかった。結局、震える手で杖を床に叩きつける。「龍司よ、もし龍司がそこまで言い張って、鷹宮家の面目も顧みずこの女を残すと言うなら、もう私のことをおばあちゃんだと思うんじゃないよ!」真帆を安心させるための龍司の笑顔は、波にとっては胸を抉る刃そのものだった。嫉妬で理性が壊れそうになる。だが、龍司の祖母と龍司がここまで激しく対立する様子を見て、心の奥に歪んだ快感が芽生えるのも事実だった。星嶺市で知らぬ者はいない。龍司は筋金入りの孝行者だ。もし本当に祖母の身に何かあれば、たとえ真帆を守る気があっても、守りきれない。そう考え、杖を拾おうと腰をかがめた波は笑みを浮かべた。しかし、杖を拾い、立ち上がった瞬間には、その笑みを消し、真顔になった。「龍司、どうかおばあさまとは張り合わないで……」相変わらず聞き分けの良い姿を演じながら、波は杖を龍司の祖母に差し出す。そして、龍司に向かって諭すように言った。「おばあさまは言い方がきついだけで、言っていること自体は間違ってないわ。たとえ納得できなくても、あんなふうに逆らうのは良くない」そう言ってから、真帆に視線を向ける。「真帆さんも龍司を説得して。本当にあなたのせいで、龍司がおばあさまを怒らせてしまってもいいの?」柔らかな口調で、もっともらしい言葉を並べる。だが返ってきたのは、真帆の冷たい失笑だけだった。「変な話ね。全くの無関係なのに、どうして全部私の責任になるの?」「だって、この件はあなたが原因でしょう」波は苦労人を装う。「龍司はあんなに素直だったのに、あなたのせいで……」「もういい」龍司は眉を寄せ、冷ややかに波の言葉を遮った。彼女に向けた視線には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。「龍司……」波は顔色を失い、ひどく傷ついたように見せる。だが龍司は波を一瞥すらせず、祖母に向
Read more

第59話

「龍司、本当にそこまで真帆さんを信じるの?」「彼女は俺の妻だ」「それは分かってる。でも、おばあさまたちの言い分にも一理あるわ。皆、鷹宮家の世間体や評判を思ってのことだし。この件が外に漏れたら、鷹宮家だけじゃなくて、龍司自身の顔も立たなくなるかもしれない」「俺の言いたいことは、さっき十分に伝えたはずだ」龍司の声には露骨な苛立ちが滲んでいた。「誘拐されたのは真帆のせいじゃない。真帆は被害者だ。もしこの件が公になって、鷹宮家が加害者を追及せず、被害者を切り捨てるとしたら、それで本当に鷹宮家の顔が立つと思うのか」波は一瞬言葉を失った。「でも……」「でもも何もない」龍司は愚かではない。言わないだけで、分かっていることも少なくない。だが、波の可憐とした表情を前にすると、どうしても突き放す言葉までは口にできなかった。胸の奥に残る疑念をいったん押し込み、声を少しだけ和らげる。「おばあちゃんたちも待っている。この数日は本邸に泊まってくれ。時間があるときに、おばあちゃんをなだめてやってほしい」波は胸の内に渦巻く不満と憎しみを押し殺し、涙を浮かべながら小さくうなずいた。だが彼女は気づいていなかった。水を飲みに出ようとしていた真帆が、寝室のドア口でそのやり取りをすべて聞いていたことを。真帆は、龍司が自分のために祖母と理詰めで争ってくれているのだと、危うく信じてしまうところだった。結局、彼が守ろうとしていたのは、やはり鷹宮家の世間体だった。そうだ。波と鷹宮家の名誉こそが、彼にとっての利益の核心であり、自分は最初からその枠外だ。廊下の奥から車椅子が近づいてくる音が聞こえた瞬間、真帆は再び布団を持ち上げ、何事もなかったかのように横になった。龍司がドアを開けて入ってきたとき、彼女は先ほど彼らが出て行ったときと同じ姿勢のままだった。少しも動いていないように見える。龍司はドアを閉め、軽く息をついて彼女のそばで止まった。「真帆、今日は辛い思いをさせたな」「辛くなんかないわ」真帆は何気ない笑みを浮かべて言った。「でも、あなたの家族の前でかばってくれたことは感謝してる」「俺の家族だなんて言うな。君は俺の妻だ。俺たちは家族だろ」龍司はそう言って、布団の端を整えた。「もう休んで。俺は少し用事がある。終わったらまた来る」真帆は素直
Read more

第60話

龍司は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。「犯人は特定できたのか?」浩一の目に、はっきりとした挫折の色が浮かぶ。「いいえ。手がかりは一切ありません」手がかりがないまま、人が死んだ……その事実に、龍司はしばし言葉を失い、やがて浩一に下がるよう合図した。リビングとダイニングは防音ではない。二人の会話は、真帆の耳にもおおよそ届いていた。「下半身を切断された」その言葉を聞いた瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。何とも言えない冷たさだった。龍司は犯人の見当がつかなかったが、真帆には、ぼんやりと察しがついていた。一雄は、あの日病院を出てから姿を見せていない。似顔絵を描かせていた以上、主犯が死んだということは、十中八九彼の仕業だ。だが……なぜそこまでの危険を冒したのか。星嶺市は星ヶ丘とは違う。一雄の影響力が、ここまで深く及ぶとは思えない。人を殺せば、当然自分に火の粉が降りかかるはずだ。無自覚に彼を心配していることに気づいた瞬間、真帆は手にしていたスプーンをカランと音を立てて器に落とした。和恵が手を止める。「奥さま、大丈夫ですか」「大丈夫」真帆は深く息を吸い、長年心の奥に封じ込めてきた思考を、無理やり押し込めた。和恵はそれ以上何も聞かず、黙って食事の準備を続けた。鷹宮家本邸では。龍司の祖母は数日、どうにも胸騒ぎが収まらなかった。これほど経っても龍司から連絡がない。痺れを切らして電話をかけようとしたところで、息子に止められる。「母さん、そう焦らないで。龍司は分別のある子だ。鷹宮家の恥になるような真似はしない」「分別だって?」祖母は鼻で笑った。「それはあの化け狐を娶る前の話だよ!」「信蔵はずっと海外にいて家のことを知らないだろう。あの真帆って娘は、なかなかの曲者だよ。昔はお父さんを手玉に取って、最後まで守らせたくらいだ。私にまで、あの子をいじめるなって言わせたんだから。それで今はどうだい。鷹宮家の面目は、あの子のせいで地に落ちかけてるじゃないの!」祖母は急に思い立ち、命じるように言った。「そうだ、信蔵が帰ってきた以上、この件が片付くまで、もう海外には行くんじゃないよ!」「母さん、海外の仕事は簡単には放り出せないし……」信蔵は困ったように言った。「もうチケットも取ってあるん
Read more
PREV
1
...
45678
...
10
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status